[234] 20世紀の大韓民国で作られた偽書桓檀古記にはおもしろい日時表示の例が豊富です。
[14] 凡例 末尾に
神市開天五千八百八年卽光武十五年歲次辛亥五月廣開節太白遺徒宣川桂延壽仁卿書于妙香山之檀窟庵。
[16] 鹿島曻はこれを檀君紀元5808年 (光武15年、西暦1911年) 5月と説明しています。 >>15 /16
[20]
この「神市開天」「檀君紀元」は大韓民国で公用された檀君紀元とは違う年数です
(y~4158)。
[18] は大韓帝国初代皇帝の元号 (y~815) で、 7月の退位で改元されています。 延長年号 +4年です。
[17] グレゴリオ暦なのか旧暦なのかはこれだけではよくわかりません。
[19] もちろん、これが本当にその凡例の書かれた日付なのかはわかりません。
[21] 三聖記と神市歷代記には超古代の歴代の治世年数や年齢が書かれています。
[24] 三聖記には
丙辰,周考時,改國號爲大夫餘,。檀君王儉自戊辰統國,傳四十七世,歷二千九十六年。
壬戌,秦始時,神人大解慕漱起於熊心山。丁未,漢惠時,
至癸酉,漢武時,漢移兵滅右渠,西鴨綠人高豆莫汗倡義興兵,亦稱檀君。乙未,漢昭時,進據夫餘故都,稱國東明,是乃新羅故壤也。
至癸亥,春正月,高鄒牟亦以天帝之子,繼北夫餘而興,復檀君舊章,詞解慕漱爲太祖,始建元爲多勿,是爲高句麗始祖也。
のように干支年と漢土の皇帝の名前で年が示されています。 >>22
[26] 更に、癸亥年正月には高句麗初代王高鄒牟 (通説における東明聖王高朱蒙, 在位前37年-前19年) が初めて多勿と建元したとあります。 >>22
[32] 癸亥年は西暦紀元前58年とされます >>33, >>31。
[27] この元号多勿 (다물, y~4142) は考古資料にも文献資料にも見えませんが、 現代の大韓民国でも信じている人がいるようです。 >>25, >>34, >>33, >>31
[29] 朝鮮語の다물は、高句麗語で旧領回復を意味すると説明されています。 朝鮮の民族主義では超古代史が主張する満鮮の広大な領土を取り戻すことを表すそうです。 >>28 民族の重要な概念だと独創的な歴史観・価値観を熱心に解く人もいます >>34。
[30] 和訳では「た ぶつ」と振り仮名があります。 >>15 /39
[36] 檀君世紀 の 序 の末尾に
上之十二年癸卯十月三日,紅杏村叟書于江都之海雲堂。
とあります。 >>35
[37] 檀君世紀はの成立 (という設定) と理解されています。 >>11
[38]
「上」は高麗の忠烈王に当たります。しかし
高麗史
紀年なら /
(y~4023)、
即位を元年とする数え方 (
[39] 本文は冒頭がいきなり
古記云:王儉,父檀雄,母熊氏王女。辛卯五月二日寅時,生于檀樹下。有神人之德,遠近畏服。年十四,甲辰,熊氏王聞其神聖,擧爲裨王,攝行大邑國事。戊辰,唐堯時,來自檀國,至阿斯達檀木之墟,國人推爲天帝子,混一九桓,神化遠曁,是謂檀君王儉。在裨王位二十四年,在帝位九十三年,壽一百三十歲。
と「古記」からの引用ですが、干支年や数字の月日、十二支時刻が使われています。 >>35
[40] その後は
戊辰元年
丁巳五十年
のように干支年と各王の即位紀年の併記から各記事が始まっています。 >>35
[41]
この表記は中国正史の本紀の日付とは違いますが、
越南の史書など東アジアの古記録ではたまに見かけます。
[98] なお和訳本巻末には王の即位干支年と西暦の対応表があります。 >>15 /264
戊辰元年,大始神市之世,四來之民,遍居山谷,草衣跣足。至開天一千五百六十五年上月三日,有神人王儉者,五加之魁,率徒八百,來御于檀木之墟,與衆奉祭于三神。其至神之德,兼聖之仁,乃能奉詔繼天,巍蕩惟烈,九桓之民咸悅誠服,推爲天帝化身而帝之,是爲檀君王儉,復神市舊規,立都阿斯達,建邦號朝鮮。
とあります。即位元年すなわち檀君朝鮮の建国年が開天1565年上月3日なのだそうです。 >>35
