久保元年

久保 (元号)

[6] 久保は、日本の私年号の1つです。

用例

[44] 用例は1点知られています。

日時事例

[41] 土井家住宅は、時点で所有者の住居となっていますが、 元は造り酒屋だったとされます。 >>17, >>5

[48] 様式から19世紀初頭 >>5, 19世紀前半頃 >>11, 19世紀初頭から中頃 >>17 の建築とされます。 江戸時代後期頃に当たりますが、 なぜか資料により少しずつ表現が違います。 どれも現地サイドが情報源と思われますが、 事情はよくわかりません。

[42] 久保の墨書銘は、 からの解体修理で見つかりました。 >>5

[50] からとするものもあります >>17 が、完工当時の資料 >>51年ずれています。 昭和50年度から昭和51年度なら正しく、会計年度暦年を誤ったと思われます。

[29] 墨書の写真がどこにもない。。。

[30] 解体修理で発見されたということは、修理完了に伴い再び見れない状態になっている?

[60] に見学会があったらしく参加した専門家の論文があります >>11 が、銘文を見たとは明記されていません。

[56] 報告書 >>34 に写真掲載されていないか?

[71] なお、土井家住宅には新旧2つの鬼瓦があり、 新しい方の箆書に明治6年酉とあります。 古い方のには銘文がありません。 >>11

[72] 新旧の様式の違いなどから、明治6年酉の12年前の文久元年酉とする説 (>>70) は無理が多いとされます。 >>11 つまり土井家住宅本体と旧瓦が文久元年酉に作られ、 その12年後に新瓦が作られたとは考えにくいということで、 旧瓦はそれよりも更に古いと考えられるということです。 具体的にどれくらいのものなのかは不明です。

研究史

[57] 昭和時代後期の修理で墨書銘が発見されるまで、 久保私年号の存在はまったく認識されていませんでした。

[36] 私年号研究の分野を確立したのが昭和時代の研究者久保常晴だというのは面白い偶然の一致。 久保常晴の時代には久保元年の存在はまだ知られていなかった。

[51] の修理完工を報告した日本国佐賀県杵島郡大町町の広報誌記事には、 簡単に説明があり、 久保のことも記述されています。 >>5

[39] 日本国佐賀県杵島郡大町町教育委員会が制作した域内文化財案内のパンフレットでは、 土井家住宅の説明もあり、 久保のことが記述されています。 >>17

[40] このパンフレットの主な情報源は大町町史 () とされています。 >>17

[32] 昭和62年の大町町史 下巻 p.619 に土井家住宅の項があるとのこと。 私年号に触れているかは不明。

[43] 広報誌記事は久保を「実在せず」と説明しています。 >>5 パンフレットは久保は「実在しなかった年号、いわゆる私年号」 と説明しています。 >>17 昭和時代の論文で 「実在せず架空の年号」 と言及されている >>11 のも現地での説明に由来すると推測されます。

[52] 実在しない年号の用例が実在するのは意味不明な状況で、 筆者も読者も誰も疑問に思わなかったのか不思議ですが、 広報誌時点ではただ単に公年号にない (年表にない) という程度の意味だったと思われます。 後から久保私年号ではないかということになり、 実在しない年号のことを私年号というかのような謎の説明になったのでしょう。

[53] 広報誌は、 類似年号として

があり、いずれも年代を確定できないとしています。 >>5 「元年酉」が一致する公年号を探してこの2つが該当するものの、 どちらとも決定打を欠くということでしょうか。

[24] 広報誌はまた、藩暦ではないかといわれている、とも書いています。 >>5 唐突に出てきた藩暦が何なのかは説明がありませんし、 誰に言われているのかもよくわかりません。

[27] 大村藩 (現長崎県) は藩暦を作っていたとのこと >>25, >>26。 なら佐賀藩が作っていた可能性もあるのか? (薩摩藩薩摩暦はよく知られた特例。)

[28] しかしそうだとしても幕府朝廷を無視して独自の元号を使うことなんてあり得るだろうか?

