龍口法難

竜ノ口の法難

[1] (たつ) (くち) (ほう) (なん) は、 当時仏教新興宗教だった日蓮宗開祖日蓮に対し、 日本政府 (鎌倉幕府) が死刑執行を直前で中止し、 流罪に改めた事件です。

[2] 日蓮宗およびその派生宗教では、 建教期に開祖の受けた宗教弾圧事件の1つとして重視され、 語り継がれてきました。 とりわけ創価学会日蓮奇跡が強調され信仰されているようです。

場所

[4] 現在の日本国神奈川県藤沢市、 当時の鎌倉幕府所在地の鎌倉から近い竜ノ口の刑場で日蓮死刑が執行されるところでした。

[5] 現在その場所には日蓮宗龍口寺があります。 >>3

日時

[39] 現在の日時でいう (通説によって換算すると、グレゴリオ暦の文永8(1271)年10月25日、 ユリウス暦の文永8(1271)年10月18日) の早朝夜明け前の死刑執行を中心とする出来事とされます。


[107] 現在よく紹介される説の1つは、 「12日子丑刻」または「13日子丑刻」の出来事だったとするものです。

[6] 龍口寺Webサイトは、 日蓮は 「文永8年(1272)9月12日」 に鎌倉を離れて竜ノ口に連行され、 「翌13日子丑の刻(午前2時前後)」 に執行開始されるところだったと説明しています。 >>3

[38] 日本語ウィキペディア龍ノ口法難の記事は、 龍口寺Webサイトを参照しつつ、 「文永8年9月12日(ユリウス暦1271年10月17日)」 の 「翌日の9月13日子丑の刻(午前2時前後)」 に執行されるところだったと説明しています >>37

[33] この 「子丑」 という十二支時刻はどういう意味なのでしょうか。 当時一般的な表現だったのでしょうか? 現在Google検索では日蓮関係の記述ばかりが見つかります。

[34] 日蓮正宗Webサイトは、 執行未遂を「丑の刻」のこととしながら、 「この子丑の時というのは仏法上深い意義をもっています。子丑は陰の終り・死の終り、寅は陽の始め・生の始めを意味しますが、釈尊を初めとする多くの仏様もこの丑寅の時刻に成道(仏様となること)したのです」 と 「子丑」 の意義を説明した上で、 「文永8年9月12日の子丑の刻は、大聖人の凡身としての死の終りであり、寅の刻は大聖人の御本仏としての生の始まり」 とあると言い換えています。 >>32

[35] どうやら「子丑」という時刻は宗教的意味合いを帯びており、 時刻表現としての正確性は検討を要すると思われます。

[104] 2月の日蓮自身による 開目抄 に、 執行未遂は 「去年九月十二日子丑の時」 のことだと書かれていました。 >>103 つまり事件の翌年までには既に、 日蓮本人によって事件の日時が 12日子丑刻と表されるようになっていたようです。

[105] 事件の1年後なら、まだ本人の記憶も鮮明だったでしょうから、 ある程度信頼できるものでしょうか。 (しかし修行を積んだ宗教者といえども死刑執行に際してのこと、 平常の精神状態ではないでしょうから、 状況把握と記憶の正しさには限度があろうとも思われます。)

[36] の火災まで、 身延山久遠寺に真跡本が存在したとされます。 だとすると現在伝わるこの表現が日蓮自身の残したものと考えて良いのでしょう。

[153] に出版された創価学会による英訳 開目抄 引用では、これは

On the twelfth day of the ninth month of last year, between the hours of the rat and the ox (11:00 p.m. to 3:00 a.m.),

と翻訳されていました。 >>139

[106] ところで日蓮はその時刻をいかにして知り得たのでしょう。 丁寧に「子丑の時になったので執行する」とでも説明されたのでしょうか。 それとも感覚的に判断したものでしょうか。 (捕縛されていた日蓮だけでなく執行官の側も、 夜間に正確な時刻を知り得たか疑問はあります。)

[103] 開目抄 下 (かいもくしょう げ), , http://hiraganagosho.web.fc2.com/b210.html

日蓮と いゐし 者は 去年 九月 十二日 子丑の 時に 頚 はねられぬ、.

[32] 日蓮正宗公式ホームページ|主な行事, , https://www.nichirenshoshu.or.jp/jpn/ceremonies.html

大聖人は文永8年9月12日夜半、鎌倉をお出になり、丑の刻に竜口において頸をはねられようとしました。しかし、不思議な光り物が江の島の彼方から北西の方角に飛来し、太刀取りの眼がくらみ、ついに頸を切ることができませんでした。

この子丑の時というのは仏法上深い意義をもっています。子丑は陰の終り・死の終り、寅は陽の始め・生の始めを意味しますが、釈尊を初めとする多くの仏様もこの丑寅の時刻に成道(仏様となること)したのです。すなわち、文永8年9月12日の子丑の刻は、大聖人の凡身としての死の終りであり、寅の刻は大聖人の御本仏としての生の始まりなのです。この時大聖人は、凡夫のお立場から末法の御本仏としての真実の姿を顕わされたのです。


[27] 執行未遂時の謎の光について、 真書ならその最古の典拠となる (>>12) 種種御振舞御書 は、 日蓮が12日の夜に連行され、 「十二日の夜のあけぐれ」 の暗くて顔も見えない時刻に執行しようとしたところ失敗したと説明しています。 >>21

[28] 12日の夜の後の「あけぐれ」なのですから、 13日の日の出の前と解する他ありません。 「九月十二日子丑の時」 (>>104) と同じく、前近代の日本では一般に日の出頃を日界としたといわれています。

[29] 「あけぐれ」は辞書的には未明の夜が開けかけた時間帯を指すような説明がなされていますが、 ここでは謎の光と対比して夜の暗さを言い表しており、 そのニュアンスには注意が必要です。

[30] その後の出来事は十二支時刻が書かれていますが、 この「あけぐれ」の執行未遂の時刻は明記されていません。 たまたま筆の勢いでこう書かれたに過ぎないのでしょうか。 それとも筆者が「あけぐれ」の時刻を知らなかったのでしょうか。

[31] 真書なら古さ第2の典拠である (>>12) 妙法比丘尼御返事 は、 「九月 十二日の 丑の時に」 執行しようとしたところ失敗したと説明しています。 >>26

[108] 開目抄 の 「九月十二日子丑の時」 (>>104) との表現の違いは気になります。


[93] 現在よく紹介される説に、 文永8年9月12日の「丑寅の刻」の出来事とするものもあります。

[90] 創価学会の代表者の池田大作は、 昭和時代の対談記事で 「文永八年九月十二日の「丑寅の刻」」 の出来事だとしました。 そして 年代対照便覧 を根拠に、 これが 「一二七一年十月二十五日の明け方「午前四時」」 に相当するとしました。 >>79

