[16] 永清 (y~1026) は、 日清戦争時の台湾で成立した自称国家の武装勢力台湾民主国の元号でした。
本項は歴史的事項を説明しています。本項の内容の一部または全部は、現在の状況とは異なるかもしれません。
(なお本項の内容の一部または全部は、互換性または歴史的連続性のために現在も有効な場合もあります。しかし新たに利用することは避けるべきです。)
[28] Wikipedia は読みを 「えいしん」 としています。 >>1 根拠は不明です。
[34] 元号名の意味は、 「永載聖清」 >>8、 「永屬大清」 >>3、 「永遠の清国」 >>5 など、 清国への永遠の従属を表すものと解されています。 根拠となる史料を示したものはなく、文字の解釈と思われます。
[90] 黄虎旗的故事 (>>88) p.122 には 「永戴盛清」 という表現がありますが、その出典は不明です >>87。
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10.24 11.6 11.21 日本軍が遼東半島に上陸日本軍が金州を占領日本軍が遼東半島旅順を占領 1895 年(明治 28 年) 1.20 ... 国の年号を永清元年(永遠の清国)と制定 5.28 横浜丸一行の船団淡水沖に到着、清国淡水砲台から砲撃を受け基隆沖に移動。
[26] 元年は、日本明治28(西暦1895、清光緒21)年です。 >>1, >>3, >>6, >>8
[50] 用例が確認できるのは元年だけです。 2年以後が使われたかは不明です。
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とくにフランス艦隊台湾民主国の年号として"永清,が定めら|郷が割譲されたこと に激憤したのである( 5 )。が台湾を訪れるとの報は( 8 )、唐巡撫ら在台れ、光緒二 十一年(一八九五年)が永清元年した。しかしながら、五月五日に至り日本政たる ...
[65] ウェブ検索によると中文Webサイトで 「台湾民主国水清元年」 のように書くものが極少数ありました。 いずれも同系統の記事とみられます (まったく同内容ではない)。 OCR 経由の誤植でしょうか。
[19] 台湾は清国の植民地で、 原住民の他に多数の清国人 (漢民族) が居住していました。 台湾海峡にある澎湖諸島は、 台湾よりは長いものの、 中華王朝の統治の歴史が浅い島嶼でした。 に始まった大日本帝国と大清帝国の日清戦争では、 日本軍が澎湖諸島に進攻しました。
[75] (清光緒21年3月23日)、 大日本帝国と大清帝国は下関条約に調印しました。 大清帝国は台湾および澎湖諸島を大日本帝国に割譲することを認めました。 >>74
[17] 、 大日本帝国と大清帝国は下関条約の批准書を交換しました。 これによって下関条約が発効しました。 >>74 おそらく国際法上はこの時から台湾と澎湖諸島が日本領となったのでしょう。
[78] >>74, >>77 (一説 >>2)、 台湾北部の基隆の船舶上で両国行政官による台湾接受の手続きが行われました。 あるいはこれが法的な実効支配 (?) の開始とみなされるべきなのかもしれません。
[79] 実際には日本政府が台湾で行政権を行使可能な状態となるまで、 しばらく時間がかかりました。 、 施政開始の行事が行われ、 以後この日は始政記念日とされました。 、 台湾総督府は全土の平定を報告しました >>74。 その後も小規模な反乱がありました。
[76]
法的にはこれらの手続きによって台湾が日本領となったことに付随して、
台湾の紀年法は清の元号の光緒
(y~681)
から日本の元号の明治 (y~1) に、
暦法は清国暦 (時憲暦) から和暦 (グレゴリオ暦)
にと改まったと思われます。
実際的には現地清国人
(やその指揮下に置かれた台湾原住民)
は清の元号と清国暦の利用を継続したと思われます。
[18] 、 台湾在住の清国人のグループは、 台湾民主国の独立宣言を発表しました。 、 台湾民主国は独立式典を実施しました。 >>2
[35]
独立宣言には、
「永清元年五月日」 >>9,
「
[48] 中國歷代年號考 は、 臺灣史, 李震明に収録されている唐景崧の電文の末尾書類に 「永清元年五月」 とあるのを引きました。 >>46
[20] Wikipedia >>2, >>3 や 近代諸元号現象 >>61 は、 に改元としました。
[29] Wikipedia は、 前の元号を光緒としています。 >>1, >>3
816 ページ
... 奉正遡通作居藩気脈相通無異中土照、常厳備、不可稲渉練虜民間有限立名競楽 、衆滋事、篇、端仇殺者照距類治、罪従、是豪湾清内政結外援魔列シ道兵輸次第 等群、常強可致、雄時東南未管非発民之達也。比晩論。全豪湾知之。永清元年五月日* v 赤常時豪南に在った劉永顧 ...
