[5] 日本の中世には、武家などが改元を意図的に無視したとされてきた事例がいくつもあります。
[300] 改元に従わずに従前の公年号の利用を継続したものを不改年号といいます。
[4] 延長年号と不改年号は同義語ですが、 不改年号には意図的に改元しないようなニュアンスがあります。
[1] 不改年号という術語は昭和時代後期に使われ始めました。
[2] 典型例として
が挙げられます。
[306] これらやその他の不改年号は、公年号とそれを奉じる勢力への反感、 反抗を意味するものと理解されていました。 >>288
[464] しかし不改年号に関する当事者の認識が窺える史料は見つかっていません。 >>440
[350] 近年では多くのケースで積極的な新元号の不使用を否定する見解が有力視されてきています。
[351] 享徳は確かに京都の足利幕府との対立によって使われたものの、 普段は年表記をできるだけ使わず、やむを得ない場合だけ延長年号を使ったことがわかっています。
[353] その他の事例もそれぞれ個別の事情があり、反中央政府 = 延長年号という単純な図式で語れたのはもはや過去のこととなっています。
[473] 短期間の延長年号は、 改元伝達の遅れや、改元伝達がなされなかったことに起因する場合が多いのではないかと近年では考えられてます。 >>440
[476] 足利氏満と足利持氏の延長年号は、 改元詔書が到着したものの批准、認証、不達をしなかったといわれます。 >>440 (中世災害・戦乱の社会史, 峰岸純夫) しかし近年は改元伝達の遅れの可能性も指摘されています。 >>440
[307] 詳細は各項参照。
[412]
東京、埼玉の板碑の集計で正長は永享の半分ほどで、
正長の延長年号は東国社会で必ずしも徹底されなかったとされます。
>>411 p.
[308] 享徳の延長年号は、日本における延長年号の代表的事例です。 足利成氏の室町幕府からの独立的志向の根拠の1つとされています >>288。
[354] 昭和時代頃までは、 中央政府と対立した足利成氏やその勢力圏で不改年号を使っていたのであり、 不改年号こそ対立を実証するものだと素朴に理解されていました。
[355] 平成時代になるとより精密な理解が進み、そう単純な話でもないことがわかってきました。
[309] 足利成氏発給文書は、足利将軍発給文書や鎌倉府の足利持氏発給文書と比較して特殊な傾向がみられます。 それは、
と享徳2年の2月と3月を境に文書の形式が御判御教書主体から書状主体に変化しています。 >>288
[321] 足利成氏発給文書を分析すると、 足利成氏が鎌倉を出て古河に移るのとちょうど時期を同じくして形式が変化していることがわかります。 そして古河公方期に明らかに意図的に有年号文書を減らし、 かわりに成氏加判申状や不改年号のような特異な形式を出現させています。 >>288
[322] 古河時代の足利成氏は文書に元号を書くのをできるだけ避けており、 それでも不改年号を書くのは、 足利成氏自身が書いていないものや、表に出てこない性質のものが目立ちます。 積極的に不改年号を使ったのではなく、 やむを得ない場合にのみ書いたといえます。 (なお、同時期の公年号を使った例は皆無です。) >>288
[340]
このように足利成氏の文書形式と元号表記の変化は享徳3年12月からの享徳の乱が契機となっているのですが、
享徳3年7月25日の改元を知ったのがどの時点だったのかは気になります。
康正の1年ずれ問題 (
[323]
日本国千葉県香取地域の香取文書では、
享徳5年11月まで享徳の延長年号が使われ、
12月には康正の1年ずれが使われ、
康正3年から公年号が使われています
>>148。
[324] 足利成氏と関東管領上杉氏の戦闘に連動して千葉家も分裂しました。 享徳4年8月には足利成氏方千葉(馬加)康胤が上杉方千葉介胤直を滅ぼしました。 しかし上杉方が盛り返し、 享徳5年11月1日に千葉康胤は上総八幡で敗死しました。 その後も千葉家の中心は古河公方派とはいえ分裂状態が続きました。 >>148
[325] 歴史研究者の山田邦明は、 この元号の変化を香取の支配勢力の違いとみて、 享徳5年11月から後に香取が上杉方に属したとしています。 >>148 (ただこの説は元号と千葉康胤の敗死タイミング以外の根拠はなさそうです。)
[477] 東国のうち足利成氏と対立する上杉方は公年号を使っていました。 >>440
[478]
しかし敵味方の変遷の中で、上杉方にも享徳の影響が出ていたとされます。
