白禄

白鹿 (元号)

[231] 白鹿は、日本の私年号の1つです。 南北朝時代頃に使われたと考えられています。

元号名

[230] 元号名白鹿です。

[287] 読みは 「はくろく」 >>300, >>43, >>36 「はくか」 >>9 /59 とされます。

白禄

[195] 白禄 (旧字体: 白祿) は、 近代日本私年号の1つと紹介されていた元号です。 白鹿の誤記または誤植で発生したと推測されます。

[288] 読みは「はくろく」 >>9 とされます。

[180] 次の辞典・年表は、白禄を延元2年としていました。 >>172

[197] 日本百科大辞典の一覧表には掲載がなく >>45日本私年号の研究の誤植と思われます。

[181] このうち国史便覧以外は白鹿も興国2年説または興国6年説を掲載していました。 >>172

[192] 明治33年の国史便覧には、 白禄が延元元年の私年號で2年継続したと掲載されています。 >>190

[193] 明治33年は改訂3版ですが、明治31年の版には白禄白鹿は掲載されていません。 >>189

[56] 国民百科辞典 は、 白祿後醍醐天皇の時代の私年號としました。 >>44

[139] 昭和5年の石田茂作の論文の私年号リストでは、 白祿白鹿としていました。 日本私年号一覧表 当時のいずれかの辞典類に基づき作成したものなのでしょう。

[130] 昭和時代中期の 日本歴史大辞典 は、 白祿 (はくろく) 南朝私年号としました。 得江文書の記載を根拠に元年に当たり、 継続期間は不明としました。 >>9

[185] 日本私年号の研究 は、 白禄が示された辞典類を紹介し (>>180)、ほとんどの書に延元元年説が紹介されながら、 これに関する資料の所在を明示したものはないとしています。 >>184

[186] 日本私年号の研究は、 わずかに冨山房国史辞典白鹿に関して得江文書を挙げているものの、 得江文書には白鹿のみで白禄しかないとします。 >>184 これはちょっと意味が取りづらいので国史辞典を参照すると、 白祿には得江文書が、 白鹿には得江文書西源院太平記が備考として挙げられています。 >>187 実は他にも得江文書を出典に示したものはあります (>>130)。

[188] また、 日本私年号の研究黒板勝美更訂国史の研究に白鹿2年を従来延元2年としたのは誤りらしいと書かれているのを引いて、 現状白禄私年号から除外するべきと思うと述べています。 白禄白鹿の誤りで、 延元2年を元年とする白鹿の旧説と結びついたものにすぎず、 白禄私年号として実用されたものとする根拠はない、ということです。 >>187

[133] 得江文書から延元元年と確定させるのは無理で、 そもそも白鹿なので、 白禄得江文書から引いている辞典類の筆者が信頼できる出典を確認していないのは確実です。 伝言ゲームが発生しています。

[194] 現在知られている最古は明治33年で (>>192)、 これが初出かどうかは不明ながら、 その頃白鹿から誤って白禄に転じた可能性が高いと考えられます。 以後の辞書類は先行する辞書類に掲載された白禄をそのまま転載したと考えられます。 また、白鹿が延元説から興国説に改められた後に、 白禄白鹿の誤りであることに気付かずに両方掲載する辞書類が出てきたと考えられます。

[198] しかし 国史辞典得江文書を出典に挙げているのは謎です。 それ以前の表には出典の記載がありません。 現在知られていない資料で「白禄の出典が得江文書」と書いて白鹿は書いていないものが 国史辞典以前にもあるのでしょうか。 それとも国史辞典の編集者が雑に書き足したのでしょうか (そんなことあるでしょうか)。

[326] youryou_koten.pdf, , https://www.nijl.ac.jp/pages/images/youryou_koten.pdf#page=64

[327] >>327 平成2年改訂、平成16年発行。

  • 白禄 興国6年 -
  • 白鹿 興国6年 - 興国7年? -

元号名の意味

[259] 制定の記録がなく意味は不明です。

[260] 白鹿は他の私年号の多くと違って仏教的色彩を感じません。 >>218

[261] 「白」は白雉白鳳奈良時代以前の用例があります。 讖緯説ではを表します。 >>218

[262] 「鹿」は他の元号名にほとんどありません (私年号弥鹿があります)。 などのように祥瑞を表すとも考えられます。 武運の神として八幡社との関係も考えられます。 >>218

[263] 日本私年号の研究はこの用字から復古的なものを感じたり、 和勝迎雲などと一連の性格を持つとしています。 >>218

[264] しかし日本私年号の研究はこの時期の私年号を公家的、儒教的な性格の強いものと非公家的、武家的な内容のものに2分していて、 白鹿は後者に入れています。 >>218 これは建武政権の性格や北陸朝廷説との整合性を考えるとき違和感がないでもありません。

紀年法

[222] 白鹿元年について、

の3説があります。

ad
西暦
k
干支年
n
北朝
s
南朝 (現行説)
so
南朝旧説
rn
竜安寺本太平記
rs
竜安寺本太平記
1
延元元年説
2
興国6年説
3
興国2年説
e
出来事
ad
s
建武3/延元1
k
丙子
n
建武3
e
恒良親王北行
1
延元1/白鹿1
ad
k
丁丑
s
延元2
n
建武4
e
金ヶ崎落城
1
白鹿2
ad
k
戊寅
s
延元3
n
建武5/暦応1
ad
k
己卯
s
延元4
n
暦応2
so
興国1
rn
暦応2
rs
興国1
ad
k
庚辰
n
暦応3
s
延元5/興国1
so
興国2
ad
k
辛巳
n
暦応4
s
興国2
so
興国3
3
白鹿1
ad
k
壬午
n
暦応5/康永1
s
興国3
so
興国4
rn
康永1
rs
興国5
3
白鹿2
ad
s
興国4
k
癸未
n
康永2
so
興国5
ad
s
興国5
k
甲申
n
康永3
so
興国6
ad
s
興国6
k
乙酉
n
康永4/貞和1
so
興国7
rn
貞和1
rs
白鹿1
2
白鹿1
ad
k
丙戌
n
貞和2
s
興国7/正平1
rn
貞和2
rs
正平1
2
白鹿2
ad
k
丁亥
s
正平2
n
貞和3
ad
k
戊子
s
正平3
n
貞和4
ad
k
己丑
s
正平4
n
貞和5
ad
k
庚寅
n
貞和6/観応1
s
正平5
rn
観応1
rs
正平5

延元元年

[228] 白鹿の元年を南朝延元元年、2年を延元2年に比定する説があります。

[229] 明治時代中頃に提唱されました。現在では支持されていません。 (>>74)

興国2年説

[226] 白鹿の元年を南朝興国2年、2年を興国3年に比定する説があります。

[183] 次の辞典類は白鹿の興国2年説を掲載していたとされます。 >>172

[219] 興国2年説が何を根拠とするのか不明です。

[220] 現在知られている初出が明治41年です >>196 が、 明治40年に大日本史料が出版されています (>>52)。 大日本史料で興国2年状に白鹿2年文書が掛けられたことによるのかもしれません。