[44] 大韓民国には現在でもこれを信奉する人がいますが、 倍達国の開天1565年10月3日 (旧暦) を表し、これが檀紀元年で公元前2333年と解釈しています。 >>42
[45] つまりここでいう開天は序文の神市開天 (>>14) と同じです。 そして檀君元年からの即位紀年は、 かつて大韓民国で公用された檀君紀元 (y~913) と同じ数え方です。
[46] 檀君紀元が桓檀古記所収檀君世紀により決められたとする説がありますが、 認められていないといいます。 >>11 檀君紀元は本書の真の出現以前から存在しています。
[95] なお和訳解説によると 「開天」は「天を開り」と訓まれて、 神市を開き天に報いるの意味だと説明されています。 >>15 /184 「神市」とは指導者 (かみ) を中心とする社会のことと説明されています。 >>15 /181
[50] 第5代檀君丘乙は
乙丑四年,始用甲子作曆。
とあります。>>35
[12] これは
丘乙は初めて十干十二支を利用して暦を作った。
と解釈されています >>11。
[47] 記事は第47代まで続き (つまり47種類の即位紀年があり)、 末尾に
自檀君紀元元年戊辰,至今上踐祚後十二年癸卯,凡三千六百十六年也。是歲十月三日,紅杏村叟書于江都之海雲堂。
[48] ここで初代檀君の即位紀年を元号名「檀君紀元」としています。 序文の「上之十二年癸卯」 (>>36) と同じく「今上踐祚後十二年癸卯」 が期間の終端になっています。 まさしく檀君紀元3616年がに当たります。
[51] 北夫餘紀, 迦葉原夫餘紀 も引き続き各王ごとに干支年と即位紀年に記事が記載される形式が続きます。 >>52, >>54
[53] 北夫餘紀 の 始祖檀君 解慕漱に
壬戌元年,帝天姿英勇,神光射人,望之若天王郞。年二十三,從天而降,是檀君高列加五十七年壬戌四月八日也,
五世檀君高豆莫一云豆莫婁に
癸酉元年,是爲檀君高于婁十三年。
のようにたまに唐突に前王の即位紀年が明記されることがあります。 >>52
[55] 迦葉原夫餘紀 の 三世帶素 には、
壬午二十八年,二月高句麗擧國來侵,。夏四月,王弟與從者數百人奔至鴨綠谷,見海頭王出獵,遂殺之而取其民,走夷曷思水賓,立國稱王,是爲曷思,至太祖武烈帝隆武十六年八月,都頭王見高句麗日强,遂擧國自降,凡三世,歷四十七年而國絶。
。至文咨烈帝明治甲戌,以其國折入于高句麗椽那部,絡氏遂不祀。
とあって >>54、後の章でも登場する 「隆武」 (>>156) 「明治」 (>>72) という元号が使われています。
です。 >>15 /264
[171] これに従うと3代王は
[179] 「凡三世歷四十七年」 がどこからどこまでを数えたのか謎です。
[57] 神市本紀 には
蓋自神市開天,傳十八世,歷一千五百六十五年,而始有檀君王儉,以熊氏裨王,遂代神市,統一九域,分三韓以管境,是謂檀君朝鮮也。
とあります。 >>56 「神市開天」の年数は檀君世紀の記述 (>>43) と同じです。
[58] また、
世紀云檀君烏斯丘元年,北巡而得靈草云,則此又驗也。
神市之世,有七回祭神之曆,一回日祭天神,二回日祭月神,三回日祭水神,四回日祭火神,五回日祭木神,六回日祭金神,七回日祭土神,盖造曆始於此。然舊用癸亥而檀君邱乙始用甲子,以十月爲上月,是謂歲首。六癸,自神市氏命神誌所製,而以癸爲首,癸,啓也,亥,核也,日出之根。故癸爲蘇羅,甲爲淸且伊,乙爲赤剛,丙爲仲林,丁爲海囚,戊爲中黃,己爲烈好遂,庚爲林樹,辛爲强振,壬爲流不地;亥爲支于離,子爲曉陽,丑爲加多,寅爲萬良,卯爲新特白,辰爲密多,巳爲飛頓,午爲隆飛,未爲順方,申爲鳴條,酉爲雲頭,戌爲皆福。
とあって、「上月」が説明されています。そして
十月祭天,遂爲天下萬世之遺俗,此乃神州特有之盛典,而非外邦之可比也。太白山獨壓崑崙之名,亦有餘矣。古之三神山者,卽太白山也,亦今白頭山也。
