[377] かつて中央アジアの一部を統治した拓跋部系の国家である代、 北魏、 西魏、 東魏と、 その流れを汲む北周、北斉は、 多くの時期に独自の元号を建てていました。
[1] 北魏の歴史を記述した史書魏書は、 北魏の建国より前の拓跋部の歴史も書いていました。
[2] 最古の年から、君主の即位紀年が使われました。 拓跋部の大人、 代国の代王の即位からの年数を数えていました。
[3] 干支年や魏の元号との対応が書かれている年があり、 治世年数を足し合わせていくとちょうど合致します。
[5] 代国の中期以降は「以何年為元年」のような改元 (称元) 起事があり、即位年から元年をしていたことがわかります。
[6] 退位や重祚による不規則な王位継承があったのも一因でしょうが、 あるいはこの時期は実際に即位紀年が使われていた記録が残っていたのかもしれません。 逆に初期の、漢化が進んでいない時期の改元記事のない綺麗に整った即位翌年改元は、 史書の編集時に決められたものかもしれません。
[7] 代国の後期には、 「後元年」 のような後元方式の即位紀年が2回ありました。 漢などの後元とは違って、 在位中の改元ではなく、 重祚の2回目の即位紀年が後何年とされました。
[421] 魏書の帝紀部分は元号名なしの年号で書いていました。 列伝部分に、 「烈帝之前元年」 (y~1928) >>425、 「穆帝三年」 (y~1921) >>420、 「平文二年」 (y~1923) 「烈帝元年」 「平文三年」 「烈帝元年」「二年」「五年」 「烈帝之五年」 >>426、 「昭帝七年」「十年」「十二年」 (y~1922) 「烈帝六年」 >>424、 「平文皇帝四年」 >>478 と書いていました。
[429]
魏書
の帝紀を引いた日本の学術論文で、
「
[451] 百度百科 の記事のいくつかは即位紀年を使っていました。 (公元や他の王朝の元号しか書かない記事の方が多いです。)
[438] ウィキペディア も以前は即位紀年 (と西暦年の併記) を使っていましたが、 その後西暦年のみに改められました。 >>441, >>442, >>443, >>444, >>434, >>440, >>445, >>446, >>448 特定の編集者が1日で除去したようですが、 理由は不明です。
[431] 魏書 によると、 昭皇帝の時代、 子の桓皇帝と穆皇帝と3分割して統治しました。 桓帝は昭帝の時代に死去しました。 昭帝の死後穆帝が再統一しました。
[432] 魏書 は昭帝の時代を元年から数えた後、 穆帝の統一時代を元年から数えていました。
[433] 魏書 の列伝部分に、 「桓帝十一年」 とありました。 >>426, >>430
[427] 水經注 に、 「皇魏桓帝十一年」 とありました。 >>422, >>428
[436] 桓帝の元年は昭帝の元年と同じと解されました >>428, >>435。 (y~1965)
[467] 桓帝の統治した中部拓跋部は、 死後、子の拓跋普根に引き継がれました。 拓跋普根は穆帝の統一までの間、統治しました。 拓跋普根はその後代王になりましたが、 1ヶ月で死去しました。
[468] 統治が1年に満たず年始をまたがないため、 魏書 には代王の拓跋普根の即位紀年がありませんでした。
... と書いたものがありました。 >>470 「鲜卑拓跋普根元年」 は代王の年でした。 (y~1964)
[469] 桓帝同様、 中部拓跋部の大人即位からの拓跋普根の即位紀年があっても良さそうですが、 わずか1年だったためか、 用例は見当たりません。
[474] もし桓帝の即位紀年が当時から使われたものだとすれば、 穆帝も3分割時代に同様の即位紀年を使っていた可能性があります。 そうだとすると穆帝の即位紀年の比定には注意が必要です。
[8] 代国は最後の王の時代にだけ、 建国 (y~1012) という名前の元号がありました。 漢風の国家制度が整えた時代で、 元号制定もその一環とされます。
[9] いかにも建国紀元風な元号名ですが、 代国は王位継承がないまま滅亡したため、 代替わりの改元を想定していたのかは不明です。 同時代にも前の時代にもこの周辺で建国紀元を用いた国は (新の始建国を除けば) 見当たらないので、 単なる元号名に過ぎないとも思われます。
[10] 北魏の最初の元号は登国で、 建国を意識しつつ少し変えてきた感があります。
[476] ウィキペディアに 「代の拓跋什翼犍も、王位を称していた時代は同様に元号を用いずに紀元のみ改めるという手法を用いており、」 とあり >>475、 代国最後の王拓跋什翼犍が即位紀年を用いたとしました。 しかし同じ ウィキペディア の他の記事には、 代王に即位したと同時に建国と建元したとありました >>477。
[12] 魏書は代国の滅亡の翌年を (拓跋珪紀の) 元年とし、 9年まで数える即位紀年的なもの (y~1930) を置いていました。 >>11 その次が代王に即位した登國元年で、 10年に当たります。 (即位紀年のような書き方ですが、 その9年間、何かに即位していたとは書かれていません。)
[423] 魏書に 「太祖之七年」 「太祖九年」 >>426、 「太祖七年」 >>424 とあり、同じ時代を指すと思われます。
[14] 北魏の時代の後期には、3人の皇帝が乱立し、それぞれの元号を使いました。
[15] いったん統一されたものの、再び東魏と西魏に分裂しました。
[17] 西魏は、その最初の皇帝の時代、独自の元号を使いました。
