[1] 竜ノ口の法難は、 当時仏教系新興宗教だった日蓮宗開祖日蓮に対し、 日本政府 (鎌倉幕府) が死刑執行を直前で中止し、 流罪に改めた事件です。
[2] 日蓮宗およびその派生宗教では、 建教期に開祖の受けた宗教弾圧事件の1つとして重視され、 語り継がれてきました。 とりわけ創価学会は日蓮の奇跡が強調され信仰されているようです。
[4] 現在の日本国神奈川県藤沢市、 当時の鎌倉幕府所在地の鎌倉から近い竜ノ口の刑場で日蓮の死刑が執行されるところでした。
[39] 現在の日時でいう (通説によって換算すると、グレゴリオ暦の文永8(1271)年10月25日、 ユリウス暦の文永8(1271)年10月18日) の早朝夜明け前の死刑執行を中心とする出来事とされます。
[107] 現在よく紹介される説の1つは、 「12日子丑刻」または「13日子丑刻」の出来事だったとするものです。
[6]
龍口寺の Webサイトは、
日蓮は
「文永8年(
[38] 日本語版ウィキペディアの龍ノ口法難の記事は、 龍口寺の Webサイトを参照しつつ、 「文永8年9月12日(ユリウス暦1271年10月17日)」 の 「翌日の9月13日子丑の刻(午前2時前後)」 に執行されるところだったと説明しています >>37。
[33] この 「子丑」 という十二支時刻はどういう意味なのでしょうか。 当時一般的な表現だったのでしょうか? 現在Google検索では日蓮関係の記述ばかりが見つかります。
[34] 日蓮正宗のWebサイトは、 執行未遂を「丑の刻」のこととしながら、 「この子丑の時というのは仏法上深い意義をもっています。子丑は陰の終り・死の終り、寅は陽の始め・生の始めを意味しますが、釈尊を初めとする多くの仏様もこの丑寅の時刻に成道(仏様となること)したのです」 と 「子丑」 の意義を説明した上で、 「文永8年9月12日の子丑の刻は、大聖人の凡身としての死の終りであり、寅の刻は大聖人の御本仏としての生の始まり」 とあると言い換えています。 >>32
[35] どうやら「子丑」という時刻は宗教的意味合いを帯びており、 時刻表現としての正確性は検討を要すると思われます。
[104] 2月の日蓮自身による 開目抄 に、 執行未遂は 「去年九月十二日子丑の時」 のことだと書かれていました。 >>103 つまり事件の翌年までには既に、 日蓮本人によって事件の日時が 12日子丑刻と表されるようになっていたようです。
[105] 事件の1年後なら、まだ本人の記憶も鮮明だったでしょうから、 ある程度信頼できるものでしょうか。 (しかし修行を積んだ宗教者といえども死刑執行に際してのこと、 平常の精神状態ではないでしょうから、 状況把握と記憶の正しさには限度があろうとも思われます。)
[153] に出版された創価学会による英訳 開目抄 引用では、これは
On the twelfth day of the ninth month of last year, between the hours of the rat and the ox (11:00 p.m. to 3:00 a.m.),
と翻訳されていました。 >>139
[106] ところで日蓮はその時刻をいかにして知り得たのでしょう。 丁寧に「子丑の時になったので執行する」とでも説明されたのでしょうか。 それとも感覚的に判断したものでしょうか。 (捕縛されていた日蓮だけでなく執行官の側も、 夜間に正確な時刻を知り得たか疑問はあります。)
[27] 執行未遂時の謎の光について、 真書ならその最古の典拠となる (>>12) 種種御振舞御書 は、 日蓮が12日の夜に連行され、 「十二日の夜のあけぐれ」 の暗くて顔も見えない時刻に執行しようとしたところ失敗したと説明しています。 >>21
[28] 12日の夜の後の「あけぐれ」なのですから、 13日の日の出の前と解する他ありません。 「九月十二日子丑の時」 (>>104) と同じく、前近代の日本では一般に日の出頃を日界としたといわれています。
[29] 「あけぐれ」は辞書的には未明の夜が開けかけた時間帯を指すような説明がなされていますが、 ここでは謎の光と対比して夜の暗さを言い表しており、 そのニュアンスには注意が必要です。