[92] さらに池田大作は、 広瀬秀雄の研究 (>>44) を紹介して、 「文永八年(一二七一年)九月十二日の丑寅の刻、いまの時刻でいえば、午前二時から四時にあたります」 「午前三時四十四分の「丑の刻」の終わりから午前四時の「寅の刻」までの間」 と説明しました。 >>79

[91] どこまでが池田大作自身の説明で、 どこからが引用なのか不明瞭です。 年代対照便覧東京天文台神田茂による 年代対照便覧並陰陽暦対照表 を指すと思われます。 広瀬秀雄神田茂の弟子に当たります。 池田大作年代対照便覧並陰陽暦対照表 を自分で確認したのか、 広瀬秀雄の論文から孫引きしたに過ぎないのかは不明です。 (広瀬秀雄の時代には 年代対照便覧並陰陽暦対照表 が当時としては最も信頼できる旧暦の対照表でした。 東京天文台広瀬秀雄と共に研究していた内田正男日本暦日原典 が昭和50年には出版されていました。 池田大作の発言時点で最も信頼でき、入手もしやすかったのは 日本暦日原典 ではないかと思われますが...)

[63] 平成時代ウェブサイトの投稿で、

日蓮が斬首される間際(竜の口の法難)の日時は、文永8年9月12日「丑寅(うしとら)の刻」とされており、西暦になおすと1271年10月25日午前4時頃となり、その日時に発生したおひつじ・おうし座のエンケ彗星による流星と考えられています。

と説明したものがありました。 >>62

[64] 日界の決め方にもよりますが、旧暦9月12日はグレゴリオ暦10月24日、 旧暦9月13日はグレゴリオ暦10月25日で、 これらの説明は1日ずれています。

[109] 「丑寅刻」説は現在のところ池田大作より古いものが見つかりません。 ウェブ上のこの説による説明は、 出典を示していないものも多いのですが、 創価学会と無関係のものも含めて直接または間接的に池田大作説に由来する可能性が濃厚です。

[110] 池田大作の言い方は、 広瀬秀雄の説に基づく3時44分と4時 (>>67) をそれぞれ 「丑刻」と「寅刻」 に言い換え、 その中間で 「丑寅刻」 としたようにも読み取れます。

[121] 英語で紹介したものとして、 Renso Den (蓮祖伝) と題したウェブサイトがあります。 これは日蓮の伝記で、 明治時代大正時代日蓮上人 と、 昭和時代日蓮大聖人正伝 をもとに編集、翻訳されたものと説明されています。 平成時代中期から公開されています。 >>116

[122] このウェブサイトは、 「September 12 in the eighth year of Bun'ei (1271)」 の夜の出来事として書いていました。 謎の光の時刻は 「the time of Ushi-Tora, between the time of Ushi (Cow: 2:00 a.m.) and Tora (Tiger: 4:00 a.m.)」 だと書いていました。 >>116

[123] 元号年十二支時刻は元の日時に換算値を併記していますが、 なぜか月日は元の値だけです。 それも旧暦のまま欧米月名で書いています。 旧暦欧米月名表記は明らかな誤訳なのですが、 に注意を払っていない翻訳者が犯しがちなミスでもあります。 欧米月名

[124] 本サイトの英語文は、 原資料そのままの翻訳ではなさそうで、 どの部分がどの書籍に由来する記述なのかは明らかではありません。 謎の光の場面は挿絵として 日蓮上人 と思われる原文の一部が示されていますが、 その日本語文に日時は記載されていません >>119。 本サイトの「丑寅刻」説は他書に由来するのでしょうか。

[116] A Story of Nichiren Daishonin (蓮祖伝), , http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/Nichiren/index.htm

REFERENCES

  • The original Japanese story "Nichiren Shonin" was by A. Kumada in 1911 on The Hochi Shimbun Paper.
  • The original pictures were by K. Touko in 1920 for "Nichiren Shonin".
  • The new English story "Renso Den" is by K. Shibuya in 1999 - 2003, reference to a Japanese story "Nichiren Daishonin Shoden" in 1981 from Taiseki-ji.

[117] Renso Den (P.33), , http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/Nichiren/Frames/F33.htm

On September 12 in the eighth year of Bun'ei (1271),

[118] Renso Den (P.34), , http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/Nichiren/Frames/F34.htm

On the night,

[119] Renso Den (P.35), , http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/Nichiren/Frames/F35.htm

At the time of Ushi-Tora, between the time of Ushi (Cow: 2:00 a.m.) and Tora (Tiger: 4:00 a.m.), scarcely when the cuttman threw up his sword over the head, spherical something strongly shining suddenly appeared above Eno-shima Island and came flying to the place of execution. The soldiers were blinded by the flash and ran away by terror all at once. After that, no one dared to try again.


[111] いずれの説にしても現代の紹介文は現在の西洋式時刻の換算値を示していることが多いです。 しかしその根拠は明らかではありません。 十二支を単純に24時間に置き換えたものでしょうか。

[112] 前近代日本の十二支時刻制度は未だ完全には解明されていません。 江戸時代時点でも複数説があり統一されていなかった上に、 現在のような正確な時計がなかったことによる曖昧性 (不正確性) も内包しています。 十二支時刻

[113] そもそも鎌倉時代の夜間にどのような時刻制度が用いられ、 どのようにその時刻を知っていたか、謎が多いです。 定時法不定時法かによっても大きく変わってきます。

[114] 西洋式時刻は現代人が説明文を読んで何となくの時間帯をイメージするためくらいにしか使えないものです。 そのイメージも23時から4時と諸説ばらばらでは、 夜で暗かったのだろうということくらいしかわかりません。

[115] 広瀬秀雄の推測値 (>>44) は、 こうした解釈の問題を避けて天文学的視点を導入した点が特筆するべきものです。 ただし依拠した文献の信憑性 (例えば「あけぐれ」が史実なのか) の問題まで回避することはできていません。

光もの

[7] 龍口寺Webサイトによると、 「翌13日子丑の刻(午前2時前後)」 の死刑執行のとき、

「江ノ島の方より満月のような光ものが飛び来たって首斬り役人の目がくらみ、畏れおののき倒れ」(日蓮聖人の手紙より)

... があったとされます。 >>3

[10] 日蓮自身の手紙と言われるもので、 種種御振舞御書妙法比丘尼御返事 に(のみ)本件の記述があります。 それらによると、

子の刻(午前零時)、一行は竜口の刑場へ到着した。このとき下弦の月は、はや西方の雲 に入っていた。兵士たちは、日蓮を四方に取り囲むと、馬から降ろし、粗莚の上に座らせ、 首の座に据えた。と、そのとき、江の島の方向から月のような光った物が、鞠のように、 辰巳(東南)から戌亥(北西)にかけて光りわたった。深夜の暗闇の中、人の顔も見えなかった というのに、辺り一面明るくなった。太刀取り役(首斬役人)は目がくらみ、倒れ伏し、警 固の兵たちも地に伏し、あるいは馬上にうずくまる、という状態であった。

