[25] 中原では古くから君主の即位紀年が使われてきました。
[28] 周や春秋戦国時代、秦の時代から漢の時代の初期までは、 各国の王や皇帝の即位紀年を使って記述する方法が、 史記や春秋の時代からの標準となっています。
[41] 周の文王の時代を受命○年と表記することがあります。
文王崩御後も殷の滅亡頃まで使うことがあるようです。
通常の在位紀年とも元号とも異なる不思議な扱いの紀年法です。
「受命何年」
の表記法が当時から既にあったのかはよくわかりませんが、
後世の利用法をみると元号とみなしても良いように思われ、
その場合最古の時代を表す元号ということになります。
[23] 周で王が不在となった時代は共和○年と表記されることがあります。
在位紀年に分類されたり、元号に分類されたりすることがありますが、
君主不在なのに在位というのもおかしな話ですし、
元号の成立と一般的に理解されているものより遥かに古い時代でもあり、
不思議な位置付けがされています。
在位紀年説は、
この時代の実質的な君主の共伯和に由来するとされ、
現在ではこちらが定説となっているようです。
元号説は、
臣下の共同統治であることを「共和」と呼んだとするもので、
republic の訳語としての「共和(制・国)」の語源とされます。
[45] 秦の始皇帝の時代は、皇帝となる前は秦王政○年と表し、
皇帝即位後は秦始皇○年と表しますが、改元はなく年番号は連続しています。
[287]
睡虎地秦簡 編年紀に、「
[162]
周の文王の時代は即位紀年と受命紀年の2つが使われています。
これを史上初の改元とする説があります。
[42] 在位中に年を元年に戻す (改元する) 例がいくつかありました。 (後世には) 「後」などを付けて区別しています。 >>17
[49] 漢武帝は四元から元鼎に改元すると共に、一元-四元に名前を与えました。
これが元号の始まりとされています。
[22] 前元 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E5%85%83
[35] 中元 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%85%83
[60] 後元 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%85%83
[26] 前漢文景帝時の改元について。 - 漢の文帝、景帝は改元を行っ... - Yahoo!知恵袋 ( 版) http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1039855000
[27] 前元_百度百科 ( 版) http://baike.baidu.com/view/6148266.htm
[9] 史記/卷015 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B7015
秦惠文王元年
初更元年
[10] 秦惠文王 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%83%A0%E6%96%87%E7%8E%8B
惠文君元年(前337年)
惠文王元年(前324年),称王,更为元年。
[11] 恵文王 (秦) - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E6%96%87%E7%8E%8B_(%E7%A7%A6)
恵文君14年(紀元前324年)
恵文王3年(紀元前322年)
[300] 魏惠王 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E6%83%A0%E7%8E%8B
[115] 春秋戦国時代には諸国が乱立しましたが、 周王朝健在の頃は周の臣下の諸侯であるという建前がありました。 しかし実態は独立国で、 周の正朔を奉じず独自の即位紀年と暦法を持っていました。
[116] 秦の中原統一で秦国以外の正朔は廃されましたが、 秦にかわって一旦統一国家として成立した楚の元で、 各勢力が独自の即位紀年と暦法を復活させたとも読めるようなことが 史記 には記録されています (>>47)。 漢の劉邦の「漢元年」もその1つです
[117] 項羽が滅んで漢が再統一を果たした後、 劉邦に従った勢力や臣下は諸侯王や列侯となり、 漢本国とは異なる制度を持った封国を与えられました。 各勢力は、少なくても即位紀年は、 漢本国と異なる独自のものを用いることができたようです。
[118]
こうした経緯から、中華王朝では諸侯王等が即位紀年を用いることは、
必ずしも皇帝の正朔を奉じることの拒否とはみなされない(こともある)ようです。