[30] その後の出来事は十二支時刻が書かれていますが、 この「あけぐれ」の執行未遂の時刻は明記されていません。 たまたま筆の勢いでこう書かれたに過ぎないのでしょうか。 それとも筆者が「あけぐれ」の時刻を知らなかったのでしょうか。
[31] 真書なら古さ第2の典拠である (>>12) 妙法比丘尼御返事 は、 「九月 十二日の 丑の時に」 執行しようとしたところ失敗したと説明しています。 >>26
[108] 開目抄 の 「九月十二日子丑の時」 (>>104) との表現の違いは気になります。
[93] 現在よく紹介される説に、 文永8年9月12日の「丑寅の刻」の出来事とするものもあります。
[90] 創価学会の代表者の池田大作は、 昭和時代の対談記事で 「文永八年九月十二日の「丑寅の刻」」 の出来事だとしました。 そして 年代対照便覧 を根拠に、 これが 「一二七一年十月二十五日の明け方「午前四時」」 に相当するとしました。 >>79
[92] さらに池田大作は、 広瀬秀雄の研究 (>>44) を紹介して、 「文永八年(一二七一年)九月十二日の丑寅の刻、いまの時刻でいえば、午前二時から四時にあたります」 「午前三時四十四分の「丑の刻」の終わりから午前四時の「寅の刻」までの間」 と説明しました。 >>79
日蓮が斬首される間際(竜の口の法難)の日時は、文永8年9月12日「丑寅(うしとら)の刻」とされており、西暦になおすと1271年10月25日午前4時頃となり、その日時に発生したおひつじ・おうし座のエンケ彗星による流星と考えられています。
と説明したものがありました。 >>62
[64] 日界の決め方にもよりますが、旧暦9月12日はグレゴリオ暦10月24日、 旧暦9月13日はグレゴリオ暦10月25日で、 これらの説明は1日ずれています。
[109] 「丑寅刻」説は現在のところ池田大作より古いものが見つかりません。 ウェブ上のこの説による説明は、 出典を示していないものも多いのですが、 創価学会と無関係のものも含めて直接または間接的に池田大作説に由来する可能性が濃厚です。
[110] 池田大作の言い方は、 広瀬秀雄の説に基づく3時44分と4時 (>>67) をそれぞれ 「丑刻」と「寅刻」 に言い換え、 その中間で 「丑寅刻」 としたようにも読み取れます。
[121] 英語で紹介したものとして、 Renso Den (蓮祖伝) と題したウェブサイトがあります。 これは日蓮の伝記で、 明治時代・大正時代の 日蓮上人 と、 昭和時代の 日蓮大聖人正伝 をもとに編集、翻訳されたものと説明されています。 平成時代中期から公開されています。 >>116
[122] このウェブサイトは、 「September 12 in the eighth year of Bun'ei (1271)」 の夜の出来事として書いていました。 謎の光の時刻は 「the time of Ushi-Tora, between the time of Ushi (Cow: 2:00 a.m.) and Tora (Tiger: 4:00 a.m.)」 だと書いていました。 >>116
[123]
元号年と十二支時刻は元の日時に換算値を併記していますが、
なぜか月日は元の値だけです。
それも月は旧暦のまま欧米月名で書いています。
旧暦の月の欧米月名表記は明らかな誤訳なのですが、
暦に注意を払っていない翻訳者が犯しがちなミスでもあります。
[124] 本サイトの英語文は、 原資料そのままの翻訳ではなさそうで、 どの部分がどの書籍に由来する記述なのかは明らかではありません。 謎の光の場面は挿絵として 日蓮上人 と思われる原文の一部が示されていますが、 その日本語文に日時は記載されていません >>119。 本サイトの「丑寅刻」説は他書に由来するのでしょうか。
[111] いずれの説にしても現代の紹介文は現在の西洋式時刻の換算値を示していることが多いです。 しかしその根拠は明らかではありません。 十二支を単純に24時間に置き換えたものでしょうか。
[112]
前近代日本の十二支時刻制度は未だ完全には解明されていません。
江戸時代時点でも複数説があり統一されていなかった上に、