[90] 最近の文化財や観光の案内文はなぜか久保には触れていないようで、 ウェブ上の各種サイトで久保の説明があるものは皆無です。 住居として現用されているためなのか、 地元としても観光資源として積極的に売り出す感じではないように見えます。
  • [5] 町報おおまち 第105号, 昭和52年4月1日発行 (), http://www.town.omachi.saga.jp/kouhou/1964-1979/pdf/s5204.pdf#page=6

    重要文󠄃化財

    完全復元なる

    ―上大町土井家―

    幕末時代の珍しい「町家」とし て、昭和四十九年二月、文化庁か ら国の重要文化財として指定され た土井時雄さん (五十二) =上大 町=の家の復元工事が、一年がか りで完全に当時の形に復元された

    この家はもと造酒屋として建て られたもので、明治の初めごろ土 井家の所有となり、本がわらぶき の切り妻造で、出入り口は町道 ( 旧国道) 面にあり、妻入り形式と 樋造りで、左右に土間と部屋を分 けられ、家屋面積 (約三百平方メ ートル) の約半分が土間になって いる。

    建設年代は、北面柱の持送取付 仕口に墨書で「久保元年酉四月十 八日作立」とあったが、この年号 は実在せず、類似年号として寛保 元年酉と文久元年酉があるが、い ずれもその年代を確定することは できないが、持ち送りの波形絵様 や全体の構造手法から十九世紀初 期ごろの建設と推定され、「久保 」は藩暦ではないかと言われてい る。

    町では重要文化財の指定を受け たものの、柱が傾き、屋根がわら が落ちるなどの老朽化がひどいこ とから、県や土井さんと相談し、 文化庁に全面復元のお願いをし、 (改段) 県内では三十八年の佐賀市城内、 シャチの門復元以来二度目の大が かりなものとなった。

    土井家の復元事業概要

    一、修理の大要

    (一)解体にあたっては慎重に調査 し、修理前および工事中の写真 撮影等を行い、諸記録が作成さ れた。

    (二)礎石は、不同沈下が多かった のですべて掘り起こし、コンク リート地業のうえ据え直された

    (三)古材はできる限り再用につと め、止むを得ない取替材や新補 材には見え隠れに修理年号を烙 印し、表面に古色が施された。

    (四)すべての木材に防腐剤を塗布 された。

    (白黒写真 外観)

    復元なった重要文化財の町家

    二、解体修理工事

    着手 昭和五十一年二月

    完了 昭和五十二年三月

    三、総事業費 四、五〇〇万円

    負担内訳

    (改段)

    国庫補助 三、八二五万円

    佐賀県費補助 二二五万円

    大町町費補助 二二五万円

    所有者負担 二二五万円

    四、設計監理

    文化財建造物保存技術協会

    五、工事施行

    福岡市 小山社寺工業所

  • [17] 大町町文化財マップ.pdf, , https://www.education.saga.jp/hp/omachi-t/wp-content/uploads/sites/323/2019/08/%E5%A4%A7%E7%94%BA%E7%94%BA%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%97.pdf#page=2
    • [3] 佐賀県大町町文化財マップ, 大町町教育委員会 社会教育係, 平成11年(1999)3月31日発行 ()

      土井家住宅 (どいけじゅうたく)

      指定:昭和49年2月5日

      所在地:大町町大字大町1045

      所有者:土井時雄

      当初は造り酒屋であったといわれて います。昭和50年~51年の解体修理 で「久保元年酉四月十八日作立」の 墨書が見つかりました。久保は実在 しなかった年号、いわゆる私年号と 見られ、正確な建築年はわかりませ ん。しかし構造等から19世紀初頭 ~中頃と思われます。

[34] 重要文化財土井家住宅修理工事報告書|書誌詳細|国立国会図書館オンライン, , https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000001328400-00

昭和52年

[35] 国会図書館の他古書でも流通している模様。


[33] 、 建築の専門家で鉄道史研究でも知られる網谷りょういちは、 開催の学会現地見学会 >>59 /32 に参加したことを契機に久保について検討しました。 >>11

[77] 網谷りょういちによると、「実在しない年号」が書かれる理由は3通り考えられます。 >>11

[82] >>79 の説明として、 幕府が同意せずに予定した元号を改変した例があったといわれている >>11 とあります。 しかし朝廷元号名候補に幕府が賛同しなかった場合はあるにせよ ( 改元手続き )、 施行予定が発表されてから撤回された事例は日本にはありません。 伝聞形であり、網谷りょういちも具体例を把握してこう書いたわけではなさそうです。

[81] 網谷りょういち>>78 の場合として次のように推測しました。 >>11

しかし納得できる説は得られませんでした。

[13] この説でも広報誌の説明でも建築の推定年代と墨書銘を同じ時代と暗黙裡に考えているようで、 特に説明がありません。部位などから建築当初のものそのままと推定できるということでしょうか。
[14] 墨書銘も酉、新瓦も酉なので、久保元年酉 = 明治6年酉、 という可能性もあるはずですが、検討されていません。 新旧瓦の様式の違いがあり (>>72)、 墨書銘が旧瓦と同時期と確定できるからでしょうか。