... のだといいます。 >>9

[11] また日蓮自身の手紙と言われる 四条金吾殿御消息, 文永8(1271)年9月21日に、

月天子は光物とあらはれ、竜口の頸をたすけ

と書かれていました。 >>9

[12] ただし、 種種御振舞御書 (種々御振舞御書), 妙法比丘尼御返事, 四条金吾殿御消息 の3通の手紙はいずれも原本が現存せず、 信憑性には疑問が持たれています。 日蓮宗系宗教者、一般の研究者とも、 偽書とする説が必ずしも認められてはいないものの、 真書と断定できるだけの根拠も十分とは考えられていないようです。 >>15, >>16, >>9, >>40 (709)

[13] ただし宗教者の中には真書だとして信仰している人もいますし、 たとえ偽書だとしても信仰対象と認めて良いとする人もいるようです。 文書の真偽や記載内容の信憑性の学術的な判断と、 その宗教的な価値は別次元の問題です。

[25] 種種御振舞御書 >>24妙法比丘尼御返事 >>26四条金吾殿御消息 >>9、 のものとされ、 真書だとすれば事件から4年後、6年後、9日後のものです。

[18] 日蓮の処刑未遂があったことは、 日蓮および同時代の他の史料にも見えることから、 史実であろうと考えられています。 処刑未遂自体が架空とする説もありますが、 宗教者、一般研究者ともあまり支持されていないようです。 >>9

[19] 謎の光は、積極的に肯定も否定もできるだけの根拠がないようです。 >>9

[17] また、 「太刀取り役・依智三郎直重の頭上に電光が落下し、 振りかざしていた刀がたちまち朽木のように三つに折れて飛び散った」 とする説話が広まっていますが、 これは 日蓮聖人註画讃, 円明院日澄 (-) の創作で、 出典を遡れないものとされます。 >>9

[55] 謎の光史実性否定説の根拠の1つに、 平家物語の1本に似た説話があることが指摘されています。 >>40
[23] 種種御振舞御書

[24] 御書本文|創価学会公式サイト, https://gosho-search.sokanet.jp/page.php?n=909

種種御振舞御書 建治二年 五十五歳御作

[20] 御書本文|創価学会公式サイト, https://gosho-search.sokanet.jp/page.php?n=912

さては十二日の夜・武蔵守殿のあづかりにて夜半に及び頸を切らんがために鎌倉をいでしに・わかみやこうぢにうちいでて四方に兵のうちつつみて・ありしかども、

[21] 御書本文|創価学会公式サイト, https://gosho-search.sokanet.jp/page.php?n=914

いかに・やくそくをば・たがへらるるぞと申せし時、江のしまのかたより月のごとく・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ人の面も・みへざりしが物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみ・たふれ臥し兵共おぢ怖れ・けうさめて一町計りはせのき、或は馬より・をりて・かしこまり或は馬の上にて・うずくまれるもあり、日蓮申すやう・いかにとのばら・かかる大禍ある召人にはとをのくぞ近く打ちよれや打ちよれやと・たかだかと・よばわれども・いそぎよる人もなし、さてよあけば・いかにいかに頸切べくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐるしかりなんと・すすめしかども・とかくのへんじもなし。

はるか計りありて云くさがみのえちと申すところへ入らせ給へと申す、此れは道知る者なし・さきうちすべしと申せどもうつ人もなかりしかば・さてやすらうほどに或兵士の云く・それこそその道にて候へと申せしかば道にまかせてゆく、午の時計りにえちと申すところへ・ゆきつきたりしかば本間六郎左衛門がいへに入りぬ、

其の日の戌の時計りにかまくらより上の御使とてたてぶみをもちて来ぬ、頸切れという・かさねたる御使かと・もののふどもは・をもひてありし程に六郎左衛門が代官右馬のじようと申す者・立ぶみもちて・はしり来りひざまづひて申す、今夜にて候べし・あらあさましやと存じて候いつるに・かかる御悦びの御ふみ来りて候、武蔵守殿は

[22] 御書本文|創価学会公式サイト, https://gosho-search.sokanet.jp/page.php?n=915

今日・卯の時にあたみの御ゆへ御出で候へば・いそぎ・あやなき事もやと・まづこれへはしりまいりて候と申す、かまくらより御つかいは二時にはしりて候、今夜の内にあたみの御ゆへ・はしりまいるべしとて・まかりいでぬ。

追状に云く此の人はとがなき人なり今しばらくありてゆるさせ給うべし・あやまちしては後悔あるべしと云云。

其の夜は十三日・兵士ども数十人・坊の辺り並びに大庭になみゐて候いき、九月十三日の夜なれば月・大に・はれてありしに夜中に大庭に立ち出でて月に向ひ奉りて・自我偈少少よみ奉り諸宗の勝劣・法華経の文あらあら申して抑今の月天は法華経の御座に列りまします名月天子ぞかし、宝塔品にして仏勅をうけ給い嘱累品にして仏に頂をなでられまいらせ「世尊の勅の如く当に具に奉行すべし」と誓状をたてし天ぞかし、仏前の誓は日蓮なくば虚くてこそをはすべけれ、今かかる事出来せばいそぎ悦びをなして法華経の行者にも・かはり仏勅をも・はたして誓言のしるしをばとげさせ給うべし、いかに今しるしのなきは不思議に候ものかな、何なる事も国になくしては鎌倉へもかへらんとも思はず、しるしこそなくとも・うれしがをにて澄渡らせ給うはいかに、大集経には「日月明を現ぜず」ととかれ、仁王経には「日月度を失う」とかかれ、最勝王経には「三十三天各瞋恨を生ず」とこそ見え侍るに・いかに月天いかに月天とせめしかば、其のしるしにや天より明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝に・かかりてありしかば・もののふども皆えんより・とびをり或は大庭にひれふし或は家のうしろへにげぬ、やがて即ち天かきくもりて大風吹き来りて江の島のなるとて空のひびく事・大なるつづみを打つがごとし。

[26] 妙法比丘尼御返事(みょうほうびくにごへんじ)交互文, , http://hiraganagosho.web.fc2.com/b1406.html

又 去ぬる 文永 八年 九月 十二日に 佐渡の 国へ 流さる.

第二度は 外には 遠流と 聞こへ しかども 内には 頸を 切るべしとて.

鎌倉 竜の口と 申す 処に 九月 十二日の 丑の時に 頸の座に 引きすへられて 候いき.