現在のような正確な時計がなかったことによる曖昧性 (不正確性) も内包しています。
[113] そもそも鎌倉時代の夜間にどのような時刻制度が用いられ、 どのようにその時刻を知っていたか、謎が多いです。 定時法か不定時法かによっても大きく変わってきます。
[114] 西洋式時刻は現代人が説明文を読んで何となくの時間帯をイメージするためくらいにしか使えないものです。 そのイメージも23時から4時と諸説ばらばらでは、 夜で暗かったのだろうということくらいしかわかりません。
[115] 広瀬秀雄の推測値 (>>44) は、 こうした解釈の問題を避けて天文学的視点を導入した点が特筆するべきものです。 ただし依拠した文献の信憑性 (例えば「あけぐれ」が史実なのか) の問題まで回避することはできていません。
[7] 龍口寺の Webサイトによると、 「翌13日子丑の刻(午前2時前後)」 の死刑執行のとき、
「江ノ島の方より満月のような光ものが飛び来たって首斬り役人の目がくらみ、畏れおののき倒れ」(日蓮聖人の手紙より)
... があったとされます。 >>3
[10] 日蓮自身の手紙と言われるもので、 種種御振舞御書 と 妙法比丘尼御返事 に(のみ)本件の記述があります。 それらによると、
子の刻(午前零時)、一行は竜口の刑場へ到着した。このとき下弦の月は、はや西方の雲 に入っていた。兵士たちは、日蓮を四方に取り囲むと、馬から降ろし、粗莚の上に座らせ、 首の座に据えた。と、そのとき、江の島の方向から月のような光った物が、鞠のように、 辰巳(東南)から戌亥(北西)にかけて光りわたった。深夜の暗闇の中、人の顔も見えなかった というのに、辺り一面明るくなった。太刀取り役(首斬役人)は目がくらみ、倒れ伏し、警 固の兵たちも地に伏し、あるいは馬上にうずくまる、という状態であった。
... のだといいます。 >>9
[11] また日蓮自身の手紙と言われる 四条金吾殿御消息, 文永8(1271)年9月21日に、
月天子は光物とあらはれ、竜口の頸をたすけ
と書かれていました。 >>9
[12] ただし、 種種御振舞御書 (種々御振舞御書), 妙法比丘尼御返事, 四条金吾殿御消息 の3通の手紙はいずれも原本が現存せず、 信憑性には疑問が持たれています。 日蓮宗系宗教者、一般の研究者とも、 偽書とする説が必ずしも認められてはいないものの、 真書と断定できるだけの根拠も十分とは考えられていないようです。 >>15, >>16, >>9, >>40 (709)
[25] 種種御振舞御書は >>24、 妙法比丘尼御返事は >>26、 四条金吾殿御消息は >>9、 のものとされ、 真書だとすれば事件から4年後、6年後、9日後のものです。
[18] 日蓮の処刑未遂があったことは、 日蓮および同時代の他の史料にも見えることから、 史実であろうと考えられています。 処刑未遂自体が架空とする説もありますが、 宗教者、一般研究者ともあまり支持されていないようです。 >>9
[19] 謎の光は、積極的に肯定も否定もできるだけの根拠がないようです。 >>9
[17] また、 「太刀取り役・依智三郎直重の頭上に電光が落下し、 振りかざしていた刀がたちまち朽木のように三つに折れて飛び散った」 とする説話が広まっていますが、 これは 日蓮聖人註画讃, 円明院日澄の創作で、 出典を遡れないものとされます。 >>9
[48] 謎の光の正体について、 現在までに様々な説が提示されてきました。
[54] このように※諸説あります (※どれも同様に確からしいとは言っていない)。
[60] 種種御振舞御書 では謎の光の翌日に落雷のようにも解せる記事があります。 >>22, >>50 平成時代のウェブサイトへの投稿でこの両日を混同した事例があり >>50、 これまでの伝承の過程でもやはりそうした混同が繰り返された可能性が示唆されます。 混同でないとしても、謎の光の正体を雷だとする説の根拠にされることはあったかもしれません。
[43] 謎の光の正体について、 それが史実だとした場合、 エンケ彗星に由来する流星群の流星が観測されたものだとする説があり、 古天文学者や日蓮系宗教者らの間で有力視されています >>59, >>79, >>75, >>65, >>66。 一般にも広まっています >>46, >>57, >>62。