震域留記曰:齊俗有八神之祭。八神者,天主、地主、兵主、陽主、陰主、月主、日主、四時主也。天好陰,故祭之必於高山之下,小山之上,乃祭天太白山之麓之遺法也。地貴陽,故祭之,必於澤中方丘,亦卽祭天塹城之壇之餘俗也。天主祠三神,兵主祠蚩尤。三神爲天地萬物之祖也。蚩尤爲萬古武神勇强之祖,作大霧,驅水火,又爲萬世道術之宗,喚風雨,招萬神。是以大始之世,恒爲天下戎事之主,海岱之地旣爲奄、藍、陽、介、裴、萊、徐、淮八族之所宅,則八神之說萌於八族,而盛行於當時也。劉邦雖非夷系,而起兵於豐、沛,則豐、沛之俗祠蚩尤也,故邦亦因俗以祠蚩尤,而鄧鼓旗,遂以十月至昏上,與諸侯平咸陽,而立爲漢王,則因以十月爲歲首。此雖襲秦正朔,而亦因崇敬東皇太一,敬祠蚩尤也。後四歲,秦域已定,則令祝官立蚩尤之祠於長安,其敬蚩尤之篤如此。
とのことです。 >>56 つまり朝鮮民族の聖地白頭山で始まった10月年始の慣習は漢の従うところとなったのだそうです。
[61] 三韓管境本紀 序文部分には
後四百六十年,有神人王儉者,大得民望,陞爲裨王,居攝二十四年,熊氏王崩於戰,王儉遂代其位,統九桓爲一,是爲檀君王儉也。
とあります。 >>60
[62] 唐突な居攝ですが、王莽時代の漢の元号 (y~754) なら3年までしかなく、 だとすると16年の延長年号になります。
[63] 鹿島曻は 「居摂すること二十四年にして」 と訓んでいて、 元号とはみなしていないようです。 >>15 /111
[64] 馬韓世家 には、
昔者,桓雄天王思天下之大,非一人所能理化,將風伯、雨師、雲師而主穀、主命、主刑、主病、主善惡,凡主人間三百六十餘事,作曆以三百六十五日五時四十八分四十六秒爲一年也,此乃三神一體,上尊之遺法也。
[65] その後は
檀君王儉五十一年,天王命雲師倍達臣築三郞城于穴口,設祭天壇于摩璃山,發江南民丁八千人以助役。辛酉三月,天王親幸摩璃山祭天。熊伯多薨,在位五十五年,子盧德利立。盧德利薨,子弗如來立,是檀君扶婁十二年壬子。秋十月,以命頒七回曆于民。明年春三月,始敎民種柳于白牙岡,作都亭。丙辰,刻立三一神誥碑於南山。庚申,作稻田。己亥,立蘇塗,施三倫、九誓之訓,治化大行。檀君嘉勒三年,
乙阿薨,檀君余乙辛未,子豆莫亥立。壬申三月十六日,
檀君索弗婁,
丙申元年正月,遂卽位于鹿山,是爲白岳山阿斯達也。
といろいろな日付表記が入り乱れます。 >>60 全体的には干支年が多いです。
[96] 和訳解説によると檀君王儉の五十一年は紀元前2283年。 檀君扶婁十二年壬子は紀元前2229年。 檀君嘉勒三年は紀元前2180年。 >>15 /207
檀君達門己丑
癸巳三年
檀君蘇台五年
四年己亥
と別表記が混じります。 >>60
[97] なぜか和訳解説はこちらの年号には注釈を付けていません。どういう基準なのか謎です。 途中で面倒になったのでしょうか。
[68] 蘇塗經典本訓 には
紫府先生,發貴理之後也。生而神明,得道飛昇,嘗測定日月之纏次,推考五行之數理,著爲《七政運天圖》,是爲七星曆之始也。
とあります。 >>67
[69] 引用のため
檀君世紀檀君嘉勒二年
三國史記云憲康王十二年春
とあります。 >>67
[70] 高句麗國本紀の最初の方には
檀君解慕漱之初降在於壬戌四月初八日乃秦王政八年也
弗離支嘗過西鴨綠遇河伯女柳花悅而娶之生高朱蒙時則壬寅五月五日也乃漢主弗陵元鳳二年也
とあります。 >>9 干支年に漢土の元号が併記されています。
[117] 続く部分には
平樂十一年甲午十月伐北沃沮滅之明年乙未自卒本移都訥見訥見今常春朱家城子也琉璃明帝二十一年又自訥見移都于國內城亦曰皇城內有丸都山山上築城有事則居之大武神烈帝二十年帝襲樂浪國滅之東鴨綠以南屬我獨海城以南近海諸城未下山上帝元年遣弟杞須攻破公孫度伐玄菟樂浪滅之遼東悉平
とあります。 >>9
[118] 琉璃明帝の21年, 大武神烈帝の20年, 山上帝の元年は書き下し文で助詞「の」が挿入されており、 即位紀年と解釈されているようです。 >>15 /141 (本書では「の」の有無で元号と訓みわけられているようです。)