5月25日:台湾民主国総統に唐景崧就任、台湾民主国が正式に成立。永清と改元
[68] 独立宣言とはいわれるものの、文中には清国の200年の統治から独立するといえども、 清国からの恩に感謝し、 これからも正朔を奉じ、 屏藩となるものである (感念列聖舊恩,仍應恭奉正朔,遙作屏藩) と隠すことなく属国宣言していました。
[21] 「恭奉正朔遙作屏藩」 >>2, >>4 とは、 正朔を奉ずる、 つまり中華秩序にのっとり清国の属国として、 清国暦を使うことを意味します >>2。 元号名もまたこれを端的に表現したものといえます (>>34)。
[22] 属国宣言する独立宣言とはおもしろいですね。 それにしても、 元号も含めての暦のはずで、 独自に建元しながら正朔を奉ずるというのも矛盾です。 正朔を奉ずるとは慣用句化していて必ずしも実態を表すとは限りませんが、 紀年法が違っていても月日が同じならそれでいいということはないでしょう。
[36] 台湾現地の清国人にとっては日本領になるなんて寝耳に水で、 台湾はそのまま清国の植民地であるべきだったでしょう。 しかし清国中央政府は領有権を大日本帝国に譲渡してしまった以上、 現地民の要望には応えようがありません。 名目上の独立は苦肉の策だったのでしょう。
[62] 元号名で清への従属を示しつつ、 改元 = 自立で清への反発が表されているとする説もありました。 >>61
[27] 台湾民主国は清国の台湾統治官らが中心となって組織されました。 独立当初は従前の清国の統治機構をそのまま利用したものと思われます。 行政上は一時従来の光緒にかわって永清を使っていたのかもしれません。
[88] に国立台湾博物館で開催された台湾民主国の展示の図録 黄虎旗的故事 () には、 永清の具体的な用例は一切掲載されていないそうです。 >>87
ミュンヘン大学教授ウイルト( Albrecht Wirth )は北京駐在ドイツ公使ブラン 1 建国 当時の制度台湾独立にともない、新しい年号として「永清」が定められ、光緒二 十一年(一八九五年)は永清元年となった。国旗には藍色の地に黄色の虎の図案を ...
台湾民主国は永清元年... ...夏暦五月初二日~仁明〕に樹立された。... ...建国の目的 は倭の臣民になりたくないとの正義によるものであり、民族抗戦を誓い、それを 行なった。中華民国三十四年(西暦一九四五年)十月二十五日に台湾は光復し、再び ...
その他、年号・国旗・官庁の名称および官職名などは、むしろ清朝的である。「 永清」という年号の「清」は明らかに清国を指しているし、これは独立通電で いっている「永載聖清」よりとったものであろう。国旗については、清朝の皇族 が「竜旗」であることから、「竜虎」という言葉より「虎」をと第三篇台湾民主 国の ...
五、年号を永靖(永清)と定む。六、台北を首府とする。新田隆信「台湾民主国の 成立と法的地位」富山大学紀要経済学部論集>第一〇号抜刷、七ページ。履。( 5 ) 川崎三郎『日清戦史』巻七、八五~六ページ。蔡爾康等編『中東戦紀本末』上篇、 ...