[44] この説は広瀬秀雄が唱え、 斉藤国治も賛同していました。 >>40 広瀬秀雄は東京天文台長も務めた昭和時代の日本を代表する天文学者でした。 斉藤国治は東京天文台の研究者で古天文学を確立したことで知られています。
[45] 古天文学でその後本説への反対説があったのかどうかは不明ですが、 少なくても有名な反対説はないようです。 少なくても昭和時代の天文学知識においては、 謎の光の正体が天文学的現象であると仮定すれば、 エンケ彗星由来であった可能性が高いと言ってよさそうです。
[67] 広瀬秀雄は、 文永8年9月13日すなわちグレゴリオ暦10月25日の月没は日本標準時の午前3:44であることから、 「あけぐれ」は月没かその少し後、およそ4時前であると推測しました。 また、 10月下旬にエンケ彗星が母体となったおひつじ・おうし座の流星群が活動することから、 その流星であると推定しました。 >>65, >>66
[73] この広瀬秀雄の説について、 に論文があり >>42、 そこに掲載されている可能性があります。
[74] また広瀬秀雄の没後のに随筆が収録された書籍が発行されました >>71。 それと同題のの文章から本説を紹介したブログ記事があります >>65, >>66。 平成版はその引用元を再出版したものと推測されますが、 昭和版がどの媒体で発表されたものかは不明です。 ウェブ検索では情報を発見できません。
[127] 超新星残骸 Vela Junior (RX J0852.0−4622, G266.2−1.2) は、 頃の地球に爆発の光が到達したと推測されます。 >>128 謎の光はその爆発を観測したものだという説があります。
[132] この説は21世紀に海外の超新星研究者の一部で提唱されています (がその論拠は不審な点が多く、再検討が必要です)。
[156] 南アメリカの研究者 Richard Peter Wade は、 にアフリカ史の >>157、 にニュージーランド史 >>126 の記録と超新星の関係を主張する論文を発表しました。 両論文は日本で記録された本件謎の光にも一節を割いていました。
[161] の発表は博士論文の一章でした >>157。 あるいはそれ以前に何らかの形で発表されていたかもしれません。 現在この博士論文は Web で容易に入手可能ですが、 当時からそうだったのかはわかりません。
[162] の論文は、 古記録と計算が一致したという旨の記述に 「(Wade et al., 2014; Aschenbach, 2016)」 と出典を与えていました。 >>126 #page=9
[187] 前者は Richard Peter Wade の共著論文ですが、それらしき記述は見つかりません。 の博士論文 (出典「Wade, 2015」) の誤引用が疑われます。
[188] 後者は参考文献一覧に該当するものがなく、 1年ずれた Aschenbach, 2017 がの Bernd Aschenbach の発表 (>>133) に当たります。 やはり誤引用でしょう。
[163] との両論文の該当部分は、 細部を除けば一致しています。
[189] その細部の違いの1つが、の論文が Wade, 2015 すなわちの論文をしばしば引用している点です。 ところが引用を除くと両者の情報量は同じで、何を参照しているのか不明です。
The twenty-first day of the ninth month in the eighth year of Bun‘ei (1271)” (Watson 1993; Tanabe 2002: 357)
と版で書かれていました >>157 #page=187。 これが版 >>126 #page=10 では
The twenty-first day of the ninth month in the eighth year of Bun’ei (1271) (Watson, 1993; Tanabe, 2002: 357; Wade, 2015).