[71] 鹿島曻の本では、原文、書き下し文ともに 「平樂十一年甲午」が (元号名なし) 「三十二年甲午」 になっています。 >>15 /141, >>15 /253
[100] 大韓民国でに出版された書籍から引用されているの文献によると、 原文の 「平樂三十二年甲午」 は 「平樂十一年甲午」 に訂正されるべきで、 檀君紀元2307年、西暦紀元前27年に当たるのだそうです (y~4143)。 >>99 ということは维基文库本はその訂正後なのでしょうか。 しかも 「三十二年甲午」 ではなく 「平樂三十二年甲午」 が原本(?)の形なのでしょうか。
[129] 訂正後は三国史記高句麗東明聖王即位紀年と一致します。 東明聖王は高句麗の建国者です。
[157] 他の王は通説によると:
[161] なぜ初代で元号を建てたのに続く代は即位紀年になっているのかは謎です。
[72] しばらく間を空けて、
長壽弘濟好太烈帝改元建興
文咨好太烈帝改元明治
十一年齊魯吳越之地屬我至是國疆漸大
平岡上好太烈帝有膽力善騎射乃有朱蒙之風改元大德治敎休明
大德十八年丙申帝率大將溫達
[121] 建興, 明治 (y~4145), 大德 (y~4146) の元号があったそうです。
[145] 王名は検索しても桓檀古記系以外出てこないので桓檀古記独自なのでしょうか。 高句麗の史実の王と対応しています。
[151]
建興は大正4年よりしばらく前に出現した朝鮮半島の金石文に用例ある逸年号で、
長らく百済の元号と考えられていました。
ところが出土の碑文から高句麗の元号説が出現し、
今では通説化しています。
遅くてもには長寿王時代の説
(y~730)
が発表されました。
(ただし現在では6世紀説が有力です。)
[152] 桓檀古記は印刷とされているので、 この改元記事は実に考えさせられる用例といえます。
明治天皇の名はこれによる。要するに天皇家は歴
史󠄃の真相をすべて識っていたのである。
[123]
鹿島曻は反皇国史観を拗らせて偽史系陰謀論を発信していて
(それが桓檀古記の出自にも関係していて、
鹿島曻が桓檀古記を日本で出版した理由でもあります。)、
天皇家が朝鮮半島出身であることを隠し続けるために日韓併合して朝鮮半島の史書を焼いて隠蔽工作を行ったと言っています。
[124] この注釈の主張は、明治天皇は天皇家の隠された真実を知っていて、 かつて朝鮮で明治の元号が使われていたことも知っていて、 なぜか (祖先に因んで?) 再び今度は日本の元号に明治を選んだのだということなのでしょう。 大韓帝国を併合して焚書までして必死に闇に葬ろうとした 「真実」への糸口を大胆にも元号に採用し、 併合後は朝鮮人にもこれを強制するとは、 大胆な犯行に驚かずにはいられませんね。
[153] 桓檀古記 が20世紀の朝鮮半島で作られたなら、作者は日本の元号の明治を知っていて、 敢えてここで使ったということになります (しかし大正や昭和は使いませんでした)。 桓檀古記 の制作の意図や過程を考える上ではこれもポイントになりそうです。
[177] 明治は前 (>>55) にもありました。次 (>>77) にも出てきます。
[73] 続いて
祿陽武元好太烈帝時
嬰陽武元好太烈帝時
で、 「嬰陽武元好太烈帝の時」 と訓まれています。 >>15 /145, >>15 /254
弘武二十五年
弘武二十三年
楊廣壬申之寇也
舊史曰祿陽武元好太烈帝弘武九年
明治年間
朝代記曰淵蓋蘇文一云蓋金姓淵氏其先鳳城人也父曰太祚祖曰子遊曾祖曰廣幷爲莫離支弘武十四年五月十日生
開化四年唐主李世民謂群臣曰
至文咨帝明治十一年十一月攻取越州改署郡縣曰松江會稽吳城左越山越泉州
十二年移新羅民於泉州以實之是歲以百濟不貢遣兵攻取遼西晉平等郡百濟郡廢
時則開化十六年十月七日也墓在雲山之九峰山也
朝代記曰太祖隆武三年築遼西十城五年春正月又築白岩城桶道城
[149] 嬰陽武元好太烈帝ないし祿陽武元好太烈帝は例によって桓檀古記の独特の王名です。
