[60] 日本甲斐国の歴史書勝山記 (妙法寺記) に改元の伝聞の記事があります。
[61] ただし、諸本で元号名を正京とするか正亨とするかの表記差があります。 文の表現にも若干の違いがあります。
[63]
正亨表記の写本は、他の公年号の享字を亨と表記しています。
そのため正亨は正享の意という解釈が有り得ます。
[64]
いずれが元号名の原形かは定かではありませんが、
少なくても、京, 亨, 享の違いを厳密に区別しない識字環境下で伝来してきた、
ということは間違いありません。
[62]
更に、紀年が錯乱した部分に掛けられた記事であり、その解釈には多くの問題があります。
[65] 記事は、京都の改元の伝聞という形になっています。 当地で改元が施行されたかどうかは明言されていません。 わざわざそのような書き方ということは、当地では施行されなかったとも考えられますが、 当年には福徳も含めて何度も年号が変わった、との記述もあって、 そちらを素直に読めば、正京も当地で使われた年号の1つと考えられます。
[66]
本書は、同時代的な何らかの記録に基づき、しばらく後になってから年代記の形にまとめられたものと推測されています。
当記事が実際にいつの時点でどのような情報から編纂著述されたものかはわかっていません。
... の3種類があります。
[101] 正京と正亨は、勝山記の異本に由来するものです。 正享は直接勝山記写本に出現するものではありませんが、 その表記傾向から再建されたものです。つまり、 この3種はいずれも同一の元号の異表記の関係にあります。
[102] 勝山記の系統の研究によれば、 正京と書かれた写本が比較的祖本に近いと考えられます。 とはいえ、 必ずしも正京が祖本の原表記 (に近い) とも限りません。 また、勝山記の祖本の原表記が、この元号の本来表記 (というものがあるとして) と一致するとも限りません。
[103] 諸書は正亨のみを記載したり、これを主としたりする場合が多いようです。 これは勝山記の近世以来の通行本 (妙法寺記) の表記に由来すると考えられます。
[104]
正享表記は、おそらく日本私年号の研究が初出かと思われます。
(もしかすると勝山記の校訂系の研究でそれ以前からあるかもしれませんが。)
勝山記が享を亨と表記していることや、
正京表記の存在から「きょう」音と考えられることによります (>>35, >>36)。
合理的な推定ではあるものの、歴史的にこの表記が存在したことの確証はありません。
[105]
京, 亨, 享のどれが適切かという問題は、
現代の漢字の表記基準だけでなく、
むしろ当時の表記慣習をよく理解した上で検討しなければなりません。
他の元号の表記でも享を亨や京とした事例はみられるのであり、
それがどう受け止められていたか、は (元号名以外の語表記もあわせて)
十分に考えなければならないでしょう。
[106]
元号名に京は使われていないから享であろうという推測 (>>36)
は、公年号にはいえても、特定の法則性に縛られない可能性ある私年号では、
少し心もとないと言わざるを得ません。
[110] 勝山記記事は、伝聞的ですが、それがどのような形の情報だったかは記述がありません。 もし通知書のような文書形式で届けられたのではなく、 口頭の噂だったとしたら、 勝山記の原記録は聞いた人がそれらしい表記を想像して書いたに過ぎない可能性も否定できません。 そうでないとしても、より上流でそうした過程を経ている可能性は否定できません。
[111] しかし、勝山記以外の記録が一切知られていない以上、 可能性があると想定しておくほかに出来ることはありません。
[112]
現在知られている唯一の史料である
勝山記
は、該当部分で編年が甚だ錯乱しています。
そのために、
当該記事は延徳元年己酉に掛けられているとも、
延徳2年庚戌に掛けられているとも断定しづらい状況です。
延徳3年辛亥に掛けられるべき記事の錯簡と論じることも無理ではありません。
[113] 伴信友はこれを延徳頃とだけ比定しています (>>73)。 日本私年号の研究はその理由を錯乱のためとしています (>>40) が、 実の所年号の論は他の私年号も「元号頃」 としか書いていないのであり、錯乱とは関係なさそうです。
[114] 久保常晴は昭和40年には元年 = 延徳元年と解釈していました (>>58) が、 昭和42年には元年 = 延徳2年説を取りつつ (>>39, >>69)、 旧説も一部残存していました (>>42)。
[115] この混乱はその後の一覧表類にも引き継がれていて、延徳元年説と延徳2年説がみられます (>>70 >>68)。
[116] 勝山記当年条の成立過程が解明されるか、 他の史料が追加されない限り、比定年を確定させるのは難しいと考えられます。
[118]
勝山記当年条は当時からしばらく経過しての成立と考えられます。
何らかの同時代的な資料が編纂時の素材となったと推測されるものの、
それがどのようなもので、どれくらい正確な情報で、どの程度忠実に現行本文に反映されたか、
はまったく不明です。