と出典が1つ増えているのですが、 版にこの引用について特に参照するべき情報があるようには思われません。 版も版も同じ英訳文全文が引用されていて、 それ以外に特に参考情報も付け足されていないからです。 他の箇所にもほぼ同様のことが言えます。
[191] こうした不審な引用は、些細なミスかもしれませんが、 論文の品質に懸念を抱かざるを得ません。 先行研究に裏打ちされた検証済みの事実のように見えても、 そうだとも限らないのです。
[165] さて、 謎の光について、 の時点では 「13th September 1271」 の記録があるとされていました。 >>159 #page=186 には、 Bernd Aschenbach によって 「13 September 1271」 の記録と計算の一致が確認されたとしていました。 >>126 #page=9 の Bernd Aschenbach の論文 (>>133) の存在により断定の度合いが強まっていますが、 それ以外の記述はほぼ同じです。
[166] その謎の光について Tanabe, 2002 >>192 を出典に
a brilliant orb as bright as the moon
があったとし、2つの図を引用しました。 >>159 #page=186, >>126 #page=10
[173] 説明文は引用された絵の内容に由来するものではなく、 Webサイト蓮祖伝 >>119 に基づくことは明白です。
[174] 更には、 謎の光からわずか9日後の手紙として 四条金吾殿御消息 の英訳を Watson, 1993; Tanabe, 2002 から全文引用しました。 その日付は
The twenty-first day of the ninth month in the eighth year of Bun‘ei (1271)
と書いていました。 >>159 #page=187, >>126 #page=10
[196] Tanabe, 2002 は日蓮聖人全集 >>194 の英訳本です >>193。 日蓮文書の英訳が収録されているのでしょう。 日本語原文や原本編者または翻訳者による注釈・解説が含まれているかは不明です。
[198] Watson, 1993 は創価学会による法華経の英訳 The Lotus Sutra and Its Opening and Closing Sutras です。 創価学会のウェブサイトに全文が掲載されています >>197 が、日蓮には直接関係しない内容しかありません。
[201] Watson, 1993 の書誌情報には創価学会のウェブサイトの URL がいくつか記載されていますが、いずれも The Lotus Sutra and Its Opening and Closing Sutras ではなく The Writings of Nichiren Daishonin Volume I >>200 (創価学会原著(編), The Gosho Translation Committee 訳, ) のものです。
[202] 両論文とも法華経とは直接関係しないものですから、書名は誤りで URL が正しいと考えるべきでしょう。 URL の1つを開くと確かに 四条金吾殿御消息 の英訳 (>>174) があります >>140。 なお版 PDF はハイパーリンクが壊れています。 書かれている URL は正しいのですが。 著者自身の誤りか出版過程での誤りかはわかりませんが、 博士論文ですから著者本人の関わりが大きいかもしれません。
[204] 両論文は、 謎の光は流星のように考えられているものの、 別件の流星らしきものと日蓮は書き方を区別しているのだといいます。 >>159 #page=187, >>126 #page=12 すなわち、次のように書いています。 >>126 #page=12
It is generally thought that this was a meteor from later written references; however, the only discernible information from the records is that the object first appeared over the area known as Enoshima which is south-east from the beach at Tatsunokuchi. The object traversed the sky and in later ver- sions was seen to enigmatically “shoot” across the sky to the south-west (Watson, 1993: 269; Wade, 2015).
The Daishonin, later confined to Homma’s residence in Echi, relates that a luminous object fell from the sky and struck the branches of a plum tree before him accompanied by a thunder- like roar and strong winds which may relate to a meteor seen after the first event by Nichiren (Watson, 1993: 237; Tanabe & Tanabe, 1989).