[155] 弘武 (y~4147) はその元号。 他に開化, 明治の用例があります。
[156] さらに太祖の隆武 (y~4144) という元号の用例があります。 (>>55 にもありました。)
[174] 史実では南明に隆武があります (y~360, y~2217) が、時代がまったく違いますし、南明と朝鮮はそこまで関係が深くありません。
[162] 本文中には他に何箇所か「太祖武烈帝」とあります。 太祖は史実の朝鮮では他に高麗と李氏朝鮮にもいますが、 高句麗だと
ちなみに新羅には
がいます。
[175] ウェブ検索によると高句麗王を「太祖武烈」と読んでいるのは 桓檀古記 関連ばかりです。新羅王の方を「太祖武烈王」と呼ぶことがありますが、 桓檀古記 とは関係なさそうです。
[176]
鹿島曻の本の巻末年表には
「
高朱蒙聖帝年八十歿時平樂十三年丙申春三月也
このうち「平樂十三年丙申」が鹿島曻の本では「多勿三十四年丙寅」になっています。 「多勿の三十四年」と訓まれていて、 多勿は元号ではないと解されたようです。 >>15 /154, >>15 /256
[134] 高朱蒙は高句麗の建国者東明聖王。 通説では高句麗東明聖王19(-18)年壬寅死去。
[136] 「多勿の三十四年」は元号ではなく建国紀元的な特殊表現と解釈したものでしょうか。 しかし本書の先の章では高句麗の建国時の元号だと書いていました (>>26)。
でちょうど年数は合っています。
[144] それにしても干支では何か不思議なことが起きています。
[142] つまり高句麗の初代王の元号が2説あって版によって (中途半端に) 書き換えられているのです。どちらが原形で、いつ誰が何のために書き換えたのでしょうかね。
高朱蒙在位時嘗言曰若嫡子琉璃來當封爲太子召西弩慮將不利於二子歲庚寅三月
至十三年壬寅而薨太子沸流立
永樂十年三加羅盡歸我
十年庚子,教遣步騎五萬,往救新羅,從男居城至新羅城,倭滿其中。官兵方至,倭賊退□□□□□□□□來背息,追至任那加羅,從拔城,城即歸服。安羅人戍兵拔新羅城,□城。倭滿,倭潰城大
と書かれているのと何か関係するのでしょうか。
朝代記曰開化二十七年九月二十一日平壤城陷落時而據堅壁自保稱國後高句麗建元重光
重光三十二年五月崩廟號曰世祖諡號曰振國烈皇帝
[103] 桓檀古記に出現する朝代記引用には 「男女平等」、 「父権」 といった近現代の語彙が含まれます。 >>11
[104] 後高句麗は史実にもあって高麗の前身に当たる国ですが (後の高麗国本紀にあります)、 ここでは高句麗遺民による渤海国の前身政権のことです。 重光 (y~2022) は史実の渤海にも後高句麗・高麗にも実在しない独自の元号です。 。
與靺鞨將乞四比羽契丹將李盡榮握手聯兵大破唐將李楷固於天門嶺分諸將置守郡縣招撫流亡周護定着大得民望萬綱維新國號定爲大震年號曰天統據有高句麗舊疆拓地六千里
天統二十一年春崩于大安殿廟號曰太祖諡號曰聖武高皇帝太子武藝立改元曰仁安
[106]
天統 (y~2020) は他に陝溪太氏族譜にも見える元号で、
一時は大韓民国の教科書にも掲載されたとされます。
信頼できる史書にはありません。
仁安十六年句茶蓋馬黑水諸國以其國來降取爲城邑
十九年帝崩廟號曰光宗諡號曰武皇帝太子欽武立改元曰大興
大興四十五年淄靑節度使李正己擧兵拒唐軍
二十二年師衆逐軍帥李希逸立正己卒子納統父衆
五十六年納卒子師古代其位及卒其家人不發喪潛使迎師道於密而奉之
大興五十七年帝崩廟號曰世宗諡號曰光聖文皇帝國人立其族弟元義性暴惡不能理國甲戌國人廢之迎立先帝之孫華興改元曰中興
穆宗改元曰正曆毅宗改元曰永德康宗改元曰朱雀哲宗改元曰太始聖宗改元曰建興莊宗改元曰咸和順宗改元曰大定明宗改元曰天福哀帝改元曰淸泰
[109]
大定,
天福,
淸泰は信頼できる史書にない独自の元号です。
高麗顯宗元文大王二十年契丹東京將軍大延琳太祖高皇帝七世孫也囚留守附馬蕭孝元南陽公主殺戶部使韓紹勳等卽位曰興遼改元天慶遣高吉德來告建國兼求援