興国6年説

[227] 白鹿の元年を南朝興国6年、2年を興国7年 = 正平元年に比定する説があります。

[302] 明治時代末期から現在までの通説です。

[304] この説の現在知られる最古の記録は竜安寺太平記奥書で、 白鹿元年が興国6年に当たる年として、 その翌年が正平改元された年としています (>>59)。

[305] この説が再発見されたのが明治時代末期でした。 正確な時期は不明ですが、明治44年には早くも出版されています。

[55] 明治44年の 日本百科大辞典 は、 白鹿2年を興国6年にあたる私年號とし、出典に得江文書天寧寺本年代記源院本太平記を挙げていました。 >>45

[71] は正確には白鹿元年に当たるべきで、 表の書き方がわかりにくいのです。

[57] 、 歴史研究者として高名な黒板勝美は、 私年號の実例として得江文書の白鹿2年を紹介しました。 源院本太平記から正平元年と推定され、 従来の延元2年は誤りらしいと述べています。 なお、近世の研究者の私年号一覧に漏れていたことにも言及しています。 >>8

[58] 石川県史 は、 白鹿2年が正平元年の異年號であるのは世に知られる所だと述べています。 >>6 /412, >>7

[99] >>30 には西源院太平記の解説があり、 得江文書に触れつつ、 正平元年の逸年號でおそらく北陸方面の官軍が使ったのだとしています。

[182] 次の辞典類は白鹿の興国6年説を掲載していました。 >>172

[291] 日本歴史大辞典は興国6年としています >>290, >>9 /59

[292] 日本私年号の研究の表では

を興国2年説かのように表示しています >>172。 しかも本文中と巻末の表で違いもあって、巻末の表では 日本史辞典 が興国6年説かのように表示しています >>172 p.五三一

[293] これはおそらく「」記号で同上を表した表に後から同上ではない項目を追加したことと、 しかも巻末の表で同上ではない「興国二」を挿入する位置を誤ってしまったという2つのミスが重なった結果と思われます。

[294] この推測が正しいなら日本史巡見の手引も興国2年説のように見えて実は興国6年説と考えられますが、 未見です。

[301] >>300 は興国6年説としています。

[199] 昭和時代中期の日本私年号の研究 は、

を紹介して、 興国6年説を採用しています。 >>184

[216] 日本私年号の研究 は、 この他に弥鹿について、 弥勒と発音は一致するものの干支年は一致せず、 白鹿の貞和元年説とすれば干支年が一致すると紹介しています。 しかし書体や内容など検討を要するともしていて、注釈にとどめています。 >>184

[217] これはおそらく干支年の一致に加えて「鹿」 という元号名で珍しい文字の一致も鑑みているのでしょう。 しかしながら「白鹿」と「弥鹿」では1文字目の発音も字形もまったく異なります。 それで白鹿と関連付けるのも躊躇されたのでしょう。 「弥鹿」は単独で私年号として立項しても良さそうなものなのに、 なぜか注釈止まりになっています。そのためなのか後続の研究者も特に注意を払っていません。 時代的には60年後とし弥勒私年号の一種とする方が良さそうに思われます。 弥鹿

[138] >>40平成時代前半の能登の歴史解説サイトで、 白鹿南朝私年号としていて、 興国6年説を採用しているようです。

[140] 平成時代千々和到の表や日本年号史大事典日本語ウィキペディア >>10 は、 興国6年説を採用しています。 日本私年号一覧表

[205] >>47日本私年号の研究から3資料を紹介しています。

[325] >>373日本私年号の研究系統と思われます。

[40] 得江氏, 2001年3月14日作成, http://geo.d51498.com/CollegeLife-Labo/6989/TheTokues.htm

暦応2年(1339)得江九郎頼員(よりかず)は、越前国に出陣し、越前守護斯波高経(しばたかつね)に軍忠の証判を受けています。また暦応3年(1340)には、得江頼員は能登守護吉見頼隆やその一族吉見十郎三郎に属し、越前に出陣し、頼隆に軍忠の証判を受け、高経には感状を得ています。翌年宮方の越中国司中院良定(なかのいんよしさだ)から頼員に対し、軍勢の督促が行われたが、応じた様子はみられず、吉見頼隆に属し越前に出陣した。康永4年(1345)から翌年にかけ、前越中守護井上俊清らとの戦いでも頼隆、氏頼に従って越中に出陣しました。この間、宮方の私年号(白鹿)を持つ感状が中院から頼員に発給されている。

[10] 私年号 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7
私年号異説元年相当公年号(西暦)継続年数典拠・備考
白鹿-興国6年/貞和元年(1345年)不明『得江文書』、竜安寺蔵『太平記』奥書
[373] 迎雲(げいうん)とは - コトバンク (,世界大百科事典内言及 著, 版) https://kotobank.jp/word/%E8%BF%8E%E9%9B%B2-1308471

まず1167年(仁安2)に当たる保寿の年号は,平清盛の全盛時,平氏と藤原氏の対立を背景に,藤原氏の息災を願う者の使用するところ,また90年(建久1)に当たる和勝・迎雲の年号は,ともに源平争乱の終結(和勝にはより明示的に源氏の勝利の含意がある)による平和の再来をことほぐ者の使用するところであって,いずれも個別特定の願意や祝意を,正年号を拒否する政治的態度をもって表明したもので,異年号のもつ基本的性格の一つを示している。 南北朝時代に入ると,1345年(興国6∥貞和1)能登に白鹿,駿河に応治の年号が現れ,いずれもそれぞれの地方における反北朝(南朝系)の人々の使用と考えられている。

資料

[221] 現在までに文書1件、板碑1件、年表類2件が知られています。

得江文書

[51] 得江文書に「白鹿二年」付文書があります。 また、文中に「中院右中将」の名がある点など共通する興国2年付文書があります。

日時事例

[52] 大日本史料は、 南朝興国2年北朝暦応4年の3月2日己酉条にこの2文書を掛けています。 >>46 /381 白鹿年号は他に徴証なく何年に当たるか定かではないため、 関連すると思われる興国2年文書と共に掲載したと注釈があります。 >>46 /383

[341] 花押データベース - 詳細, https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/w19/detail/00001462?dispid=disp02

【和暦年月日】 白鹿2年卯月20日(13460040200)

【備考】 袖判。白鹿ハ北陸ノ南朝方ノ使用セル私年号。

白鹿3年板碑

日時事例

[144] >>141白鹿私年号で貞和元年としています。つまり興国6年説です。 特に根拠はなく通説に従ったまでと思われます。 なお同書中に同地域同時代の他の板碑は見当たりません。

[147] >>143私年号としています。康永4年に排列しています。つまり興国6年説です。 特に根拠はなく通説に従ったまでと思われます。

[148] この板碑昭和時代末期 >>141 に初めて報告されたとみられます。 私年号研究南朝研究では平成時代を通じて見落とされてきたようで、 論文やウェブサイトから参照された例は見当たりません。