いかがして 候いけん.

月の 如くに をはせし物 江の島 より 飛び 出でて 使の 頭へ かかり 候い しかば.

使 おそれて きらず.

とかうせし 程に 子細ども あまた ありて 其の 夜の 頸は のがれぬ.

弘安 元年 戊寅 九月 六日.

光の正体は諸説あります。

[48] 謎の光の正体について、 現在までに様々な説が提示されてきました。

[54] このように※諸説あります (※どれも同様に確からしいとは言っていない)。

[60] 種種御振舞御書 では謎の光の翌日に落雷のようにも解せる記事があります。 >>22, >>50 平成時代ウェブサイトへの投稿でこの両日を混同した事例があり >>50、 これまでの伝承の過程でもやはりそうした混同が繰り返された可能性が示唆されます。 混同でないとしても、謎の光の正体を雷だとする説の根拠にされることはあったかもしれません。

[58] 日蓮の「龍ノ口法難」は実際にあったのでしょうか?とても伝えが事実だとは思え... - Yahoo!知恵袋, Yahoo! JAPAN, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12145695857

小西範明さん

2015/5/18 17:46

日蓮聖人自身が龍ノ口法難について記述している文章が現存しています。

それによると、首筋役人の刀に落雷したとは書いてませんが、近くに落雷があった事は事実の様です。

流星説

[43] 謎の光の正体について、 それが史実だとした場合、 エンケ彗星に由来する流星群流星が観測されたものだとする説があり、 古天文学者や日蓮系宗教者らの間で有力視されています >>59, >>79, >>75, >>65, >>66。 一般にも広まっています >>46, >>57, >>62

[44] この説は広瀬秀雄が唱え、 斉藤国治も賛同していました。 >>40 広瀬秀雄 (-) 東京天文台長も務めた昭和時代日本を代表する天文学者でした。 斉藤国治 (-) 東京天文台の研究者で古天文学を確立したことで知られています。

[45] 古天文学でその後本説への反対説があったのかどうかは不明ですが、 少なくても有名な反対説はないようです。 少なくても昭和時代天文学知識においては、 謎の光の正体が天文学的現象であると仮定すれば、 エンケ彗星由来であった可能性が高いと言ってよさそうです。

[67] 広瀬秀雄は、 文永8年9月13日すなわちグレゴリオ暦10月25日の月没日本標準時の午前3:44であることから、 「あけぐれ」は月没かその少し後、およそ4時前であると推測しました。 また、 10月下旬にエンケ彗星が母体となったおひつじ・おうし座の流星群が活動することから、 その流星であると推定しました。 >>65, >>66

[68] ちなみにこれを紹介した平成時代ブログ記事は、 英語版もありますが、旧暦の9月を September と訳していました。 >>66

[73] この広瀬秀雄の説について、 論文があり >>42、 そこに掲載されている可能性があります。

[74] また広瀬秀雄の没後の随筆が収録された書籍が発行されました >>71。 それと同題のの文章から本説を紹介したブログ記事があります >>65, >>66。 平成版はその引用元を再出版したものと推測されますが、 昭和版がどの媒体で発表されたものかは不明です。 ウェブ検索では情報を発見できません。

[96] 創価学会池田大作は、 広瀬秀雄の研究成果を、 開祖の伝承を裏付ける科学的根拠として好意的に受け入れ、 創価学会関係者による更なる検証を推奨しました。 >>79 (ともすれば開祖の奇跡を否定し教義を危険に晒すものと攻撃してしまいそうですが、 そのような解釈は採らなかったわけです。) 科学が発達した現代における宗教のあり方の一端を示した興味深い事例ともいえます。
  • [88] 宇宙と仏法を語る
    • [83] から13ヶ月間で連載された。 >>82
    • [84] その後潮出版社から全3巻で刊行された。 >>82
    • [85] その後「若千の加筆」で全集に収録された。後記日付「平成四年四月二日」。 >>82
    • [86] その後全集版を底本Webページに掲載された模様。
    • [79] 日蓮大聖人御書|池田大作著書|御書検索|スピーチ検索, http://gmate.org/gs/lib/gs041.cgi?sno=S0G070000&dan=14&ori=&K=

      第七章 「死」の実体に迫る仏…

      「宇宙と仏法を語る」(池田大作全集第10巻)

      ―― 文永年間は、世界的に類例のない天体異変の連続だったということでしたが、この「竜の口」の不思議な場面について、少し語っていただけませんでしょうか。

      木口 ええ、そうですね。「竜の口の法難」は歴史的にもたいへん有名です。約七百年前の事件でありましたが、史実も確かなようです。

      ―― そうですね。

      木口 ただ、驚くべきことは、竜の口の刑場上空を閃光のように走った“火の玉”が、あたりを昼間のように照らしたという事実です。

      日蓮大聖人が、その場において、いままさに処刑にあわれんとした事実との関連性も、まさしく不思議と言わざるをえませんね。

      ―― 事実というものは、どこまでも事実でありますから……。

      いかなる原因といいますか、因果関係によってかかる現象となったか――ということを追究し解明したい、というのも現代人として当然のこととなりますね。

      木口 竜の口の刑場で武士の一人が、まさに頚を切らんと太刀を振りかざしたとき、とつぜんの天体現象が起こり、切ることができなかったというのは有名ですね。

      ―― 信じがたいほど不思議ですが、これは有名な事実ですね。

      池田 とつじょ、月のような“光り物”が飛びきたったことは、古来、種々の議論がなされたところです。

      木口 なるほど。そうでしょう。

      池田 しかし、それは仏法についての無認識と偏見、またその史実を裏づけるような科学の未発達が、背景にあったと言わざるをえない。

      ―― このときの状況は、「開目抄」「種種御振舞御書」、あるいは、このとき殉死の覚悟で馳せ参じた四条金吾への手紙などに、詳しくしたためられていますね。

      池田 そのとおりです。

      文永八年(一二七一年)九月十二日の丑寅の刻、いまの時刻でいえば、午前二時から四時にあたります。

      漆黒のような暗闇のなか、毬のような“光り物”が、江ノ島の方角から飛んできた。その強烈な閃光に、太刀取りは目がくらみ倒れ臥し、他の武士たちも、恐怖に大混乱をきたしたとあります。

      ―― たしかに、いくつもの御遺文にしたためられておりますね。

      池田 この天体異変を研究した天文学界の権威がおられる。故広瀬秀雄博士です。博士は、天文学上の史料をもとに、年月日、時間、高度、方位角から逆算して、これをエンケ彗星の通過による大流星であると確定している。

      ―― 私も、広瀬博士のその研究論文のコピーを持っております。いや、さきに申し上げればよかった。(爆笑)