台湾独立運動史の一断章 黄昭堂, Yuzin Chiautong Ng 一七九第三篇台湾民主国の 樹立とその崩壊れを鎮圧した。論者は一八九五年年末から翌年二月までの一連の 抵抗運動と台湾民主国との関連には触れず、二月をもって台湾民軍の潰滅と みなし、台湾民主国の滅亡としているが、民軍の存在を問題に ... 台湾民主国は永 清元年.
台湾独立運動史の一断章 黄昭堂, Yuzin Chiautong Ng 一八三第三篇台湾民主国の 樹立とその崩壊かし台湾島内で抵抗が継続され、 ... 従来の民主国政府の重要なメンバー である劉永福が依然として台湾民主劉永福の軍隊も台湾民主国国旗を掲げ、 台湾民主国に所属していることを示した。唐総統の逃亡後、劉永福の鎮守する 台南で発行された郵便切手や股份票には「台湾民主国」と銘打ってあり、台湾 民主国政府の権力の継承を意識していたこと を物語っている。 しかしながら一方、劉永福らの行動にはこれを反証するようなものもある。 たとえば台湾民主国股份票の発行日付や官銀銭票総局発行の銀票(紙幣)には、台湾 民主国の年号である「永清」を使わずに清朝の年号である「光緒」を使用しており、また劉 永福の対外公文では、そしてまた時には台湾内部に対する公文の場合にも、台湾民主国 ... しかし、このような曖昧さは南部独得のものではなく、北部における唐景絵も 同様であった。これは台湾民主国そのものが、清朝官憲と台湾士紳の合作による ものであるという性格に由来するものであるというべきであろう。台南に設立 された ...
[66]
鄭氏政権が滅亡して台湾が清国に征服された後も、
毎年のように清国 (異民族) 支配に反対する漢民族の武装蜂起が
20世紀近くまで繰り返されてきました。
その中には建元が確認されているものも何例かありました。
例えば永和と建元した例がありました。
[67] それら先行事例は旧支配層である明の再興を掲げたものもあったものの、 南明や鄭氏政権の行政・軍事組織を引き継がない新規の反乱というべきものだったようです。 台湾民主国と永清は旧支配層による反乱という点がそれらと大きく異なっていました。 同じ漢民族の蜂起でも、 反清勢力と親清勢力で方向性が違います。
[24] 永清が実際どの程度使用されていたのか不明ですが、 台湾民主国の崩壊までに消滅したものと思われます。
[23] 、 台湾民主国の最後の根拠地の台南に日本軍が入城しました。 、 大日本帝国台湾総督府は台湾の平定を宣言しました。 、 台湾民主国を称する最後の反乱が平定されました。 >>2
[80] (清暦光緒21年5月12日) (一説5月11日 >>256)、 台湾民主国の首謀者唐景崧は、 清国へ逃亡しました。 直後台北政権は崩壊し、 住民は日本軍の入場を歓迎しました。 >>2
[37] 、 劉永福は台湾民主国総統に就任し、 台南政権を樹立しました。 台南政権は台湾民主国を称しながら、 永清ではなく光緒を使いました >>8, >>72。
[82] 台湾民主国平定後の反乱の多くも光緒を使いました。 >>73
[47] 中國歷代年號考 は、 使用された期間を 「1895年五月」 としました >>46。 北部の本拠が壊滅した時点で使われなくなったという見解でしょうか。
[52] Wikipedia 中文版は、 台湾民主国の大総統の劉永福が清国へと逃亡したを終了日としました >>3。
[31] Wikipedia 日本語版は、 終了日を明記しませんでした。
[30] Wikipedia は、 次の元号を明治としました。 >>1, >>3
[32] Wikipedia 中文版は、 大日本帝国の臺灣總督府の始政式があったを明治の開始日としました >>3。
[83] 台南政権が永清を使ったとする根拠が見つからない限りは、 台北政権の崩壊 (>>80) をもって終了したと見なすのがよさそうです。
