[1227] 命禄 (旧字体: 命祿) は、 日本の私年号の1つです。
[1226] 命録と表記する現代の文献もありますが、 誤植の可能性が高いと考えられます。
[343] 読みは 「めいろく」 >>278, >>281, >>1690 や 「みょうろく」 とされます。
[321] 天保年間の松浦静山の 甲子夜話 に、 後奈良天皇の時代に食禄という偽号があったと記載があります。 >>489
[322] 比定年とこの時代の研究状況から、字形の似た命禄を誤った可能性が高そうです。 本書成立までのどの時点で混入した誤りなのかは検討を要します。
[327] 平成時代の研究者千々和到の論文では、 >>489 の内容を紹介しています。食禄については、誤りだろうとし、 私年号の表には掲載していません。 >>324
未刊甲子夜話 第一 巻之七
【一四】 水戸御撰鎌倉志、光明寺ノ条ニ、寺寶勅額二枚、 一枚ハ 後土御門天皇宸筆、祈祷ノ二字ナリ、裏ニ福徳二年 辛亥九月吉日トアリ、祈祷堂ノ額ナリ、福徳ノ年号不審、 恐ハ誤彫タル歟。
善筑曰、コノ頃
ハ、何ナル故カ、東国別ニ年ノ 偽号有テ是ヲ用ユ、福徳ハ迺東国ノ偽号、其元年ハ正ニ延 徳二年庚戍ニ当ル、然レバ福徳二年辛亥ハ、正ニ延徳三年 辛亥ニシテ、後土御門帝即位廿七年トス、然レバ筑カ云ケ ル事誣ナラズ、筑何ニ拠ル所カ、又水戸御撰ハ、其頃ハ未 ダ及バザル所有シカ。 後士御門ノ 御時ヲ云 又偽号ニ弥勒ト云アリ、元年ハ丙寅ニシテ、永正三年丙寅 トス、後柏原ノ朝、又食禄ト云アリ、元年ハ庚子ニシテ、 天文九年庚子ナリ、後奈良ノ朝、サレバ皆足利権柄ノ間、 東方ノ偽号ノミ。
予因テ云フ、世ニ万歳ト呼デ、 三河ノ農夫烏帽素袍ヲ着テ 舞フアリ、歌詞ニ弥勒十年辰ノ歳ト唱フ、是マサシク弥勒 十年ハ偽号ノ謂ナリ、サレドモ弥勒元年ハ永正三年丙寅ニ シテ、十年ハ永正十二年乙亥ナリ、辰歳ニ非ズ、若クハ予 ガ万歳ノ詞ヲ誤聴セシ乎。
鎌倉光明寺勅額裏年号之事
水戸御撰『鎌倉誌』の光明寺の条には、 寺宝の勅額二枚あり、一枚は後土御門帝の宸筆、”祈祷"であるという。 裏に福徳二年辛亥九月吉日とある。 祈祷堂の額である。福徳の年号は不審である。恐らくは誤って彫ったためであろうか。
善筑が言うには この頃〔後土御門の御時をいう〕は、どのような訳か東国では別に年の偽号があってこれを用いていた。 福徳はつまり東国の偽号で、その元年は正に延徳二年庚戌に当る。 なので福徳二年辛亥は、正しくは延徳三年辛亥で、後土御門天皇即位二十七年の年である。
さて、善筑の言ったことは偽りではない。善筑は何に拠ったのであろうか。 また水戸御撰はその頃にはまだ及ばない所があったのであろうか。
また偽号に弥勒というものがある。元年は丙寅で、永正三年丙寅とする。後柏原朝のときである。 また食禄というのもある。元年は庚子で、天文九年庚子とする。後平城朝のときである。 なので皆足利の権柄の間に、東方で偽号がつかわれた。
予はこれから思った。 世に「万歳!」と呼んで、三河の農夫が烏帽子素襖を着て舞うということがある。 歌詞に弥勒十年辰の歳とある。これはまさしく弥勒十年の偽号のことである。 しかし弥勒元年は永正三年丙寅で、十年は永正十二年乙亥である。 辰歳ではない。もしくは予が万歳の歌詞を誤聴したのであろうか。
(甲子夜話三篇)
[366] 昭和42年の 日本私年号の研究 は 資料1から資料12まで掲載していました。 >>25
[400] 昭和53年の中山正義の調査では板碑用例が全3件 (すべて埼玉県所在)。 >>408
[98] 現在ではその他にもいくつかの用例が知られています。
[79] 益子町史 第6巻 (通史編), 益子町史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9644566/1/233 (要登録)
[84] 板碑入門, 小沢国平, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2980023/1/78 (要登録)
[120] dai61syu.pdf, , https://kyoiku.pref.ibaraki.jp/wp-content/uploads/2023/04/dai61syu.pdf#page=57
[592] 源光寺(げんこうじ)の帰依(きえ)仏塔(ぶっとう) - 33shinengoudaimokuitabi.pdf, , https://www.town.matsubushi.lg.jp/www/contents/1296690628507/files/33shinengoudaimokuitabi.pdf
[59] >>58 は、結城白川氏と佐竹氏の争いを岩城氏が調停し、 白川氏方から岩城氏方に誓書が出されたのに対し、 岩城氏方の竹貫氏が白川氏方に発給した誓書です。 >>54
[381] 国上寺の僧侶快範が、天正10年に上州簸輪の柳沢寺で書写させ、 巻8から3冊の不足を天文14年に補写したものです。しかし巻9と巻10は現存しません。 >>372
[380] 国上寺は、昭和33年時点でも日本国新潟県西蒲原郡にあります。 >>372
[385] 柳沢寺は、日本国群馬県北群馬郡榛東村山子田に現在も所在する寺かもしれません。 >>384