      この方は東大の名誉教授で、東京天文台台長をなさった方ですね。

      木口 広瀬博士は私も知っていますが、エンケ彗星は、地球に接近する周期が三・三年と最も短い彗星です。

      これはアメリカの有名な天文学者フレッド・ホイップル博士が研究していることは、よく知られています。

      池田 そうですね。広瀬博士は、そのホイップル博士の研究から確認していったわけです。

      ―― この点を、もう少しお話しいただけないでしょうか。

      池田 そうですね。まず、文永八年九月十二日の「丑寅の刻」を『年代対照便覧』でみますと、一二七一年十月二十五日の明け方「午前四時」になります。

      ―― なるほど。

      池田 次に博士は、ドイツのK・ショッホがつくった『天体運行表』で計算していますが、それによると、この日の月没の時刻が、午前三時四十四分となっています。

      御文にも、「夜明けなばみぐる (見苦) しかりなん」と処刑を重ねてうながされている。

      木口 なるほど。

      池田 また、「上野殿御返事」の御文には「三世の諸仏の成道は () うし () のをわり・とら () きざみ () の成道なり」とあります。博士は、午前三時四十四分の「丑の刻」の終わりから午前四時の「寅の刻」までの間に起きたという“光り物”を、この季節に明るい流星を発生させる「おひつじ・おうし座」流星群に属するものではないかと考えていったわけです。

      木口 そうですか。「おひつじ・おうし座」流星群は、エンケ彗星を母彗星としています。ホイップル博士が研究したエンケ彗星による流星群が、四方に飛び散るときの中心点の位置から、地球の運動を補正して逆推算していくと確認できますね。

      池田 そのとおりです。どうも広瀬博士は、この“光り物”を、ホイップル博士のデータから、午前四時に出現した高度三十四度、方位角は南から西へ七十九度の「おひつじ・おうし座」のエンケ彗星によって生まれた大流星に間違いないとしたようです。

      木口 たしかに広瀬博士の研究は、日蓮大聖人の御文を科学的に裏づけていますね。私もなにかの機会に、もう一回、その論文をもとに計算してみたいと思います。

      池田 ぜひ、研究してください。

    • [80] 木口勝義は、理論天体物理学者。後に近畿大学教授ウェブ検索で発見できる主要な業績は、 創価学会関連の出版物への掲載など。
    • [81] 聞き手 (――) は志村栄一創価学会系出版社潮出版社の幹部。
    • [82] 日蓮大聖人御書|池田大作著書|御書検索|スピーチ検索, http://gmate.org/gs/lib/gs041ex.cgi?sno=S0G160000&dan=1&ori=&K=&pgm=gs041ex.cgi
  • [76] 随筆 新・人間革命, 池田大作
    • [78] 初出は聖教新聞の連載記事。
    • [77] Amazon.co.jp: 池田大作全集 第131巻 随筆 : 池田 大作: Japanese Books, https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4412013308/wakaba1-22/
    • [75] 日蓮大聖人御書|池田大作著書|御書検索|スピーチ検索, http://gmate.org/gs/lib/gs041ex.cgi?sno=SB3590000&dan=6&ori=&K=

      黎明の竜の口(上) 法難の闇を破った「太陽の仏法」

      2001.3.29 随筆 新・人間革命3 (池田大作全集第131巻)

      6 この「光り物」の正体は、何だったのか。

      それは、「おひつじ・おうし座」流星群ではないか、という研究がある。

      東京天文台長であり、東大名誉教授でもあった、故・広瀬秀雄博士の説である。

      博士は、文永八年九月十二日夜の「光り物の出現」の時刻について、「月没ごろか、その少し後」と推定されている。

      その日の「月没」は、「午前三時四十四分」という。

      御書には、光り物は、闇を切り裂いて、「辰巳(南東)から戌亥(北西)にかけて」光りわたったと記されている。

      幾多のデータを分析し、解析した結果から、光り物は、午前四時ごろに出現した「大流星」であろうというのが、博士の見解であった。

      その高度は三四度、方位角は南から西へ七九度。

      時期的に見て、これは、エンケ彗星を母彗星とする「おひつじ・おうし座」流星群から生まれたという推察である。

    • [94] 随筆 新・人間革命 204 黎明の竜の口(上) - Winsdom, 2001-03-29, https://peppie.hatenadiary.org/entry/20010329/1188192507

      この「光り物」の正体は、何だったのか。

      それは、「おひつじ・おうし座」流星群ではないか、という研究がある。

      東京天文台長であり、東大名誉教授でもあった、故・広瀬秀雄博士の説である。

      博士は、文永八年九月十二日夜の「光り物の出現」の時刻について、「日没ごろか、その少し後」と推定されている。

      その日の「日没」は、「午前三時四十四分」という。

      御書には、光り物は、闇を切り裂いて、「辰巳(南東)から成亥(北西)にかけて」光りわたったと記されている。

      幾多のデータを分析し、解析した結果から、光り物は、午前四時ごろに出現した「大流星」であろうというのが、博士の見解であった。

      その高度は三四度、方位角は南から西へ七九度。

      時期的に見て、これは、エンケ彗星を母彗星とする「おひつじ・おうし座」流星群から生まれたという推察である。

      • [95] 「日没」とあるのは入力ミスか、OCR誤認識か?
  • [40] ツブヤキすれっど, , http://nichirenhokke.web.fc2.com/keijiban/tubuyaki.htm

    699

    紀野一義氏の著書『日蓮―民衆と歩んだ不屈の改革者』(廣済堂出版 1995年)において、次のような注目すべき記述もございます。
    
    =======================================
    『星の記録』(岩波新書207)を書いた斉藤国治氏は、この光り物について、
    
      「この光り物については、すでに広瀬秀雄氏の研究があり、このときおひつじ・お
      うし座流星群の一流性が出現したのだと解釈されている。この流星群は太陽暦で十
      月下旬ごろ活動し、しばしば明るい流星を出現させることで知られている。その母
      彗星はエンケ彗星で、この彗星がその軌道上にそって落とした一小片が偶然にも日
      蓮のいのちを救ったといえよう」(110頁)
    
     といっておられます。
    =======================================
  • [59] 日蓮正宗と創価学会では「龍ノ口法難」について正式にはどういうふう... - Yahoo!知恵袋, Yahoo! JAPAN, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12158987232
  • [61] 日蓮さんの竜の口の光物は彗星やなんかだったのでしょうか? - エンケ彗... - Yahoo!知恵袋, Yahoo! JAPAN, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10151424575
[65] 三十一、発迹顕本(ほっしゃくけんぽん) : 日蓮大聖人『御書』解説, johsei1129, 2017年 04月 08日, https://nichirengs.exblog.jp/21177329/

