[6] 古史古伝は独特の日時システムを使っていることがあります。
[7] 物語世界の架空の日時の一種ですが、 信奉者らによって、現実世界の過去を記述したものだと信仰されている点が特徴です。
[2013] 先代旧事本紀 (9世紀頃成立) は、 歴史書でした。 神代から推古天皇時代までを扱っていました。
[2014] 平安時代に既に存在したとされ、 一時は記紀より古い現存最古の歴史書とも考えられました。 江戸時代頃から偽書と考えられるようになりました。 現在では、 序文が後の時代に作られた偽造されたもので、 それ以外は平安時代成立の信用して良いものとされています。
[2016] 偽書とされる序文に、 次のようにありました。 >>2015
[2019] それぞれ推古天皇28(620)年、 推古天皇30(622)年と解されています。
[15] 皇祖皇太神宮天津教の教祖竹内巨麿らの偽造とされる竹内文書は、 原本は第二次世界大戦中、米軍の東京大空襲虐殺事件の折に焼失したとされています。
[16] 現存する目録の各文献には 「幹仁帝応永八年三月二十二日」 のような日付が書かれているものが多数あります。 >>12 (目録は文書が靖国神社に預けられた折に作られたのでしょうが、 その信憑性は不明で、原本をどの程度忠実に反映したのかも不明です。)
[17] 「幹仁帝」は後小松天皇です。 >>12 元号名の前に天皇名を置くことは一般的でしたが、 このような諱 + 「帝」の形はあまり見られません。 なぜ敢えてこのような表記を選んだのかは不明です。 他の天皇と取り違えたものや誤記、 由来不明の呼称も使われていました。
[18]
「小聖帝延喜甲子才」
>>12
(= )
や
「康平五壬寅年十二月十六日」
>>12
のような、構文から見て到底その時代に書かれたとは思えない表記もありました。
[37] 通常の月番号のものの他に、独特の月名 >>38 を使ったものも複数ありました。
[55]
道,
皇祖皇太神宮東海支部奉栄会,
「
[66] シドニー浜の竹内文書・竹内文献に関するメモ帳, , http://sydneyminato2.web.fc2.com/101.html
神万史から引用して超古代の天皇の即位紀年と独自の月名と日が書かれている。
[39]
和田家文書は、
昭和時代に和田喜八郎が偽造したとされる文書等です。
現在の青森県を中心とする超古代史が記録されていました。
平成時代初期に真贋論争があり、
筆跡などから偽書と確定されました。
今でも一部の陰謀論グループなどが信奉しています。
[588]
青森民友
昭和三十二年三月三十一日掲載
中山修験宗の文化物語 (36),
開米智鎧に,
「発掘資料の断片」
を根拠に
「
[589] この表記が「発掘資料」に由来するものか、 開米智鎧または青森民友が誤ったものか不明です。 藤原明は「二十」の後に「平」の誤りかと注釈しており >>586 p.148、 「正平元年」を意味すると解したようです。
[590] ここにいう「発掘資料」とは、 和田家文書の偽造で知られる和田喜八郎が発掘した 「役小角墳墓」 で出土した文献です。 役小角研究で知られた郷土史家の開米智鎧は、 当時真書と信用していたようです。 現在ではそれらも墳墓自体も捏造と考えられています。
[591]
「
[60] 南朝の元号の興国への執着がみられるとも言われます。 >>61
[70] 役小角関係の「壷」銘の日付が「大宝辛丑天」で、 関係する「伝説」にもこの日付が出てきます。 元号名干支年表示、天年号という近世臭ある日付。
[75] この銘文があるという「銅板」は現在行方不明とのこと >>74。
[76] しかも >>74 によると信奉者グループも実見しないで (写真すらなく) 流布されている銘文だけを読んであれこれ妄想しているらしい。 「実物」が当初は実在していたのかも要検証事案?