[389] 奥書に従えば、命禄年間に7巻までは上野国に所在していたものですが、 天文14年には越後国に所在していた可能性がかなり高いと思われます。 当用例は命禄が少なくても事後的に越後国に伝播したことを強く示唆しますが、 同時代的に伝わっていたかまでは判然としません。
[379] の解題は、 >>347 を紹介し、 私年号で命禄2年は天文10年と説明しています。 >>372
[390] 一連の奥書の中で天文と命禄が混在しているのが興味深いところです。 よく見ると「月盛坊」と「命禄」が、 「月昌坊」と「天文」が結び付いていることがわかります。
[391] 第一巻は2つの筆があって、二月と四月の2種類の完了日があるのが奇妙です。 他の巻も末尾に付け足すように于時何年と書かれているところを見ると、 他の巻の命禄2年・天文10年も必ずしも文途中の四月とセットになっているとは言い切れなくなります。
[382] 令和時代に至るまで、 私年号研究の文脈で紹介した事例は知られていません。
現在の榛東村山子田を中心とした一帯と推定される。
応永二三年(一四一六)六月三日付上杉憲基寄進状(明月院文書)で、上野守護領長野郷のうち賀島氏跡の「簸輪本郷」が鎌倉明月院に寄進されている。
[90] 下野 益子町地蔵院落書に命禄三年 (天文11年) の用例があります。 >>207
[255] の報告書は、 >>703 を紹介し、 命祿は私年号で、辻年表によると命禄3年 = 天文11年としています。 >>249
[532] 群馬県史 資料編 8 (中世 4 金石文), 群馬県史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9644240/1/447?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7 (要登録)
[37] らくがき昭和史, 李家正文, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2982479/1/97?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84 (要登録)
[528] 益子歌集 : 風土と歴史と歌, 白木綿社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1347570/1/31?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84 (要登録)
[22] 益子歌集 : 風土と歴史と歌, 白木綿社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1347570/1/32 (要登録)
[23] 益子歌集 : 風土と歴史と歌, 白木綿社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1347570/1/88 (要登録)
[51] 史蹟をあるく, 今野信雄, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12276618/1/100?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84 (要登録)
[576] 天井裏の文化史 : 棟札は語る, 佐藤正彦, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/13284730/1/14 (要登録)
[216] 日本金石文学, 加藤諄, 柴田光彦, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/13246651/1/92?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84 (要登録)
[277] 益子の文化財, 編集者代表: 雨宮義人, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12207206/1/85?keyword=%22%E5%91%BD%E7%A6%84%E4%B8%89%E5%B9%B4%22 (要登録)
[279] 中世和様建築の研究, 伊藤延男, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2428076/1/75?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84 (要登録)
[280] 史跡探訪関東100選 上 (茨城・栃木・群馬・埼玉), 関東歴史教育研究協議会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/13229049/1/68?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84 (要登録)
