春秋暦

四分暦

[2] 四分暦は、 古代支那王朝時代の農暦でした。

農暦の一般的事項や他の暦との比較は農暦

暦法概要

[31] 四分暦は1年を36514日とすることからその名があります。 >>22 p.二三

[216] 四分暦は、 基本的に史記にある太初暦とされるものと同じでした。 >>201

[208] 章法を使うのは三統曆と同じでしたが、 1 = 36514とし、 の大小と閏月は 4 = 76 = 1で循環しました。 日干支は80章で循環しました (1520年紀法)。 >>201

章法

章法

周期

[49] 四分暦では 1 = 19です。 >>22 p.二六

[50] 四分暦では 1 = 4 = 76 = 27759です。 の端数がなく、 76年を経るとが同日同時刻に戻ります。 >>22 p.二六

[51] 四分暦では 1 = 20 = 1520です。 の他に干支日が復帰します。 >>22 p.二六

[52] 四分暦では 1 = 3 = 4560です。 干支年も復帰します。 >>22 p.二六

[60] 便宜上、 の始まりを第一紀首、第二紀首、のように数えます。 の始まりを第一蔀首、第二蔀首、のように紀首から数えます。 の始まりを第一章首、第二章首、のように蔀首から数えます。 >>22 p.二八

[61] 蔀(首)は初日の干支日により、甲子蔀、癸卯蔀、のように呼びます。 >>22 p.二八

[85] 漢書世経所引殷暦に「府首」とあります。 師古の注釈で府首とは蔀首のこととされています。 >>22 p.九六

六暦

[33] の時代に黄帝暦, 顓頊暦, 夏暦, 殷暦, 周暦, 魯暦六暦がいわれていました。 >>22 pp.二三-三二

[35] 漢芸文志考証 は、 これらはみなの頃に仮託されたものだとしています。 歴代王朝の名を称していますが、 実際にそれらので使われたものではありません。 >>22 pp.二三-三二

[34] これらはみな四分暦で、暦元が違うだけでした。 四分暦であることは、 漢志, 続漢志 などから推定される他、 宋書律暦志四分暦だと述べています。 >>22 pp.二三-三二

[36] 続漢書律暦志によると暦元は、

です。 >>22 pp.二三-三二


[66] の時代の開元占経巻一百五古今歴積年及章率には次のようにあります。 >>22 pp.一五一-一五二, pp.三八二-三八三

[73] 次の暦元四分暦であることがわかります。 >>22 p.一五二

殷暦

[55] 太初暦改元された後の元鳳3年、 張寿王改暦を主張しました。 漢志黄帝調律暦または黄帝調暦とあり、 前者は後者の誤りとされます。 漢元年から用いられたと主張されましたが、 史実ではないとされます。 実際には殷暦でした。 >>22 pp.二七-三〇

[56] 殷暦漢志および続漢志により推測すると

でありました。 >>22 pp.二七-三〇

[62] 殷暦紀年法, 古代支那の日時も参照。

周暦

[88] 李淳風五経算術注に、

周術上元丁巳。至僖公五年丙寅。積二百七十五万九千七百六十九算。

とあります。 >>33 p.九七

[91] 現行干支紀年法で丙寅。 この年が2759769年だとすると、 上元 (>>71 と一致します)。 魯僖公5年は606元1紀13蔀4章の初年です。

[89] 漢書律暦志の研究 は、 2759769 から大周期 262560 を除去すると、 周術上元から僖公5年まで 133209 年となるとしています。 >>33 p.九七

[92] >>89 の 262560 は 2626560 の誤植です。 2626560 = 576 = 576 × 4560 です。 2759769 - 2626560 = 133209 です。

[93] >>89 の周術上元は、 で、 >>91上元からの計算では577元1紀1蔀1章の第1年に当たります。

[86] 漢書世経に、

四分。上元至伐桀。十三万二千一百一十三歳。其八十八紀。甲子府首。入伐桀後百二十七歳。

とあります。 >>33 p.九六

[90] 上元から伐桀まで 132113 年、 伐桀から第88紀第1蔀(甲子蔀)の第1年まで127年、 132113 = 87 × 1520 - 127 です。

[87] 銭大昕李鋭は、 これが周暦であると論じています。 >>33 p.九七

[94] >>93 の周術上元の132113年後はに当たります。 >>91 の上元を0年とした 2758673 年 (605元3紀19蔀2章6 (章の第7年)、 >>93 の上元と比べて 28 × 3 + 3 = 87 紀に属します。) であると共に、 三統暦の主張する伐桀歳でもあります。 支那古代の日時

[95] これは李鋭の説に基づく 漢書律暦志の研究 の説明に従った説明です。 >>33 pp.九六-九七

魯暦

[101] >>72上元によると、 が0年 (1元1紀1蔀1章0) となります。

[102] >>78 によると、 が0年 (1元1紀1蔀1章0) となります。 この年は >>72 だと606元2紀1蔀1章0 (2760320年) に当たります。


[96] 漢書世経に、

春秋暦。周文王四十二年。十二月丁丑朔旦冬至。孟統之二会首也。

とあります。 >>22 p.九七

[97] 銭大昕三統暦衍は、 春秋暦三統暦のことだと考え、 三統暦周文王42年朔旦冬至の推算が一致することを説明しました。 >>22 p.九七

[98] 周正権漢書律暦志補注訂誤は、 劉歆が自分の春秋暦と呼ぶのは不合理だと反論しました。 >>22 p.九七

[99] 周正権は、 春秋の史書で、 春秋暦魯暦を指すと考えました。 また、 >>96 の朔旦冬至までが春秋暦、 それ以下は劉歆の説明だとしました。 >>22 pp.九七-九八