遼東留守蕭保先爲政酷虐高麗睿宗文孝大王十一年正月朔東京裨將渤海人高永昌與數十人乘酒恃勇持刀踰墻垣入府衛永昌自稱大渤海國皇帝改元隆基據遼東五十餘州
宋史曰定安國本馬韓之種爲遼所敗其酋帥糾合餘衆保其西鄙建國改元自號定安國
開寶三年其王烈萬華因入貢女眞附表貢獻太宗時其王烏玄明復因女眞上表
大震國哀帝淸泰二十六年春正月耶律倍與弟堯骨爲前鋒夜圍忽汗城哀帝出降國亡
二月丙午遼太祖建東丹國以長子倍爲人皇王王之建元甘露改忽汗城爲天福準用天子冠服被十二旒冕
[111] (y~201) が清泰26年。 逆算すると (y~2036)。
[180] ただこれだと通説の渤海王大諲譔の即位年と清泰元年が合いません (即位)。
甘露二十七年冬十二月庚辰遼罷東京中臺省東丹國除
[224] 渤海の元号の1つ大興について、 出土 貞惠公主墓誌 に 「大興寶曆孝感金輪聖法大王」 と書かれている >>225 ことで実在が確認された (のに桓檀古記に掲載されているのは偽書でないからだ) という主張があるようです。 >>223, >>200 27分頃
[226] しかし新唐書に大興改元のことは明記されています。 何の証拠にもなっていません。 (>>223 では謎の反論をしていますが意味がよくわかりません。)
太祖神聖大王天授二年定都于松岳之陽
二十六年御製訓要其略曰
大震國明宗景皇帝天福九年五月五日弓裔生於外家
天福二十七年太守王隆以松岳郡歸弓裔說之曰
弓裔亦以明年稱王謂曰新羅請兵於唐滅高句麗是可恥也吾必爲高句麗報讐立國號曰後高句麗建元曰武泰
[114] 後高句麗の武泰 (y~1520)。これは史実通りの元号。
天授元年戊寅夏六月王建爲洪儒裵玄慶申崇謙卜智謙等諸將軍之所推戴黎明坐於積穀之上行君臣之禮令人馳且呼曰王公已擧義旗矣奔走來赴者衆先至宮門鼓油以待者亦萬餘人遂卽位於布政殿建元天授於是泰封王弓裔聞變以微服出門亡去尋爲斧壤民所害
睿宗文孝大王四年秋秋撤九城還女眞舊地先是女眞使沸弗史顯等入朝奏曰至甲午年間弓漢村人自作不靖
在壬子年西幸時請立元稱號在壬子年西幸時請立元稱號又諷誘國學生奏前件事蓋欲激大金生事乘間恣意處置朋黨外人謀爲不軌非人臣意臣讀過再三然後心乃安肋是立元之請本乎尊主之誠在我本朝有太祖光宗之故事稽其往牒雖新羅渤海以得爲之大國未嘗加兵小國無敢議其失奈何
金史曰世宗大定十五年九月高麗西京留守趙位寵遣徐彦等進表欲以慈悲嶺以西鴨綠江以東內附不許
高麗史曰睿宗十一年三月乙未朔上聞
厚庵李尊庇高麗景孝王時人也嘗在書筵論自主富强之策仍奏曰本國自桓檀朝鮮北夫餘高句麗以來皆富强自主且建元稱帝之事至我太祖初亦嘗行之
獻孝王後五年三月
文大高宗安孝大王十八年
[184] 検索すると出てくるのは桓檀古記関連ばかり。 史実の高麗高宗王皞 (忠憲安孝大王) だとすると高麗史紀年。
敬孝王十二年癸卯三月
江陵王禑五年三月辛未
天授紀元四百三十九年敬孝王五年是歲夏四月丁酉
[190] このような天授の使い方は、似たものがいくつか20世紀にあります。
[185] 。
十年冬十月紅頭賊潘誠沙劉朱元璋等十萬餘衆渡鴨綠江寇朔州
十一年賊襲安州上將軍李蔭趙天柱死之十二月上至
二十年辛亥二月甲戌女眞千戶李豆蘭帖木兒遣百戶甫介以一百戶來投閏三月己未北元
[189] , , 。
歲甲子,余謫槐山,處宜謹愼,頗爲無聊,乃取閱家藏陳敎,其有可據於史傳者,與夫平日聞諸古老者,幷擧採錄而未成書。後一十六年庚辰,余以撰修官,頗得內閣秘書而讀之,乃按前稿而編次之,名曰太白逸史,然敢不聞於世,秘藏之,爲不出戶外者。一十堂主人書。
己丑春,余入江都之摩利山,適値大迎節,謁大始殿,李靜山裕岦氏囑余以桓檀古記正書之役。余筆荒難,不能勝重任,爲識我國祖古史,而之中有三聖記上、下,檀君世紀,北夫餘記上、下,太白逸史載在焉,月餘而告迄。桓因傳七世云,而未詳其年代。自桓雄開天,傳十八世,而歷一千五百六十五年。檀君傳四十七世,而歷二千九十六年,至于凡五千八百四十六年,箕子何與於其間哉?