[281] お仁王さん、こんにちは : いばらきの寺 執金剛神、そして仁王の出自に関する私見を添えて, 小林利喜 写真と文, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12223037/1/95?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84 (要登録)
[282] 中世建築における設計技術(枝割制)の研究, 溝口明則, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3085594/1/83?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84 (要登録)
[283] 資料旧国宝建造物指定説明, 文化財建造物保存技術協会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12421352/1/78?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84 (要登録)
[575] 慈眼堂の所蔵物は関東各地から日光に移されたと考えられています。 >>207
[696] >>695 同筆者別書「永正」「大永」「天文」のころ、 干支年より天文10年のみ該当 >>25
[529] 日光山「天海蔵」主要古書解題, 長沢規矩也, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2937039/1/43?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7 (要登録)
[52] 群馬県史 通史編 3 (中世), 群馬県史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9644421/1/393?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84 (要登録)
[285] 群馬県史 通史編 3 (中世), 群馬県史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9644421/1/393?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84 (要登録)
[256] 上毛及上毛人 (246), 上毛郷土史研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3567436/1/5?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84 (要登録)
[300] 五山版の研究 上巻, 川瀬一馬, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12234829/1/206?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84 (要登録)
[27] , の地域史は、 >>45 を紹介し、 の私年号としています。 >>49, >>44
[10]
江戸時代に現在の千葉県下で出土した墓碑の銘文が命禄だとする昭和時代の説がありますが、
江戸時代の記録では弥勒となっており、何らかの誤解と思われます。
[292] 昭和14年の佐々木信綱の解題は、 >>290 を紹介して、 いわゆる關東僞年號であって命祿三年は天文11年だとしています。 >>289
[299] の目録は、 >>290 を紹介して、 僞年號であって命祿三年は天文11年だとしています。 >>294
[293] 令和時代に至るまで、私年号研究の文脈で紹介された事例は見当たりません。
[288] 本土寺過去帳年表, 森田洋平, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9643502/1/13?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84 (要登録)
[115] , の時点で、 埼玉県の命禄銘板碑は4基知られていました。 >>628, >>53
[316] の時点で、 埼玉県の命禄銘板碑は4基知られており、 うち3基は飯能市外でいずれも命禄3年、 >>313 のみが飯能市にあって命禄2年です。 >>307
[107] の史料集やの地域史は、 >>89 を紹介し、 命祿は私年号であって、 に相当するとしています。 >>615 /159, >>53
[305] 日本国埼玉県飯能市平松の円泉寺に、 令禄の板碑があったとされます。 (令和改元直前) の円泉寺のWebサイト記事に紹介があります。 >>30
[306]
記事は、
飯能の板碑
に記載があるとし、その板碑一覧表の写真を掲載しています。
ところがその写真内では
[314] これをみると令禄は実物を見ないであやふやな記憶による誤解の可能性が高そうです。
[317] 現存しないとなると誠に惜しいことです。
令和に因み令付くの年号板碑が、かつて墓地にあったのですが見つかりません。板碑の半分が不明になっています。