漢の皇帝はその後元号制度を導入しましたが、
これによって皇帝の元号と諸侯王等の即位紀年の区別と優劣も生じたようです。
[58]
後漢末期の曹操の魏元年が漢の皇帝の元号と同時代に使われたのも、
漢の魏王だったためと説明されています。
>>8
[168] 前漢初期の即位紀年は、 史記 に一覧表があります (>>100, >>107)。
[3] 後世になると歴史的事項はたいてい皇帝の紀年で記述され、 皇帝以外の即位紀年が使われることは滅多にありません。 そのためなのか、即位紀年の一覧のようなものもほぼありません。
[70] 現存する用例もあまりありません。
[80] 時代が古すぎてあまり残っていないというのもあるでしょうが、 漢の皇帝の権力と権威が確立し元号制度が成立するのに対し、 どれだけ使われていたのでしょう。
[175] 発掘等されているものはあるようなので、 そのうちでも特に学術的に重要なもの以外はあまり表に出て来ないため、 全体像が見えづらいのが現状のような気がします。
[85] 通説によれば淮南王安の即位紀年 (y~2690) で、 に当たるとされます。 >>8, >>69
[87] 後漢の高誘の註が「淮南王作書之元年也。」とし、 一説に >>85 としていました。つまり本書の作成の初年のことと解し、 即位紀年説は異説として示すに留まっていました。 しかし以後後者の説が主流となりました。 >>69 後漢の頃には既に諸侯王の即位紀年が身近なものではなくなっていたということなのでしょう。
[176] 漢の皇帝の元号と諸侯王の即位紀年の併記の例もあります。
[174] 漢五鳳2年は西暦紀元前56年。
[180] 漢五鳳2年と魯34年が同年として逆算すると元年はとなります。
[181] ところがWikipediaによると魯孝王劉慶忌の即位は西暦紀元前88年で >>177, >>178、 魯2年に即位したことになってしまいます。
元朔元年,安王光嗣,四十年薨。
後元元年,孝王慶忌嗣,三十七年薨。
とあります。 >>179 漢元朔元年は西暦紀元前128年なので、それを第1年と数えると第40年は紀元前89年。 漢後元元年は紀元前88年。 つまり光が没した翌年に慶忌が継位したとなっています。
[182] Wikipedia の中文版は刘光が征和四年(前89年)死去としていて >>177、 日本語版は紀元前88年まで在位としています >>178。 中文版は漢書と同じです。 日本語版は1年空位はおかしいと先代を延長したのでしょうか。
[183] 即位紀年 (y~3745) を信じていいのなら、 劉慶忌は劉光の没年のうちに即位したということになります。 漢書 は機械的に死去翌年を初年としたのか、あるいは漢朝の手続き上か何かの名目的な初年を書いているのでしょうか。
[234] 「長沙元年造」銘の文物がいくつかあるようです。
[230] >>205 のように先行する文献が年代を特定していてもそれを知らずに時期不明とするものがあり、 元号でない紀年が知られてこなかったことがうかがわれます。
[231] 様式からの検討は前漢時代とする程度しか見当たらず、 各文献がどの王か特定した理由ははっきりしません。
[233] 長沙王はこの2人の他にも多数います: https://data.suikawiki.org/tag/3893/graph。 この2人が挙げられているのは、 初代王だからでしょうか。 吳芮と劉発の間にも数代あったのに候補に挙がっていないのは不審です。 国名を使った紀年だから建国から数えたと考えるのは早計で、 この時代に建国紀元の用例は確認されていません。
[189] 誤写なのか入力ミスなのかOCRの誤読なのか、 原型に一番近いのは >>188 でしょうか。
[185] 該当し得る周陽侯は少なくても3人います >>99: https://data.suikawiki.org/tag/4995/。
[315] 三國史記/卷29 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B729
前漢孝宣帝詢十七年
五鳳元年
[316] >>315 年表の先頭で、 時期を表すため特例で漢の皇帝、孝宣皇帝劉詢の即位紀年が元号の五鳳と併記されています。 これ以後の年には漢の元号だけがあります。
[18] 周王やそれ以前の帝王の即位紀年は、 周やそれ以前の時代の史実の追求という通常の歴史学的意味で重要なことは言うまでもありませんが、 それだけにとどまらず、 仏誕・仏滅、 神武天皇の即位、 古代朝鮮の王の即位、 といった古代の出来事の時期の説明に使われてきた、 アジアの思想史の共通記述言語でもあります。 その理解のためには旧説・訛説も必要となってきます。
