渤海亡後之紀年

渤海の元号

[1] 渤海国元号を使っていました。

[108] 渤海の元号

異説

[2] 歴代渤海王の即位死去のおおよその年代が知られていますが、 改元の時期は明確な記録がありません。 そのため、 1,2年程度の差異のある諸説が示されてきました。

[3] Wikipedia や各種Webサイトに示されている時期も、 記事や頁によって1,2年程度のバリエーションが生じています。

遡及命名

[4] 初めて独自に建元したと考えられている仁安よりも前は、 元号があったとは考えられていません。 確実な出典が知られる最後の咸和 (y~1134) よりも後は元号があったと推測されていますが、 その元号名は知られていません。

[6] 渤海国領土は現在の中華人民共和国領内満州ロシア連邦領外満州朝鮮民主主義人民共和国に跨っており、 それに大韓民国を含めた各国が自国の歴史とみなしており、 そのことが政治的問題にもなっています ( 東北工程 )。 とりわけ朝鮮人は民族の源流の1つと認識しているようで、 偽書など怪しげな言説に渤海の元号も関係しているようです。


[14] 元号のない時代に後から元号を配置するのは、 日本史における古代年号の事例と似ています。

天統

[5] 仁安の前には天統 (y~2021, y~2020) があったとされることがあります。

[129] 渤海国の初代王大祚栄は独自の元号が記録されておらず、 制定しなかったと考えられています。 ところが天統大祚栄元号とされています。

[130] 天統偽書や信憑性の低い資料には出現しますが、 信頼できる資料にはまったく出現しません。

[8] 陝溪太氏族譜天統が掲載されました。 中文Wikipedia, >>125 本書の記述は学術的には信用しかねるものだそうです。

[22] 天統元号を掲載するのは渤海國志長編の影響だという説があります。 >>21

[38] 同書は >>31 にありますが、どの部分のことを指しているのかわかりません。 Google検索でこのURLを対象にして「天統」を探しても何も見つかりません。 (OCRテキストデータがあれば嬉しいのですが...)


[117] 檀君を信仰する朝鮮人新興宗教大倧敎は、 三一檀誥と称する経典を刊行しました。 >>118

[119] 三一檀誥 は、 「大興三年」 付の跋があって、 檀君の言が代々伝えられてきて太白山に保管された旨が説明されていました。 また、 「天統十七年三月三日」 の王野勃の奉勅の序がありました。 >>118

[120] 大興渤海の元号と解され、 旧説では (y~821)、 現在の説では (y~2019) に当たります。

[121] 天統 (y~2021) なり (y~2020) に相当すると思われます。 王野勃天統の制定者とされる渤海国の初代王大祚栄の弟、 大野勃に比定されます。 大野勃については新唐書にわずかな記述があるくらいで、 信憑性の高い記録はほとんどありません。

[122] 大倧敎檀君を信仰していて、 現行檀君紀元を大々的に利用し始めた最初とされます。 檀君紀元 檀君の活動したとされる満鮮国境地帯で大倧敎も活動していて、 三一檀誥 のような怪しげな経典を生み出したり、 朝鮮独立運動の拠点となったりしたといわれています。

[123] 大倧敎にとって檀君以来の古朝鮮高句麗渤海国高麗と連なる朝鮮民族の歴史を証明することが信仰と民族主義の高揚に必須であり、 高句麗渤海国をつなぐミッシングリンクが必要とされたのでありましょう。

[132] 近代日本朝鮮史研究者として有名で檀君研究でも知られる今西竜は、 三一檀誥天統は歴史学的な価値がないと判断しています。 >>118


[55] 20世紀の偽書桓檀古記には渤海国元号として記載されています >>125 桓檀古記の日時

[124] 桓檀古記 それ自体は20世紀後半になって出現した偽書ですが、 >>123 のような素地があって作られたもので、 必ずしもそのすべてが出現の直前に作られたものでもないのでしょう。 桓檀古記 の記述と符合する (が依存関係にはない) ものが偶然にも満州で発見された (と主張される) のも、 あながちまったくの虚構というわけでもなく、 >>123 のような前世代の活動に連なっていると思われます。