[381] 北魏の時代にも、 元号名の前に書かれる国名には 「大代」 が使われ続けていました。 >>380
[338] 敦煌の壁画に 「大代大魏四年、五年(公元538年、539年)」 と書かれてあるとの記事。
[339]
記事内の写真によると実際には
「
[340] 「大代大魏」と国名らしきものが二重に書かれているのは興味深い点です。
[344] 「大魏二年歲次 甲子十一日囗朔廿九己酉」 >>342, >>349 と書かれたものが紹介されていました。
[345]
実物の写真を見ると「
[382] 南斉書 には同時代の他の勢力という扱いで北魏の記事がありました。 元号もいくつか紹介されていましたが、 不完全かつ不正確なものでした。
[18] 西魏は、その2代目、3代目の皇帝の時代、 元号を建てませんでした。
[19]
禅譲によって西魏にかわって成立した北周の初代と2代目の皇帝も、
はじめ元号を建てませんでした。
北周の2代目の皇帝の第3年目に、
最初の元号が建てられました。
[201] 西魏は宇文氏の後見で成立していた王朝で、 とりわけその2代目、3代目の時代は完全な傀儡政権だったとされています。 北周はその宇文氏の王朝でしたが、 初代は傀儡だったとされています。 西魏から北周の初期は事実上宇文氏が統治した一連の時代と見なせます。
[134] 北京圖書館所蔵周故柱國大將軍雍州刺史河內戾公墓誌拓本に、 「以周」之元年歲維星紀三月己酉薨於長安。四月壬申葬於石安之北原。」 とありました。 >>133 星紀は丑、。
[152]
21世紀の中華人民共和国の文化財保護当局の文書は、
ある碑について、
「
[155] 21世紀に中華人民共和国で発行された墓誌集に、 「拓跋宁墓志 北周二年九月廿二日」 が収録されました。 >>154 原表記は不明。
[113] 中華人民共和国の浙江大學が購入し所蔵する墓誌の拓本に、 「魏後三年正月封燕郡公,元年二月十八日薨,二年九月卅曰窆于小陵原陵谷。」 とありました。 >>114
[115] 21世紀の浙江大學のデータベースは、 これを 「魏後二年」 のものとし、 公元は空欄としました (不明を表すものでしょうか)。 また、内容に史書と齟齬があるとして、偽造が疑われるとしました。 >>114
[116] 「魏後」の元号名と「二年」を組み合わせたものでしょうか。 「三年」はどう理解してのものでしょうか。
[117] 仮に北周の建国直後に元号名なしの即位紀年が用いられていたとするなら、 魏後3年から元年に改元されて死去し、 次の2年になって葬られたとなります。 だとすると、 北周2年に当たります。
[118] 後世の偽造品なら敢えてこのようなわかりにくい紀年を選ぶ必然性がなく、 「周元年」 なり、 他の時代の元号なりを書けば良さそうなものです。 むしろ当時の紀年を記した貴重な遺物である可能性を考えるべきかもしれません。
[84] 北周の時代、 庾信による碑が多数作られました。 いくつかは実物が現存しています。 また庾子山集に碑文が収録されました >>83, >>57。
[85] 中國哲學書電子化計劃本庾子山集によると、 陜州弘農郡五張寺經藏碑 に 「後魏二年」 (「後魏一年」 とするのは OCR 誤読 >>88) 「周元年」 とありました。 >>83
[86]
中國哲學書電子化計劃本庾子山集によると、
庾信の周太將軍崔說神道碑
に
「魏前元年」
「
[90]
中國哲學書電子化計劃本庾子山集によると、
庾信の周車騎大將軍婁公神道碑
に
「
[65]
庾信の豆卢恩墓碑は、
のものとされますが、
あるWebサイトによると
「保定二年」
「普太二年」
[66] そのWebサイトによると、 文苑英华 所収の碑文は現物に照らして誤りが多く、 「魏元年」とされたのは実際「魏前元年」だとされました。 >>64
[79] 文苑英华を引いた中文版维基百科記事には、 「魏废帝元年(552年)」 「魏废帝三年(554年)」 「魏恭帝元年(554年)」 「魏恭帝三年(556年)」 とありました。 >>62
[63]
中國哲學書電子化計劃本庾子山集によると、庾信の
周車騎大將軍贈小司空宇丈顯墓詰銘
に、
「
[97]
中國哲學書電子化計劃本庾子山集によると、庾信の
周大將軍上開府廣饒公鄭常墓誌銘
に、
「
[111]
維基文庫本四庫全書本漢魏六朝百三家集
所収
[120] 中文版維基百科は、 文苑英華 を引いて、 「魏後三年(553年)」 と書きました。 >>119
[100]
维基文库本四庫全書本後周文紀所収の庾信の
普屯威神道碑
に、
「
[52]
日本の昭和時代の論文が
文苑英華
から引いた庾信の
周柱国大将軍拓跋儉神道碑
に、
「
[109]
維基文庫本四庫全書本漢魏六朝百三家集
所収
[69] Chinese Text Project 本 全後周文 が 文苑英華 から引いた 周兗州刺史廣饒公宇文公神道碑 には、 「魏後三年」 とありました。 >>67 (この碑文にも片仮名が混入。)
[102]
维基文库本四庫全書本後周文紀所収の庾信の
[141] 北周時代まで生きた田弘の記録がいくつか残されています。
[143] 百度百科 が引いた 大周使持节少师柱国大将军大都督襄州总管襄州剌史故雁门公墓志 に、 「魏前元年」 とありました。 >>140
[144] 百度百科 は他に、 周書 に 「魏废帝元年」 とあるのを引いて、 「西魏废帝元年」 と書いていました。 >>140
[138] 中文版维基百科は、 「《周書》《北史》作魏废帝元年。墓誌作魏前元年、神道碑作前魏元年。即公元552年。」 と書きました。 >>139 日本語版ウィキペディアは、 「『周書』『北史』では、魏廃帝元年。墓誌では魏前元年、神道碑では前魏元年とする。いずれも西暦552年を指す。」 と書きました。 >>137