[12] 網谷りょういちは、 >>79 >>80 のケースとして元年以外の酉年を調べたところ、 天保の大飢饉期にあり、 大塩平八郎の乱をはじめ大災難があったにもかかわらず、 改元されていないことに着目しました。 >>11

[83] そして文政12年は史上空前の豊作で、天保になってから天候がおかしくなったこと、 は関連する文字 (c.f. 天長地久) であることから、 を忌み嫌ってを当てた私年号ではないかと考えました。 >>11

[84] 災異改元は頻繁に行われていますし、現代ですら天候不順を令和ちゃんと呼んでいるくらいですから、 元号と天候を結びつけるという点は突飛な思想ではありません。

[85] そしてを忌み嫌った理由について、 土井家住宅がもと酒屋だったことを踏まえ、 天保8年4月の落成に先立ち普請をはじめたであろう天保7年後半は世間が飢餓と米騒動で騒然としておりを使う酒造は制限を受けたであろうこと、 天明に次ぐ天保の飢饉でを忌んだ当主の気持ちも推測できるのだとしました。 >>11

[86] つまり当主が建元した、ないしは積極的に選択した私年号と推測したようです。

[89] 見学会の主催者側の1人で建築史研究者の土田充義は、 この天保8年説は形態上の特徴から見て妥当だと支持しました。 >>59 /38 (具体的な指摘はありません。)

[15] 天保8年とする根拠は、19世紀前半の酉年のうち世が乱れていたのがこの年だから、 ということでちょっと弱い。補強する他の材料がほしいところ。
[87] たまたま発見された1例を建元者と推測するのは危ういパターンですが...

[88] 私年号研究の方面では見落とされており、 令和時代に至るまで一覧表などには掲載されていませんでした。

[91] 私年号に着目した関連する調査などは特に行われていないようです。 周辺地域の文書などの用例の有無も不明なままです。

関連

[7] 幕末には他にも日本各地で私年号が使われました。 幕末維新期の日時

[16] 同じ(と推定される)天保8年には永長がありました。

[9] 天保年間に私年号久宝が、 幕末公年号文久がありました。 「保」も公年号に頻出する文字です。

[92] 天明にも私年号宝久がありました。

[10] が同音なのは要注意?

[93] ただ宝久久宝も酉年ではありません。

メモ

[18] 祖母井神社(芳賀郡芳賀町の神社仏閣)神社・仏閣等|オープンデータ ジャパン, https://opd.opendata-japan.com/facility_and_place_v5s?facility_id=GV-EZSJ-EVKI-R0YB

久保元年(1145)創立。

[19] >>18 このウェブサイトの元ネタは平成時代末期に日本政府総務省が運営していた 公共クラウドシステム というウェブサービスの観光情報データファイル (現存しません 公共クラウドシステム )。

[20] この手の観光案内文は現地の自治体や観光業界の大元のデータを各機関や観光業各社がコピペしまくっててあちこちのパンフレットやウェブサイトで同じ (に見えて少しずつ違う) 紹介文が掲載されていたりするものなのですが、 本件の場合はこのサイト以外に見当たりません。

[21] 由緒・ご祭神 | ubagaijinja, https://www.ubagaijinja.net/%E7%94%B1%E7%B7%92%E3%83%BB%E3%81%94%E7%A5%AD%E7%A5%9E/

当社は、近衛天皇久安元年(1145)創建と伝えられている。

[22] 公式サイトは正しく「久安元年」になっています。他の各機関・社紹介サイトも同様。

[23] 「安」が「保」になった理由は謎。 OCR を経由しているのでしょうか。


[94] 和漢三才図会 中之巻, 寺島良安 (尚順), , , https://dl.ndl.go.jp/pid/898161/1/691

日時事例

[98] 本覚寺について | 日蓮宗 本山 本覚寺, https://hongakuji-temple.amebaownd.com/pages/978220/page_201705011024

日位上人は、文保2年(1318)に示寂されるまでの約12年間、池田に住して弘教に努められました。

[99] 吉田氏中学国文教科書研究 第4学年用, 国語研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/916185/1/38

花園天皇の久保二年、明朝体

[100] 横浜市立大学紀要 B, 横浜市立大学, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1776180/1/187 (要登録) 右頁左

久保二年、明朝体

註四には文保2年とあるので誤植

[101] 文保久保OCR が誤読する例がいくつか。 明朝体文󠄃筆押さえが誤読を誘うらしい。


[4] Google Books汲冢周書という漢文の書に「久保元年」 と書かれているとしますが、 OCR の読み取りの誤りで関係ない文字の一部分を曲解したものです。