[327] 近代日本の代表的な朝鮮史研究者今西竜は、 檀君についての研究の中で、
と指摘しました。 >>326
[332] これは檀君以外にも適用できることで、 古代史研究には無益でも史学史、思想史、神話・伝承史の研究の基礎として重要なのですが、 その後俯瞰的、網羅的な研究がほとんどなされることなく現在に至っているのは遺憾なことです。 断片的には、諸分野の研究者が諸研究の中で取り組んでいます。
[265] 甲骨文字資料には後の東洋の日時表示の原型がいくらかみられます。
[266] 文頭に日干支 (だけ) を書くことがしばしばありました。 殷の甲骨文や西周の金石銘にみられます >>236。 釈文では日干支とそれ以後の本文の間に「、」や「。」を補うことが多いです。
[268] 文末に「惟何年」のように即位紀年を書くことがしばしばありました。 殷の甲骨文や西周の金石銘にみられます >>236。
[272]
殷契佚存
壬午
才 (在) 五月隹 (惟) 王六祀肜日
とあります。 >>271
[270] 尚書 洛誥は先秦時代から伝わるものとされますが、
戊辰,王在新邑,烝,祭歲:文王騂牛一,武王騂牛一。王命作冊逸祝冊,惟告周公其後。王賓,殺、禋,咸格,王入太室裸。王命周公後,作冊逸誥,在十有二月,惟周公誕保文武受命,惟七年。
とあります。 >>269
[273] 王国維は >>272 >>270 の文末の「隹王六祀」「惟七年」 を王の即位紀年としました。 >>269 (観堂集林 巻一 洛誥解) その直前に月番号があり、文頭には日干支があります。
[278] https://nagoya.repo.nii.ac.jp/record/8108/files/jouflh_35_35.pdf #page=7
[123] 小臣艅犀尊 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%87%A3%E8%89%85%E7%8A%80%E5%B0%8A
隹(唯)王十祀又五:商王继位的第十五年。不同于周代的“王十又五祀”,商代都记作“王十祀又五”的形式,另如《版方鼎》的“唯王廿祀又二”。
[313] 昭和32年度 国立国語研究所年報, NetCommons, , , https://repository.ninjal.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=21&item_id=1185&item_no=1 #page=166
「13月」の合字がある
[320] p045.pdf, https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/2230011/p045.pdf
[238]
甲骨文字の時代 (殷の頃)、
十二支が既に使われていました。
[239] 殷の時代、 季節は春と秋でした。 甲骨文字に夏と冬はみられません。 >>242 p.204
[240] 周の時代、 おわり (終) を意味する「夂」 が、 1年の終わりである冬の意味で用いられるようになり、 秦の頃「冬」 の字となりました。 >>242 p.204
[241] 古くは日没が日界だった >>242 p.180 といいます。
[139] ochiai.pdf, , https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/577pdf/ochiai.pdf
[140] 殷代天文暦法に対する貞人集団の関与 : 殷王室における貞人集団の役割についての新考察, 高久 由美, , , https://unii.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=21&item_id=145&item_no=1
[155] 西周後期の共和年間からは史記の表で時期が確定されており (>>33)、 現在までおおむね定説となっていますが、それ以前の諸王の年代には諸説あります。
[321] 歷代三寶紀/卷一 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%AD%B7%E4%BB%A3%E4%B8%89%E5%AF%B6%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E4%B8%80
[322] >>321 にある「周武王元年己卯」は朝鮮の文献でたまに使われているようです。 関連: 檀君紀元
起周武王元年己卯訖秦二世敗歲甲午。其間九百三十三年。