「飯能の板碑」には私年号の板碑が掲載されてはいます。
令禄二年は天文十(1541)年だそうです。
お寺に来られた郷土史家の方に「令禄」の年号を聞くと修験が使用していたのだそうです。
[248] の論文は、 命祿三年は私年號であり、 正式には天文11年に相当するとしています。 >>244
[242] 子安観音と鬼子母神, 三輪善之助, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1233343/1/66?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84 (要登録)
[146] の史料集は、 >>144 を紹介し、 私年号としています。 >>142
[416] 平成20年3月の史料集は、 >>417 を紹介し、 私年号で天文11年としています。 >>415
[123] の史料集は、 >>121 を紹介し、 命禄3年はの私年号と説明しています。 >>42
[137] 昭和9年12月16日の埼玉郷土会第六十三回見学旅行の見所の1つに掲げられています。 >>41
[20] の論文では、 奥書の人名と干支年から天文10年 (よって元年は天文9年) の私年号であるとし、昭和8年久保常晴論文 >>26 所引 >>11 を傍証としています。 >>17
[203] 快元僧都記天文十年条に 「命禄二年辛丑」 とあって、 鶴岡社供僧の相承院快元 ( - ?) が使ったことが知られます。 >>251
[245] 神道大系所収国学院黒川本快元僧都記天文十年条は 「命禄二年辛丑正月」で始まっています。 神道大系編者によると、 黒川本と天理吉田文庫本のみ命禄2年で、他の諸本は天文10年で、 書写時に天文に改めたとされます。 >>258 (神道大系 神社編20 鶴岡)
[104]
平成6年翻刻本は、本文を「
[102] 利用箇所は、本文ではなく年見出しです。年名を書いた時点ではその年を命禄2年と認識していたと考えられます。
[101] 本文は通常の日記であり、命禄の利用に関する特別の意図も感じられません。 著者の快元が個人的意思で使ったというよりは、 鶴岡八幡宮 (あるいは鎌倉) では一般的だったようにも思われますが、 本書からは確証は得られません。
[196]
日本国甲斐国で書かれた
王代記
の天文9年条に、
「命禄ト伊豆曆ニスル也」
とあります。
>>251
[197] 天文8年末頃に流通した天文9年の伊豆暦に、 天文ではなく命禄と書かれていたのでしょうか。 (それとも天文9年末頃に流通した天文10年の伊豆暦でしょうか。)
[97] 日本私年号の研究が引く >>726 は >>196 と同じものではないかと思われますが、詳細不明であり、 内容に若干の齟齬があります。 久保常晴は正確な情報を入手できなかったのかもしれません。
[198] 平成時代の歴史研究者阿部浩一は、 伊豆暦すなわち三島暦に命禄と書かれ、 甲斐国には暦を通じてこの私年号が伝えられたと推測しました。 >>251
[199] 命禄を武田信虎のように公的文書に用いたり (>>205)、 鶴岡社供僧の相承院快元が用いたりした (>>203) (のに他の私年号は使わなかった) のは、 三島暦で伝達されたことが正式な改元との認識に寄与したものと推測しました。 >>251
[208]
そのため命禄以外の私年号が三島暦と関係するか否かは断定を避けました。
[227] 伊豆暦と三島暦が同じものである根拠は示されていません。 その可能性は高いですが、 一方で時代と地域によっては三島暦が版暦一般の代名詞にもなっていたように、 通称と実態が一致しないケースもあるので断定は危険です。
と主張しました。 >>258
[225] 案1と案2の違いは命禄の伝達媒体が暦書かそれ以外かだけです。
[226] いずれにしても命禄の建元者は三島神社だと断定しています。 しかしその根拠は示されていません。
[236] 更に、 武田信虎が三島神社の改元情報をいち早く得て天文9年庚子に命禄元年を採用した (>>235) のに対して、 一般社会は改元情報を翌年採用した暦に基づいて天文10年辛丑に命禄元年辛丑や命禄2年辛丑を用いたのであろうとしています。 >>258
[237] 案1/案2との関係がわかりにくいのですが、改元伝達ルートは一般人には無関係で、 一般人は甲州暦書が発行されて初めて命禄を使い得たという主張でしょうか。
[238]
勝俣鎮夫は同論文で元二年説を唱えていて、
改元の翌年が元年で2年であると主張しています。
[265] 王代記にあるのは命禄と「する」 (刷る?) ということだけです。 これはいろいろな解釈の余地があります。
[275] いずれにしても他の年に書かないこの記事を書くような、何らかの特殊性が筆者には感じられたということです。
[153] 王代記 の記事は何らかの同時代の根拠を元に書かれた可能性が高いと推測されますが、 同年中に書いたのか、 何年かしてから遡って書かれたのかは検討を要します。
[132] >>124 は1つの仏像の胎内銘でありながら、3つの紀年で2つの違う元号が使われています。
[80] 今川氏領国での用例です >>258 (静岡県史・資料編7)。