[112]
維基文庫本四庫全書本漢魏六朝百三家集
所収
[73]
北周の時代の
大周使持節大將軍故濟北公墓誌
銘文に、
「普大元年,魏後二年,天和六年,」
とありました。
>>71, >>72
[74] それを紹介したWebサイトは 「大统十三年封济北郡王。后二年,降为公。保定二年后」 と書いていました。 >>72 「后二年」は魏後2年の意でしょうか。 2つの墓誌の 「魏後二年」 と 「魏後元年」 のどちらにも 「降为公」 のようなことが書かれていました。 なぜ2年の方を選んだのかは書かれていません。
[59] その墓に葬られた拓跋迪についての中文版维基百科の記事には、 「魏恭帝元年(552年)」 「魏後二年(555年)」 「魏恭帝三年十二月庚子(557年2月14日)」 と書かれていました。 >>58
[78]
北周の時代の
北周驃騎大將軍高唐縣侯乙弗紹墓誌
に、
「普大元年」
[105]
維基文庫本四庫全書本漢魏六朝百三家集
所収
[106]
維基文庫本四庫全書本漢魏六朝百三家集
所収
[108]
維基文庫本四庫全書本漢魏六朝百三家集
所収
[124] 周故开府仪同贺屯公墓志 に, 「魏前二年十二月中」 とありました。 >>123, >>127, >>133, >>136
[160]
中華民国台湾のある論文には、
[128] 周故开府仪同贺屯公之墓志を引いた百度百科の記事には、 「西魏恭帝元年」 「西魏恭帝三年」 ともありました。 >>127
[135] 中華人民共和国の陝西省博物館所蔵 大周使持節少傅大將軍大都督恆夏靈銀長五州諸軍事恒州刺史普安壯公墓誌 に, 「魏前二年八月廿五日」 とありました。 >>133
[244]
中國哲學書電子化計劃所収八瓊室金石補正刊本所収
[44]
隋の時代の墓誌に、
元号年や「
[45] の論文の注釈によると、 それぞれ、、を表すとされました。 >>43
[46] まだ同論文の注釈には、他に
「
[122] 大隋使持節上大將軍四州八鎮諸軍事蘭州刺史海安公之墓誌 拓本に、 「魏前三年,魏後二年,周二年,武成二年」 とありました。 >>121
[126] その墓誌の耿雄に関する中文版维基百科の記事は、 「魏前三年(554年),魏后二年(555年),北周二年(558年),武成二年(560年)」 と書きました。 >>125
[389] 隋書に 「周閔帝元年五月癸卯」 「明帝二年三月甲午」 とありました。 >>388
[61] 隋書 に 「《魏後元年甲子曆》一卷」 とありました。 >>60
[150] 百度百科 のある記事は、 隋书 に 「周元年」 とあるのを引いて、 「北周元年(557年)」 と書いていました。 >>149
[53] 唐の時代の初め頃、 西魏や北周の時代が描かれた周書が編纂されました。
[164] 周書 は、 「魏大統元年」 「十七年」 「魏廢帝元年」 「三年」 「魏恭帝元年夏四月」 「三年」 >>161 (孝閔帝) 「元年春正月辛丑」 「九月庚申」 >>162 (明帝) 「秋九月癸亥」 「甲子」 「二年春正月乙未」 「武成元年春正月己酉」 >>163 と書いていました。
[407] 明帝紀はいきなり 「秋九月癸亥」 から始まっており、 「元年」とはどこにも書かれていませんでした >>162。 明帝の即位は元年9月「甲子」でしたので、 その前にある「秋九月癸亥」は厳密には孝閔帝の時代です。 元号名がないので改元記事もなく、 称元に当たる記事もありません。
[408] 明帝の2年に、 「二月癸未,詔曰:「。自元年以來,有被掠入賊者,悉可放免。」」 とありました。 >>152 この詔が原文ママだとするなら、当時前年を「元年」と呼んでいたことになります。
[398] Wikisource本周書注釈に
武成初進位大將軍 文苑英華卷九四八庾信周故大將軍趙公〈宇文廣〉墓誌銘作「二年拜大將軍」,在武成建元前一年〈五三八年〉。
... とありました。 >>397, c.f. >>399 とあるのはの誤りか。
[404] 周書 に 「孝閔帝踐阼,。二年,」 と書かれた一節がありました。 >>403
[405] 素直に読むと孝閔帝の2年になり、 元年9月に廃帝されたはずなのに不審です。 Wikisource本周書注釈には 「明帝的二年」 のはずで、脱文が疑われるとありました >>403。
[409] 周書 には 「明帝二年」 は出現しますが、 「明帝元年」 「明帝三年」 は出現しませんでした。 (後者は武成元年扱いになるからでしょう。)
[417] 周書 には 「世宗二年」 が3例出現しました >>413, >>414, >>415。 元年や3年は出現しませんでした。
[416] 孝閔帝の即位紀年と思しきものは孝閔帝紀を除けば >>404 の孝閔帝2年だけでした。
[129] 唐の時代、北朝の時代が描かれた北史が編纂されました。
[131] 北史 に 「魏前二年」 とありました。 >>130
[132] 北史 を引用した中文版维基百科に、 「西魏废帝元钦二年(552年)」 とありました。 >>130
[396] 北宋時代の太平寰宇記卷一五五廓州廣威縣條引周地圖記に、 「後魏景明三年,西魏廢帝二年」 とありました。 >>395
[158]
山西通志
の薛孝通の項に、
「
[48]
日本の昭和時代のある学術論文には、
「
[51]
日本の昭和時代のある学術論文には、
「
1つ目は周書が出典で原文は
「
(c.f.