>>440 (>>148)
[331] 足利成氏の勢力圏でも必ずしも延長年号が使われたわけではありません。 本拠地の古河周辺でも、 在地では公年号が使われていました >>440 (板碑とその時代, 改元と私年号, 暦と改元)。
[332]
岩松持国は、
時に足利成氏方で戦い、
時には足利成氏と戦うこともありましたが、
足利成氏と密接な関係を持っていました。
その正木文書によれば享徳の不改年号を積極的に使った形跡は極めて薄いとされます
(
[413] 康正、長禄は朝敵の足利成氏には改元伝達がなかったとされます。 >>411, >>440 (中世災害・戦乱の社会史, 峰岸純夫)
[479] 文正度 () は寛正から文正元年2月28日に朝廷で改元されました。 文正元年2月29日に室町幕府の吉書始がありました。 一方、 鎌倉大日記, 鎌倉大草紙 には9月3日改元とあります。 関東には寛正7年8月付の文書もあります。 改元伝達の遅延が推測されます。 >>440 (戦国遺文下野編 116号 宇都宮正綱安堵状)
[480] その他の改元でも遅延がみられます。 関東だけでなく九州など各地にみられます。 >>440
[475] に足利成氏赦免の綸旨があると、 ようやく足利成氏は文明を使うようになりました。 >>440
[481] 古河周辺でも新元号がほどなく使われたとすると、 足利成氏が改元をまったく知らなかったとも考えられません。 在地では新元号を使っても、公方は正規の連絡があるまで使用しないとの体面もあったかもしれないとされます。 >>440
[595]
足利成氏が福徳を使ったとする説がありますが、どうでしょう。
[468] 堺公方足利義維が大永を使用しなかった例 >>440
[469] 足利義晴と対立関係にあった足利義維は、 享禄改元 () の後も3ヶ月ほど大永を使い続けました。 >>440
[470] 今谷明は大永の不改年号をもとに、 足利義維が 「京都の正朔を奉じない政権」 「京都の天皇を中心とした秩序から独立した政権」 を構想していたと考えました。 >>440 (室町幕府解体過程の研究)
[471] 桑山浩然は、 3ヶ月で京都の元号に復することにどのような意味があったのかと疑問視しています。 >>440 (今谷明著『室町幕府解体過程の研究』)
[472] 短期間の不改年号の多くは意図的ではなく改元伝達が遅れたか、なされなかったことが原因と現在では考えられています。 >>440
[240] shirin_056_5_623.pdf, , https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/238154/1/shirin_056_5_623.pdf#page=55
[237] 今谷明著『室町幕府解体過程の研究』, https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/96/9/96_KJ00003674362/_article/-char/ja/
[238] HNkeizai0003301710.pdf, https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/9279/HNkeizai0003301710.pdf#page=40
[239] ab40112880.pdf, , https://www.agulin.aoyama.ac.jp/mmd/library01/BD81112880/Body/link/ab40112880.pdf
[6] 昭和時代から平成時代の私年号研究者らは、 足利持氏や足利成氏の不改年号と中世東国私年号に関係があるのではないかと考えていました。
[7] 研究者によっても見解の違いはありますが、最も積極的な説では、 関東公方が私年号を制定して配下に使わせていたのではないかと推測していました。
[8] しかし現在ではかつて思われていたほど私年号と不改年号の関係が密接ではないこと、 不改年号が意図的ではない可能性が高まっていること、 私年号もまた意図的ではない改元デマの可能性が出てきていることにより、 見直しが迫られています。
[10] 室町幕府と関東公方の対立などで生じた改元伝達ルートの機能不全が、 延長年号や私年号などの一連の現象を生じさせた (ので切り取る部分によっては延長年号と私年号が連動しているかのようにも見えた) として総合的に理解するべきなのかもしれません。