[38] 永清は日清戦争や台湾の歴史の一幕として、 直後の明治時代から現在に至るまでしばしば言及されてきたようです。 数少ない台湾の元号の1つとして、 この方面に興味がある人達の中では有名なようです。 (清国の影響の強い「独立」の永清のほうが、 「独立」性の強そうな永和や天運や大靖よりなぜか知名度が高いようです。)
[39] しかしそのような元号が存在したという事実以上に踏み込んで、 例えばその利用実態を調査したようなものは見当たりません。 遺物がどれだけあるのか (ないのか) 不明です。
[85] 平成時代の近代諸元号現象は、 元号名が明らかに永遠に清国の主権下にあるとの願いを表す反面、 改元という行為自体が清国とも日本とも異なる第三勢力を主張しているとしました。 そして朝鮮半島の紀年法同様に中華体制に対する矛盾した態度が表れていると述べました。 >>84
[33] Wikipedia 日本語版は、 私年号としました >>1。 正統政権と認められないので公年号ではないから私年号という見解でしょうか。
[49] 中国歴代年号考 は、 清時代の元号として、 永清を挙げました。 中日甲午戰争論集 第56頁, 1954年にもあるとしました。 >>46
[53] この本は中国大陸の元号を集めており、 漢民族以外の王朝の元号も収録していますが、 朝鮮や越南や日本は対象外のようです。 しかし大日本帝国台湾時代の永清は収録されています。
[54] 日本の私年号のリストにはあまり収録されていません。
[57] Wikipedia は日本語版、 中文版とも台湾の元号のリストに収録し、 清時代と日本時代の間に台湾民主国時代を設けて永清を掲載しています。 (日本統治時代の反乱の元号は日本時代に含めていて、 扱いが違っています。) 日本の実質的統治が始まる前であることによるものでしょうか。 >>55, >>56
.. に黄虎を描ける旗を國章と爲し、唐は推されて大統領(臺灣民主國總統)國の創設 を企っと為り、左の宣言を公布したり蓋し此の建國潜謀は専ら陳李同の書に成蘭 建謀り、五月初旬、臺灣民主國を建設することを企て、年號を改めて永清元年と ...
.. 石一共和國 S 建設之企七年號名永清元年之稱七唐景松推七總統大統頜)之為 o 化 至托女。故心權山總督位二十八年六月二日基隆洋上橫濱丸 S 船中化工、清國全權 李經芳七臺灣授受老完了七同六月八日我軍基隆港老陷 Q 、唐景松位淡水第一章總 ...
45 ページ
... 局を藻南に設け紙幣を發行させ.砲唱を修め戦備に力め、年號を永清元年と稱し 、國章は藍地に黄色虎の旗を以てし、唐は推されて總統となり宣言書を欧米に 配布せしも、我が近衛師団斯くて光緒二十一年(皇紀二千五百五十五年、我明治二 十.
xvi ページ
... 副総統に台湾士紳邱逢甲が推され、内閣に相当するも省巡撫衙門は総統衙門と なった。台湾省の首府であった台北が民主国の首都となり、台湾色の地に黄色の 虎の図案を配したク虎旗ガが制定され、十一年(一八九五年)は永清元年になった。
xvi ページ
台湾民主国の年号として〃永清. "が定められ、光緒二 ^総^の X 亡をもゥて 日本は 、海軍大将樺山資紀を台湾総督に任命し、また台 2 さきに芝罘において日清講和 条約の批准交換を終えた本軍によって、あえなく撃滅されるに至るのである。
常時の巡撫唐景継は豪湾防務都韓劉永顧と謀つて、五月初旬に豪潟民主國を建設 するの計を立て、年競を永清元年と稲し、藍地に黄度を描いた旗を國章と* - - *月 八日には基隆を陥れ、一撃に豪北し、唐は推されて大統領(豪湾民主國、を著ら ...
同日廃棄權主 N 15 歲專書* 「僕 + 羯摩金春拳頭堡壘中環、李將地帯広義者將棋 電磁懸永清元年五月當時刻水龍も左前の論宗を装し、孫海人を現動し、反抗を取 《てさせやうとしたものである。依舊稱號來減物物到水照得後約第比、保與王龍 的 ...