[149] 2文字目が正しく読まれているのか不安はありますが、 その辺を深く検討した記録も見当たりません。

[328] 紀年以外の板碑の様式等による年代が検討されたのかは不明です。

[29] 群馬県域にあるこの板碑がまさしく「白鹿」であるなら、 北陸得江文書が発見されたことを唯一の根拠とする北陸王朝元号説は再検討を余儀なくされます

[303] 白鹿2年に正平改元されたとする竜安寺太平記奥書説からすると1年の延長年号に当たります。

竜安寺本太平記

[59] 竜安寺太平記卷廿五の奥書に、

京方貞和元年乙酉、南方號白鹿元年、同京方貞和二年丙戌、南方移正平、

とあります。 >>18, >>13

[88] >>17 /40 に白黒写真があります。焼けた後の状態です。

[100] >>30, >>33 に白黒写真があります。焼ける前です。

[60] つまり南朝では白鹿元年で、 南朝では正平元年に改元されたとのことです。

[86] この部分の後には「天龍寺焼失」の日付が3つ (延文3年戊戌正月4日夜、 貞治6年丁未3月29日夜、 応安6年癸丑9月28日夜) 書かれています。 >>17 /40

[89] 似たような記述は他の巻末にもあります。

  • [90] 19巻末 「京方年號曆應二年己卯、南方年號興國元年也、>>18 /638
  • [91] 21巻末手前 「京方年號康永改元壬午、宮方興國五年也、>>18 /696
    • [94] 興国旧説なら興国4年、現行説なら興国3年のはず
  • [92] 28巻末手前 「京方年號觀應改元庚寅、南方年號正平󠄃五年也、>>18 /868

[96] なお、「延元」「正平」は本文中にも用例あるのに対して「興国」「白鹿」は本文中に出現しません。

[73] 昭和時代初期の翻刻本出版時の解説によると、 これら巻末の記述は太平記作者ではなく後人の注記と推測されながら、 本文と同筆であり、 西源院本の原本たる応永本に既に存在したと考えられます。 >>18 /21

[70] から東京帝国大学資料編纂掛が開催した第六囘史料展覧會で、 竜安寺所蔵西源院本太平記が展示されました。 考古学雑誌の報告では、 25巻奥書が「殊に研究に資すべき條項」だと特に言及されました。 >>12

[72] 西源院竜安寺塔頭で、 かつて西源院所蔵だったことから西源院本といわれていました。 >>12, >>33

[31] 伝来は明らかではなく、細川勝元が所持したものかもしれないともいわれます。 足利時代中期を下るものではなかろうといわれます。 >>33

[87] この写本は火災により周辺が損失していますが、該当部分は焼け残った部分にあります。 >>17 /40 焼けたのは昭和3年のことで、昭和4年に修復作業がありました >>150

[151] 白鹿の記載部分が綺麗に残ったのは不幸中の幸いです。

天寧寺本年代記

[206] 明治44年の日本百科大辞典は、 白鹿の出典の1つに天寧寺本年代記を挙げています。 >>45

[208] 天寧寺本年代記東京大学史料編纂所に影写本が所蔵されているようです >>210, >>215大日本史料がいくつか引用しています。 しかし白鹿は含まれません。 おそらく年代記としての年号記述部分で使われているので引用対象には入っていないのでしょう。

[209] 現在ウェブ上に画像や翻刻は見当たりません。

[211] 天寧寺本年代記丹波国天田郡天寧寺の所蔵です。 四条天皇寛喜元年から後水尾天皇寛永3年までが現存します。 真福寺所蔵和漢年代暦の系統の年代記類と推測されています。 >>210

[207] 昭和時代中期の日本私年号の研究はこれを紹介しつつも (ただし冨山房日本百科大辞典とするのは誤り)、 掲載されているらしいと伝聞だけで詳細を示していません。 >>184

[258] 久保常晴天寧寺本年代記を実見できなかったようです。 日本私年号の研究は所在を京都市としてますが >>218天寧寺京都市福知山市にあり、 丹波なので後者を指すと考えるべきです。 日本私年号の研究では天寧寺本年代記の「白鹿」 を興国6年に当たると一覧表では掲載していますが >>218日本百科大辞典の記述をそのまま表に載せただけと思われます。

[212] 他の研究者はなぜか本書に触れていません。

[213] 年代記であればいつからいつまでが白鹿とされているのかなど、 もう少し情報がありそうなものですが...

[214] 現状では情報がまったくなく、 他の白鹿の用例と整合しているのかすら不明とせざるを得ません。

仏教私年号説

[153] >>34魚魚平家という物語に使われた魚鳥元年について、 僧侶が使った私年號であるとしています。そして私年號の説明のために西源院太平記の奥書を引いて、 白鹿私年號と同じくまったく緇衣者 (僧侶) によるものだろうとしています。

[154] >>34>>33 と同じシリーズですが、担当者は違うと見え (>>34 の解説執筆者は内海弘蔵, >>33 の筆者は不明ながら解説執筆者は武島又二郎)、 白鹿>>33北陸朝廷元号としていたのに対して >>34僧侶私年号としています。

[155] 私年号僧侶によるものとするのは、 日本の私年号全体に対する一般論として長く通説化している説で、 多くの私年号用例が仏教関連遺物にあることや、 仏教的色彩を持った元号名が散見されることによります。 日本の私年号 ここではそれを個別の検討を経ることなく魚鳥白鹿に当てはめているわけです。

[156] 白鹿は僧侶によって語られた太平記という媒体に記載され、 現に竜安寺という仏教寺院に伝来するのであり、 得江文書という先入観がなければこれは本来当然に検討されるべき仮説といえます。 (ただし白鹿という元号名には仏教色がありません (>>260)。)

[158] 内海弘蔵 (-) 近代日本国文学者でした。 国史は専門ではなく特別な知識がなかったことで客観視できたのでしょう。

[157] ただし、あきらかに仮想の世界を記述した作中元号魚鳥をこれと同レベルの存在として議論するのは無理があります。 魚鳥 しかし動物名という共通項は偶然かもしれませんが興味深いですね。 例示のために数ある私年号から敢えて白鹿が選ばれたのもそれが理由かもしれません。
[159] でも西源院太平記奥書に思いっきり南方元号だと書かれているのを引いておきながら、 完全スルーして僧侶のものだろうとするのはどうなんでしょうね。 年代記類には古代年号が普通に古代の天皇公年号であるかのように載っていて、 僧侶が勝手に作って使っていたのだろうと考えられていたのを知っていて、 それと同じようなものだと判断したのですかね。