[78] 近世臭がある、というのは近代偽造説の一部を切り崩せる可能性はあるのだから、 信奉者グループももっと慎重に銘文を読んで検討してみたらいいのにねえ。
[79] 〝興国の大津波〟は元年か二年か, https://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/tatuya-koga/post-11849/
この他に、「興国己卯年」「興国己卯二年」のような年号と干支がずれている表記も見えます。すなわち、「己卯」は1339年であり、年号は「延元四年(南朝)」あるいは「暦応二年(北朝)」で、興国元年の前年にあたります。
この年号と干支がずれている表記がどのような理由で発生したのかは未詳ですが、「東日流外三郡誌」編纂時(寛政年間頃)に〝興国の大津波〟の年次を興国元年とする史料と興国二年とする史料とが併存していたと考えざるを得ません。
[80] >>79 和田家文書を真書と主張したいなら、昭和時代にはもう南朝の元号の正しい年次が知られていた、 南北朝正閏論決着後に南朝の元号を間違えるなどあり得ない、 これは近現代の偽造でなく近世に書かれた決定的証拠だ!ってもっと喜んでいいと思うんですけどね。 なんでか妙に消極的ですねえ。
依テ高楯城ハ興国己卯年ニ至ル(中略)
明治元年六月十六日 秋田重季 花押
※「東日流外三郡誌」三一巻に「付書」したとされる当記事は年次的に問題があり、「東日流外三郡誌」とは別史料として扱うのが妥当と思われる。例えば、年号が明治(1868年)に改元されたのは同年九月であり、六月はまだ慶応四年であること、秋田重季氏は明治十九年の生まれであることから、これらを書写時(明治時代)の誤りと考えても、史料としての信頼性は劣ると言わざるを得ない。従って、「興国己卯年」の考察においては三~四次資料と考えられ、本論の史料根拠としては採用しないほうがよいかもしれない。
この遡及年号は和田家文書の真書性を主張するにはかなり致命的で、 真書派であってもこの部分だけはそうでないと苦しい主張をしなければならないようです。
[83] >>82 によると興国の津波は和田家文書のオリジナル説ではないものの、 近世後期までしか遡れないのだそうです。
[84] そしてその時期は古くは「興国元年庚辰八月」だったそうです >>82 #page=7。 なぜ時期が興国元年となったかは不明とされます >>82 #page=12。 当論文 >>82 はそれ以上の詳細な記述がないので、 調査対象の文献で他の年が書かれたものがあったかどうかはわかりません。 従って年がずれた異説が和田家文書オリジナルなのか、それ以前からあったのかは検討が必要です。
[85]
それにしても平成時代初期には和田家文書を根拠に地震研究も行われていたそうで、
古代史のロマン云々で済まされる話ではなくなっています。
偽書によって地震研究、災害対策のリソースが浪費されるのは、文字通りの死活問題です。
[91] 古田史学会報 十五号, , https://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/kaihou15.html#:~:text=弥勒の出世は陰暦での計算だった
[8]
古史古伝以外の偽書や、
完全フィクションの作中の日時にも共通する性質があります.
[9]
偽造された文書や金石文の日時表示は時代考証が不十分なものが多く、
記述の形式から偽造と見抜いた研究の例が多々あります。
[62] 原田 実さんはTwitterを使っています: 「『富士宮下文書』の上代・神代に限って言っても、神武天皇即位の日付を「二月十一日」にしているだけで明治6年以降の近現代の作ということは明らか(ちなみにこれは『神皇紀』の加筆ではなく元の「古文書」でもそうなっていることが影印版で確認できます)」 / Twitter, , https://twitter.com/gishigaku/status/1581835303337463808
[63] 星天講さんはTwitterを使っています: 「@QP_honey99 「富士古文書」の中ではもともと独自の暦(仕組みは分類上は太陽暦)だったのが応神天皇の時に中国式の暦に改めたことになってるのよ」 / Twitter, , https://twitter.com/hoshisora_c/status/1581849675748868096
[68] 暦 - Uyopedia, , http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E6%9A%A6%E5%88%B6#.E5.8E.9F.E7.90.86.EF.BC.9A.E5.9C.B0.E8.AA.AD.E3.81.BF