神市開天五千八百四十六年己丑五月,上瀚同福吳炯基跋
[131] 한눈에 보는 한국사 역대 왕 계보2, 하늘평원, 2020. 3. 17. 21:25, https://odsam.tistory.com/5
환단고기와 삼국사기, 삼국유사, 교과서 기준
つまり桓檀古記, 三国史記, 三国遺事, 教科書に基づいたと称して古代史 (超古代史) を解説しています。 大韓民国の一部の人達にとっての桓檀古記の位置付けがわかります。
[133] >>131 この記事の高句麗の歴代の表には元号が(あれば)書かれていて、
が示されています。また、元号は皇帝しか制定できないもので、 高句麗は皇帝が統治していたのだと説明されています。 (同じように新羅の歴代の表にも元号がありますが、そちらは 三国史記通りです。)
[231] 천문과 역사 그리고 진실... : 상식과 이설, Comte, http://katnani.egloos.com/490288
多勿(고추모 성제, 원년은 BC58년), 建興(장수홍제호태열제, 원년은 412년?), 明治(문자 호태열제, 원년은 492년), 大德(평강상호태열제, 원년은 559년), 弘武(영양무원호태열 제, 원년은 590년), 開化(보장제, 원년은 642년), 隆武(태조 무열제, 원년은 53년)(태백 일사 고구려국본기)
[232] >>231 なぜか平樂が入っていません。 (>>231 は渤海の元号も記載あり。)
[235] なぜ建興だけ日和って「?」としているのか不思議ですね。 は長寿王元年です。 桓檀古記だけではどうしても確定させられなかったのでしょうか。 ちなみにこれは既存のどの学説とも一致していません。
[236] 桓檀古記の著者は学説に基づき長寿王の時代に配置したものの、 何年に当たるかわかりかねて敢えて書かなかったのでしょうかね。 この中で唯一金石文があるのが建興なのに、 唯一年を決定出来ていないのは、奇妙な偶然もあるものです。
[237] ここでの開化の元年は金石文にあるという干支年と一致しません。 桓檀古記 だけ見ている限りではこれでもいいのですが。 どうしたことでしょうね。
[201] 大韓民国で桓檀古記を信奉する宗教団体が講演で紹介した高句麗の元号の一覧表が、 系列テレビ局 STB 상생방송 のYouTube チャンネルで公開されています。 >>200
[204] ちなみにこの動画では、明治神宮が紹介されています。
[1] 開化 (개화, y~4148) >>2 は、 偽書に出現し高句麗の元号の1つとされるものです。
[4] 偽書の 桓檀古記 (환단고기) が出典とされています。 >>2, >>8 文中に4年と16年の用例があります (>>79)。
[3] 나무위키の記事は言及の必要もないといいながら一応紹介しています。 >>2
[192] 桓檀古記 には独特の元号が多数ありますが、 その中で史実の元号とあわせて紹介されている高句麗の元号はこれ1つだけです。 その理由はおそらく他の資料にも出現する (ので他より目立っている) からなのでしょう。
[5] 위패산성 (魏覇山城) の碑文なる資料にも出現するとされます。 >>2
[193] それは、
時淵靜土驟登水軍將軍 官民憂懣 高成雲溫沙文張熉炯等發病 靜土貪公官位取大軍主 異妹秀英讒簒秀英夫餘于串 開化七年春二月 水軍軍主靜土自新城道下磨米城泛海唐來擊攻浹亮谷 多所疑忌不克形勢危急 唐將古神感攻奔走卑沙城北離軍 溫沙文高成雲等邀唐奴浹亮谷 形勢不利力戰敗之… 夏四月 烏胡鎭將古神感將兵浮海來擊 遇我步騎五千戰於易山破之其夜 我軍萬餘人襲神感舡 神感伏發乃敗
とあるそうです >>205, >>8 (少し違い(脱字?)あり)。開化7年2月、4月とあります。
[208]
2009년 1월 10일 ()
付で大韓民国の歴史小説家黃源甲 (황원갑)
がブログで発表した文書に、
満州国で発見され中華人民共和国が世界遺産登録 (
[209] そのうち「오고성(위패산성)」 (「吳姑城(魏覇山城)」) で発見されたという碑文が >>193 です。
[196] この碑文はに知られるようになったそうです。 >>195 他の記事でも黃源甲が紹介者となっているので >>7、 それらを信じるならおそらくこのブログ記事が初出なのでしょう。