北陸朝廷説

[80] 北陸朝廷説は、 後醍醐天皇から譲位された恒良親王北陸朝廷ともいうべき政権を樹立した、 またはその構想を持っていた、とする説です。

[81] 白鹿はその政権の元号とされ、北陸朝廷説の重要な根拠の1つとなっています。

[82] 北陸朝廷説は過去に有力研究者が主張してきたものの、 天皇への即位の事実があったかどうかは確証を欠いています。

[83] また、白鹿がその元号であるかどうかは、即位の事実の有無とは別個に検証が必要な問題です。

[232] 北朝朝廷によるものかどうかはともかく、多くの研究者は白鹿南朝勢力と関連付けて考えています。 それは

に基づいていると考えられます。

延元元年北陸朝廷改元説

[74] 明治時代の歴史研究者菅政友 (-) 南山皇胤譜 恒良親王 条は、 末尾、延元2年3月の越前金ヶ崎落城よりも後に白鹿2年文書を掲載しています。 >>105

[75] その按語および別稿で、 中院右中将は北国へ東宮恒良親王に随行の公卿で、 得江九郎は頼貞であり、 白鹿は他になくいつか不明ながら、 金崎城中で11月後に定められたもので、 白鹿を獲たようなことがあって白雉朱鳥のような古例に倣ったものであろうかとしています。 >>105, >>27 /334

[76] 菅政友太平記後醍醐天皇から恒良親王への譲位記事について、 綸旨 (への言及) の存在や白鹿2年文書の存在から、 即位改元があったのは疑いないと考えました。 >>27 /334

[84] 改元は延元元年11月以降としていましたが、 これは延元元年11月12日付文書が延元を使っている >>27 /333 のでそれ以降ということと思われます。

[103] 明治36年の近藤鑛造の講義録は、 恒良親王即位説と共に、 白鹿2年文書があり越前で改元したものだろうと紹介しています。 >>26 出典は明記されていませんが、菅政友説に基づいているのでしょう。


[69] 新田義貞に関係した論考は、 白鹿2年文書に基づき、 中ノ院右中将は東宮随行の公卿であるから、 東宮恒良親王は疾くに即位して白鹿改元していたのだと述べています。 >>28 「疾くに」とは具体的には示されていませんが、 比叡山後醍醐天皇から譲位されたとする太平記の記述をベースにしていますから、 それとそう変わらない説と思われます。 明記されていませんが、 菅政友説そのものと思われます。

[98] の論考は、 ほぼ菅政友説そのままに白鹿2年を延元2年としていますが、 同時に西源院本太平記の記述も引用しています。 しかし取ってつけたような注釈で、 西源院本太平記が「貞和元年乙酉」と書いていることを引用しながら何の説明も加えていません。 >>20


[112] 、 法制史学者として有名な滝川政次郎日本歴史解禁 は、 親王天皇の身替りとなった場合は国法上天皇と扱うべきだとし、 恒良親王がこれに当たると述べました。 >>110

[113] その根拠は 太平記 およびそれを証明する綸旨状文書と白鹿2年文書としています。 >>110 明言はありませんが、後醍醐天皇から譲位されてすぐに改元したと考えていたようです。 明記されていませんが、 菅政友説そのものと思われます。

[114] また、明治の歴史家たちは「金甌無欠の国体」を護持しようとして 太平記に記載されたこの事実を否定してきたのだと非難しています。 >>110 本書は日本史を自由に論じられなくなった戦時下の風潮が一掃された機会に日本史を再検討しようとしたもので、 戦後史学の再出発の土台となったような書籍です。 従ってこのような戦時下やそれ以前の史学界の学説や学問態度への批判的見解が含まれています。

[115] といっても、 戦後に一斉を風靡した記紀完全否定説のような、 皇国史観の反動で正反対に向かった過激派もいた時代にあって、 滝川政次郎の論説はそれらとは一線を画しています。

[116] ただし本件についての滝川政次郎の説は無理があり、 西源院太平記が発見される前の明治の学説に依拠していますし、 北陸朝廷説は主流説ではなかったのかもしれませんが、 戦時下でも発表され続けていて禁忌扱いはされていませんでした。

[117] 南北朝正閏論に関わってきそうな問題なので、 影響力の大きなメディアや有名研究者はもしかすると昭和初期には触れづらい領域だったのかもしれませんが...
[118] 明治の研究者は学術的観点で太平記に疑問を持ち、 菅政友のような有名研究者が太平記の肯定説を出しているのですから、 明治の研究者に対し本件の責任を追求するのは冤罪感があります。 昭和初期の人なら国体のためにこの問題に蓋をする動機はあったかもしれませんが、 明治の人はそうでもないのではないでしょうか。

[119] 日本語ウィキペディアは、 近年の説、古い説、史料的根拠の乏しい独創的な説などいろいろな出典から雑多に文章を組み立てていて必ずしも一貫した記述となっていない上に、 大きく改変する編集が加えられることもあるようですが、 令和6年時点での北陸朝廷記事は北陸朝廷 (北陸王朝) の存在、少なくても構想の存在にはかなり肯定的な態度で紹介しています。 白鹿については、 恒良親王天皇として北陸に君臨したことは否定できないとする滝川政次郎説を引いています。 >>1

[1] 北陸朝廷 - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%99%B8%E6%9C%9D%E5%BB%B7

1346年に私年号「白鹿2年」が用いられた越前国司中院良定から得江九郎頼員へ当てられた「感状」が残っている(得江文書・白鹿二年行貞奉執達状)。これらのことから、当時北陸・東北に南朝方武将の擁立する「朝廷」が存在したとされる。


[126] >>127平成時代の歴史小説、 >>41 はその著者による紹介文ですが、 白鹿を使った北陸王朝のことを「白鹿王朝」と呼んで書名にもしています。

[128] この小説は延文2年説に基づいた設定になっているようです。 譲位後、北陸で改元したことになっています。 >>125

[129] >>125令和時代に書かれた感想文ですが、 その古い説を知らなかったようで、 森茂暁の説 (>>67) を引きつつ、 通説と異なる設定にしない方がいいと苦言を呈しています >>125。 なおその感想文著者の見解は >>43 にあります。

[41] 書評|鳥影社, , https://www.choeisha.com/kiji_4886299709.htm

『幻の白鹿王朝 金ヶ崎城』村田 武 著

「歴史研究」第542号2006年7月号 平成18年(2006年)7月10日

わが著書を語る 村田 武

本書は正史から消えたこの朝廷の実体をこの時期重要な役割を果たした、後醍醐天皇の御料であった気比神宮の側から描いています。軍記物である『太平記』の記述には、歴史的資料価値が問題視されてきましたが、本書では現地調査を重ねながら数箇所を訂正して物語を構成しています。

ストーリーは、鎌倉幕府の滅亡から足利尊氏が幕府を開く前年までを、新田義貞の軍勢と足利尊氏の大軍との攻防とともに、「白鹿」の年号を称した北陸朝廷の誕生から滅亡までを描いたものです。

「白鹿」年号は、越中国司中院良定から能登の武士得江九郎頼員に発給された感状に「白鹿二年卯月十日」と記されており、宮方によって実際に使用されています。

[125] 南朝(34): 越天楽, gagaku, 2021年04月11日, 12:10, http://manoeriwagner.seesaa.net/article/480945072.html

