[3] 大化は、 日本の元号の1つです。 日本政府が制定した最古の公年号です。
[20] 釈日本紀 28巻 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ, https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00005881#?c=0&m=0&s=0&cv=373&r=0&xywh=9%2C341%2C2574%2C705
大化元年
或說ハシメテナルハシメノトシト可レ
讀 賣
[24] 国史大系. 第7巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション, 経済雑誌社, 1897-1901, http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097/416
大化元年。
或說ハシメテナルハシ メノトシト可レ讀之。
(ルビ上揃え)
[67] 日本書紀には、 「天豐財重日足姫天皇四年六月 乙卯。 改天豐財重日足姫天皇四年爲大化元年。」 >>65 のように天豐財重日足姫天皇 (皇極天皇) の4年を大化元年に改めたとあり、 以後 「大化元年秋七月丁卯朔戊辰。」 >>65 のごとく大化の元号を使って年が表記されました。
[280] 宇治橋断碑 (宇治橋造橋碑、 日本国京都府宇治市放生院所蔵) には、「大化二年丙午之歳」に道登により架橋されたとありました。 ただし、現存する碑は寛政3年に修復されたもので、 該当部分は帝王編年記大化二年条から復元したものでした。 >>502, >>246 普及版 p.121
[5] 日本霊異記 (弘仁年間成立) 上巻第十二は、 「大化二年丙午」 に宇治橋が作られたと記述していました。 >>502
[6] 扶桑略記大化二年丙午条は、 碑文のうち「大化二年丙午」前後の部分を引用していました。 >>502
[7] ところが日本霊異記以前に碑文に言及したものはなく、 しかも 続日本紀文武天皇四年三月己未条には、 孝徳天皇白雉4年よりも後、 道照が宇治橋を作った、 としていました。 そのため中世以後、 道登・道照合作説が広まったほか、 続日本紀を誤りとする説、 碑文は偽作で大化2年架橋をなかったとする説が提唱されました。 所功は、 壬申の乱より前と後の2回の架橋があったと推測しました。 >>502
[8] 碑文の書風から、 安藤更生は 「六朝時代の書風の影響が濃厚」 >>502 (書道全集第九巻日本I, 安藤更生, p.144)、 堀江和彦は 「大化二年に建碑されたもので、 現存最古の碑の遺例と認めて少しも不都合はない」 >>502 (原色日本の美術22 書, p.42) と評しました。
[9] 所功は、 法興以外にこの時代の金石文で元号が記載されたものがないことから、 元号年の記載が一般化した奈良時代以後に作られたものと推測しました。 碑文は何らかの記録に基づいて作られたもので、 その記録には元号年でなく干支年のみが記載されていたであろうとしました。 >>502
[4] 日本年号史大事典は、 碑文修復の事情を記しつつも 「「大化」年号が同時代において使用されていたことを示すもの」 だと紹介しました。 >>246
[10] 日本書紀によれば、 大化は乙巳の変の結果即位した孝徳天皇の代始改元的な性格を持つ建元でした。
[16] 卜部兼方は、 「誅二-殄入鹿臣之暴逆一、天下安寧、政化敷行、故号二元於大化一而巳。」 としました。 >>502 (新訂増補国史大系釈日本紀巻十四大化元年条, p.190)
[17] 坂本太郎は、 儒教の政治理想である、 教化を布いて大いに天下を治せんとするという意味だとしました。 >>502 (大化改新の研究, p.273) 時野谷滋は、 広大な徳化の意味で、 新政府の意気を示すものだとしました。 >>502 (大化改新, 昭和四十五年刊)
[18] 元号考, 日本年号大観, 坂本太郎 (>>17) は、計十数個の漢籍から出典と考えられるものを挙げました。 >>502
[13] 同時代の金石文たることが確実であって、 大化の元号が使われたものは、 見つかっていません。
[406]
法隆寺伽藍縁起并流記資財帳
に
「小治田
天皇大化三年歳次戊申九月廿一日己亥」
とありました
>>407。