[133]
平成時代の歴史研究者渡部恵美子は、
公年号と私年号の併用は私年号の呪術性ゆえに意図的になされたとしました。
>>492
[134] しかし3つの紀年の記主の違いは考慮されていません。 たしかに異様ではあるのですが、 単純に各人が銘文を用意したタイミングで使った表記がそのまま残っただけとも考えられます。 「二」と「貳」の違いからも表記を統一しようという意思がなかったことがわかります。
[135] 「天文九年」という表記は、天文への改元から時間が経ちすぎているので、 1年ずれたまま使われ続けていたとは考えにくいです。 日付が2月ということは準備段階では1月や前年という可能性もあり、 年始や旧年中ゆえにうっかり前年を書いてしまった可能性を検討するべきかもしれません。
[540] 甲斐志料集成 3, 甲斐志料刊行会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1240842/1/290?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7
[542] 大日本地名辞書 中巻 二版, 吉田東伍, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2937058/1/322?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7
[543] 山梨県歴史の道調査報告書 第8集 (若彦路), 山梨県教育委員会文化課, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12064136/1/37?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7 (要登録)
[78] 甲府市史 通史編 第1巻 (原始・古代・中世), 甲府市市史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9540836/1/248 (要登録)
[205] 武田信虎の用例が残っています。 戦国武将の私年号用例は珍しいです。
[231] これら (>>229 >>201 >>230) の命禄元年は天文9年庚子とされます。 >>258, >>594
がその判定の理由のようです。
[87] 古文書フルテキストデータベース - 検索, https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/w10/search?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84&resultoption=%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9%E8%A1%A8%E7%A4%BA&page=1&itemsperpage=200&sortby=jc_date&sortdesc=false&sortitem=%E5%92%8C%E6%9A%A6%E5%B9%B4%E6%9C%88%E6%97%A5%EF%BC%9A%E6%98%87%E9%A0%86
1 命禄元年八月二日 不可出之候者也、 < 命禄元年 >八月二日○朱印「信」字 :hover「天文九年」武家家法Ⅱ 350 4/225
[8]
久保常晴は、
これらが命禄の最初期の用例であることから、
武田信虎に関係して命禄が制定されたのではないかと考えました。
[235] 勝俣鎮夫は、 三島神社が (>>209) 天文9年7月に天文から命禄に改元し、 武田信虎は徳政的政策の一環として即座に採用したと考えました。 >>258 7月改元とするのは武田信虎文書が根拠でしょうか。 なぜ「7月」「即座」と推測できるのか理由は不明です。
[260] 渡部恵美子は、 天文9年7月4日と命禄元年7月10日がわずか6日差で、 この6日の間に命禄が伝わったのか、 それとも公年号と私年号を意識的に選択したのか、 と疑問を示しました。 >>594
[261] これは不思議な疑問点です。 公年号と私年号の利用期間が重なっているなら使い分けの疑問は当然生じてきますが、 武田信虎文書では綺麗に分かれています。 ならばその間に切り替えがあったと考えるのが自然です。 にも関わらず、6日間に改元を知った説を否定する材料を何も提出せずに意識的に選択した説を取るのでは、 結論ありきと批判されても致し方ありません。
[232] 渡部恵美子は、 11月27日文書は寺社向けなので寺社に近づくために私年号を使ったものとし、 他の2つは直接支配下の地域ではないので効果は疑問であり、 支配したいという希望、願望を託して呪術的に私年号を使ったとしました。 >>594
[262] これもかなり強引に自説に寄せた解釈と言わざるを得ません。 それならば3通とも「私年号を使用中だった寺社や民衆に媚びるため」 という共通の理由で私年号を使ったというほうがまだ説得力が感じられます。 支配下になかったとするのも論拠がほとんど示されておらず、 むしろこれらの文書を使って当時の勢力図を分析するべきところではないでしょうか。