[119] 勝山記は京都での改元の情報として書いています。 そもそも改元は京都で決定されるものですし、 京都の改元の情報が伝われば甲斐でも実施されるのが普通と考えられます。 にも関わらずわざわざ京都で改元と書いているのは不審であり、 甲斐では未施行という解釈の余地があります。 用例がまったく報告されていないのも、その傍証となります。
[120] 一方で、当年は年号が何度も変わったとの記述もあるので、 当元号がそれに含まれるなら、実用されたと解釈できる書き方です。 つまり、当元号は実用されたとも、実用されなかったとも解釈可能で、 どちらの解釈も決定打に欠けます。
[121] 京都で改元されたとの情報ですが、現時点で知られているのは甲斐での記録だけで、 京都でも、京都と甲斐の中間地点のどこでも、 それ以外の地域でも、それらしき記録は見つかっていません。 用例はもちろん、同様の改元情報も未発見です。
[122] たまたま甲斐でだけ記録が残ったのであって他にもこの情報は伝わっていた可能性もあれば、 甲斐だけでこの情報が流布されていた可能性もあります。 どちらとも断定できる情報がありません。
[123] 勝山記当記事によると、 京都で改元があったとのことです。ところが、 実際には京都でそのような改元が行われた記録はありません。
[124] これを最も素直に解釈すると、改元が行われていないのに改元が行われたとするデマが流布されたことになります。
[125] 近世以来、当元号に言及するほとんどすべてが、 実際に用いられた私年号とみなしています。 (>>73, >>76, >>72) その詳細は語られておらず、京都で、との記事をどう解釈したものか不明です。
[126] 日本私年号の研究は、私年号の1つと扱いつつも、 私年号の噂と留保しています (>>45)。 とはいえ甲斐国で発生した私年号と考え、 (本書の説くところの) この時代の私年号全般の発生理由 (天災) で説明しようとしている (>>48) のであり、やはり京都で、 との記事との整合性に欠けます。
[159] >>142 は、当記事は京都で、とするものの東国で主に使われたとしています。 しかし福徳と一括して記述されており、根拠も明示されていないので、 福徳の用例分布からの類推に過ぎないと思われます。
[127] いったん甲斐 (あるいはその周辺) で私年号として成立したものの、 より尤もらしい形 (「京都で改元された」) に置き換えられて流布された、 と説明できないことはありません。
[128] ただ、実用された用例が未だに1つも報告されていないこと、 すぐに福徳が流布され、そちらは多くの用例が知られていること、 には問題が残ります。
[129]
妙法寺建元説は、
妙法寺を改元の主体とするものです (>>1401)。
おそらく妙法寺記の誤読によるものでしょう。
なお、妙法寺記が当該時代の妙法寺の記録に基づいているかどうかには、
疑問が残るところです
[130] 勝山記記事を素直に読むと、正京に続いて福徳への改元がありました。 したがって福徳への移行によって正京の利用 (あったとして) は終了したと取れます。
[131] >>76 は、正京や福徳が同時期に並行して使われたと解釈しています。 史料の解釈としてやや飛躍がないでもありませんが、現象としては有り得ないことでもなさそうです。
[132] >>130 説に従うなら、福徳の早期用例の時期を正京の終了時期と推定できます。 >>131 説に従うなら、厳密に終期を決めることはできません。ただ、 辛亥年には掛からないと見るのが穏当ではあります。
[107]
近世後期の
偽年号考
乙種本は
妙法寺記
を主要な論拠に使っており、著者は当改元記事を読まなかったはずがありませんが、
正亨に言及していません。
[108] これを始めとして近世・近代の私年号研究者たちのほとんどは、 正亨に関心を持たなかったようです。
[73] 江戸時代後期の研究者伴信友の 年号の論 は、 妖僞年號の列挙の中で、 延徳時代に正亨があるとしています。 >>71
[74] の書籍は、 福徳に関連して、 次のように述べています。 >>2
[86] この書き方だと前半は別の情報源があるようにも読めますが、 実際にはほぼ同じことを繰り返しているだけで、根本的には 妙法寺記が唯一の情報源と思われます。
[87] ただし、 >>82 で「京ニテ」を含めて引用しておきながら、 >>77 では民間で勝手に、と述べています。なぜこのように言い換えたのかは謎で、 京都の (朝廷ではなく) 民間人が勝手に、という解釈なのでしょうか。
[88] この説は延徳の不評 (これは妙法寺記にないので、また別の情報源由来) を元号混乱の遠因とみているようで、しかも妙法寺記では福︀德にのみ掛かっている 「王」死去を正亨の原因としています。
[21] 昭和40年の久保常晴の論文は、 次のように述べています。 >>20
[23] 昭和42年の 日本私年号の研究 は、次のように述べています。 >>22
京は見受けられないから、享正や享高 (や永寧) などからすれば、[69] また、巻末の一覧表は 「正亨(正享 正京)」 を延徳2年としています。 >>1
[161] の書籍は、 日本私年号の研究を引いて、 正享や命禄は深刻な天変・飢饉の窮状から脱するための土着民の切実の願いから生まれたもの、 と解説しています。 >>160
[109]
昭和時代から平成時代にかけては