とのことです。 を基準に、 間に933年ということで934年遡ったところが。 しかし十二支が合いません。 この近くで己卯年を探すと、 914年遡ったところが (y~4179)。 (この20年ずれは檀君紀元も参照。)
[159] 姬昌简介_中国周王朝奠基者姬昌个人资料-人物介绍, , http://www.renwujieshao.com/lishi/zhouchao/jichang.html
周文王七年(公元前1056年),周文王崩,葬于毕原。
[160] 帝辛 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E8%BE%9B
公元前1046年(武王元年,周文王十五年),
[161] 先秦文系年注析丛书 《逸周书》文系年注析, http://www.bbtpress.com/bookview/7509.html
[130] tani.pdf, , https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/617/617PDF/tani.pdf
[135] jor043_1_1.pdf, , https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/153939/1/jor043_1_1.pdf#page=4
[137] jic058_071.pdf, , https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/66659/1/jic058_071.pdf
[134] ›¡4/‰gŒ{/’ÓŠ¹ - yosimoto.pdf, , https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/586pdf/yosimoto.pdf
[133] 04.賴文隆 金文「 弭」字考—兼論弭器斷代問題.pdf, , https://cart.ntua.edu.tw/uploads/root/%E6%88%90%E6%9E%9C%E7%99%BC%E8%A1%A8/%E5%87%BA%E7%89%88%E5%88%8A%E7%89%A9/%E6%9B%B8%E7%95%AB%E8%97%9D%E8%A1%93%E5%AD%B8%E5%88%8A/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AB%E8%BC%AF/04.%E8%B3%B4%E6%96%87%E9%9A%86%20%E9%87%91%E6%96%87%E3%80%8C%20%E5%BC%AD%E3%80%8D%E5%AD%97%E8%80%83%E2%80%94%E5%85%BC%E8%AB%96%E5%BC%AD%E5%99%A8%E6%96%B7%E4%BB%A3%E5%95%8F%E9%A1%8C.pdf#page=45
[136] v06p173.pdf, , https://www.cuhk.edu.hk/ics/journal/articles/v06p173.pdf
[138] 月相正名及西周王年考 - OJHS20140200000_97939222.pdf, , https://pdf.hanspub.org/OJHS20140200000_97939222.pdf
[157] 周 - Chinese Text Project, Donald Sturgeon, , https://ctext.org/datawiki.pl?if=en&res=634793&remap=gb
[19]
西周代陝東出自者「周化」考
[144] 春秋戦国時代は東周および諸侯の即位紀年が使われました。
[145] 史記の表 (>>33) が基礎的な資料となっており、 大枠ではそれが現在の通説となっていますが、 その後の研究で訂正されている部分もあります。
[147]
中文版维基百科には一部の人物記事に紀年の表があります。
[303] 日本語版ウィキペディアは魯国の一部の君主にだけ紀年表を掲載しています。 >>302 一部、史記とは違う新しい説を採用しています。 中文版とも春秋とも範囲が違います。
[163] 東洋史論集 - 35_p001.pdf, https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/25837/35_p001.pdf
[164] >>163 金石銘には「何年」しか書かれていないので、どの王の時代かが問題となる。
[319] 史記東周紀年の再編について - 国立国会図書館デジタルコレクション, , https://dl.ndl.go.jp/pid/3140735/1/1