当小説では 恒良親王・尊良親王と新田軍諸将が敦賀 金ヶ崎城の麓の観音堂に集まり、北陸に朝廷を開き 元号を「白鹿元年」と宣言する。

金ヶ崎城に到着したのは同月10日と思われる。

そして翌年03月06日に金ヶ崎城が落城するが、小説では この時をもって「白鹿の年号を称した北陸朝廷は消滅」 と記載されている。

この小説は実際の記録と異なった「白鹿」年号の扱いを しているのが、気になる。ある程度は史実に基づいた 方が、誤解を招かないと思うのだが、、、。

史実に於いて「白鹿」の年号は、白鹿元年は吉野朝年号 では興国6年、北朝年号では貞和元年にあたり、西暦では 1345年になるということである。つまり金ヶ崎城が落城 して尊良親王が自害したのが延元2(1337)年であるから、 それから8年後にも南朝の年号を独自に使った勢力が 北陸路に存在していたことになるのだ。

恒良天皇の帝位は、後醍醐天皇が京から吉野へ脱出し 吉野朝を延元元年(1336)12月21日に開いた時点で消滅 したが、その後何年も経っても北陸朝廷に組した人々に よって南朝年号が使われたことは、注目に値しよう。

添付写真の書籍ではなく、森茂暁氏著【皇子たちの南北朝】 (中公新書)をみると、金ヶ崎城で新田義顕らと自刃した 尊良親王には妻との間に男子が居たというが、その男子が 従軍していたのかこの書籍には記載が無く不明だ。

正史の記録からは抹殺されているが、あるいはこの皇子を 奉じる南朝勢力が「白鹿年号」を使ったのかもしれない。

ともあれ添付写真の小説では「白鹿」という年号の時代設定 が通説とは異なるが、マイナーな年号、そして北陸朝が存在 したという史実にスポットライトを当てたのは興味深い 小説であった。


[342] Xユーザーの積読、大河実況、エンジニアさん: 「@dongame108 「日本の建国はいつですか?」 「……年……日。」 「ん?もっと大きな声で!」 「…白鹿元年(西暦1336年)10月10日。」 「……後醍醐天皇の五宮、恒良親王が今日を発った日……。こ、こいつ南朝の、しかもマイナーな北陸王朝の方の…!」」 / X, , https://x.com/sh1n_sem1ya/status/1845690742779572335

[343] >>342 これは Twitter のネタ投稿なのだが、 この説が未だに一部で素朴に信じられていることが窺われる。

興国6年北陸朝廷改元説

[61] 近代日本の歴史研究者田中義成 (-) は、 太平記綸旨文書の存在を根拠に後醍醐天皇恒良親王 (-) 譲位し、 恒良親王北陸朝廷を立てることを視野に北国に向かったと主張しました。 >>13

[62] そして白鹿2年文書について、 中院定平かその系統の人と考えられる中院右中将から、 北国の人である得江九郎に宛てたもので、 北陸の文書と言えることから、 北陸の南朝方が白鹿を使ったものであるとしました。 >>13

[63] そして竜安寺本太平記奥書より、 白鹿2年は であるとしました。 >>13

[64] 興国があるにも関わらず白鹿を使った理由については、 恒良親王元号を建てられなかったものの、 その後宗良親王が北国に下ったのであり、 北陸朝廷の構想が継続していて宗良親王を擁する勢力が使ったのではないかと考えました。 >>13

[77] これは基本なロジックは菅政友説そのものですが、 白鹿の年次が修正されたために、 建元者を宗良親王に変更せざるを得なくなり無理が生じています。

[85] >>15, >>16 は田中説を引いてそのまま踏襲しています。

[152] に出版された太平記の解説は、 白鹿得江文書にもあるので恒良親王北陸朝廷で定めた元号と思われ、 正平元年に当たる私年號だと述べています。 >>33 出典は明記されていませんし、解説であって論考ではないため簡単な記述に留まっているのですが、 当時の新しい通説にそのまま従ったものと考えられます。

[97] に出版された西源院本太平記の解説は、 白鹿は延元元年の恒良親王下向以後に北陸の宮方で用いられたものらしく、 白鹿2年文書があり、 西源院本太平記にこれがあるのも根拠があるはずだと述べています。 >>18 /21 出典は明記されていませんし、解説であって論考ではないため簡単な記述に留まっているのですが、 当時の新しい通説にそのまま従ったものと考えられます。

[101] >>24 は田中説などを引いて基本的にそのまま従いつつ、疑問もあるとしながら、 即位は事実でも吉野朝が成立したので幻の朝廷に終わったとまとめています。 一応両論併記の体ではありながら、敦賀市史という媒体ゆえか、 北陸朝廷の存在はほぼ確実視しているように読めます。

[137] なお、 >>24 は得江氏を南朝にくみした能登の武士と説明しています。

[102] >>25 は諸説あるとしつつ簡単に田中説を紹介しています。

[257] 日本私年号の研究 は、 田中説 (>>13) を紹介し、 魚澄惣五郎 >>15鷲尾順敬 >>18 もそれを肯定していると述べ、 それ以上の検討を加えませんでした。 >>218


[67] 平成時代の歴史研究者で南朝研究で有名な森茂暁は、 恒良親王が殺害されたとする通説は疑問であるとしました。 そして、 白鹿2年文書より権威を持つ人物が北陸にいたことがわかるとして、 恒良親王白鹿を関連付ける確証はないものの、 恒良親王北陸で生存していたか威光が残っていた可能性があり、 北陸王朝がこの時期にはある程度実を結んでいた可能性があるとしました。 >>66

[68] ただ、それだけの大物の動向が10年近く残っていないというのは不審ですよね。

[78] 恒良親王の死亡時期が曖昧な点を突いて建元者問題を解決していますが、 ならばなぜこのタイミングで恒良親王建元したのかと新たな問題を発生させてしまっています。 また、 そもそもこの説は太平記の譲位説の説明から始まっているのに、 太平記に基づく恒良親王の死亡年をずらさなければならないという矛盾を抱えています。

[79] 太平記の中にも信用できる部分とそうでない部分があるし、太平記恒良親王の死亡が明記されているわけではないから、矛盾にはならない、というのはまあそうなのですが。

[252] 森茂暁太平記の群像 で、 白鹿恒良親王を関連付ける確たる証拠はないとしつつも、 白鹿2年文書に一統の暁には云々とあることから、発給者はどちらかといえば南朝系統らしいと書いています。 >>42

[120] >>2平成時代のウェブサイトの解説記事ですが、 恒良親王即位して白鹿を使った北陸王朝が一時樹立されたことは間違いないと断定しています。 参考文献皇子たちの南北朝, 森茂暁が挙げられていますが、 それがこの部分の根拠なのかは不明です。 >>2

[131] >>3森茂暁の著書の感想。

[136] >>5>>13森茂暁も参考文献に載せていて直接的な出典は明記していませんが、 白鹿2年文書を北陸朝廷の名残の可能性があるとしています。

[2] () http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/taiheiki/jiten/tu.html