[24]天統 捌年」 (行書) と書かれてた 「渤海通寶」なる紀年錢があります。 >>23, >>28, >>43

[30] 大韓民国대진대학교 (大眞大學校) 教授の서병국が公表しました。 >>43

[48] 「来週中」に媒体と学界に公開して検証すると説明していました。 >>43 媒体に5点が公表されたようです。 >>59, >>96

[47] 서병국によると「最近」大韓民国内の家で5点が発見されました。 >>43 「6ヶ月前」に調査を始めました。 >>98 西暦1930年代満州の旧渤海国首都で出土したと推測されます。 >>43 というのも所有者が北鮮出身の前所有者から購入し、 前所有者は父親から西暦1930年代に旧渤海国首都で出土した貨幣を受け継いだのだそうです。 >>98

[51] 怪しいところしかありませんね。

[49] 서병국が鑑定して渤海貨幣と判明したのだそうです。 >>43

[56] しかし文化財当局が積極的でないので科学的な検証がなされていない、 と信奉派は批判しています。 >>52 その辺の経緯はよくわかりません。

[57] 現物は行方不明で서병국も知らないと供述しているようです。 >>52

[29] この貨幣天統の実在の証拠として紹介されています。 >>43, >>23 渤海国が独自の元号を使っていた物証で、 東北工程を覆す発見なのだそうです。 >>43 天統中国の文獻になく朝鮮の文獻にだけ出現することや、 満鮮の版図が描かれているとされることが特に紹介されていて >>43渤海朝鮮であるという主張を裏付ける物証とみなされているようです。 東北工程

[50] 国号元号を共に刻んだ貨幣中国にはないとされます。 >>43 それが本当かどうかわかりませんが、事実だとすると、 渤海 (= 朝鮮) の独自性を示すという主張なのでしょう。

[60] 서병국は、天統とは高句麗滅亡後に再び統一したという意味で、 は認めたくなかったので記録しなかったと主張しています。 >>59

[61] それではなぜその「続き」の元号は記録されてるのか謎ですが...

[53] なかなかに不思議な形をしています。 金貨も他に例がないそうです >>52서병국は常用目的ではなく記念通貨だと考えています >>52, >>96

[54] 保存状態が異常によく不審です。 >>52

[26] 当時は渤海の国名がまだなく不審です。 >>28, >>52

[62] 公表直後の記事に、研究者らと見られる匿名コメントが掲載されています。 >>59

  • [63] ある教授: は変化がほとんどないので科学的検証は容易でない、 真偽確認の方法はほとんどない
  • [64] 他の教授: 即位8年当時は国内も体外関係も不安定で記念貨幣が作れるかどうか、 「渤海通寶」のような国号入り貨幣は中国にも朝鮮にもほとんどない
  • [65] 国立中央博物館関係者: 出土と入手の経緯、昔発見されたのがなぜ今になって公開されたのかを明らかにしないと

[94] このニュースを紹介したブログ記事にいくらするのか >>92 というコメントがついています。素朴な感想ですが、重要な点です。 果たしてこの貨幣5点は本当にで出来ているのでしょうか。

[58] 信奉派は、 朝鮮総督府の植民地史学を継承する歴史学界が黙殺していると非難しているようです。 >>52 この種の学界陰謀論的なものはどこの国にもあるのですね。

[67] >>66 は一見何の変哲もない歴史記事ですが (著者が信奉派かどうかもわかりません)、 さらっと当然のように「渤海通寶」を真正品として紹介しています。 深く考えずに漠然と信じこんでいる人もそれなりにいそうです。

[230] それにしても、西暦1930年代 (満州国の時代) というのは朝鮮人満鮮を自由に行き来出来た時代なので (しかも大東亜戦争朝鮮戦争冷戦という断絶を経ているので)、 高句麗渤海の後裔を主張したい朝鮮人にとっては大変都合が良い道具になるのですね。 開化


[127] 一般には天統の史実性は低いとされていますが、 大韓民国朝鮮民主主義人民共和国では、 研究者も含め、 その実在が広く信じられています >>125

[126] 大韓民国では歴史の教科書にまで掲載されました 日本語ウィキペディアからと記述されています >>125 (y~2020)。

[128] その他、 多くの元号一覧等に掲載されています (が掲載していないものも多いです)。

[116] >>112 これは大韓民国であった檀君紀元復活運動の解説記事。 渤海では天統元号があったと高句麗永楽などとともに紹介されている。

[131] 朝鮮人もすべてが実在を完全に信じているわけではありません。 大韓民国の研究者李孝珩は、 俠溪太氏族譜 に出現するとはいえ、 史料として問題が多く歴史学者は利用を控えているもので、 天統の実在性は十分考証が必要で、 歴史教科書に記載する必要性があるのかは疑問だとしています。 >>125