[318] 「原左氏傳」と清華簡「繫年」における卽世と卽位 ─「春秋經」の正月卽位法の再検討に及ぶ ─, NetCommons, , , https://tohoku.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=33&block_id=46&item_id=135390&item_no=1
[324] 中国戦国期年表, , https://www.shuiren.org/senshin/nenpyo-s.html
[128] takatori.pdf, , https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/619/619PDF/takatori.pdf#page=3
秦簡、漢簡。元号名なく年数だけが書かれている。
[314] [論文] 漢代暦運説の形成と数理, 武田 時昌, , , https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=41&item_id=2849&item_no=1
[283] lit52_001.pdf, , https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/173919/1/lit52_001.pdf
[299] 王紅亮:也說《清華簡·繫年》的“周亡王九年”-复旦大学出土文献与古文字研究中心, http://www.fdgwz.org.cn/Web/Show/1773
[274] 竹書紀年は伝説時代以来の各帝王の即位紀年を使っています。
[307] 「帝堯元年丙子」 と即位紀年と干支年の併記らしきものがあります。 >>306 この1箇所だけ干支年があって不審です。
[308] 朱右曽注に、干支紀年法は当時未成立のはずでおかしいという旨が書かれています。 >>306 併記の形式の成立史からみても不審です。
[301] 春秋 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B#%E4%BD%93%E8%A3%81
[285] Paper Template - 41.pdf, , http://xiaoan.web.fc2.com/dongyahanxue/paper/no7/41.pdf#page=2
[31] 史記は表として各王の即位紀年の対応関係をまとめています。
[96] その後の研究により訂正されるべき点もありますが、 漢初までの紀年の復元の出発点として重要です。
[33] 卷十四 十二諸侯年表 第二 と 卷十五 六國年表 第三 に、 周共和元年から秦の滅亡までが掲載されています。 おおむね前者が春秋時代、 後者が戦国時代ですが、 現在の時代区分とは少しずれています。 >>7, >>20
[34] 12諸侯年表には、 周と、 魯, 斉, 晋, 秦, 楚, 宋, 衛, 陳, 蔡, 曹, 鄭, 燕, 呉の13諸侯、計14国の欄があって、 期間内の各年に「君主元年」や年数などが書かれています。 >>7 (表の作りとしては、この表が一番単純明快です。)
[37] 6国年表には、 周と、 秦, 魏, 韓, 趙, 楚, 燕, 斉の7国、計8国の欄があって、 期間内の各年に「君主元年」や年数などが書かれています。 8国以外の国はいずれかの欄に「君主元年」のみ書かれています。 >>20
[46] 年単位で、月日は書かれていません。 年始の違いは表にあらわれていません。 (大半が重なる期間を同じ年とみなしているのでしょう。)
[36] 元年の欄には前紀年の年数は書かれていません。 前年に前王死去や新王即位の記事がある場合もあれば、 何もない場合もあります。 >>7, >>20
[38] 重祚によって元の紀年に復帰した事例や、 新たに称元しなおした事例がいくつかあります。 新称元時には「名前後元年」と書かれています。 >>7, >>20
[40] 秦の恵文王は秦公即位元年に 「秦惠文王元年」、 秦王即位元年に 「初更元年」とあります。 >>20
[39] 始皇帝は秦王即位元年に「始皇帝元年」とあって、皇帝即位前後で書き分けられていません。 >>20
[97] 12諸侯年表は「真公濞十五年,一云十四年」と2説併記されている箇所があります。
[47] 卷十六 秦楚之際月表 第四 に、 秦の滅亡から漢の成立までの期間がまとめられています。 この表では殆どの欄に即位紀年でなく即位からの月数が書かれています。 >>21
[48] 前半は、 秦, 楚, 項, 趙, 斉, 漢, 燕, 魏, 韓の計9国について、 秦の二世元年からの各月の欄があります。 >>21