しかし建武政権は足利尊氏の反乱により短期で崩壊、後醍醐側は比叡山に立てこもって足利軍とたたかったが、建武3年(延元元、1336)10月に和睦が成立し後醍醐は比叡山を降りた。このとき全く蚊帳の外に置かれていた新田義貞が和睦に抗議して後醍醐に詰め寄ったため、後醍醐は12歳の皇太子・恒良に皇位を譲って異母兄・尊良や義貞と共に北陸へ向かうよう指示する。これが後醍醐の深謀遠慮だったのか、義貞に詰め寄られての一時の急場しのぎだったのか、あるいは義貞が事実上のクーデターを起こして恒良を奪い取ったのか(そう記す史料もある)明確ではない。またこのとき後醍醐が三種の神器を恒良に渡して皇位を継承させたことが事実なのかどうかについても議論があるが、少なくとも義貞たちは恒良が「天皇」になったと認識し、「白鹿」という独自年号を使った「北陸王朝」を一時的に樹立したことは間違いない。恒良自身が天皇として「綸旨」を発行していることも確認されている。

ところがその年の暮に父・後醍醐は京を脱出して吉野に入り、恒良に渡した神器は偽物であり自身が本物を所持している、自身が正統な天皇であると主張し始める。これは北朝の否定と同時に「北陸王朝」の否定でもあった。それに対して恒良や義貞たちがどう思ったかは定かではない。

[3] たんめん老人のたんたん日記 森茂暁『太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々』(4), tangmianlaoren, 2014-03-26, http://tangmianlaoren.blog.fc2.com/blog-entry-491.html

「北陸王朝」の拠点とされた金崎城はほどなく陥落し、義貞も戦死したが、少なくとも10年間は北陸地方に独立の勢力が存在し、一種の地域国家を存続させ、一時は「白鹿」という年号までも使用していたことが確認できるという。


[164] >>163, >>162令和時代に書かれたウェブページです。 このサイトでは怪しげな説も含めて南北朝関係の遺構を紹介しています。 森茂暁を含め研究者の書籍から怪しげな書籍まで幅広く参照しているようです >>163, >>162

[165] >>163 では北陸朝廷の存在を確定的なものと説明しています。 白鹿は興国6年に北陸で用いられた私号で、 何らかの南朝勢力が存在していたとするにとどめて、 両者の関係は断言していません (が文脈上、強い関係は示唆しています)。

[166] >>162 では尊良親王の子の勢力が白鹿を使ったのではないかと書いています。

[167] 記録はないと明言しているので単なる想像のようですが、 白鹿 = 興国6年説と北陸朝廷を結びつけつつ、 恒良親王は死亡済みとするなら、 消去法でもうそれくらいしかないのでしょう。

[168] >>43令和時代に書かれたブログ記事です。 (>>125 の歴史小説の感想記事と同じブログです。) >>163 にリンクしており、それが主な情報源と思われますが、 >>163 にない情報も書いているのでいろいろ調べているのでしょう。

[169] >>43北陸朝廷恒良親王が譲位した者の元号白鹿とかなり断定的に考えているようです。 私年号偽年号とも呼ばれインチキ臭がするので、 私年号でなく正式な元号といえる白鹿私年号扱いされるのは残念だとも書いています。

[170] これは私年号の用語が歴史的経緯で混乱しているためなので、 まあ確かにそんな感じのイメージもついちゃってるのは確かではあるのですが、 白鹿私年号扱いなのはあくまでもそれが公年号たる証拠を誰も示せていないからなので、 残念がるべきは私年号扱いされることではなく、公年号であると証明できないことの方です。

[171] >>43 の著者は得江頼員の領地を訪問したそうで、 白鹿が通用していたであろう地だと書いています >>43。 念願の訪問に水を差すようで申し訳ないですが、 得江頼員は基本的に北朝方なので、 白鹿文書が届いたからといってこの地で白鹿が使われたかはよくわからないとするべきでしょう。 でもこの地で使われなかったとしても「「白鹿」の所縁の地」 >>43 には違いないのでまあいいのではないでしょうか。

[163] 舞!組曲 <日本! 118 南朝(新田義貞・北陸朝廷Ⅰ.)>, Last Updated 2022-01-07, http://www.photoland-aris.com/myanmar/near/n118/

金ヶ崎城に着いた恒良天皇は、さっそく諸国に参陣を促す「綸旨」を発している。 「綸旨」とは天皇が命令を伝える文書であるから、恒良親王は天皇として行動してい る。 叡山で後醍醐天皇が北陸に向かう恒良親王に禅譲(譲位)を行ったのは、確実と思わ れる。

よって敦賀に「北陸朝廷」が樹立していたのだ。

北陸では「白鹿」という私号が興国六年(1345)にも用いられていたことから、何ら かの 南朝勢力が存在していたのだろう。

[162] 舞!組曲 <日本! 南北朝 - 8 南朝(新田義貞・北陸朝廷ⅡⅠ.)>, Last Updated 2022-04-20, http://www.photoland-aris.com/myanmar/chou/8/

森茂暁氏著【皇子たちの南北朝】(中公新書)をみると、金ヶ崎城で新田義顕らと自 刃した尊良親王には 妻との間に男子が居たというが、その男子が従軍していたのかこの書籍には記載が無 く不明だ。

新田義貞と脇屋義助、そして公卿ら7人は02月05日(敦賀市史)に金ヶ崎城を出て、 瓜生氏の杣山城に 移動している。

将が自軍を離れることは通常は無いので、その男子を助けるべく奉じて杣山城へ赴い ている間に金ヶ崎城が 落城したという説もあり、これは説得力が有るように思う。 正史の記録には残っていないが、あるいはこの皇子を奉じる南朝勢力が「白鹿年号」 を使ったのかもしれない。

「Ⅹファイル」的だが、在野の南朝研究家になるが藤原石山氏は、後醍醐天皇が比叡 山で譲位されたのは 尊良親王の皇子の守永親王であり、新田義貞が奉じて金ヶ崎城を脱出したとの考えを 【尾三遠南朝史論】の中で 書いておられる。この守永親王が Ⅹファイルの「三河南朝」の祖となっていくので ある。

この説はユニークだが、後醍醐天皇から恒良親王ではなく尊良親王の子へ譲位された 説など 無理だろう。

落城が近いことを知った 恒良天皇はまだ皇子が無かったので、尊良親王の皇子に譲 位して新田義貞に託した、 と私なら想像する(100%の想像だが)。

[43] 元号「白鹿」: 越天楽, 2021年10月15日, http://manoeriwagner.seesaa.net/article/483911887.html

改元は天皇の元で斎行されるもので、それ以外は朝廷の 定めたものでないから「私年号」と呼ばれる。私年号は 偽年号とも云われるから、どうしてもインチキっぽい 雰囲気が漂うのが惜しい。

ところで「三日城」の将である 得江頼員には 「白鹿 (はくろく)」の元号の付いた書状が南朝側から 送られて残っている。

吉野朝(南朝)の元号の 興国七年(正平元年)、北朝の 元号の 貞和二年(1346年)に、「白鹿二年卯月二十日」 付けの行貞奉書が中院右中将から発せられた。南朝に与した 場合の恩賞を約した内容である。

