[31]
四分暦は1年を365日とすることからその名があります。
>>22 p.
[216] 四分暦は、 基本的に史記にある太初暦とされるものと同じでした。 >>201
[208] 章法を使うのは三統曆と同じでしたが、 1年 = 365日とし、 月の大小と閏月は 4章 = 76年 = 1蔀で循環しました。 日干支は80章で循環しました (1520年紀法)。 >>201
[49]
四分暦では 1章 = 19年です。
>>22 p.
[50]
四分暦では 1蔀 = 4章 = 76年 = 27759日です。
日の端数がなく、
76年を経ると気朔が同日同時刻に戻ります。
>>22 p.
[51]
四分暦では 1紀 = 20蔀 = 1520年です。
気朔の他に干支日が復帰します。
>>22 p.
[52]
四分暦では 1元 = 3紀 = 4560年です。
干支年も復帰します。
>>22 p.
[60]
便宜上、
蔀の始まりを第一紀首、第二紀首、のように数えます。
蔀の始まりを第一蔀首、第二蔀首、のように紀首から数えます。
章の始まりを第一章首、第二章首、のように蔀首から数えます。
>>22 p.
[33]
秦漢の時代に黄帝暦,
顓頊暦,
夏暦,
殷暦,
周暦,
魯暦の六暦がいわれていました。
>>22 pp.
[35]
漢芸文志考証
は、
これらはみな秦漢の頃に仮託されたものだとしています。
歴代王朝の名を称していますが、
実際にそれらの国で使われたものではありません。
>>22 pp.
[34]
これらはみな四分暦で、暦元が違うだけでした。
四分暦であることは、
漢志,
続漢志
などから推定される他、
宋書律暦志
が四分暦だと述べています。
>>22 pp.
です。
>>22 pp.
[66]
唐の時代の開元占経巻一百五古今歴積年及章率には次のようにあります。
>>22 pp.
[73] 次の暦元の四分暦であることがわかります。
>>22 p.
[55]
太初暦に改元された後の元鳳3年、
張寿王は改暦を主張しました。
漢志に黄帝調律暦または黄帝調暦とあり、
前者は後者の誤りとされます。
漢元年から用いられたと主張されましたが、
史実ではないとされます。
実際には殷暦でした。
>>22 pp.
でありました。
>>22 pp.
周術上元丁巳。至僖公五年丙寅。積二百七十五万九千七百六十九算。
とあります。
>>33 p.
[91] は現行干支紀年法で丙寅。 この年が2759769年だとすると、 上元は (>>71 と一致します)。 魯僖公5年は606元1紀13蔀4章の初年です。
[89]
漢書律暦志の研究
は、
2759769 から大周期 262560
を除去すると、
周術上元から僖公5年まで 133209 年となるとしています。
>>33 p.
[92] >>89 の 262560 は 2626560 の誤植です。 2626560 年 = 576 紀 = 576 × 4560 年です。 2759769 - 2626560 = 133209 です。
[93] >>89 の周術上元は、 で、 >>91 の上元からの計算では577元1紀1蔀1章の第1年に当たります。
四分。上元至伐桀。十三万二千一百一十三歳。其八十八紀。甲子府首。入伐桀後百二十七歳。
とあります。
>>33 p.
[90] 上元から伐桀まで 132113 年、 伐桀から第88紀第1蔀(甲子蔀)の第1年まで127年、 132113 = 87 × 1520 - 127 です。
[87]
銭大昕や李鋭は、
これが周暦であると論じています。
>>33 p.
[94]
>>93 の周術上元の132113年後はに当たります。
>>91 の上元を0年とした 2758673 年 (605元3紀19蔀2章6 (章の第7年)、
>>93 の上元と比べて 28 × 3 + 3 = 87 紀に属します。)
であると共に、
三統暦の主張する伐桀歳でもあります。
[101] >>72 の上元によると、 が0年 (1元1紀1蔀1章0) となります。
[102] >>78 によると、 が0年 (1元1紀1蔀1章0) となります。 この年は >>72 だと606元2紀1蔀1章0 (2760320年) に当たります。
春秋暦。周文王四十二年。十二月丁丑朔旦冬至。孟統之二会首也。
とあります。
>>22 p.
[97]
清の銭大昕の三統暦衍は、
春秋暦を三統暦のことだと考え、
三統暦周文王42年朔旦冬至の推算が一致することを説明しました。
>>22 p.
[98]
清の周正権の漢書律暦志補注訂誤は、
劉歆が自分の曆を春秋暦と呼ぶのは不合理だと反論しました。
>>22 p.
[99]
周正権は、
春秋は魯の史書で、
春秋暦は魯暦を指すと考えました。
また、
>>96
の朔旦冬至までが春秋暦、
それ以下は劉歆の説明だとしました。
>>22 pp.
[100]
漢書律暦志の研究
の魯暦の推算によれば、
周文王42年は章首にあたり殷正12月丁丑朔旦冬至を得ます。
よって他に有力説がない限りは魯暦説を採るのがいいとしています。
>>22 p.
[104] 「孟統之二会首」 は三統暦の年を指すものであり、 すなわち(第31元)第3統第2会第1章0年 (142101年) は、 に当たります。
[18] 史記曆術甲子篇 >>21 に説明された暦法がかつては太初暦と考えられていました。 四分暦の一種です。
[19]
現在では太初暦は三統暦に近いもので、四分暦ではないと考えられています。
[20]
史記は司馬遷が太初暦の使われた時代に編纂されたものですが、
この部分の記述は後世になって (誤った形で) 補われたと考えられています。
[5] 太初暦については史記巻26、暦書に記載があります。 >>3
[6] 一部抜粋すると次の通り。 >>3 (表記は現代風に改めた。)
[7] これだけでは意味不明ですが、史記索隠に解釈があり、 他に説明もできません。 すなわち: >>3
... です。
[10] 従って、
[11] さて、
太初元年 | 12 | 00 + 54日 = 00 + 54 |
---|---|---|
太初二年 | 12 | 54 + 54日 = 60 + 48 |
太初三年 | 13 | 48 + 23日 = 60 + 12 |
太初四年 | 12 | 12 + 54日 = 60 + 07 |
天漢元年 | 12 | 07 + 54日 = 60 + 01 |
... のように計算できることから、前列の大余は朔日の干支を表す数だとわかります。
[12] 前年冬至 (夏正の11月) の朔を天正経朔と呼んで暦算の起点とする慣習があり、 本文にも朔日冬至とありますから、前年11月朔を指すと解釈できます。
[13] 日得甲子、無大余と最初にあることから、 0 は甲子とわかります。
[14] ここから太初0年11月朔は甲子、 太初元年11月朔は戊午、 太初2年11月朔は壬子、 などとなります。
... です。また1日は32等分されました。これを同様に 60 の循環分を除去すると、 5日という値を得られます。
[24] まとめると、各年の
を表しています。 >>22
[54] 後漢四分暦は、 元和2年の改暦で採用されました。 >>22 p.二七
[84] 漢文帝後元3(西暦紀元前161)年。
[17] 後漢書巻13、律暦志下には、 「章法十九、 章月二百三十五、 周天千四百六十一、 日法四、」 とあり、
... となります。 >>3