[263] 甲斐国の王代記には記述がありますが (>>196)、 勝山記にはなぜかこの私年号には何の言及もありません。
[264] 同時期の武田氏配下の武将や甲斐および周辺地域の住民の公年号と私年号の利用状況・分布と統治状況を比べた分析があれば、 武田信虎と私年号の関係性が見えてきそうなものですが、 なぜか研究者らはそこには手を付けていません。
[7] 富士吉田市史 史料編 第2巻 古代・中世, 富士吉田市史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/13205403/1/172?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84 (要登録)
[545] 小海町志 第2集, 小海町志刊行委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3451012/1/159?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7 (要登録)
[397] 長野県史 通史編 第3巻 (中世 2), 長野県, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9540808/1/182 (要登録)
白黒写真あり 一応字形がほぼわかる程度の画質
[556] 甲州古文書 : 新編 第3巻, 荻野三七彦, 斎藤俊六 共編, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2987326/1/60?keyword=%E7%95%B0%E5%B9%B4%E5%8F%B7 (要登録)
[33] 甲斐の地域史的展開 : 磯貝正義先生古稀記念論文集, 磯貝正義先生古稀記念論文集編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9539923/1/78?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84 (要登録)
[38] 富士吉田市史 通史編 第1巻(原始・古代・中世), 富士吉田市史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/13205395/1/260?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84 (要登録)
白黒写真、弥勒説、呪術的元号説
[39] 佐久の交通史, 菊池清人 編著, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12065586/1/39?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84 (要登録)
[66] 国史の研究 総説, 黒板勝美, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1075909/1/87?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84
[287] 山梨県の文化財 : 県指定 第2集, 山梨県教育委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12419473/1/25?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84 (要登録)
[6] 天禄銘の鳥居がありますが、元来は命禄だったと言われています。
[707] 様式: 江戸時代と一見して識別し得る古形。 鎌倉時代例と類似。 「天禄」銘は後補の貫、鳥居全体にそのような古さはない。 >>25
[714] 文政3年編甲斐国志神社部 「命禄元庚午十月日、二位仲書記本願ト刻セリ」。 「天ヵ」は明治3年校訂の部分に示されている。 >>25
[711] 久保常晴の見解: 貫にあったものを転記し、
「命禄」の知識の欠如から、公年号で求めて天禄としたのだろう。
午は子と書体が似て不問にした。
以前は明らかに「命禄」とあったものとして誤りないと信ずる。
>>25
[718] 室町時代の末期には年号の上に于時, 𣆅, 旹が多く用いられ、時のみの例は時代も下る。 この銘は平安時代・鎌倉時代には遡らない、室町時代に留まる。 >>25
[72] https://www.lib.pref.yamanashi.jp/kosyu/kyozai/xls/sitei.xls
[530] 山梨郷土史年表, 山梨郷土研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12193455/1/29?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7 (要登録)