新田義貞が後醍醐天皇皇子の恒良親王と尊良親王を奉じて 敦賀(福井県)で陣を敷いた時、恒良親王は受禅しており 天皇として在位し、敦賀に於いて「北陸朝廷」を開いて 「白鹿」と改元したという説もある。これは1336年であり、 その翌年(1337年)に拠点だった金ヶ崎城は落城して 恒良親王(天皇)は足利賊軍に拉致されて京へ連行されて いるから、その9年も後に「白鹿」という北陸朝廷の元号 が翻ってきているのだ。南朝の勢力が生きながらえていて 恒良親王(天皇)が譲位していたのなら、これは私年号では なく正式な元号と云えるのだ。

つまり当時の日本には 吉野朝(南朝)が用いた「興国・正平」、 北朝が用いた「貞和」、北陸朝廷が用いた「白鹿」という3つの 元号が存在していたことになる。

ただし「白鹿」は「私年号」扱いなのが残念である。

そんな「白鹿」の元号が通用していたであろう、得江頼員の 所領地が、添付写真の場所である。

南朝ファンでも超マニアックかもしれないが、新田義貞の 繋がりで「白鹿」の所縁の地はどうしても訪問したかったのだ。

三河吉野朝説

[233] 三河吉野朝説は三河南朝朝廷があったとする説です。 信頼できる史料に基づく説ではありませんが、昭和時代初期に出現し、 今も一部で信仰されているようです。

[234] 三河吉野朝説では田中説 (>>61) から北陸朝廷白鹿の例が引かれています。 >>23 /9, >>23 /15 南北朝論 >>236 もそれに賛同するものとして引かれています。 >>23 /15

[253] 田中説は重視されているらしく、ブログにわざわざ全文転載されています >>38

[241] 白鹿得江文書西源院太平記にしかない特異な私年号で、 北陸の得江氏が使用しているので北陸の宮方の年号だとしています。 南朝の元号を使わず白鹿を使っているので北陸朝廷が存在し天皇の資格を備えた王子を奉じていたとしています。 >>23 /37

[242] 得江氏南朝方であるとする根拠は特に示されていません。

[237] ただし田中説の宗良親王即位の証拠がないとして否定し、 後醍醐天皇譲位したのは守永親王だったとしています。 >>23 /15

[238] 守永親王である理由はよくわかりません。 守永親王は系譜不明で、こういう説で都合よく使えるようです。 三河吉野朝説では尊良親王の子とされます >>23 /23

[239] 三河吉野朝説では南朝に正統・正朝と副統・偽朝の2つの系統があって、 守永親王は正統の初代の興国天皇であるとされます。 その元号白鹿と説明されています。 >>23 /23

[240] そしてその正統の系譜に連なるのが三浦天皇とされています。
[243] 例によってなぜそう結論づけられるのかはよくわかりません。
[245] 三河吉野朝説でも昭和時代初期のものには北陸朝廷が出てきません。 >>244 三河吉野朝説がどのように形成され、白鹿がどう影響したのか、 も興味深い問題です。

[246] >>32, >>323 もこの説を踏襲しています。

[247] 令和時代のブログ記事は、 白鹿2年文書を興国天皇が発行した文書であるとし、 白鹿2年をとしています >>35, >>249

[251] ただし興国天皇はそのとき福島県東部にいたことになっていて >>250、 「北陸」にはあまりこだわっていないようです。

[248] なお令和時代のブログ記事は、 田中説に加えて森茂暁説も根拠として使っています。 >>35, >>250, >>42

[324] 三河吉野朝での次の元号弥勒と思われます。

[322] なぜ白鹿時代の天皇興国天皇と呼ばれているのか謎です。 どこかで理由が説明されているのかもしれませんが、 こういう独創的な界隈の情報を探すのは精神力を消費するので辛いんですよねえ...

メモ

[306] 白鹿北陸朝廷元号とする説は、得江文書しか知られていなかった時期に、 北陸朝廷の存在を実証する根拠として持ち出されたものでした。

[307] もし竜安寺太平記奥書が先に知られていたなら、 時期も地域も恒良親王と一致しない得江文書北陸朝廷説の根拠に使わなかったのではないでしょうか。

[308] 竜安寺太平記奥書は南朝としか書いていません。 竜安寺天寧寺北陸と関係が深いとは言えません。 白鹿3年板碑も関東です。 これらの資料を客観的に捉えるなら、白鹿北陸朝廷元号だとそう簡単に云うことはできません。

[309] 思うに、竜安寺太平記奥書の存在がわかった時点で北陸朝廷説と白鹿の関係はいったんリセットしなければならなかったのではないでしょうか。 それをしないで無理なこじつけで旧説の延命をはかったために、 無駄なロマンを歴史ファンに与え、 よくわからない独創的な史観の宗教(?)の人々を引き寄せることになってしまったのです。

白鹿2年文書の時期

[255] 菅政友は時期がはっきりしない南朝方の元号ということで恒良親王に結びつけて延元元年説を唱えたのでしょうし、 興国6年説は竜安寺太平記奥書にそのまま従ったまでです。 白鹿の年代の決定において白鹿2年文書そのものはまったく検討されていません。

[256] 私年号の唯一の当時の文書の用例なのに扱いが軽すぎる感があります。


[278] ちょうど >>254 にわかりやすい関連文書の一覧があるので、 そこから得江頼員関連を抜き出すと、次の通りです。

[279] なお、この時期に得江氏は得江頼員だけです。また、中院良定関連は >>254 内でここに挙げたものだけです。

[281] ここに現れる人物のうち斯波高経吉見頼隆北朝方です。 得江頼員は前半には越前において、後半において越中能登において、 北朝方で参戦しています。

[282] そこに2通だけ混じっているのが南朝方の中院良定で、 1度目は興国2年3月で従軍を求めるもので、 2度目は白鹿2年4月で従軍を賞するものです。

[283] 興国2年は越前で北朝方で参戦中です。 南朝方からの切り崩し工作だったのかもしれませんが、 成功しませんでした >>254

[284] 白鹿2年を興国7年とするなら、 5年後に再び南朝へと勧誘してきたということになるのでしょうか。 この5年間の中院良定の動向はよくわかりませんが、 状況は大いに変化し戦場も越前から能登に移っており、 その間一貫して北朝方で転戦してきた得江頼員への働きかけとして違和感はあります。 敵味方が容易に入れ替わり得る時代なので、あり得ることかもしれませんが...

[285] もし白鹿2年を興国2年とすることが許されるなら、 1通目は興国2年3月、2通目は興国2年4月で、 越前で戦闘が続く中で積極的にアプローチを続けてきたが靡かなかったという単純な話になりそうですが...