[55] 前半の秦の欄に二世元年7月から七月、八月、九月、と月が書かれています。 1月は「端月」、 9月の次の閏月は「後九月」と書かれています。 年始は10月で、「三年十月」のように年月が書かれています。 3年10月の「九月」の次は4年の10月になるはずですが、 「十月」とだけあって年が書かれていません。 >>21
[56] 前半の他国の欄には蜂起の月にその旨があり、 それ以降の月に二、三、四と月数が書かれています。 月数は12を超えても加算されていき、閏月もありません。 >>21 これは経過月数を数えたもので、暦月ではないのでしょう。
[51] 前半の楚国の欄は新王擁立のたびに月数がリセットされていて、計3つあります。 3回目が楚の懷王で、秦の二世2年6月の隣にあります。 そこから二、三、と続き、十二の次が秦の二世3年4月の隣にあります。 その次が「二年一月」で、二、三、四、と八 (秦二世3年12月) まで続きます。 >>20 「月」とは書かれていませんが、「二年一月」があるのでこれは年月を表すと解釈するしかありません。
[65] 前半の漢の欄は「二十七」月、秦の二世3年9月の次の「十月」と同じ月に、 「漢元年」と併記されています。 >>20
[50] 後半は、 分置があって計20国について、 やはり各月の欄があります。 >>20
[52] 後半の楚国は前半の続きで「九」 (楚懐王2年9月) から始まりますが、 同じ月に「義帝元年」ともあります。 その次が二、三、四と続き、十で義帝が項羽に滅ぼされて終わります。 >>20 「月」とは書かれていませんが、前半に引き続き、年月を表すと解釈するほかありません。
[53] 後半の漢国は「正月」から始まり、 「二月」、「三月」と続きます。 「九月」「十月」「十一月」「十二月」「正月」「二月」 と、最初の2年間は何年か書かれていません。 その後 「九月」「後九月」「三年十月」「十一月」「十二月」「正月」 と続き、同じようにして 5年の「後九月」で表が終わります。 >>20
[54] 前半は秦にだけ「月」、後半は漢 (と諸侯王の「一月」) にだけ「月」を書いているのは、意味有りげです。 義帝元年を書いているのも敢えてのことでしょうが、 秦王子嬰の降伏のタイミングと義帝の死去のタイミングのために秦の4年、漢の2年がなく、 漢2年相当の年がどの国にも書かれていません。 この歪な構造も一因となって、 この表の意図の理解には諸説が生じました >>66。
[57] 後半その他の国は、 はじめのうちは前半と同じように経過月数が書かれています。 >>21
[59] 楚の義帝または漢によって諸侯王が置かれた国は、 最初の月にその旨の記事があり、 以後「二」、「三」と続きます。 「十二」の次が「二年一月」になります。 後半に漢は閏月が2回ありますが、諸侯王には1回もありません。 >>21
[62] 月数表記と年月表記の2種類があるのですが、使い分けはよくわからないところがあります。 楚が分置した地域でも月数のものと年月のものがあります。 主に漢に従ったため長続きしたところが年月になっているのでしょうが、 西楚の項籍も年月になっているので、 単純に漢方かどうかということでもありません。 12ヶ月に満たないところはどちらの表記のつもりなのかがはっきりしません。
[63] 衡山王吳芮は四年の「十二」の次に「十三」があります。 その次の月に長沙王となってリセットされています。 >>21 これは13月なのでしょうか?
[76] >>66 は楚や項羽や漢の年月は実際行われた紀年、年始を記述したものとみています。 「漢元年」も10月にかかれていますが、実際よりも遡った位置にあるとしています。
[77] 義帝元年からの楚の月は、戦国時代の楚の暦を延長したものと一致します。 >>66
[100] 卷十七 漢興以來諸侯王年表 第五 には前漢の (史記執筆当時に至るまでの) 各諸侯王について、 元年、 「二」、 「三」、 と書かれています。 建国当初からの異姓諸侯王も、 皇帝の家系の劉姓の諸侯王も含まれています。 >>101
[102] 表の記載内容は概ね規則的に見えますが、微妙に表現に揺れもあったりして案外複雑です。
[104] 出来事の一部は月や月と日干支が書かれていますが、書かれていないものも多いです。
[103] 初期の一部は表4と重出していますが、人名表記の法則性が少し違うので、 似て非なる名前に見えたりもしています。 表4は月単位、表5は年単位で、 表4の年始・月配置の情報は表5に入っていません。
[105] 同じ人が他の土地に転封されることがたまにあります。 紀年は前の数え方を引き継ぐ場合と、 新たに元年に戻している場合があります。 規則性は見えません。 (当時実際に行われたものなのでしょうか?)