「
明帝の即位年が現在の通説より1年遅れていることに注意。
[55]
平成時代の日本のある学術論文には、
「
[56] ちなみに次のような指摘もありました。 >>54 pp.33-34
現在の感覺でいえば、永熙は北魏の年號であり、大統は
西魏の年號である。北魏と呼ばれる王朝があり、西魏と呼 ばれる王朝があるわけだが、當事者達󠄃にとっては一連の 「大魏」であったことは疑いなく、從って二つの別々の王 朝と見做してはならない。
[266] 西魏から北周初期にかけての紀年を扱ったある中文の論文は、 孝闵帝の即位の年 () の9月に明帝が天王に即位し 「称明帝元年」 した、 更に明帝の3年に皇帝に即位し 「称武成元年」 したと書きました。 >>242
[375]
中国历代帝王年号手册
は、
[23] 中文版维基百科の西魏の元号第1大统 (西魏)の記事には、
元宝炬死后废帝元钦和恭帝元廓都没有自己的年号,因此大统也是西魏唯一的一个年号。
宇文觉取代西魏称帝后,也没有使用年号。直到宇文毓时,从559年八月重新开始使用年号武成。
... とあって、4代元号がなかったとされました。 その間何が使われたかには言及がありませんでした。 >>22
大統十七年(551年),文帝駕崩,太子元欽即位,沿用文帝年号,次年(552年)去年号,称元年。"
登位第三年(554年)二月
恭帝元年四月庚戌(554年),
... とありました。 >>20
554年即位,去年号称元年,
... とありました。 >>32
[82] 中文版維基百科はある人物 (c.f. >>219) について、 人物記事では 「西魏恭帝元年(554年)」 「西魏恭帝二年(555年)」 「西魏恭帝二年二月十七日(555年3月25日)」 「周明帝宇文毓二年(558年)十月十二日」 「西魏恭帝二年(555年)」 と書いていました。 >>80 一覧記事では 「魏後二年(558年),降爵。周二年薨,諡思。」 と書いていました。 >>81 「魏後二年(558年)」 とするのは西暦年の挿入位置を誤ったものでしょうか。
[148] 中文版維基百科はある人物について、 「北周元年(557年)」 と書いていました。 >>147 また別の人物について、 「北周二年(558年)」 と書いていました。 >>153
[25] 日本語版ウィキペディアの西魏2代廃帝 (西魏)の記事には、
元欽の在位中には元号が建てられなかったため、後世の史書では552年・553年を「西魏廃帝元年・2年」と呼んでいる。
... とありました。 出典は不明です。 >>24
[37] 日本語版ウィキペディアの西魏3代恭帝 (西魏)の記事には、
恭帝の在位中には元号が建てられなかったため、後世の史書では554年・555年・556年を「西魏恭帝元年・2年・3年」と呼んでいる。
... とありました。 出典は不明です。 >>36
[27] 韓国語版위키백과の西魏の元号第1대통 (서위)の記事には、
552년 이후 폐제(廢帝) 원흠과 공제(恭帝)는 연호를 사용하지 않고 즉위 후 원년을 선포하였기 때문에 552년에서 556년까지 서위에서는 연호가 사용되지 않았다.
... とあって、2代元号がなく即位後に称元したとされました。 出典は不明です。 >>26
[29] 韓国語版위키백과の西魏2代서위 폐제の記事には、 即位紀年の表があって、 元年 () から3年まで掲載されました。 >>28
[39] 韓国語版위키백과の西魏3代서위 공제の記事には、 即位紀年の表があって、 元年 () から3年まで掲載されました。 >>38
[35] 韓国語版위키백과の北周初代북주 효민제の記事には、 即位紀年の表があって、 元年 () が掲載されました。 更に、
효민제(孝閔帝) 원년 1월 1일
(557년 2월 15일)
서위 공제(恭帝) 3년 10월 5일
(556년 11월 22일)
효민제(孝閔帝) 원년 9월 24일
(557년 11월 1일)
... とありました。 >>34
[41] 韓国語版위키백과の北周初代북주 명제の記事には、 即位紀年の表があって、 元年 () から4年までが掲載されました。 3年と4年には「무성(武成)」の元号も併記されました。 >>40
[31] 韓国語版위키백과の元号記事の対照表には、 「폐제(廢帝)」の元年 () から3年、 「공제(恭帝)」の元年 () から3年、 「효민제(孝閔帝)」の元年 ()、 「명제(明帝)」の元年 () から2年がありました。 >>30
[146] 百度百科はある人物について、 「魏前元年,二年,北周元年,武成元年,」 と書いていました。 >>145 出典は不明です。
[328] 北周の第2代明帝を孝明帝と呼ぶ例は他になく、誤りでしょうか。
[330] 日本の平成時代の論文で1箇所そう呼んだ事例がありましたが、 同じ論文の他の箇所では明帝としており、 誤記と思われます。 この論文にある孝明帝のほとんどは北魏の孝明帝を指していました。
[197] 以上をまとめると、 次のような紀年が現在まで行われてきました。
[198] 西暦年の比定に異説が若干見られますが、 いずれも独立した用例で、 根拠あっての別説というよりは単なる誤記誤解の類でしょうか。 いずれも1年のずれか、 隣接する紀年との混同で説明がつくものです。 広範囲での利用が確認されない限りは (Wikipedia の記述に含まれるものなどは要注意でしょう)、 特に気にする必要もないと思われます。