日本書紀の知識で大化の元号を書き込んだのかもしれないとの推測 >>502
もありますが、
実際には大化は小治田天皇 (推古天皇) の時代でなく孝徳天皇の時代です。
大化3年は丁未、
大化4年が戊申で、
1年ずれています。
[14] 続日本紀天平宝字元年十二月壬子条所引太政官奏は、 「乙巳以来」、 「乙巳年功田」 のように表現しており、 大化の元号は使っていませんでした >>502。
[1] 藤氏家伝 には、 「改元為二大化一。」 との記事がありました。 >>502 (寧楽遺文 中巻 pp.344-365、下巻p.877)
[12] 所功は、 同時代に元号年が使われた金石文が極めて稀であるため、 宇治橋碑文を大化の元号の普及の根拠とするには慎重であるべきと指摘しました。 大化の改新の開始を記念して建元したものの、 一般には普及しなかったと主張しました。 >>502
[19]
後の時代に作られたという非実在説や、
改元はあったが元号名は後の時代につけられたとする追建説もあります。
[112] 太化表記は明治時代から昭和時代に少数、例があります。 他の時代は不明。
[113] 誤植の可能性が高いものもありますが、そうとも断言できないものもあります。
楷書。 太化のように見えるが熟語を表す - が点のように見えている可能性が高い。
楷書
中央右側に明確に「大化」。 中央左側上の「大化」が「太化」に見えるが、周辺に汚れが多く、この点も汚れか? それにしては点がはっきりしているようにも思える。 中央左側下の「大化」の大の下に小さな点。普通ならただの汚れとみなすべきだろうが、 偶然こんな都合のいい位置に点ができるかどうか。筆者の迷いが残っている? 右ページに2箇所「大阪」、 左ページに「大河」とある「大」は一点の曇りもない「大」。 こんな偶然はあるか?
[108] なにはがた 18, 図書出版, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1530811/1/76 (要登録)
明朝体
右ページ右下に「太化ノ改新」、左下に「大化」
[109] 新体日本歴史, 大和田建樹, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/769831/1/108 左
明朝体
[110] 國學院雜誌 = The Journal of Kokugakuin University 1(2), 國學院大學, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3364643/1/46 (要登録) 左下
明朝体
ちなみに隣の行に「太古」
[111] 実業教育ニ関スル演説大意, 島崎安馬 記, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/812367/1/3 右ページ左下
明朝体
[15] 持統天皇時代などに大化が使われたとする異説がありました。
古い時代に遡れる説はなく誤りとみられますが、
その発生過程は十分に解明されているとはいえません。
[2]
一部の (不適切な) 実装は元年以前も大化0年、-1年などと表す場合があります。
[30] 大化は最古の日本の公年号なので、 これを現代の紀年に使おうという人が多少はいます。
[31] といっても統一された運動はなく、個人用や SNS などで多少の用例や言及がある程度です。 そのスタンスも、
など様々です。
[91] Twitter に投稿されたツイートを検索すると平成時代後期には既にありますが、 特定の人が定型文を連投している他は年に何人かたまに投稿する程度です。 それが頃から急増していて、 令和改元によって関心が高まったことが見て取れます。
[92] 主要な用例や言及をいくつか挙げると:
[50] ZUISO(随想) - 想いをつづる、想いがひろがる, うきよのタビビト, 2022年1月1日 2:16, https://zuiso.net/topic/detail/57103
本年(陽暦2022年)はトラ年 壬寅(みずのえとら) … “えんトラ竜” 更新2022.2.14
2022年をこれまでの年号(元号)に換算すると、
平成34年、昭和97年、大正111年、明治155年、
慶応158年、大化1378年、皇紀(神武天皇即位紀元)2682年
連綿と続く史歴に繋がる末裔。