現在の午前三時前後、丑寅の刻であった。

東京天文台長で東大教授だった広瀬英雄は、この光物の正体は彗星が落とした破片(流星)だったという。

この日、文永八年九月十三日は太陽暦で今の十月二十五日にあたる。日蓮によると光物が出現する直前は真っ暗で、人の顔も見えなかった。この時を「あけぐれ」と呼んでいる。天体運用表で計算してみると、当日の月没時刻は午前三時四十四分(日本標準時)であるから、死刑執行予定時刻は月没ごろかその少しあと、ほぼ現在の午前四時前と考えてよい。寅の刻の只中である。

さらに広瀬はこの光物が、おひつじ・おうし座の流星群に属するものと考えた。なぜならこの流星群は十月下旬に活動し、しばしば明るい流星を発生させるからである。この流星群を発生させる母体がエンケ彗星である。この彗星は太陽の周りを三・三年の周期で公転する。その軌道に沿って落としていった小さな破片(流星)が地球に落下し、日蓮の命を救ったという。『流星光底の長蛇・日蓮と星』一九七三年

[66] 31. Sweeping out the Provisional Figure and Showing the Fundamental : 日蓮大聖人『御書』解説, johsei1129, 2020年 08月 23日, https://nichirengs.exblog.jp/27959176/

At around 3:00 a.m. in the present, it was the time of the Ox and Tiger.

Hideo Hirose, who was the director of Tokyo Astronomical Observatory and was the professor at Tokyo University, said that the true shape of this bright matter was the piece which a comet dropped, namely a meteor.

That day, September 13 in the 8th year of the Bun'ei era (1281) is October 25 of the present day according to the solar calendar. According to Nichiren, just before the luminous body appeared, it was pitch-darkness, and could not see the face of the person either. He says this hour is 'before dawn and still too dark'. When Hirose calculated in the operative list of heavenly bodies, estimated time of the execution can be thought at about the time of moonset, or at least before 4:00 a.m. because the time of moonset of the day was at 3:44 A.M.

Furthermore, Hirose thought that the luminous body belonged to a meteor swarm of Aries and Taurus. This meteoric swarm is active in the late October, and this is because it often produces a bright meteor. The base producing this meteor swarm is Encke's comet. This comet revolves around the sun with a period of 3.3 years. A small piece (a meteor) which it dropped along this orbit falls to the earth, Hirose said that it has saved the life of Nichiren. 'The big achievement beneath the flash of meteoroid - Nichiren and stars. In 1973.'

超新星爆発説 (怪しい)

[127] 超新星残骸 Vela Junior (RX J0852.0−4622, G266.2−1.2) は、 頃の地球爆発が到達したと推測されます。 >>128 謎の光はその爆発を観測したものだという説があります。

[132] この説は21世紀に海外の超新星研究者の一部で提唱されています (がその論拠は不審な点が多く、再検討が必要です)。


[156] 南アメリカの研究者 Richard Peter Wade は、 アフリカ史の >>157ニュージーランド>>126 の記録と超新星の関係を主張する論文を発表しました。 両論文は日本で記録された本件謎の光にも一節を割いていました。

[161] の発表は博士論文の一章でした >>157。 あるいはそれ以前に何らかの形で発表されていたかもしれません。 現在この博士論文Web で容易に入手可能ですが、 当時からそうだったのかはわかりません。

[162] の論文は、 古記録と計算が一致したという旨の記述に 「(Wade et al., 2014; Aschenbach, 2016)」 と出典を与えていました。 >>126 #page=9

[187] 前者は Richard Peter Wade の共著論文ですが、それらしき記述は見つかりません。 博士論文 (出典「Wade, 2015」) の誤引用が疑われます。

[188] 後者は参考文献一覧に該当するものがなく、 1年ずれた Aschenbach, 2017 がBernd Aschenbach の発表 (>>133) に当たります。 やはり誤引用でしょう。

[164] 後者は開催の会議録収録です。 もしかするとに刊行されたのかもしれません。

[163] の両論文の該当部分は、 細部を除けば一致しています。

[189] その細部の違いの1つが、の論文が Wade, 2015 すなわちの論文をしばしば引用している点です。 ところが引用を除くと両者の情報量は同じで、何を参照しているのか不明です。

[190] 例えば、 四条金吾殿御消息 からの引用部分には

The twenty-first day of the ninth month in the eighth year of Bun‘ei (1271)” (Watson 1993; Tanabe 2002: 357)

版で書かれていました >>157 #page=187。 これが>>126 #page=10 では

The twenty-first day of the ninth month in the eighth year of Bun’ei (1271) (Watson, 1993; Tanabe, 2002: 357; Wade, 2015).

と出典が1つ増えているのですが、 版にこの引用について特に参照するべき情報があるようには思われません。 版も版も同じ英訳文全文が引用されていて、 それ以外に特に参考情報も付け足されていないからです。 他の箇所にもほぼ同様のことが言えます。

[191] こうした不審な引用は、些細なミスかもしれませんが、 論文の品質に懸念を抱かざるを得ません。 先行研究に裏打ちされた検証済みの事実のように見えても、 そうだとも限らないのです。

[165] さて、 謎の光について、 の時点では 「13th September 1271」 の記録があるとされていました。 >>159 #page=186 には、 Bernd Aschenbach によって 「13 September 1271」 の記録と計算の一致が確認されたとしていました。 >>126 #page=9 Bernd Aschenbach の論文 (>>133) の存在により断定の度合いが強まっていますが、 それ以外の記述はほぼ同じです。

[166] その謎の光について Tanabe, 2002 >>192 を出典に

a brilliant orb as bright as the moon

があったとし、2つの図を引用しました。 >>159 #page=186, >>126 #page=10

[173] 説明文は引用された絵の内容に由来するものではなく、 Webサイト蓮祖伝 >>119 に基づくことは明白です。

[174] 更には、 謎の光からわずか9日後の手紙として 四条金吾殿御消息 の英訳を Watson, 1993; Tanabe, 2002 から全文引用しました。 その日付は

The twenty-first day of the ninth month in the eighth year of Bun‘ei (1271)

と書いていました。 >>159 #page=187, >>126 #page=10

[196] Tanabe, 2002 は日蓮聖人全集 >>194 の英訳本です >>193日蓮文書の英訳が収録されているのでしょう。 日本語原文や原本編者または翻訳者による注釈・解説が含まれているかは不明です。

[198] Watson, 1993 は創価学会による法華経の英訳 The Lotus Sutra and Its Opening and Closing Sutras です。 創価学会ウェブサイトに全文が掲載されています >>197 が、日蓮には直接関係しない内容しかありません。

[201] Watson, 1993 の書誌情報には創価学会ウェブサイトURL がいくつか記載されていますが、いずれも The Lotus Sutra and Its Opening and Closing Sutras ではなく The Writings of Nichiren Daishonin Volume I >>200 (創価学会原著(編), The Gosho Translation Committee 訳, ) のものです。