[358] Xユーザーのwil397さん: 「韮崎市岩下 勝手神社の石鳥居。 貫に「天禄元」年(970)とあって最古級の石鳥居と考えられていたが、私年号の「命禄元」年(1540)だったものが、修理の際に改竄されたという。それにしても古い。案内板に「修理以前の古い貫」とあるので、現在の貫とは別材なのだろうが、どこにあるのだろう…。 https://t.co/7rrS81wVqP」 / X, , https://x.com/wil_397/status/1420756251768606729
[28] 勝手神社の石鳥居(山梨県の神社) () http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/jinja/katte.htm
[32] 甲斐の石造美術, 植松又次, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12423973/1/71?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84 (要登録)
[35] 甲斐路ふるさとの石造物, 山梨県, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/13232018/1/70?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84 (要登録)
[36] 山梨県の文化財 : 県指定 第3集, 山梨県教育委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12419476/1/20?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84 (要登録)
[286] 韮崎市誌 中巻, 韮崎市誌編纂専門委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9537849/1/311?keyword=%E5%91%BD%E7%A6%84 (要登録)
[14] 江戸時代後期の偽年号考から引用される年代記に >>12
の記述があるようです。 >>13
[16] >>12 をいつ誰が書いたのかも定かではありません。
[304] 江戸時代の研究者松崎慊堂 (-) の日記に、 >>303 の記述があります。 >>301
[310] 文政13年9月1日に松崎慊堂の目に入った写本の奥書の記述の一部を記録したものと見られます。
[323] 三宝院傳法潅頂私記は治承記ともいわれ、 Web 上にもいくつかありますが、 >>303 のような記述がない別系統の写本です。 続群書類従本の最古の書写奥書は建久元年付となっていて、 それ以前の成立であることがわかります。 >>320
[326] 「権少僧都長厳」については、これと同一人物かは不明ながら、 埼玉県比企郡ときがわ町のの板碑に名前が見えます。 >>325
[328] 十二支が不明となっていますが、他の命禄用例のと年番号と十干が一致しています。
[329] ところが、長厳が命禄3年に書写することは不可能な時間差があります。 従って、
... のいずれかと考えざるを得ません。
[334] 松崎慊堂が見た写本がどのような由来のもので、その後どこに行ったのかは不明でありますが、 >>326 の同一人物説が正しいなら、元は武蔵国で書かれ伝来した可能性が高そうです。
[344] 頃、定超・定耀の二人が記録したところを集成したもの >>338 とされます。
[345] いくつか固有名詞がありますが、他と同定できるような有力な情報が見当たりません。
[158]
年代比定および弥勒私年号との関係性については、弥勒を参照。
[159] 利用時期については、元年 () 7月10日から 3年 () 8月15日 (>>121) までの用例が知られています。
[160] 命禄の現存最古の命禄元年7月10日付武田信虎文書の直前の天文9年7月4日付武田信虎文書があり、 武田信虎がこの期間に利用を開始した可能性が高いと考えられます。 ただし、これが命禄自体の発生の時期とは限りません。
[161] 天文9年から天文11年の間(だけ)に命禄を使ったと記述した年代記があります (>>11)。 その根拠は不明ですが、命禄用例が再発見されてゆくより前に既にそう記載出来たということは、 命禄を実用した同時代の人の資料に基づいている可能性が高そうです。
[162] 同時期の公年号の利用状況については十分な調査がなされていませんが、 現時点では武田信虎が命禄を利用している期間内に公年号を使ったという事例は知られていません。
[163] 鶴岡八幡宮では、同一の本のある写本で命禄2年表記のものが、 ある写本で天文10年となっている事例が知られています。 原本が現存しませんので原形がどちらか断定できませんが、 どちらも単記であって併記や訂正の形ではないということは、 命禄から天文に校訂して書写されたと考えるのが自然です。 当時は公年号との併用ではなく単独で命禄で利用していたのでしょう。
[182] 少なくても現存用例については次のことがいえます。
[192] 2年も3年も8月まで使われる、というのは何か意味ありげです。