[100] 漢書律暦志の研究魯暦の推算によれば、 周文王42年は章首にあたり殷正12月丁丑朔旦冬至を得ます。 よって他に有力説がない限りは魯暦説を採るのがいいとしています。 >>22 p.九八

[103] >>100 の推算は、 同書第一章第四節によるものとされています。 >>22 p.九八 >>44 に当たりますが、暦元が明記されていません。

[104] 「孟統之二会首」 は三統暦を指すものであり、 すなわち(第31元)第3統第2会第1章0年 (142101年) は、 に当たります。

[105] この年は >>101, >>102魯暦では章首ではありません。 >>101 では第606元第1紀第10蔀第1章7年 (2759491年) なので前後の年も章首になりません。

顓頊暦

[45] 太初暦への改暦以前には四分暦が使われていました。 >>22 p.二三

[46] 史記張蒼伝賛に、 顓頊暦が用いられたことがあります。 漢書張蒼伝賛にも、 初に六暦の1つ顓頊暦が用いられたことがあります。 >>22 p.二三

[47] 唐志大衍暦議日度議に、 顓頊暦は上元甲寅歳、正月甲寅晨初合朔立春であるとあります。 すなわち、 正月晨初合朔立春を暦元とする四分暦とされます。 >>22 p.二三

[48] ところが新城博士の研究によれば、 実際に初に使われたのはそのような顓頊暦ではありませんでした。 >>22 p.二三

[63] 顓頊暦紀年法, 三正も参照。

史記太初暦

[18] 史記曆術甲子篇 >>21 に説明された暦法がかつては太初暦と考えられていました。 四分暦の一種です。

[27] 史記索隠 が「太初暦法」 としてこの四分暦を説明していました。 >>22

[28] 沈欽韓漢書疏證はこの説に従いました。 >>22

[29] 暦法及時法 はこの説に従って解説していました。 >>22

[19] 現在では太初暦三統暦に近いもので、四分暦ではないと考えられています。 三統暦

[20] 史記司馬遷太初暦の使われた時代に編纂されたものですが、 この部分の記述は後世になって (誤った形で) 補われたと考えられています。 東洋の暦法研究史

[30] 梁玉繩史記志疑, 張文虎舒芸室随筆第四, 日本漢書律暦志の研究 で議論されています。 >>22 pp.一四-一八

[5] 太初暦については史記巻26、暦書に記載があります。 >>3

[6] 一部抜粋すると次の通り。 >>3 (表記は現代風に改めた。)

  • 太初元年、日得甲子、夜半朔日冬至、
    • 無大余 無小余 12
    • 無大余 無小余
  • 太初元年
    • 大余54 小余348 12
    • 大余5 小余8
  • 2年
    • 大余48 小余696 閏13
    • 大余10 小余16
  • 3年
    • 大余12 小余603 12
    • 大余15 小余24
  • 4年
    • 大余7 小余11 12
    • 大余21 無小余
  • 天漢元年
    • 大余1 小余359 閏13
    • 大余26 小余8
  • 2年
    • 大余25 小余266 12
    • 大余31 小余16
  • 3年 (以下略)

[7] これだけでは意味不明ですが、史記索隠に解釈があり、 他に説明もできません。 すなわち: >>3

[8] 太初暦では、

1太陰月 = 29499940

... です。

[10] 従って、

12太陰月 = 354348940

13太陰月 = 383847940

[9] 干支は60で循環することを加味し、

12太陰月 = 354348940日 = (60 × 5 + 54348940) 日

13太陰月 = 383847940日 = (60 × 6 + 23847940) 日

[11] さて、

太初元年1200000940 + 54348940日 = 00 + 54348940
太初二年1254348940 + 54348940日 = 60 + 48696940
太初三年1348696940 + 23847940日 = 60 + 12603940
太初四年1212603940 + 54348940日 = 60 + 07011940
天漢元年1207011940 + 54348940日 = 60 + 01359940

... のように計算できることから、前列の大余は朔日の干支表す数だとわかります。

[12] 前年冬至 (夏正の11月) の天正経朔と呼んで暦算の起点とする慣習があり、 本文にも朔日冬至とありますから、前年11月を指すと解釈できます。

[13] 日得甲子、無大余と最初にあることから、 0 は甲子とわかります。

[14] ここから太初0年11月朔は甲子、 太初元年11月朔は戊午、 太初2年11月朔は壬子、 などとなります。

[15] 前列の小余は、の時刻を表す値となります。


[16] 太初暦では、

1太陽年 = 36514

... です。また1日は32等分されました。これを同様に 60 の循環分を除去すると、 5832日という値を得られます。

[23] やはり同様の計算から、 後列の大余は冬至日干支表し、 小余は冬至時刻を表すことがわかります。

[24] まとめると、各年の

を表しています。 >>22

[64] 関連: 木星紀年法

後漢四分暦

[54] 後漢四分暦は、 元和2年の改暦で採用されました。 >>22 p.二七

[53] 暦元は庚辰年です。 >>22 p.二七

[84] 漢文帝後元3(西暦紀元前161)年。

[17] 後漢書巻13、律暦志下には、 「章法十九、 章月二百三十五、 周天千四百六十一、 日法四、」 とあり、

... となります。 >>3

その他の四分暦

太昊古暦

[65] 友田吉之助の説 異種干支紀年法説

メモ