Nichiren clearly makes a distinction between what he saw on two occasions. That a meteor is a heavenly son of light from the god of the stars and that the shining object he saw on the dawn of his intended beheading was a son of light from the god of the Moon.
The object was as bright and possibly as large as the Moon. The Moon was visible as a 23-day old waning crescent and no mention is made that the object seen was accompanied by tremors, sounds or flashes. The object is seen as a luminous entity that moved across the sky from the southeast over the sea horizon (Wade, 2015).
[205] この説明は、 The Writings of Nichiren Daishonin Volume I 所収英訳 四条金吾殿御消息 に対する Notes の 6. の記述 >>140
It is generally thought that this was a meteor. Regarding the reference to the god of the stars, the Daishonin records in his work The Actions of the Votary of the Lotus Sutra that, while he was confined at Homma’s residence in Echi, a luminous object fell from the sky and struck the branches of a plum tree before him. It is not clear what this was, though it may have been a lightning-related electrical discharge—the Daishonin mentions a thunder-like roar and strong winds in his description.
に基づくことが明らかです。 この注記は、 謎の光が一般に流星と考えられていると述べるとともに、 種種御振舞御書に記載のある落雷説のある別件 (>>60) との関係を指摘しています。
[206] 両論文は、この注記を下敷きに、雷とは明確に区別して記述されているのだから、 流星ではないと主張しているのです。
[207] ここまでの検討で参照されたのはすべて日蓮系の宗教が発行した英訳文で、 著者が日本語原文を見ているのかはわかりません。 文献史学的な研究史をどれだけ把握していたのかも不明です。 事件直後の史料を重視する姿勢は良いのですが、 史料の信憑性を検討した形跡がありません。 実はどちらも真贋が確定していないので (>>12)、 それに依拠して仔細を断定するのは危険なのです。
[208] 日本の古天文学研究者の流星説は、半世紀以上前の日本語の論文ですから、 そこにたどり着くのを求めるのは少々酷かもしれません。 創価学会の出版物が流星説を俗説程度にしか紹介せず、 池田大作が支持した広瀬秀雄の研究 (>>44) を引用しなかったのも不幸でした。
[209] とはいえ日本の有力な宗教の有名な創建伝説なのですから、 日本人が (もしかすると日本人でなくても日本史や宗教史の研究者が) 研究しているはずだと考えそうなものですが、 なぜか先行研究といえるものが1つも引用されていません。 ここはもう少し慎重になるべきでした。
[210] こんな具合ですので流星説の妥当性は両論文でまったく検討されておらず、 肯定も否定もされていないと判断せざるを得ません。 それでも超新星説が成立する可能性はありますから、 そちらも検討する価値はあります。 両論文はシミュレーターを使って当時の夜空を復元しています。
[176] ところがそのシミュレーションが、
Tatsunokuchi beach, Ishikawa town located in Nomi District, Ishikawa, Japan at the place of executions near the shrine of the god Hachiman 36°29'35.97"N 136°32'5.83"E on the early morning before dawn of the 13
th >>159 のみ September 1271.
という珍妙な条件なのです。 >>159 #page=187, >>126 #page=12
[177] この座標は日本国石川県白山市に当たります。 前近代は加賀国石川郡柏野村で、能美郡とは少し離れています。 5km ほど南に目を移すと、 石川県能美市辰口地域があります。 までは能美郡辰口町でした。 そしてこの周辺には八幡神社が多数存在します。 (もっとも日本中およそどこでも八幡神社はありふれていますが...)