重光

[7] 20世紀の偽書 桓檀古記 には、 天統や、 更に前の時代の重光 (y~2022) が掲載されました。 中文Wikipedia 桓檀古記の日時

後期

[17] 渤海国時代最後の4人の王の時代の元号は、 確実な文献や金石文が知られていませんが、 諸説があります。

[9] 中文Wikipedia陝溪太氏族譜 を根拠に3つの元号名を挙げていますが、 単独の元号記事は立項していません。

[13] 中文Wikipedia天統 (渤海國) の記事に 桓檀古記 を出典に4つの元号名を掲載しています。 桓檀古記の日時

[10] かつて日本語ウィキペディアは 4つの元号名を挙げ、 単独の元号記事も立項していました。 削除依頼が却下され偽年号だと説明する内容になりました >>537 が、その後削除されました。

[12] ウィキペディアは怪しいサイト >>104 が出典である (から信用できない) としていましたが、その出典が追加される前から記事はあったようです (履歴が参照できないので詳細不明)。 また、その怪しいというサイトと期間に微妙な違いがあります。 当該サイト以外にも出典があったらしい記述もあります。

[11] 削除されたため現在では履歴を参照できませんが、 削除依頼記事やウィキペディアの内容を複製した外部サイト >>101, >>102 から偽年号だとする説明文を確認できます。 また、朝鮮の元号の一覧記事の過去履歴で掲載を確認できます。 (ウィキペディアは削除されると履歴まで消えてしまうのが困ったものです。)

[77] >>74 によるとかつては朝鮮語Wikipediaにもその4元号がありました。

n
渤海王
o
旧学説
陝溪太氏族譜
陝溪太氏族譜
w
ウィキペディア
桓檀古記
桓檀古記
n
大祚榮
陝溪太氏族譜
天統
n
大虔晃
陝溪太氏族譜
黃龍
w
正永
桓檀古記
大定
n
大玄錫
陝溪太氏族譜
甘露
w
寛明
桓檀古記
天福
o
秋豊
n
大瑋瑎
w
慶成
n
大諲譔
陝溪太氏族譜
天授
w
文徳
桓檀古記
清泰

[15] 渤海の元号を研究した金毓黻は、 この時代の4人の王の4つの元号の時期を推定しましたが、 元号名は不明としました。

[16] 中文Wikipedia元号一覧は、それを根拠に、 元号名不明元号4つを掲載しています。 >>18

[95] 金毓黻渤海國志長編の著者です。 そのどこかに書かれているのでしょうか (引用には出典を書いてくれ!)。

[103] ノート:元号一覧 (朝鮮) - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88%3A%E5%85%83%E5%8F%B7%E4%B8%80%E8%A6%A7_(%E6%9C%9D%E9%AE%AE)

吉川弘文館の歴史手帳の付録にある「年号索引」には高麗の年号として「天授」(918年-944年)という、ここの本文にないものがあるのですが。211.128.136.77 2004年10月3日 (日) 19:37 (UTC)

渤海の「天統 (천통)(699年-718年)は出典史料が判明すれば項目に戻したいと思います。また「虔晃 (건황)(858年-926年)は王名との混同と考えられていますのでノートに移動させておきました。こちらも元号としての出典史料の提示があれば項目に戻したいと考えます。--Yonoemon 2007年4月13日 (金) 08:00 (UTC)

渤海の年号4件(正永 寛明 慶成 文徳)については、史海寻踪#帝王世系》唐时期(二)に記述が見られることを確認できましたので、{{fact}}は除去しました。(ただ、原典が解っていないので引き続き調査が必要かと思います。また、後百済の元号「正開」について三国史記・三国遺事では見当たらないのでいったん{{fact}}をつけておきます。(高麗史を調べるべきでしょうか)--田英 2007年5月6日 (日) 01:17 (UTC)

[537] Wikipedia:削除依頼/渤海史の偽史関係 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E5%89%8A%E9%99%A4%E4%BE%9D%E9%A0%BC/%E6%B8%A4%E6%B5%B7%E5%8F%B2%E3%81%AE%E5%81%BD%E5%8F%B2%E9%96%A2%E4%BF%82