[202] 両論文とも法華経とは直接関係しないものですから、書名は誤りで URL が正しいと考えるべきでしょう。 URL の1つを開くと確かに 四条金吾殿御消息 の英訳 (>>174) があります >>140。 なおPDFハイパーリンクが壊れています。 書かれている URL は正しいのですが。 著者自身の誤りか出版過程での誤りかはわかりませんが、 博士論文ですから著者本人の関わりが大きいかもしれません。

[204]論文は、 謎の光は流星のように考えられているものの、 別件の流星らしきものと日蓮は書き方を区別しているのだといいます。 >>159 #page=187, >>126 #page=12 すなわち、次のように書いています。 >>126 #page=12

It is generally thought that this was a meteor from later written references; however, the only discernible information from the records is that the object first appeared over the area known as Enoshima which is south-east from the beach at Tatsunokuchi. The object traversed the sky and in later ver- sions was seen to enigmatically “shoot” across the sky to the south-west (Watson, 1993: 269; Wade, 2015).

The Daishonin, later confined to Homma’s residence in Echi, relates that a luminous object fell from the sky and struck the branches of a plum tree before him accompanied by a thunder- like roar and strong winds which may relate to a meteor seen after the first event by Nichiren (Watson, 1993: 237; Tanabe & Tanabe, 1989).

Nichiren clearly makes a distinction between what he saw on two occasions. That a meteor is a heavenly son of light from the god of the stars and that the shining object he saw on the dawn of his intended beheading was a son of light from the god of the Moon.

The object was as bright and possibly as large as the Moon. The Moon was visible as a 23-day old waning crescent and no mention is made that the object seen was accompanied by tremors, sounds or flashes. The object is seen as a luminous entity that moved across the sky from the southeast over the sea horizon (Wade, 2015).

[205] この説明は、 The Writings of Nichiren Daishonin Volume I 所収英訳 四条金吾殿御消息 に対する Notes の 6. の記述 >>140

It is generally thought that this was a meteor. Regarding the reference to the god of the stars, the Daishonin records in his work The Actions of the Votary of the Lotus Sutra that, while he was confined at Homma’s residence in Echi, a luminous object fell from the sky and struck the branches of a plum tree before him. It is not clear what this was, though it may have been a lightning-related electrical discharge—the Daishonin mentions a thunder-like roar and strong winds in his description.

に基づくことが明らかです。 この注記は、 謎の光が一般に流星と考えられていると述べるとともに、 種種御振舞御書に記載のある落雷説のある別件 (>>60) との関係を指摘しています。

[175] なお現在創価学会ウェブサイトで公開されている 日蓮大聖人御書全集 新版 (英訳版の底本の改訂版) には注記が一切なく >>203、 この注記が英訳版独自のものなのか、 原典のある英訳文なのかはわかりません。

[206] 両論文は、この注記を下敷きに、とは明確に区別して記述されているのだから、 流星ではないと主張しているのです。

[207] ここまでの検討で参照されたのはすべて日蓮系の宗教が発行した英訳文で、 著者日本語原文を見ているのかはわかりません。 文献史学的な研究史をどれだけ把握していたのかも不明です。 事件直後の史料を重視する姿勢は良いのですが、 史料の信憑性を検討した形跡がありません。 実はどちらも真贋が確定していないので (>>12)、 それに依拠して仔細を断定するのは危険なのです。

[208] 日本古天文学研究者の流星説は、半世紀以上前の日本語の論文ですから、 そこにたどり着くのを求めるのは少々酷かもしれません。 創価学会の出版物が流星説を俗説程度にしか紹介せず、 池田大作が支持した広瀬秀雄の研究 (>>44) を引用しなかったのも不幸でした。

[209] とはいえ日本の有力な宗教の有名な創建伝説なのですから、 日本人(もしかすると日本人でなくても日本史や宗教史の研究者が) 研究しているはずだと考えそうなものですが、 なぜか先行研究といえるものが1つも引用されていません。 ここはもう少し慎重になるべきでした。

[210] こんな具合ですので流星説の妥当性は両論文でまったく検討されておらず、 肯定も否定もされていないと判断せざるを得ません。 それでも超新星説が成立する可能性はありますから、 そちらも検討する価値はあります。 両論文はシミュレーターを使って当時の夜空を復元しています。

[176] ところがそのシミュレーションが、

Tatsunokuchi beach, Ishikawa town located in Nomi District, Ishikawa, Japan at the place of executions near the shrine of the god Hachiman 36°29'35.97"N 136°32'5.83"E on the early morning before dawn of the 13th>>159 のみ September 1271.

という珍妙な条件なのです。 >>159 #page=187, >>126 #page=12

[177] この座標日本国石川県白山市に当たります。 前近代は加賀国石川郡柏野村で、能美郡とは少し離れています。 5km ほどに目を移すと、 石川県能美市辰口 (たつのくち) 地域があります。 までは能美郡辰口町でした。 そしてこの周辺には八幡神社が多数存在します。 (もっとも日本中およそどこでも八幡神社はありふれていますが...)

[178] 座標は海岸線から3km、辰口から5kmも離れていて、なぜここが Tatsunokuchi beach に選ばれたのかは謎なのですが、 引用された Google Maps の地図上にも確かに石川県にピンが刺さっているのです。 >>159 #page=192

[179] 更に謎は深まるのですが、 シミュレーション結果の図として、 どこかの海岸の崖 (特に説明されない謎の写真) の奥、 上の南西方向に当該超新星が見える夜空が描かれています。 >>159 #page=189, >>126 #page=13 Google Maps地図上の位置では、 どう考えても海の向こうの夜空なんて見えるはずがないのですが。

[180] シミュレーションによれば、超新星は 13 September 1271 において

だったといいます。 >>159 #page=187 - 190, >>126 #page=12 - 13

[184] 旧暦月の日月齢なのですから、この日見えるは 13日のでなければなりません。これはいったいいつの計算結果なのでしょうか。

で、どれも23日には程遠いのです。

[185] まさかとは思いますが、 は旧暦1971年7月24日、 月齢は23です。 これは偶然でしょうか?