[121] 諸侯王が皇帝に昇進する例もあって、その場合は即位紀年はリセットされて皇帝の元年になります。
[106] 再転封で元の土地に戻ってきて、最初の紀年が「復活」するケースもあります。
[107] 高祖功臣侯者年表第十八, 惠景閒矦者年表第十九, 卷二十 建元以來侯者年表 第八, 卷二十一 建元以來王子侯者年表 第九 >>108, >>109, >>110, >>111 の各表には、 漢の列侯が示されています。
[165] 各封国について、封じられた列侯の「元年」がいつで、 何年経過した後に次代の「元年」、あるいは国が廃された、 といった事項が書かれています。
[166] 記述方法はおおむね定型文ですが、たまに例外があります。 廃された後に復活したような例もたまにあります。
[167] 諸侯王に昇進する例もいくつかあります。年数は引き継がれていません。
[113] 漢書 卷十三 異姓諸侯王表 第一 は漢元年一月から[漢四年]九月まで月ごと、 [漢]六年から[孝文][後元]七年まで年ごとの、 異姓の諸侯王の表です。 結合点の[漢]五年は列が年単位ですが、記事内に月が書かれていることもあります。 内容は史記の表4、表5とおおむね同じです。 (なお年始が10月ではなく1月になっています。) >>112
[119] 史記の表4は初年に「元年」表記がなく表5は初年に「元年」と書かれていますが、 漢書表1では「元年」表記はありません。 表1前半には「二年一月」のように、 [漢]五年には「四年」のように、 後半には「五」のように書かれているのが諸侯王の年月になります。
[120] 表1前半には漢に従った諸侯だけでなく、 楚に封じられ漢に従わなかった諸侯も、項羽を含め、 掲載されています。 しかし史記表4と違って義帝の欄はありません。
[122] 史記と1年程度ずれた年が書かれている者が何人かあります。 結合点の漢5年近辺で年始の扱いをうまく扱えず誤算したり、 即位年から数えるか翌年から数えるかを違えていたりするようです。
[114] 漢書 の他の表には劉姓の諸侯王や列侯がまとめられていますが、 史記の表とは構造が違っています。 「元年」表記はなく、 一部に年数は書かれていますが紀年とも経過年数とも取れるようなものです。 明確に諸侯や列侯の即位紀年と言い得るものは見当たりません。
[282] 7-02.pdf, , https://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?research/shirakawa/file/7-02.pdf#page=5
14月
#page=22
[284] cks_041_017.pdf, https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/61115/cks_041_017.pdf#page=6
[289] 睡虎地秦簡 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E7%9D%A1%E8%99%8E%E5%9C%B0%E7%A7%A6%E7%B0%A1
廿五年閏再十二月丙午朔辛亥
[290] 漢字研究ブログ: 字典「再」, , http://kirara0048.blogspot.com/2017/08/blog-post_11.html
「閏再某月」は二回目の月(閏月)のことで、秦簡にも同用法が見られる。
元年閏再十二月丙午。 元年閏矛,《銘圖》17668-17669;戰晩
[311] 東大中国思想文化学研究室の住人さんはTwitterを使っています: 「ただし、春秋時代の置閏法は後世のものより大雑把ですので、冬至の来る月は若干前後します。 陳美東氏による推算では、荘公七年は正月が建子月となっており、冬至は正月に来ていたようです。……ちょっと安心。 ※画像は『中国科学技術史』天文学巻(科学出版社、2003年)p.55より。 https://t.co/3PcXKEikXE」 / Twitter, , https://twitter.com/UTokyo_chutetsu/status/1630186531184050178
[129] 科学図書館, , http://www.cam.hi-ho.ne.jp/munehiro/science/scilib.html#kodai
[244] () https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/145882/1/jor015_2_235.pdf
[245] () http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1952/pdf/195205.pdf
[246] () http://fomalhautpsa.sakura.ne.jp/Science/IijimaTadao/shina-kinen-utf.pdf
[247] () https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/66659/1/jic058_071.pdf
[256] 春秋左氏伝の暦日研究 () http://wwwd.pikara.ne.jp/tomoro-chan/
[257] () https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/61003/cks_040_b001.pdf
[258] 科学図書館 () http://www.cam.hi-ho.ne.jp/munehiro/science/scilib.html#kodai