正永 (渤海) - ノート

寛明 (渤海) - ノート

慶成 (渤海) - ノート

文徳 (渤海) - ノート

一次史料に確認できない偽年号。参考文献として個人サイトらしき[1]をのせるが、これは桓仁王朝とかをのせるようなあきらかにいかがわしいサイト。


[19] 天授 (y~2034) はほぼ同じ時期に高麗天授 y~281 があります。何らかの関係があるのかもしれません。

[25] 清泰後唐にあって、元年です。 その次が後晋天福で、元年です。

Wikipedia記事における謎元号

[68] 朝鮮語Wikipediaの記事には謎元号が追加されたり削除されたりしているようです。

[74] 발해 - 위키백과, 우리 모두의 백과사전, , https://ko.wikipedia.org/w/index.php?title=%EB%B0%9C%ED%95%B4&oldid=1061713

[75] 時点の >>74 にはなぜか2系統の元号一覧が掲載されています。

  1. 대중상: 세조(世祖) 진국열황제(振國烈皇帝), 연호 중광(重光)
  2. 고왕: 태조(太祖) 성무고황제(聖武高皇帝), 연호 천통(天統)
  3. 무왕: 광종(光宗) 무황제(武皇帝), 연호 인안(仁安)
  4. 문왕: 세종(世宗) 광성문황제(光聖文皇帝), 연호 대흥(大興)
  5. 대원의: 폐위되어 묘호와 시호 없음. 재위 당시 사용한 연호는 기록 없음
  6. 성왕: 인종(仁宗) 성황제(成皇帝), 연호 중흥(中興), 휘 화흥(華興)
  7. 강왕: 목종(穆宗) 강황제(康皇帝), 연호 정력(正曆)
  8. 정왕: 의종(毅宗) 정황제(定皇帝), 연호 영덕(永德)
  9. 희왕: 강종(康宗) 희황제(僖皇帝), 연호 주작(朱雀)
  10. 간왕: 철종(哲宗) 간황제(簡皇帝), 연호 태시(太始)
  11. 선왕: 성종(聖宗) 선황제(宣皇帝), 연호 건흥(建興)
  12. 대이진: 장종(莊宗) 화황제(和皇帝), 연호 함화(咸和)
  13. 대건황: 순종(順宗) 안황제(安皇帝), 연호 대정(大定)
  14. 경왕: 명종(明宗) 경황제(景皇帝), 연호 천복(天福)
  15. 애왕: 묘호 없음. 애제(哀帝), 연호 청태(淸泰)
  1. 인안(仁安): 720년-738년
  2. 대흥(大興): 738년-794년
  3. 보력(宝暦): 774년-?
  4. 중흥(中興): 794년-795년
  5. 정력(正暦): 795년-809년
  6. 영덕(永徳): 809년-813년
  7. 주작(朱雀): 813년-817년?
  8. 태시(太始): 817년?-818년
  9. 건흥(建興): 819년-831년
  10. 함화(咸和): 831년-857년
  11. 정영(正永): 857년-871년
  12. 관명(寛明): 872년-893년
  13. 경성(慶成): 894년-906년
  14. 문덕(文徳): 907년-926년

[81] オリジナルの一覧が掲載されたのはこのとき。なぜか2つはコメントアウトされている。

[83] コメントアウトが解除。

[79] 桓檀古記からの一覧が掲載されたのはこのとき。

[85] しかしすぐに 桓檀古記 なんて載せるなと怒られています。

[69] 발해 - 위키백과, 우리 모두의 백과사전, , https://ko.wikipedia.org/w/index.php?title=%EB%B0%9C%ED%95%B4&oldid=2692844

[70] 時点の >>69 には 「‘천통팔년’(天統捌年)」 の紹介があって、 本物なら東北工程を覆すと述べられています。 世界日報記事 (現存せず。) が引用されていて、1日違いですが >>43 と同じものでしょうか。

[76] 実はこの記述は >>74 の時点で既に存在していましたが、そちらでは出典が付いていません。

[71] 발해 - 위키백과, 우리 모두의 백과사전, , https://ko.wikipedia.org/w/index.php?title=%EB%B0%9C%ED%95%B4&oldid=3700890

[72] 時点の >>71 には元号一覧に 「천통[天統]」 があります。

[73] それとは別個に、 桓檀古記には別の歴史が書かれているが学界では偽書とされている、 と書かれています。

[86] 발해 - 위키백과, 우리 모두의 백과사전, , https://ko.wikipedia.org/wiki/%EB%B0%9C%ED%95%B4#%EA%B1%B4%EA%B5%AD

[87] >>86 令和5年6月現在、年表にこそ天統はありませんが、本文には

고왕(高王) 대조영은 천통(天統)이라는 독자 연호를 사용하였다.

