[59] 南部めくらものは、 南部文字で記述された南部絵暦や南部絵経と、 それらの文化の全体です。
[73] この分野に属するものの一部や全部を表す用語は数多くあります。
[74] 全体を指す言葉として最適なのは南部めくらものでしょうか。 ただ、南部地方以外にも広がった現代の絵経文化の全体を指すのに相応しいかどうかは議論の余地があります。
[72]
昭和時代後期から平成時代の日本の学術界には差別的な風潮があり、
盲や「めくら」という言葉が排除されていました。
中にはこれを名目に研究成果の発表を拒絶された事例すら存在します (>>70)。
[58]
渡辺章悟 (>>19) は、著書で主に絵心経と呼びつつも、歴史的には「めくら心経」が用いられてきたし、郷土の文化として誇りを持っている人もいるので、同書ではこれも用いるとしています。 >>1767 p.
- この図では、標題が「盲心経」となっているが、「盲」は読み書きが達者でない人という意味で差別的な意味合いは有しない。このページでの標題は、現代に即した形で「絵心経」とした。
[69] >>68 は「現代に即した」として盲を排除していますが、「現代に即」すとは何のことなのか説明がなく不明です。
「ポリコレのため」の婉曲表現でしょうか。
[60] 南部文字は、田山文字と盛岡文字の2系統があります。
[50] 文字の解読は平成時代までにほぼ完了していますが、それ以上の分析は、 印象論的な範疇をあまり脱せていません。 文字学的検討がほぼほぼ手つかずのままです。
[9] 菅江真澄は北日本を旅して風土を記録に残したことで知られ、 いくつもの東北地方の方言漢字を書き残しています。 菅江真澄全集 一〇所収のかたゐぶくろでは、
津軽に
〓 ⿰氵⿳艹土石 といふ文字あり。やちとよむ。谷地は、すたれたる処にて、水石まじりたる土に草生ひたるとなれば、かゝる文字製出たり。南部田山暦のたぐひにやあらん
と書いていました >>10 p.
[12] 象形性の高い会意文字に絵暦との類似性を見出したようです。
[53] 絵心経で使われている文字の用法による分類 >>2618 #page=22 :
田山系 盛岡系 合計 (1) 音韻一致 211 193 404 (2) 数字表現 47 46 93 (3) 平仮名 5 3 8 (4) 類推 6 24 30 合計 269 266 535
[56]
盛岡系の絵経は現在では全国各地の寺院や土産物屋などで販売されているようですが、
絵文字に異なりが生じているようです。
[57] しかし、それらの比較分析等の研究はほとんど行われておらず、全貌は不明です。
[61] 日本国京都府の企業くろちくは絵心経を印刷したTシャツ, ハンカチ, バッグその他の商品を開発、販売しています。 >>2782
[62] くちろく版般若心経の文字は盛岡文字の系統ですが、 一部の絵柄がポップに改められています。
[63] また、一部は色付きとなっています。同じ商品の同一の文字でも色付きとそうでないものが混在しており、 規則性は不明瞭です。視覚的な効果で使い分けているのでしょうか。
[64] 各種商品で絵柄や色使いが同一なのかどうかは要調査です。 白地と黒地などで前景色も違ってきますが、色使いとの関係は要検討です。
[65] わんにゃ絵心経は通常版より更に大胆に変更されています。 多くの文字が、犬や猫の動作の絵に差し替えられています。
[636] 明治時代の神代文字研究者落合直澄が書島石窟文字と南部暦数字の類似性を指摘しました。 >>635
[637] しかし昭和時代の神代文字研究者吾郷清彦は類似性を否定しています。 >>635
[639] 明治時代の大和田建樹 和文学史 は南部の暦や経文の文字(や他の地域の記号)を神代文字と関係するものと説いています。 >>638
[641] 昭和時代の島屋政一 印刷文明史 は神代文字と一体的に南部の数字 (や他の地域の文字) を解説しています >>640。また、 >>636 説にも言及しています。