[212] 時刻は2時から4時だとする解釈 (>>166) との整合性をどう考えたのかも気になりますが、 もはや些細なことのようにも思われます。

[229] 当時北半球で当該超新星が観測できたかどうかは疑問だとの指摘もあります。 >>225, >>227 まずは正確な位置、正確な日時で信頼できる計算が必要です。

[186] この結果から古記録と天体計算が一致したといわれても、 もう少しじっくり考え直してもらいたいというのが正直なところではないでしょうか。


[133] の会議でドイツの研究者 Bernd Aschenbach は、 超新星爆発の推定時期について、 日本で 「September 12, 1271」 に

an object as bright as the full moon suddenly appeared on the sky about 10 degrees above the horizon

(地平線上約10度に突然満月のように輝く天体が出現した)

旨が報告されている、と発表しました。 >>131 #page=4

[134] この発表は超新星側の検討が主で、 歴史学的、古天文学的な検討はなされていません。 謎の光についての出典も1つも示されていません。 謝辞によれば、 Richard Wade から示唆を得て、 Franco Giovannelli から情報を得たのだとあります >>131 #page=7Richard Peter Wade論文 (>>156) は引用されていませんから、 それを Bernd Aschenbach が読んでいたのか、 概略だけ知らされたのかはわかりません。

[211] 「約10度」は Richard Peter Wade のシミュレーション結果がもとでしょうか。

[137] その Franco Giovannelliイタリアの研究者ですが、 同会の総括で Bernd Aschenbach の成果を称賛し、 The writings of Nichiren Daishonin Vol. I の一部を引きつつ事件の概要を紹介しました。 すなわち、

a round shining object (as bright as the full Moon) appeared suddenly from the direction of Enoshima. The executioner fell on his face, his eyes blinded.

ということがあったのが 「12th September 1271」 で、まさに時期と明るさが計算と一致するというのです。 >>136

[138] こちらは

[5] Daishonin, Nichiren: 1999, The writings of Nichiren Daishonin, Soka Gakkai, Vol. I, p. 196.

と面白い引用 (姓が Nichiren、名が Daishonin ?) があり >>136 #page=6、 この創価学会の出版物 >>139Franco Giovannelli のネタ元の1つだったようです。 現在では同書の全文が創価学会ウェブサイトで公開されています >>140。 そこで引用されたページを見ますと、 該当するような記述はありません。 この文献に由来するのは引用文として明示されているところだけで、 謎の光の一節はどこか違うところに由来するようです。

[143] Franco Giovannelli による謎の光の記述は、 (本項に引用した部分の前後も含めると) ウェブ上で公開されている 種種御振舞御書 (On Various Actions, Shuju Onfurumai Gosho) の英訳 >>141 の該当部分と非常によく似ています。 Franco Giovannelliウェブ上でこの英訳文を見つけたのか、 何らかの書籍に収録されたものを見たのかはわかりませんが、 これと同系統の英文を口頭発表用に若干言い換えたものとみてよさそうです。

[144] なお、 種種御振舞御書 英訳文は

On the night of the twelfth day of the ninth month in the eighth year of Bun'ei (1271), cyclical sign kanoto-hitsuji,

That night of the twelfth,

I had no sooner said this when a brilliant orb as bright as the moon burst forth from the direction of Enoshima, shooting across the sky from southeast to northwest. It was shortly before dawn and still too dark to see anyone's face, but the radiant object clearly illumined everyone like bright moonlight. The executioner fell on his face, his eyes blinded.

のように書いています。 >>141 当訳文も The writings of Nichiren Daishonin Vol. I >>139年月日欧米月名を使っていない (のに Bernd AschenbachFranco Giovannelli欧米月名に読み替えてしまっている) ことは注意されるべきです。

[145] そして当訳文の 「shortly before dawn」 (あけぐれ) >>141The writings of Nichiren Daishonin Vol. IBackground

On the twelfth day of the ninth month of last year, between the hours of the rat and the ox (11:00 p.m. to 3:00 a.m.),

(開目抄 >>103 からの引用) >>139 といった貴重な時刻情報がここではスルーされてしまっています。

[147] Franco Giovannelli はその後からにも Bernd Aschenbach の研究成果と The writings of Nichiren Daishonin Vol. I >>139 を紹介しています。 それによると、

Historical document (Tatsunokuchi Persecution of Nichiren Daishonin "the Buddha of the last day of the law") supports this result with an exceptional precision: The date of the explosion was 12 September 1271 (1 ± 2 a.m. - between the hours of the rat and the ox) (Soka Gakkai, 1999). How is it possible to affirm that the explosion of the SN Vela Jr happened in that date with a strong precision?

At that moment Nichiren was about to be beheaded, a luminous object (full Moon) shot across the sky, brightly illuminating the surroundings. The executioner fell on his face, his eyes blinded. The soldiers were filled with panic. Terrified, the soldiers called off the execution. This happened on the twelfth day of the ninth month of 1271, between the hours of the rat and the ox (11:00 p.m. to 3:00 a.m.).

と説明されています。 >>146, >>148, >>149 もほぼ同じ

[151] ここでは時点ではスルーされていた時刻まで含め、 超新星爆発日時を前後2時間の精度で特定できたと述べられています。

[152] この精度で議論するなら暦法時法の検討が必須なのですが、 何も書かれていない (論文も参照されていない) ので、そのような検討がなされたのかはわかりません。

[155] 不思議なことに最初の段落では欧米月名を使って日付が表記されていて、 最後の段落では説明的に月日が表記されています。 後者は英訳版の表記に引きづられたのでしょうが、 なぜ表記が違う (英語の一般語として不自然な表記である) まま残したのでしょうか。表記の違いが暗示する暦法の違いは意識にあったのでしょうか。

[154] 時刻の範囲が23時から3時にわたることからの妥当性にも疑問がわきそうなものですが、 12日としたまま何の疑問も挟まれていないようです。

[160] Richard Peter Wade論文 (>>156) は引用されていませんから、 それを Franco Giovannelli が読んでいたのか (そもそも知っていたのか) はわかりません。 Franco Giovannelli の説明には Richard Peter Wade の議論は反映されていないように見えます。


[213] このように超新星説は

とその当否を議論するレベルに達していないものであります。

[218] それをもって超新星説の可能性は否定されるものではないのですが、 まずは学説として成立するものが提出されるのを待つべきでしょう。

[221] 英語版 Wikipedia は、 の改訂以来、 Richard Peter Wade論文 (>>156) を出典に超新星爆発に起こったことが日本鎌倉で記録されていると書いています。 その改訂以前は頃だが疑念もあるとしていましたが、 その記述は削除されて確定的に書かれています。 >>219 実は更に遡ると頃と書かれていました。 >>222

[224] 通説化したともいえない事項で (併記するでも研究史を説明するでもなく) 記述をころころ変えてしまう Wikipedia の編集方針は困ったものですね。 Wikipedia

[232] 日本語ウィキペディアの改訂以来、 Richard Peter Wade論文 (>>156) を出典に超新星爆発龍ノ口法難の光と推定されていると書いています。 >>231 その改訂以前は記録がないと書かれていました。 (なお論文の主題であるニュージーランドの事例については何の言及もないままです。 これでは編集者が論文を読んだのか不明です。)

メモ