としれっと初代が天統の元号を使ったと書かれています。

[88] 年表には天統がないかわりに

871대현석대정15년대건황 붕어. 대현석 즉위.
894대위해천복24년대현석 붕어. 대위해 즉위.
906대인선?13년대위해 붕어. 대인선 즉위.
906청태7년신라와 비밀리에 연계를 맺음.
924청태19년발해의 거란 침입요주자사를 죽이고 백성들을 빼앗음.
925청태20년발해인 장군 500여 명 고려로 망명. 12월거란이 발해에 침입.
926청태21년거란군부여부 점거. 발해 멸망. 국명을 동단국으로 바꾸고 거란 태자 야율배가 지배.
934대광현청태29년대광현 발해의 유민을 이끌고 고려로 귀순.

のように桓檀古記系の元号が書かれています。

実はこの年表はかなり前の版からありますが、 末尾の方は元号が書いてませんでした。途中で誰かが桓檀古記元号で埋めたというわけです。

[90] 발해 : 네이버 블로그, 휘참, 2008. 12. 31. 19:29, https://m.blog.naver.com/PostView.naver?isHttpsRedirect=true&blogId=braveattack&logNo=10039724651

[91] >>90 これはWikipediaの記事コピーブログ。 当時の天統関係の記述が含まれています。


[105] 渤海國的爭議年號 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A4%E6%B5%B7%E5%9C%8B%E7%9A%84%E7%88%AD%E8%AD%B0%E5%B9%B4%E8%99%9F

[106] 中文维基百科には疑わしい元号を集めた記事があります。

[107] 桓檀古記系の5個が、 陝溪太氏族譜系の4個が (異なり8個) 掲載されています。


[133] 天統 (渤海國) - 維基大典, , https://zh-classical.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%B5%B1_(%E6%B8%A4%E6%B5%B7%E5%9C%8B)

[134] >>133 桓檀古記から引いて、 から元号としています (y~718)。 中国朝鮮の古籍にはないとも書いています。


[89] 関連: Wikipediaの日時関連記事

渤海亡後紀年

[33] 中華民国大陸時代に編纂された 渤海國志長編 の補遺にある 渤海遺裔大事表には、 渤海亡後之紀年が示されています。 宋の元号遼の元号金の元号を記した「宋遼紀年」 と共に、 渤海国の滅亡後の出来事が年表にまとめられたいます。 >>32

[37] その少し後 >>32 #page=1136 には 「東丹之五十年景宗保寧七年七月」 (。逆算すると元年。) 「其後二十年聖宗統和十三年」 (, y~1121) という表現があります。 この場限りの即席の紀年法でしょう。

外交文書

[109] 渤海使が持参した渤海国政府から日本政府への文書が日本に残ります。 咸和元号年が使われています。 外交文書の日時, 咸和

一世一元

[110] 渤海の元号は、現在知られている限りでは、 (宝暦の例外を除けば) 一世一元だったとみなされています。

[111] 同時代の日本でもほぼ一世一元でした。 一世一元

[114] 中国正史等は各代1つずつ元号を記録しています。

[115] ただ宝暦が漏れていたり、中国正史日本の元号の低品質ぶりを見るに、 これを全面的に信用するのは躊躇されるところです。

[113] 日本に残る咸和文書を根拠に、 一世一元を基本としたことが確認できる >>112 (渤海国中台省牒の基礎的研究, 酒寄雅志) とされることがあります。 しかし用例1つで一世一元を言うのは無理があるとも思われます。 (それとも引用されている渤海国中台省牒の基礎的研究にはもっと詳細な考察があるのでしょうか? 未確認)

前後の時代

高句麗の元号, 東丹の元号, 契丹の元号, 高麗の元号, 金の元号

関連

朝鮮半島の紀年法

メモ

[20] 新唐書/卷219 - 维基文库,自由的图书馆 (, ) https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%96%B0%E5%94%90%E6%9B%B8/%E5%8D%B7219#%E6%B8%A4%E6%B5%B7