[286] ただこの場合は興国2年3月から4月までの1ヶ月の間に「白鹿2年」へと切り替えたことになって、 不自然さは拭えません。

[313] 中院良定がいつどこにいたのかもよくわからないっぽいんですよねえ。 越前国司だの越中国司だのと解説されているのもどれだけ信憑性があるのかよくわからないですし、 前線にいたのか後方にいたのか、それが具体的にどこなのか、 ずっと任地なり戦地なりにいたのか、他所に行ってたこともあるのかどうか。 興国2年や興国6年にはどこにいたのか、それは北陸なのか。 その頃吉野や他の地域の南朝勢力とどれだけ強固な連携を取っていたのか。 そういうのが全然謎なのに、得江文書の宛先が能登の人だから北陸にいたのだろうとされていて、 だから白鹿は北陸の元号なのだといわれているので、 白鹿北陸の結びつきはとても脆弱なのですよねえ。

[314] 発信者は南朝方らしいことしかわからない文書が、 宛先が北朝方の北陸の武士だからと、 南朝方の北陸の元号であるという証拠に使われるというのも面白い話で、 だから得江氏は南朝方で北陸王朝の勢力だという誤解も出てきてるのですよね。

[318] 中院右中将を誰と見るかにも問題があります >>317

竜安寺本太平記奥書の出所

[160] 西源院太平記の奥書がどのように成立して、その記述がどこから来たもので、 どれだけ信頼できるものなのか、ちゃんと検討していない研究者ばかりなのは一体どうしたことか。

[161] 西源院太平記南朝公年号だと主張しているのに、 それを完全無視して北陸王朝公年号だと主張するなら、 その齟齬をどう解釈するのかは最低限説明がほしい。

[121] >>21太平記の本文の北朝の元号が元は南朝の元号で、 それを書き直した時のメモが奥書の年号なのではないかと推測しています。 そしていくつかある年号のずれは換算時ミスなのだとしています。

[122] これはどうなのでしょうね。おもしろい説ですが...
[123] 白鹿が何であるのかには言及がありません。

[295] 竜安寺太平記奥書のいくつかの北朝南朝元号の情報は、 後から書き加えたものだろうと言われていますから、 普通に考えれば何らかの資料があってそこから転記したことになるでしょう。 その何らかの資料というのが、 書き加えた当時に使われていた年代記類という可能性は十分にあります。

[296] すると気になるのは天寧寺本年代記との関係です。 竜安寺京都盆地の北端近くにあり、 天寧寺丹波ですから、 地理的にはそう離れていません。 竜安寺で使われた年代記天寧寺本年代記に直接の関係を見出すのは難しいかもしれませんが、 検討は必要になるでしょう。

[297] 竜安寺太平記奥書の信憑性も今一度検討されるべきです。 興国は現行説と1年ずれがある上に、 自己矛盾しています。 このような史料のみを根拠に白鹿の年代を決定した現行説は脆弱と言わざるを得ません。

[299] 興国1年ずれ説は興国を参照。

[298] もしこれがある程度信頼していい史料だということになれば、 逆に白鹿北陸朝廷なるものの元号ではなく、 吉野南朝元号だった可能性も考えなければならなくなります。

[332] 奥書筆者ないしその原典の筆者が「白鹿」を南朝元号と考えたのはなぜでしょうね。 1つ考えられるのは

説で、一見単純に説明が付きそうですが、奥書筆者が知り得た事実がなぜ他でまったく記録されなかったのかという疑問が生じます。 また、

説もあり得ます。北陸王朝説がこのタイプですが、北陸王朝以外の南朝勢力という可能性もあり得ます。 これもなぜここでだけ記録が残ったのか疑問ではあるのですが、 そこまで大きな勢力ではなかったと説明が付きます。 他に考えるべきなのは

という説でしょう。南北朝時代元号が2つあったのは周知の事実ですが、 南朝の元号の情報が正確に知られていない状態で、 未知の元号があれば南朝の元号と推定してしまう、というのはありそうなことです。 この場合、

が問題となります。

[340] なお南朝一部勢力説や独自勢力説を採る場合は、 独自に建元という日本史上ほとんど例がないことをやるような勢力が両朝廷以外に出現したのに、 その記録がほとんど残らず、すぐに南朝本体と誤認されるまでに落ちぶれた事情の説明も必要となります。

研究史

[310] 中世後期頃の日本には、 白鹿南朝の元号の1つとし、 元年、 継続年数を1年 + 弱 (改元まで) とする説があったことが竜安寺太平記奥書に残る痕跡 (>>59) からわかります。

[311] しかしこの説を記した書物がほとんどないことから、 あまり普及した説ではなかったようです。 白鹿という元号自体がそのまましばらく忘れられていました。

[312] 明治時代中頃、 得江文書の白鹿2年文書 (>>51) によって白鹿が再発見され、 北陸朝廷説の根拠に使われました。 白鹿恒良親王元号で、 改元されて建武4年 (延元2年) 頃まで北陸朝廷に属する北陸南朝勢力によって使われたと考えられました (>>74)。

[315] 明治時代末期、 竜安寺太平記奥書が再発見され、 白鹿元年とする旧説が復活しました (>>305)。

[316] それによって北陸朝廷元号説は全面的な見直しが必要になるはずでした (>>309) が、 大正時代恒良親王でなく宗良親王に置き換えた説が提出され (>>61) て延命され、 確たる根拠もないまま広く行われるようになりました。 より根拠の怪しげな説まで含め、いくつかの派生説が生じて現在に至っています。

[319] 明治時代後期頃には白鹿白禄と誤って辞書に掲載され、 昭和時代頃まで白鹿白禄が別の元号とされる事態が続いていました (>>195)。

[321] 同じ頃、白鹿は興国2年を元年とする説が出現しましたが、根拠は不明です (>>226)。

[320] この間、新史料が出現していますが (>>206, >>142)、 十分に検討されていないのが現状です。

メモ

[14] https://dl.ndl.go.jp/pid/3566480 (非公開)

歴史地理 32(6)(231)

雑誌

日本歴史地理学会 編 (吉川弘文館, 1918-12)

49: 方の軍を締率せし事、白鹿元年は即ち京方貞和元年に京都龍安寺常る。而して吉野朝廷は興國六年なり。之

[19] https://dl.ndl.go.jp/pid/11185302/1/31 (非公開)

上方 (107)

雑誌

(上方郷土研究会, 1939-11)

31: た點が窺はれる。但し白鹿元年は比叡山偶想南朝正平元年北朝貞和二年に當るとも說かれるから、之を

[235] https://dl.ndl.go.jp/pid/2985802/1/188 (非公開)

南北朝史論

図書

村田正志 著 中央公論社, 1949

188 コマ: 興國二年三月二日及び白鹿二年卯月廿日の中院右中將某の御〓書があり、越前の得江賴員に宛て、朝敵對治のため急ぎ御方に參向

[236] https://dl.ndl.go.jp/pid/2985767/1/46 (非公開)

南北朝論 : 史実と思想 (日本歴史新書)

図書

村田正志 著 至文社, 1959

46 コマ: 拠がある。得江文書に白鹿二年卯月廿日中院右中将某の御教書がそれである。これは同地