そこで、コツコツを真情とするウシを引き継いでのトラに因んで年賀状を作りました(^ω^)
本年もよろしくお願い申しあげます<(_ _)>
令和四年(2022年)元旦
[48] 「日本国の今年で2682歳!」などとよく聞きますが、存在が確かで... - Yahoo!知恵袋, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12260642982
自分は
神話的建国➡神武天皇を期限とする皇紀2682年
絶対的史実➡初代元号大化を紀元とする大化1378年
と使い分けてます。
また、国家体制が整い始めた大宝律令から数えるのも一つの手かも知れません。
男系男性天皇。男系女性天皇で
日本は西暦2023年で神話上ですが2683年皇紀を迎えるとされてます。
神話上でなくとも、初代元号「大化」から数えても大化1379年を迎えます。
[38] 大化元年紀元暦 (大化元年紀元歴) は Twitter などで活動する Sea一郎(氏 = 秘匿論) が提唱する紀年法です。
[94] 大化の延長年号と同じように大化元年から数えますが、 元号名は日本の元号の改元に合わせて変化させます。
[95] 例えば令和5(2023)年は 「令和1378年」 です。 >>39
[93] Sea一郎(氏 = 秘匿論)(@seaichirou)さん / Twitter, , https://twitter.com/seaichirou
提案中の大化元年紀元暦だと昭和1330年生まれ。
[96] この提案、
という方針はいいアイデアだと思うのですよ。 でも 「令和5年」 のような既存の紀年と形式的にバッティングするのが難点で、 「令和1378年」 と書いてしまうのは、数値範囲から区別はできるといってもいただけません。
[100] 思い切って 「1378年令和」 のような従来の年とバッティングしない新しい構文を作ってしまったらどうですかね?
[101] これならなぜかみんな大好きな2桁年号にしても 「78年令和」 「78R」 のように曖昧なく略記できて使いやすくなるのでは。 (元号名干支年表示の方式で2桁年号の弱点を克服できる!)
[103] 遡ると明治時代後期に学者の井上円了が紀年法改革を提唱し、 その1案として大化紀年を挙げていました。 >>102 おそらくそれが最古の大化活用案でしょう。
[25] 元号一覧 (日本) - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7%E4%B8%80%E8%A6%A7_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
最初の大化も公布翌月の実施と見られるが、
(大化の開始時期)
大化元年7月1日
(645年7月29日)
「大化」は皇極天皇4年6月19日(645年7月17日)以後30日以前に公布され、翌月1日から実施されたと考えられるが、史書によって記述が一定しない[注釈 3]ため、正確な始期は不明となる。
注釈3
『扶桑略記』や『帝王編年記』では「7月」、『元亨釈書』では「正月」(7月に公布)、『国史大辞典』(吉川弘文館、1908年発行)では「6月19日」となっている。
[26] 大化の改新については日本書紀の記述すら疑いの目で見られているなかで、 なぜ時代が下りに下った扶桑略記や帝王編年記の説をもって 「史書によって記述が一定しない」 とか言ってそれを採用しているのか謎。 現代の論文が引かれていないが、Wikipedia編集者の独自研究? 日本年号史大事典も改元日は6月19日としているのであり、 よほどの材料がない限り通説と違う説を採用する必要はないのでは?
[27] 大化の制定経緯については未だ論争の結論が出ていないので、 その観点から日本書紀の記述に疑問を差し挟む余地は大いにあるものの、 公布翌月施行説を支持する材料はないのでは? (あるなら論争も終結に近づきそうなもの。)
[115] 吉田文庫に吉田兼倶自筆本がある三元五大伝神録の奥書に、 大化元年に中臣鎌子 (藤原鎌足) が撰述とあります。 実際には吉田兼倶による仮託 (偽書) とされます。 >>116
野之口隆正の秘蔵の文字 (野之口隆正の解説の日付: 嘉永2年) で古い太鼓の銘
模写?の右行は不明な文字、 中央行は件の文字で「巳の水無月望月の日」 左行は漢字文「大化八年六月十五日」