57 ページ
文告,闡明建號永清,意在不忘大清;並願「恭奉正朔,遙「當時,張之洞對臺灣紳民的 尋求外援雖極力相助,但對作屏藩」。其文告全文如下:臺民级促地借用西方的「民主 」、「自立」和「總統」等名臺灣民主國總統前署臺灣巡撫布政使唐為曉論事:目, ...
58 ページ
刑部主事俞明震為督辦,禮部主事李秉瑞、副將陳季同為會辦,主管內政事務,不置 專員;下設善後總局臺灣清內政,結外援,廣利源,除陋習,鐵路、兵船次第籌辦,富强可致,雄峙東南,未嘗非臺民之幸也。特此曉諭全臺知之。永清元年五月日臺灣紳民在內外 ...
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翌年五月,簡精華九六年六月)起而抗日,改元「天運元年」。其改元保模仿率眾襲擊 鹿港,阻斷南北交通;九月,詹振攻擊臺北近郊的「臺灣民主國」的年號「永清」,可說 是「臺灣民主國」抗錫口、南港;十月,鄭吉生、柯 ... 根據馬關條「太靖」,正式稱帝。他如民國元年五月「土庫事件」的領約第五款的 規定:「本約批准互換之後,限二年之內,日本袖黄朝自稱「臺灣國王」,民國三年五月 「六甲事件」的首准中國讓與地方人民願遷居讓與地方之外者,任便變賣所有領羅臭 頭 ...
193 ページ
开辟抗日基地,改元大靖,自称皇帝,经常袭击嘉义日军。当年 8 月 12 日,面对台南 日军大规模扫荡,利用险要地形与敌周旋,冲出重围。 1898 年 5 月,联合郭金水、林 添丁等,袭击北港埔姜琉等地的警察派出所。 9 月,与林添丁各率 1000 人合攻嘉义东 保三 ...
229 ページ
25 日,义军正式树起铁国旗,柯铁被推为首领,称“九千岁” ,改元天运元年。日军连遭 挫败,对云林各村群众进行残酷报复,大肆屠杀,杀害群众 3 万余人。为解救群众的 危难,严惩日军,柯铁从大坪顶义军队员中挑选 300 人, 10 人一小队, 50 人一大队,共 6 个 ...
342 ページ 初闻清廷配酿割台之说后,丘逢甲愤刺手指,以血书成“拒倭守土” 4 个字,以号召乡里; 四处奔走,筹集经费,并“倾家财以为兵饷” ... 25 日以清朝为正朔的“台湾民主国”成立, 推台湾巡抚唐景崧为总统,国号“永清” ,以示“永戴圣清” ,丘逢甲自任副总统兼大将军、 “ ...
428 ページ
25 日“台湾民主国”在台北宣告正式成立,国号“永清” ,以示永远属于清朝之意。以蓝 地黄虎图案为国旗。在台北设议院。在成立大典当天,唐景崧致电清廷报告就任情形: “台民闻割台后,冀有转机,未敢妄动。今已绝望,公议自立为民主之国,于五月初二日( ...
235 ページ
... 不能謂這期間的台灣是獨立的。[ 5 ]其後的叛亂也常嘗試建立王朝。例如一八六二 年(清同治元年)至翌年之間的叛亂,有戴萬生稱為東王,其同黨林慧最自命為南王。一 八三二年(清道光十三年)的叛亂,則有張內自封為開國大元帥,並改年號為天運」。
244 ページ
一八九六年(明治二十九年)至九八年之間,佔據雲林鐵國山(大坪頂)頑強展開抵抗的柯 鐵,將一八九六年改元為「天運元年」。從改換年號來看,可說是以台灣獨立為目標, 但未承襲台灣民主國年號「永清」, 可見 並非台灣民主國之恢復,或是台灣民主國運動的延長。一八九七年(明治三十年) ,嘉義 發生了武力抗日運動,住民立黃國鎮為「皇帝」,將年號定為「太靖」;一九一二年( ...
[64] 13_63.pdf, https://www.jstage.jst.go.jp/article/asianstudies/13/1/13_63/_pdf/-char/ja#page=3