[199] 元号名のバリエーションが多くみえますが、 国名によるか人名によるかの違いと、 国名の表記揺れ、人名の表記揺れでほぼ説明できます。
[202] 元号がなかったこの時期、 どのような紀年法が使われていたのか、 十分な根拠を示して説明したものは見当たりません。
[368] 資治通鑑や維基百科は元年を称したと書いていますが、 それ以上の根拠は示されておらず、 具体的にどう書いていたのかも明らかではありません。 ウィキペディアは後世の史書では云々としており、 当時どうだったのか何も言っていません。
[203] まず考えられるのは干支年ですが、 干支年は元号があっても併用されるものですから、 特にこの時期に用例が突出しているなどの事情が無い限り、 肯定も否定もし難いです。 (c.f. >>218)
[204] 他の勢力の元号を奉じたとも考えられますが、 西魏や北周の領域でそれが特に多く出現するという報告もなく、 史書等にそれを窺わせる記録もありません。
[205] 傀儡の皇帝達が元号を建てずとも、 事実上の君主である宇文氏が西魏時代から既に元号を建てていたとも考えられますが、 その記録がまったく現存しないのは不思議です。 さほど時代が下っていない北周の金石文や 周書 がそれを隠したとも考えにくいでしょう。
[206] 実は元号があったものの、 皇帝が廃されたときに元号が廃されたことも、 他の王朝ではあったことです。 しかし、その場合も記録を完全に消し去るのは難しいでしょう。
[207] 周書によると、 北周の第2代の明帝は天王でしたが、 皇帝に即位すると共に、 武成と元号を建てました。 これを信じるなら、 君主を廃したために元号も廃されたとは考えにくいですし (明帝の第3年までの元号を消す理由がない)、 むしろ皇帝ではなかったので元号を建て(させ)なかったと解釈できます。
[208] 完全に同時代の記録として信頼できるものが少ないのが難点ですが、 直後の北周時代の金石文等に多い、 即位紀年が当時も既に使われていたと解するのが最も自然でしょう。
[209] 即位紀年には、 魏前、魏後、周と王朝名に基づく系統と、 廃帝、恭帝、孝閔󠄂帝、明帝と君主名に基づく系統があります。 前者は北周から唐の初期に多く見られ、 後者は唐の初期に編纂された周書以後に多く使われました。 現在では辞典や論文で後者が主流になっていますが、 引用元の系統によるのか前者も細々と現在まで続いています。
[210] 孝閔󠄂帝と明帝の元年は同年で、 周の建国年でもありました。 孝閔󠄂帝は実質的に廃帝でした。 当時「元年」ないし「周元年」と書いていたなら、 どちらか区別できなかったでしょうし、 する必要もなかったとも考えられます。
[211] 北周の金石文には「周元年」とするものが多く、 当時からそう表記されていた可能性は高いでしょう。 より時代が早いもので 「周之元年」 (>>134) としたものや、信憑性に疑問が呈されているものの 「元年」 (>>113) としたものがあるので、 建国当初はまだ表記が定まっていなかったとも思われます。
[200] それに先立つ西魏の紀年の古いものに、 「魏前」「魏後」と「前魏」「後魏」の2系統あります。 どちらが原型かはっきりしませんが、 いずれにしても 「前」「後」 と言えるようになるのは北周の建国後、 強いていえば西魏の3代目の時代に入ってからのことです。 西魏の2代目の時代にその時代を「前魏」「魏前」 と言っていた可能性はないといって良いでしょう。
[212] 信憑性に疑問が呈されているものの、 北周2年に「魏後」と書いた史料があり (>>113)、 信頼してよいとすれば北周の建国早々にすでに前後の呼び名が成立していたことになります。
[369] 「大魏元年」 系の史料 (>>364) を基に議論した (そしてそれを西魏時代に比定した) 人々は、 それが当時の紀年だったと考えました。 中華民国の馬衡は、 周礼に倣い元号を廃止し、 元年と称したとしました (>>364)。 その根拠は明言されませんでしたが、 周化が宇文氏の政策であって、 例えば国号を周 (北周) としたこともその一環と理解されています。
[391] 紀年ではありませんが、 北斉書 に時代の表記 「魏前廢帝初」 とありました。 >>390 北斉書が書かれた頃、 西魏の2人目の皇帝を 「魏の前の廃帝」 と呼ぶことがあったことが知られます。
[394] 北斉書 の他の箇所に皇帝を指して 「魏前廢帝」 >>392 「魏後廢帝」 >>393 とありました。 同じ箇所が本によって「前」と「後」で入れ替わってしまった例ですが、 いずれにしても西魏の皇帝が 「前の廃帝」 「後の廃帝」 と呼ばれていた例といえます。
[364] この他に「大魏元年」など国名の魏だけを書いたものがいくつか存在します。
[365] それらが西魏と北周初期の元号のない時代のものと仮定して分類すると、 次の通り少なくても3系統があることがわかります。
[366] これらの紀年についての従来の研究は、 特定の史料の性質を明らかにすることが主たる目的で、 特定の用例のみ、ないし他の少数の用例だけを援用して結論を導いたものでした。 その後現在までにこれだけ多くの用例が発見されていますから、 各史料の信憑性も含め、 魏前・魏後等の系統と合わせて総合的に再検討する必要がありそうです。
[367]
なお、
「大魏元年」
の類は三国志関係の創作物に用例が多くみられます。
[247] 西魏・北周の時代の張始孫造四面像と呼ばれるものがありました。