[210] この碑文は西暦1930年代に出土したと説明されていて >>8, >>195、 黃源甲がわざとそう読めるようにまどろっこしい書き方をしたのではないかとも思われますが、 それは満州国時代に別の石碑などが出土したという話のようです。 こちらの碑文は政府や研究者の調査結果に入っていない、出所不明でいつからあるのか、 そもそも実物がどこかに実在するのかもわからない謎資料を、 小説家がどこかから入手してテキストデータだけ公開したという代物です。 公式の調査がされていない信のおけない資料という評価 >>7, >>2 はもっともです。
[211] また「오고성」 (「吳姑城」) で発見されたという碑文には
개화(開化) 12년 신해 8월 태대형 연정토, 을상 선도해, 대신 계진 등이 태대사자 연수영이 모반을 도모한다고 참소하니 태왕도 연수영이 다른 뜻을 품었다고 의심했다. 태왕이 고심하다가 태대사자 연수영을 파면했다. 풍문에는 연수영이 반역을 꾀했다는 참소로 사사되었다고도 하고, 전리로 방출되어 행방이 묘연하다고 했다. 나라사람들은 연수영의 무죄를 믿었기에 이를 매우 통탄했다…(원문 생략) -
という旨が書かれているそうなのですが、こちらに至っては原文省略という扱いです。 >>205 開化12年辛亥8月に云々とあります。
[6] 桓檀古記 と 魏覇山城碑 によると高句麗の宝臧王の元号だといいます。 >>2
[198] 開化7年4月記事は三国史記高句麗本紀寶臧王7年4月条と似ています。 >>199, >>195
[194] 碑文より12年がで、元年はに当たり、 三国史記では宝臧王の10年が辛亥年 (y~3909) で2年ずれで矛盾するとの指摘があります。 >>8, >>205
[213] この2年ずれは黃源甲自身も認めていますが、 特に問題ないという見解のようです。 >>205
[216] 桓檀古記 と 魏覇山城碑 のどちらにも同じ開化の元号が出現しますが、 両者はどちらがどちらに影響したという直接的な関係はなさそうです。 するとそれぞれの執筆者はどこでどのようにこの元号を知ったのかが問題となってきます。 >>217, >>8
[220] 大韓民国人とみられるあるブログ著者は、 □和は一説に宝臧王時代で、 開化とは同音になるので、 誤伝ではないかと推理しています。 >>219
[230]
それにしても、西暦1930年代 (満州国の時代)
というのは朝鮮人が満鮮を自由に行き来出来た時代なので
(しかも大東亜戦争と朝鮮戦争・冷戦という断絶を経ているので)、
高句麗や渤海の後裔を主張したい朝鮮人にとっては大変都合が良い道具になるのですね。
[238] 桓檀古記 の序文・跋文で20世紀前半に使われた (という設定の) 神市開天 (신시개천, y~4158) は、 現在の大韓民国でも 桓檀古記 等を信仰する人々によって使われています。
[239]
しばしば檀紀や 환기 と併用されています。
[240] 現在知られている中では 桓檀古記 が最古の用例です。
[241] もしかするとそれ以前から大韓民国の超古代史信仰者らの間で使われていた可能性もあります。
[242] ▒ 양현당 한민족생활문화연구회 ▒ [BBS : 홍보/보도자료실], http://webcache.googleusercontent.com/search?client=firefox-b-d&q=cache%3Ahttp%3A%2F%2Fwww.gungangi.co.kr%2Fkunsolution%2Fboard.php%3Fbbs_id%3Dcom_data%26bbs_page%3D7%26bbs_no%3D116%26bbs_phase%3Dview%26PHPSESSID%3D576d1ba6a0ef9f5d2bdc19bb7abd31b8
글정보 작성일 : 2007년 05월 14일 15:23 , 읽음 : 1720
開天紀元 五千九百五年 丁亥 四月 四日 巳時 白頭大幹 南岳에 위치한 국토의 뼈대요. 민족의 혈맥인 옹성산, 모후산, 무등산, 백아산, 영신천, 창랑천으로 옹위를 받는 적벽동천 배달천단에서 배달문화선양회 天子神孫들이 창립총회와 민족화합 조국통일을 위하여 온누리를 주관하시는 한울님께 마음을 모두어 願禱 드리오니 굽어 살피시옵소서.
[11] 桓檀古記 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%93%E6%AA%80%E5%8F%A4%E8%A8%98
[10] 伊那 38(7)(746), 伊那史学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4431583/1/24 (要登録) 左下