[164] 中世東国私年号の例に漏れず、用例の多くは何らかの形で仏教に関係する媒体です。 このため命禄という私年号自体が仏僧が作ったとか、 仏教界で使われたといった説が唱えられてきました。 ただし、確実に言えるのはそうした媒体でも多く使われ、多く現存するというところまでです。
[165] 東国の代表的な寺社である鶴岡八幡宮や日光に用例がみられることは注目されます。 ただし、日光の所蔵品は周辺地域からの移入も含まれ、当時日光で使われたかどうかは検討が必要です。
[166] 他の私年号の用例が知られる香取神宮、鹿島神宮や、 三島暦に関係する三島神社に関係する用例は報告されていないことは注意されます。
[167] 甲斐国の武田信虎の用例が複数確認されています。 戦国大名の私年号用例は極めて異例であり、 武田信虎による建元とする説もあるくらいです。
[168] 一方で今川氏の統治下の遠江国やまったく武田氏の権力の及ばない東国各地で用例がみられることは、 命禄の利用が武田氏の政治的・武力的な影響力と無関係であることを表しています。
[169] 武田信虎(ないしその周囲)が命禄を創案した、制定した、推進した、といった説は、 最初期の用例が武田信虎であることを最有力の傍証としていますが、 確実な証拠はありません。
[193] 2年以後の用例が甲斐国にないことは、むしろ否定材料となります。 武田信虎の失脚とも時間差があり、うまく説明できません。
[170] そうでなくても甲斐国が発生地である、という説は、最初期の用例が甲斐国周辺であるため説得力を持ちますが、 伊豆暦の件もあって、なおも検討を要するところです。
[171] 三島神社が命禄を制定したとする説は、 伊豆暦に命禄が記載されたとする記録より、 伊豆暦 = 三島暦とし、 その発行者がこれを建元したと考えるものです。 しかし、 三島神社で発行した三島暦であると断定しかねること、 伊豆国で命禄の用例が確認されていないこと、 2年、3年で用例分布地域が重ならないこと、 三島神社が命禄を意図的に制定したと考えるべき説得力ある根拠が提示されていないこと、 といった問題があります。
[172] 伊豆暦が命禄の伝播の媒体となったこと、 あるいは信頼性を担保する存在だったこと、 の蓋然性は低くないと考えられますが、 これが初報だったかどうかは、慎重に考える必要があります。 現存最古の用例は元年7月ですが、普通は暦は年末年始に流布されるものです。 具体的にいつ (何年版) の暦にどう記載されたかは不明ですが、 天文9年末に発行された天文10年暦に「命禄2年」の表記があり、 年末年始に諸国に流布されたと考えるのが最も自然です。
[180]
順礼が伝播の媒体だった、とする説については、
他の私年号についても提唱されているところです。
[189] 現存用例に限れば、という限定付きになりますが、 2年後半の用例が見られないこと、 元年、2年と3年の用例の分布地域がほぼ重ならないこと、 は伝播の問題を考える上で非常に重要と考えられます。
[190] 年始から用例が出現するのは、暦が伝播媒体とする説を強く支持する要素となり得ます。
[191] 年ごとに地域が異なるのは、地域の強い信念で意図的に使われ続けたわけではなく、 伝播があって一時的に利用されたとしても、それが定着・持続しないということになります。
[173]
発生の理由については、江戸時代以来、
中世東国私年号の全般に天変地異と飢饉に原因を求める説が通説的地位にあり、
命禄にもそれがいわれてきました。
[174] ただし、その機序は論者によって違いがあります。江戸時代の 偽年号考 は、僧侶が創作し、一般人がそれを流布させたと考えました。
[176] 昭和時代の 日本私年号の研究 は戦国時代の私年号全般におおむねその説を踏襲しつつも、 命禄は武田信虎の創案の可能性を指摘し、 領国支配という要素を組み込もうとしました。
[175] 千々和到は創出と拡散を明確に区別し、 拡散の土壌となる改元を求める社会環境と理解しました。
[177] 命禄という元号名は近代以来長く弥勒と関連付けて語られてきました。 従ってこの元号名が選ばれ、受け入れられた背景にも弥勒信仰があるとされています。 しかし、命禄と弥勒を関連付ける同時代の根拠はこれまで提示されていません。
[178] なお、命禄の出現直前の天文9年4月には朝廷で改元の動きがありましたが、 実現しませんでした (天文9年未成改元)。 久保常晴は、これを私年号の発生し得る社会環境の根拠の1つとして指摘しました。 千々和到は直接言及していませんが、 公年号の改元事由が知識として広く知られ、改元があるべき事情のあるにも関わらずなされていないとき、 公年号の改元と誤認された私年号が公式の改元伝達ルートに乗り得ると論じました。 命禄もまた改元デマである蓋然性は低くない上に、 その大元は未成改元の動きである可能性も捨てきれないところです。
[179] 命禄が呪術的目的で利用されたとする説がありますが、 一般に公年号の改元が一種の呪術的性格を持って理解され得る、 という以上の明確な呪術性は、これを支持する十分な根拠がありません。 宗派も目的も異なり、必ずしも宗教的とは言えない様々な媒体や内容を持った用例があり、 それらを1つの同じ「呪術」で説明できるとは思えません。