[249] 京都大学の拓本データベースに 張始孫造四面像 があって、 「大魏元年(557)」 のものとされました。 >>248 それ以上の詳細は不明。 Webサイトに写真が掲載されていますが、 文字らしきものが見えますがサイズ的に判読不能です。
[251] 21世紀に刊行された中文の書籍 西魏張始孫造四面像 の商品説明によれば、 「557年造」 でした。 収録されたのは、 中華民国時代の張祖翼が 「癸丑、丁卯」 に紀年の検討等を書き込んだ拓本といいます。 >>250, >>263
[261] 癸丑年はでしょうか。 丁卯年はないしで合いません。 乙卯年 = か丁巳年 = とするべきか、 あるいは後人によるものでしょうか。
[262] 書籍内にはとした理由も書かれているのでしょうが、 Web上で確認できる紹介文にはそれは示されていません。
[256]
清の後期の陸増祥による
八瓊室金石補正
に、
[257]
八瓊室金石補正
の
[264] 八琼室金石补正 所収 张始孙造四面像记 から 「大魏元年岁次丁丑二月庚午朔十二日造。」 と引いた論文もありました。 >>242 どちらがより正確なのか不明です。
[258]
八瓊室金石補正
の
[259]
八瓊室金石補正
の
[260] いずれにせよ丁丑年であることより 「大魏元年」 はとなります (y~1940)。 この丁丑年であると断じた理由は定かではありません。
[265] ある論文は、 , とすると魏書と日干支が一致せず、 とすると周書と日干支が一致することから、 それが正しいとしました。 北周の時代であるにも関わらず 「大魏」 としたのは、 未だ政情不安が続く中、 改元の知らせもなく、 君主が皇帝ではなく天王する異例な状況で、 旧慣のままの紀年としたものだと説明しました。 >>242
[332] 中華人民共和国の國家圖書館には、 中華民国時代の研究者邵章の拓本が収蔵されていました。 邵章の 張始孫造像記跋 によれば、 蔣伯斧が20世紀初め頃に作成したものでした。 >>331
[333] 張始孫造像記跋 によると、 「大魏元年」 に造られた像は2つあり、 1つは鞏伏龍像 (>>354) で歲次壬申ゆえ西魏慶帝元年、 もう1つは始孫像で歲次丁丑ゆえ北周明帝元年のものでした。 >>331
[334] この 張始孫造像記跋 を紹介した論文は、 像が作られたのは 「北周閔帝元年(557) 二月十二日」 としました。 >>331
[318] 東文研アーカイブデータベースとしてWeb公開されている ガラス乾板データベース に、 に撮影された 大魏元年銘_四面仏像 が収録されました。 >>313
[319] 公開されている画像は小さすぎて銘文は判読不能です。 西魏張始孫造四面像 とは別の像に見えます。
[326]
撮影された実物は時点で日本国福岡県福岡市の福岡市美術館の松永コレクションに所蔵されていました。
[320] 米国ボストン美術館所蔵 薛山俱等造像碑 に、 「唯大魏元年岁次甲戌四月丁亥朔十二日庚辰」 とあり、 「西魏恭帝元年(554年)」 >>321 「西魏恭帝元年(554)」 >>323 「恭帝元年」 >>324 のものとされました。 >>321 (y~1932)
[322] 推定の根拠は不明ですが、この時期で甲戌年はたしかにで、 ちょうど恭帝の元年に当たります。
[363] 日干支が合わないとする論文がありました >>362。
[354] 鞏伏竜造像碑 (巩伏龙造像碑) は、 「西魏废帝元年(552年)」 に作られたものとされます。 >>352, >>353, >>350 (y~1931)
[355] 清の時代に作られたという拓本が、 中華民国の時代の研究者馬衡の跋文が付され、 後に中華人民共和国の故宮博物院の所蔵となりました。 >>352, >>350
[356] 拓本によると碑文に 「大魏国元年岁次壬申六月丁酉朔十一日丁未」 とありました。 異体字は >>353 参照
[357] 馬衡は、 西魏廃帝が周礼に倣い元号を廃止したのがちょうど壬申年に当たるとしました。 >>352, >>353 また、日干支が一致することも根拠としました。 >>353
[361] 「大魏国」 と他に例のない「国」がついた点が注目されます。
[358] 中華民国時代の馬衡は、 鞏伏竜造像碑 (>>354) についての説明で、 他に西魏時代のものとして 秦徒卌人造四面像 がある (それくらいしかない) と紹介しました。 >>353
[359] 馬衡は、 「三年丙子」 とあるのは西魏恭帝3年に当たるとしました。 「北魏道武帝天赐三年」 とする者が多いが誤りであるとしました。 >>353
[360] 北魏天賜3年はでした (y~251)。 その説の根拠は不明ですが、 北魏の丙子年で3年のものを選んだのでしょう。
[213] 中華人民共和国の法門寺は、 唐土への仏教伝来・布教の歴史上重要な寺院です。
[216] 法門寺に、 「己卯三月己丑朔十七日乙巳仏弟子淳于舍□」 と書かれた残碑がありました。 >>215
[217] 該当し得る年のうち、 、 は日干支が合いません。 なら日干支も合います。 >>235, >>215, >>242 (その後の唐の時代まで含めても、一致する年はありません。 >>242) 法門寺現存最古の紀年碑とされます。 >>215
[218] 周書によれば武成に改元されたのは8月でした >>163。 それ以前は元号がありませんでした。 つまり3月は未だ元号のない時期 (北周明帝3年) でした。 ここで干支年が使われていたのは興味深い (>>203) ものです。