[259] 春秋暦(魯国暦) 置閏検討 (by 現代定朔/閏(年末)計算との比較) () http://www.wagoyomi.info/syunnjyuu/syunnjyuu01.html
[260] 春秋暦 () http://www.wagoyomi.info/syunnjyuu/
[261] 春秋暦(魯国暦)の復元 () http://www.wagoyomi.info/syunnjyuu/syunnjyuu.html
[262] () https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/2230011/p045.pdf
[263] 漢文学習資料【中国史年表】 () https://www.rockfield.net/kanbun/shiryo/docs/
[98] 25_1.pdf, https://www.jstage.jst.go.jp/article/jhsj/25/157/25_1/_pdf/-char/ja
[74] 在位年與西曆對照表 - 搜索结果 - 维基百科,自由的百科全书 ( 版) https://zh.wikipedia.org/w/index.php?search=%E5%9C%A8%E4%BD%8D%E5%B9%B4%E8%88%87%E8%A5%BF%E6%9B%86%E5%B0%8D%E7%85%A7%E8%A1%A8&title=Special%3A%E6%90%9C%E7%B4%A2&go=%E5%89%8D%E5%BE%80
[6] 「
薮内清著作集 第二集 p.
[12] 史記/卷015 - Wikisource (, ) https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B7015
[13] 「漢字の成り立ち」を語る際、まず第一に『ある漢字の意味は、必ずしもその字の字形と関係があるわけではない』ことを明確に認識しなければならない|nkay|note, https://note.com/nkay/n/n749b4ac54acb
睡虎地秦簡《語書》は冒頭に廿年(秦始皇20年=紀元前227年)とあり、秦統一前に書かれたものです。
[89] 涇陽王 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%87%E9%99%BD%E7%8E%8B
以「壬戌年(公元前2879年)」為元年。
[78] tani.pdf, , http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/617/617PDF/tani.pdf
[64] sinsa.pdf, , http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/629/629PDF/sinsa.pdf#page=30
[30] https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=64559&file_id=162&file_no=1&nc_session=ki2uk5bk11jgra3hs2ge29r5b4%20target=
[90] cks_029_001.pdf, https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/61078/cks_029_001.pdf
[4] cks_007_001.pdf, https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/60793/cks_007_001.pdf
[81] cks_040_b001.pdf, https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/61003/cks_040_b001.pdf
[79] cks_038_115.pdf, https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/61140/cks_038_115.pdf
[91] cks_045_b001.pdf, https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/61027/cks_045_b001.pdf
[92] cks_041_017.pdf, https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/61115/cks_041_017.pdf
[95] 1_80.pdf - ToyoKotengakuKenkyu_1_80.pdf, , https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/2/25405/20141016151615965536/ToyoKotengakuKenkyu_1_80.pdf
[131] 年号以前.pdf, , https://researchmap.jp/satoshin257/social_contribution/2632600/attachment_file.pdf
[132] 对西周诸王王年的最终修正意见, , http://www.xml-data.cn/GXMZ/html/c97d8eb1-298a-464b-8318-a9c3addf31a6.htm