勝山記/妙法寺記
の諸本の系統とそれらの成立過程に関する論争がありました。
[89] の丸子亘の 勝山日記と妙法寺記 は、勝山記の諸本の異同を検討したものですが、 当元号記事に関しては、
... との解釈を述べています。 >>3
[134] の書籍は、 次のように述べています。 >>133
[1401] 付Webページは、 妙法寺が改元した、とあたかも主体であるかのように書いているが、おそらく妙法寺記の記事のこと。記事によれば改元の理由は「王」の崩御なので、①に該当する。飢餓や流行病で「王」が死んだとは書かれていないので、③とはいえない。 >>1400
改元はその理由により、大別すると4通りに分類される。 ①代替わり ②祥瑞 ③災異 ④革命の年(辛酉や甲子)
私年号使用の直接的理由は、公的年号と同様に上記①~④のいずれかに求められるが、私年号の場合①の例はほとんどないようである。③の例としては、甲斐国妙法寺の私年号が挙げられる。妙法寺は1490年に延徳から正亨と改元したが、当時飢饉や流行病が甲斐国を襲っていたのである。
[163] の千々和到の論文は、 主に福徳に関連して当改元記事を引いていますが、 正京を主に、 異本では正享ともある、 としています。 >>162
[165] の私年号に関する論文は、 当改元記事を引いて、 正京と福徳の2つの私年号が登場している、 と述べています。 >>164
[72] 近代の一覧表の類には掲載されていませんでしたが、 日本私年号の研究以後掲載されるようになりました。 >>71
[70] 千々和到の系統の表では、 「正亨 (正享 正京)」、 ものによっては「正亨」 が掲載されています。 おおむね延徳2年ですが、延徳元年とするものもあります。 二次資料のみしかないと注記しているものもあります。 >>71
[68] 日本語版ウィキペディアの一覧表には、 平成20年になって追加されています。 当初は正亨を正とし、 正京を別名としていましたが、 同年中に更に正享が追加されました。 延徳元年から継続年数不明とされています。 いずれも直接の根拠は不明です。 >>67
[1766] の中文 Webサイトの投稿記事は、 妙法寺記 を引いて、 延徳改元時に甲斐では正京2年を用い、後に福徳に自行改用 (自ら変更した) と記載されている、 と述べています。 >>1767
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 正亨 正享・正京 延徳元年(1489年) 不明 『甲斐国妙法寺記』
[7] 近世の元号の延享がたまに正享になっていることがあります。
[4] 山瀬町史, 徳島県麻植郡山瀬町, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1029943/1/270 左下
[5] 村上郷土史, 村上本町教育会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1178732/1/63 右ページ左
[18] 温泉知識, 藤浪剛一, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1072441/1/296 右下
[12] >>4 >>5 いずれも明朝体の翻刻で原文がどうなってわかりませんが、 「延」と「正」は誤植するとは考えにくい。 草書で「し」のような曖昧な形になった「廴」が書写時に見落とされたり、 ときには書き忘れたりすることもあったのかもしれません。
[15] 神奈川県図書館月報 (5月號)(51), 神奈川県図書館協会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1470899/1/4 (要登録) 右
[16] 林業経済 5(1)(39);昭和27年1月号, 林業経済研究所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/11200631/1/17 (要登録) 左下
[17] 中河内郡誌, 中河内郡役所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9572500/1/170 (要登録) 左下
[13]
元号名の「延」が「正」に変わっている事例は他にもあります。
[8] OCR 誤認識と思われるものもたまにあります。 手書きのものもあれば、明朝体でも誤読していることがあります。
[6] 奥羽南部近世田中館文書集 第1巻, 田中庄一, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3004993/1/126 (要登録)
[9] >>6 これは手書きの楷書で、原文を尊重したのか書いた人の癖が強いのか、 おそらく癖字のような気がしますが、 「延」の「廴」が「L」の左下を交差させるような形に書いています。 すぐ近くに「巡」もありますが、「辶」は「L」の横線が左に突き出す形にかいています。
[11] そして >>6 を国会図書館デジタルの OCR がまんまと騙されて「正」 と誤読しています。「L」を文字外の升目か何かにありがちなゴミと誤認してるのですかね?