[240] 以前は北魏の時代のうち、版図からとする説もありました。 >>235
[219] 法門寺に現存するの 大唐圣朝无忧王寺大圣真身宝塔碑铭并序 (大唐圣朝无忧王寺宝塔碑铭并序, 无忧王寺碑, 碑铭序, 大历碑) に、 「大魏二年,岐州牧,小冢宰拓跋育以为:事出于古,名同于今。」 とありました。 >>215
[221] 法門寺で出土したの 大唐咸通启送岐阳真身志文 >>275 碑 (志文碑, 咸通碑) に、 「元魏二年,岐守拓跋育初启塔基,肇申供养。」 とありました。 >>215
[220] 両碑文の内容から、 「大魏二年」 と 「元魏二年」 は同じ年と考えられます。 >>215, >>235
[222] 碑文の内容や地理から、 「魏」 とは北魏ないし西魏を意味すると考えられます。 >>242 「大魏」 は他の王朝名にもあるように「魏」に尊称「大」を付けたものと解するのが自然です。
[223] 「元」は写本なら「大」の誤写を疑ってみるところでしょうが、 近年出土した金石文だとすると、 誤記とも、改竄とも考えにくいでしょう。 本碑は複数の研究者の注目を集めていますから、 実見した人も多いと思われ、 誤読の可能性も低いでしょう。 何らかの誤りだとしても、 碑文の成立時点で既に定着していたと考えられます。
[224] 北魏・西魏の王家は拓跋氏でしたが、 西魏当時は漢風の元姓を称していました。 従って 「元魏」 は元氏の魏とも解せます。誤記とするよりも意図的にこう書いたとも考えられます。 ただし当時の金石文で国名をこのように表記した例があるのかは不明です。
[225] 碑文にある拓跋育の経歴などから、 「大魏二年」 「元魏二年」 はを意味すると考えられました。 >>235, >>215, >>308 元年はとなります。 (y~1932) 己卯年碑 (>>216) とも整合します。
[243] ただしこの説は周書の記録する官職と矛盾するという問題があります。 >>242
[267] 張始孫造四面像 の干支年つき 「大魏元年」 (>>247) と同じと見て、 元年は、 2年はとする説もありました。 >>242 (y~1940)
[274] 付の法门寺公式サイトの沿革に 「公元558年」 に云々とあるのは、 この説に基づくと推測されます。 >>273
[268] この説は北周の時代を「大魏」と書いている点に深刻な問題があります。 しかし干支年から年を特定できる実例があることは大きな魅力です。 ただしその「大魏元年」とこの 「大魏二年」「元魏二年」 を結びつける根拠が弱いようにも思われます。
[269] ところで 「己卯三月己丑朔十七日乙巳」残碑 (>>216) はその形式が 「大魏元年」 碑文とよく似ています。 と考えられており、 実は先頭に 「大魏三年」 と書かれていた可能性があります。 そうだとすると、 これらの碑文と前後の一連の史実が整合的に説明できます。 >>242
[270] 確かに 「己卯歳」 などではなく 「己卯」 とだけ書かれた紀年はこの時代珍しいと思われますが、 「大魏三年己卯」 なら一般的な形式です。 複数の碑文が1つにつながる魅力的な説ですが、 「大周三年己卯」 など他の紀年を排除する根拠に乏しいのが難点です。 しかも、 他に同じような形式で 「大魏元年甲戌」 と書かれた金石文があり (>>320)、 そちらに従えば別の結論を導けます。
[226] 他に、 の皇帝即位・改元詔書に 「以魏為大魏」 とあることを根拠に、 が大魏元年、 が大魏2年とする説がありました。 >>215, >>235 (y~1943)
[227] しかし 「大魏」 はこれ以前から用例があってこの年に国名が変更されたとは言えないこと >>215、 普泰の元号があるのに使わないのは不審なこと >>215, >>242、 その他事実関係が合致しないことなど >>215, >>235 から、 否定されました。 >>215, >>235
[230] その否定説 >>215 を引用しながら、なぜか 「大魏二年(532)」 とした論文もありました。 その根拠は明言せず、 ただ時の皇帝元恭の詩を引用しており、 その一節に 「颠覆立可待,一年三易换。」 とあるのと関係するのか、 「大魏二年、元魏二年即普泰二年(532)」 が云々とまとめていました。 >>229
[233] 咸通碑に 「元魏二年」 とあるを引いて 「元魏二年即公元532年」 と説明し、また別の箇所で 「大魏二年(558)拓跋育」云々と説明した論文もありました。 >>232 それらの根拠は不明です。 別々の資料に由来するのでしょうか。 後者によれば元年はです (y~1940)。
[237] 北魏の建国のから数えた説もありました (y~1942)。 しかし当時の北魏の版図から、 非現実的と考えられました。 >>235, >>242
[238] 北魏の孝文帝の説もありました >>309。 孝文帝は拓跋から元への改姓など漢化政策を採ったので、 「元魏」 の始まりとみなすことができ、 その即位のから数えたと解したものかと考えられます (y~1945)。 しかし実際の改姓はでした。 >>235 記載内容の整合性にも問題がありました。 >>242
[239] 説は、 その改姓のから数えたものでした (y~1941)。 しかしその時期に改元されたとする根拠に乏しいものでした。 改姓後にも関わらず「拓跋」と書かれていることにも問題があります。 >>235 (建碑は唐で再改姓後だからと説明することもできますが。)