[178] 座標は海岸線から3km、辰口から5kmも離れていて、なぜここが Tatsunokuchi beach に選ばれたのかは謎なのですが、 引用された Google Maps の地図上にも確かに石川県にピンが刺さっているのです。 >>159 #page=192
[179] 更に謎は深まるのですが、 シミュレーション結果の図として、 どこかの海岸の崖 (特に説明されない謎の写真) の奥、 海上の南西方向に当該超新星が見える夜空が描かれています。 >>159 #page=189, >>126 #page=13 Google Maps の地図上の位置では、 どう考えても海の向こうの夜空なんて見えるはずがないのですが。
[180] シミュレーションによれば、超新星は 13 September 1271 において
だったといいます。 >>159 #page=187 - 190, >>126 #page=12 - 13
[184] 旧暦は月の日 ≒ 月齢なのですから、この日見える月は 13日の月でなければなりません。これはいったいいつの計算結果なのでしょうか。
で、どれも23日には程遠いのです。
[185] まさかとは思いますが、 は旧暦1971年7月24日、 月齢は23です。 これは偶然でしょうか?
[212] 時刻は2時から4時だとする解釈 (>>166) との整合性をどう考えたのかも気になりますが、 もはや些細なことのようにも思われます。
[229] 当時北半球で当該超新星が観測できたかどうかは疑問だとの指摘もあります。 >>225, >>227 まずは正確な位置、正確な日時で信頼できる計算が必要です。
[186] この結果から古記録と天体計算が一致したといわれても、 もう少しじっくり考え直してもらいたいというのが正直なところではないでしょうか。
[133] の会議でドイツの研究者 Bernd Aschenbach は、 超新星爆発の推定時期について、 日本で 「September 12, 1271」 に
an object as bright as the full moon suddenly appeared on the sky about 10 degrees above the horizon
(地平線上約10度に突然満月のように輝く天体が出現した)
旨が報告されている、と発表しました。 >>131 #page=4
[134] この発表は超新星側の検討が主で、 歴史学的、古天文学的な検討はなされていません。 謎の光についての出典も1つも示されていません。 謝辞によれば、 Richard Wade から示唆を得て、 Franco Giovannelli から情報を得たのだとあります >>131 #page=7。 Richard Peter Wade の論文 (>>156) は引用されていませんから、 それを Bernd Aschenbach が読んでいたのか、 概略だけ知らされたのかはわかりません。
[211] 「約10度」は Richard Peter Wade のシミュレーション結果がもとでしょうか。
[137] その Franco Giovannelli はイタリアの研究者ですが、 同会の総括で Bernd Aschenbach の成果を称賛し、 The writings of Nichiren Daishonin Vol. I の一部を引きつつ事件の概要を紹介しました。 すなわち、
a round shining object (as bright as the full Moon) appeared suddenly from the direction of Enoshima. The executioner fell on his face, his eyes blinded.
ということがあったのが 「12th September 1271」 で、まさに時期と明るさが計算と一致するというのです。 >>136
[138] こちらは
[5] Daishonin, Nichiren: 1999, The writings of Nichiren Daishonin, Soka Gakkai, Vol. I, p. 196.
と面白い引用 (姓が Nichiren、名が Daishonin ?) があり >>136 #page=6、 この創価学会の出版物 >>139 が Franco Giovannelli のネタ元の1つだったようです。 現在では同書の全文が創価学会のウェブサイトで公開されています >>140。 そこで引用されたページを見ますと、 該当するような記述はありません。 この文献に由来するのは引用文として明示されているところだけで、 謎の光の一節はどこか違うところに由来するようです。
[143] Franco Giovannelli による謎の光の記述は、 (本項に引用した部分の前後も含めると) ウェブ上で公開されている 種種御振舞御書 (On Various Actions, Shuju Onfurumai Gosho) の英訳 >>141 の該当部分と非常によく似ています。 Franco Giovannelli がウェブ上でこの英訳文を見つけたのか、 何らかの書籍に収録されたものを見たのかはわかりませんが、 これと同系統の英文を口頭発表用に若干言い換えたものとみてよさそうです。
On the night of the twelfth day of the ninth month in the eighth year of Bun'ei (1271), cyclical sign kanoto-hitsuji,
That night of the twelfth,
I had no sooner said this when a brilliant orb as bright as the moon burst forth from the direction of Enoshima, shooting across the sky from southeast to northwest. It was shortly before dawn and still too dark to see anyone's face, but the radiant object clearly illumined everyone like bright moonlight. The executioner fell on his face, his eyes blinded.