[276] を元年、 よってが大魏2年とする説もあっても良さそうなものですが、 見当たりません。 他の記録と整合しないためでしょうか。
[272] 21世紀に中華人民共和国の陕西省图书馆 Webサイトに掲載された解説には、 「北魏(史料载为“元魏二年”或“大魏二年”,恐有误,因北魏时无此年号)」 「南北朝元魏(大魏)二年,」 とあり、 公元年を示さず誤りかとしていました。 >>271
[277] 歴史や観光の案内の関係の Webサイトで、 法門寺を解説したものは無数に見つけられます。 それらの多くの解説文は似通っており、 寺か公的機関の案内文をベースにコピペで流布されたものと推察されます。 「元魏二年」 に関しては2系統の説があり、 どちらも多数のWeb頁が存在します。
[279] 1つは、 「元魏二年(555)」 「西魏恭帝元魏二年(公元555年)」 のように書いてを元年とするものです。 例えば >>292, >>280, >>281, >>284 (y~1932)
[283] もう1つは、 「元魏二年(494年)」 「元魏二年(公元494年)」 のように書いてを元年とするものです。 例えば >>288, >>278, >>286, >>285, >>287 (y~1944)
[373] その根拠は不明です。 現在確認できる最古の用例は、 発行の書籍の紹介文です >>288。
[312] 中文版维基百科は、 「元魏二年(494年)」 の建立と説明してきましたが、 の改訂以来、 「西魏恭帝二年(555年)」 の建立となりました。 >>311 いずれもその出典や変更の理由は明らかではありません。
[346]
中華人民共和国の山東省博物館所蔵洪珍本
十方千五百佛名經
の題記に、
「
[348]
これを紹介したの中華人民共和国の論文は、
「
嵩嶽寺,在法王寺西。元魏二年,使馮亮建閒居寺,開 皇改題「嵩嶽寺」,武后貯送鎮國金佛像,詳《李邕碑》。
[293] 李邕碑が参照されています。 しかし李邕による维基文库本嵩嶽寺碑には 「嵩嶽寺者,後魏孝明帝之離宮也。正光元年,榜閑居寺,廣大佛刹,殫極國財。」 などとある >>290 ものの、 「元魏二年」 の記述はありません。 「元魏二年」 の出典は不明です。
[295] 日本語版ウィキペディアは、 嵩嶽寺の創設をとした上で、 他に説、 から説があるとしました。 >>294
[296] ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 と 世界大百科事典 は、 創設としました。 更に ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 は、 塔の建立をとしました。 >>297 つまり、 との2説の違いは、 寺院としての創建と塔の建立の時期の違いから生じたのでしょう。
[299] からは正光元年から6年で、 6年は改元年でした。 つまり元の表現は「正光年間」だったのでしょう。 寺院に属する多数の建造物の建立の全体を指したのか、 年の特定に課題があると考えたのか、 はたまた単に簡単のため省略したのか、 ともかく曖昧な表現に過ぎず、異説とするほどのものでもないと思われます。
[300] 中文版维基百科には、 「北魏孝明帝正光元年(520年)」 に寺になったとする記述と、 「北魏正光(520年~525年)年间」 に塔が建てられたとする記述がありました。 >>299
[302] 百度百科 は、 寺が 「北魏永平元年至正光元年(508—520年)之间」 に建造され、 塔が 「北魏正光四年(公元523年)」 に建てられたとしました。 >>301
[303] 百度百科 は、 嵩书 に 「元魏宣武帝于永平二年(509)」 云々との記述があるとしました。 >>301
[306]
Internet Archive
所蔵
嵩書
に、
「
[307] 以上を総合すると、 決定的な根拠に欠けるものの、 「元魏永平二年」 が誤って 「元魏二年」 に変化したと推測するのが妥当と思われます。 欽定古今圖書集成 の編纂過程を検討すればより精度の高い判断ができるかもしれません。
[479] 北周の第2代皇帝明帝宇文毓が武定なる元号を使ったとする説があります (y~625)。
[482] 歴代建元考に掲載されていました。 >>480, >>481
[483] 中国歴代年号考にありますが、出典は明らかではないとあります。 >>480
[484] 中文版维基百科の元号一覧にありますが、 出典不明の旨の注記だけで期間不明とされ >>480、 単独記事もありません。
[485] 日本語版ウィキペディアには単独記事があり、 から?」 とあります。 >>481
[486] この期間はちょうど「周何年」 (y~1936) と呼ばれている時期にあたります。
[487] 宇文毓の最初の元号とされるのが武成 (y~410) で、から使われたとされます。 その次の元号は保定 (y~1434) でした。
[379] 北周は、その後独自の元号を使い続けました。 禅譲によって隋の元号に続きました。
時依周禮稱天王,又不建年號,猷以為世有澆淳,運有治亂,故帝王以之沿革,聖哲因時制宜。今天子稱王,不足以威天下,請遵秦漢稱皇帝,建年號。朝議從之。
... とありました。 >>411
[16] 東魏は、独自の元号を使いました。 禅譲により後を継いだ北斉も、独自の元号を使いました。 北周によって滅ぼされるまで続きました。