のように書いています。 >>141 当訳文も The writings of Nichiren Daishonin Vol. I >>139 も年月日に欧米月名を使っていない (のに Bernd Aschenbach も Franco Giovannelli も欧米月名に読み替えてしまっている) ことは注意されるべきです。
[145] そして当訳文の 「shortly before dawn」 (あけぐれ) >>141、 The writings of Nichiren Daishonin Vol. I の Background
On the twelfth day of the ninth month of last year, between the hours of the rat and the ox (11:00 p.m. to 3:00 a.m.),
(開目抄 >>103 からの引用) >>139 といった貴重な時刻情報がここではスルーされてしまっています。
[147] Franco Giovannelli はその後からにも Bernd Aschenbach の研究成果と The writings of Nichiren Daishonin Vol. I >>139 を紹介しています。 それによると、
Historical document (Tatsunokuchi Persecution of Nichiren Daishonin "the Buddha of the last day of the law") supports this result with an exceptional precision: The date of the explosion was 12 September 1271 (1 ± 2 a.m. - between the hours of the rat and the ox) (Soka Gakkai, 1999). How is it possible to affirm that the explosion of the SN Vela Jr happened in that date with a strong precision?
At that moment Nichiren was about to be beheaded, a luminous object (full Moon) shot across the sky, brightly illuminating the surroundings. The executioner fell on his face, his eyes blinded. The soldiers were filled with panic. Terrified, the soldiers called off the execution. This happened on the twelfth day of the ninth month of 1271, between the hours of the rat and the ox (11:00 p.m. to 3:00 a.m.).
と説明されています。 >>146, >>148, >>149 もほぼ同じ
[151] ここでは時点ではスルーされていた時刻まで含め、 超新星爆発の日時を前後2時間の精度で特定できたと述べられています。
[152] この精度で議論するなら暦法と時法の検討が必須なのですが、 何も書かれていない (論文も参照されていない) ので、そのような検討がなされたのかはわかりません。
[155] 不思議なことに最初の段落では欧米月名を使って日付が表記されていて、 最後の段落では説明的に月日が表記されています。 後者は英訳版の表記に引きづられたのでしょうが、 なぜ表記が違う (英語の一般語として不自然な表記である) まま残したのでしょうか。表記の違いが暗示する暦法の違いは意識にあったのでしょうか。
[154] 時刻の範囲が23時から3時にわたることから日の妥当性にも疑問がわきそうなものですが、 12日としたまま何の疑問も挟まれていないようです。
[160] Richard Peter Wade の論文 (>>156) は引用されていませんから、 それを Franco Giovannelli が読んでいたのか (そもそも知っていたのか) はわかりません。 Franco Giovannelli の説明には Richard Peter Wade の議論は反映されていないように見えます。
とその当否を議論するレベルに達していないものであります。
[218] それをもって超新星説の可能性は否定されるものではないのですが、 まずは学説として成立するものが提出されるのを待つべきでしょう。
[221] 英語版 Wikipedia は、 の改訂以来、 Richard Peter Wade の論文 (>>156) を出典に超新星爆発がに起こったことが日本の鎌倉で記録されていると書いています。 その改訂以前は頃だが疑念もあるとしていましたが、 その記述は削除されて確定的に書かれています。 >>219 実は更に遡ると頃と書かれていました。 >>222
[232] 日本語版ウィキペディアはの改訂以来、 Richard Peter Wade の論文 (>>156) を出典に超新星爆発がの龍ノ口法難の光と推定されていると書いています。 >>231 その改訂以前は記録がないと書かれていました。 (なお論文の主題であるニュージーランドの事例については何の言及もないままです。 これでは編集者が論文を読んだのか不明です。)