[629] 昭和12年頃に田山文字と神代文字が関連あるのではと話題になり岩手日報にも掲載されたといいます。 >>626
[631] それによると神代文字の研究者だという地域の名士小保内樺之介が八幡源夫家(田山暦版元)を訪ね、 調査したそうです。 >>626
[632] 昭和58年の八幡秀男 (八幡源夫の子) の著書に比較があります >>630。 この図がどのように作られたものかは不明です。新聞記事に基づき本書執筆時に作成したものでしょうか。 昭和58年時点で八幡源夫は故人、八幡秀男は当時幼少だったとのことで、 新聞記事からの伝聞になっているので八幡家には記録もなかったと思われます。
[633]
八幡秀男は「
[1763] 田山暦の近現代研究史については >>7 を、 絵経の研究史については >>1767 を参照されたい。
[2001] >>7 は田山暦の研究史を整理し現存史料を分類するものだが、 研究の基礎として史料の性格を見極めることの重要性を説いている。 一言でいってしまうなら史料批判の重要性ということなのだろうが、 新出史料が続出してそれなりの分量になってきた今、 研究を新たな段階に進めるためには重要な作業だろう。
[2002] おそらく今後は盛岡暦や盲経、あるいは暦と共に配布された解説書の類についても同様の観点で整理することが必要になるだろう。 特に、昭和以後の盛岡暦は今までの時代の研究者にとって「現在」だったため、 あまり研究対象とみなされていない感があるものの、今や数十年も前の歴史時代になっているし、 研究史としても重要であろう。 また、盲経は暦と違って年代がはっきりしないため、これまで何が何種類作られどのように広められたのか見通しが非常に悪い。
[2053] >>7 は田山暦の研究史を3期に分けていて、 時代区分論の叩き台として重要だと思われるが、それと同時にいくつか問題も指摘できよう。
[2054] まず、第1期を昭和初期としていて、それ以後の「研究」と近世の「記録」を区別していること。 しかし自分達と異なる地域の文化資料を収集し、分析し、それを公表し、 模造品が制作される段階にまで到達した営為を研究史に組み込まないのは妥当な判断なのかどうか。 それでいて現代の博物館の展覧会図録を、新出史料が掲載されているとはいえ、 「研究」の枠内に収めることに一貫性があるのかどうか。
[2055] ひとまず天明の菅江真澄から明治9年の新撰陸奥国誌までは暫定的に第0期とでもしておくのが良いかもしれない。
[2056] 次に問題となるのは田山暦のみの研究史と時代区分を設けることの妥当性。 それは >>7 が研究対象とした範囲が田山暦である故で、 >>7 の文脈内ではまったく正当な整理ではあるのだが、 これをより一般的に活用していくには多少問題がある。
[2059] それは、
により、田山暦だけの研究史は完結したものにならず、 必ず南部めくらもの全体の研究史に発展するということが1つ。 田山暦だけの研究史の整理に加え、盛岡暦だけの研究史や盲経の研究史も整理され、 それらを俯瞰統合した上で改めて時代区分を再検討するという作業は間違いなく必要になるだろう。
[2062] もう1つは研究者と当事者の距離感。研究者が必ずしも中立的で透明な観測者ではなく、 現地で発行に関わったり、全国に広報して普及、振興を図ったりと関与を続けてきた経緯。 逆に当事者や現地住民が収集・研究活動を先導してきた経緯。これらを考えると、 純粋な学術的成果という側面だけで分析することは必ずしも十分とはいえない。 もちろん学術的成果を分析することは必要で重要な作業には違いないが、 それだけで終わらせてしまうのはもったいなく、より多方面へと発展させる必要があろう。
[35] この時代の知識人たちの活動は、単なる珍品収集に留まらない、まさに学術的探求の原点であった。彼らは、自身の知的好奇心に基づき、未知の文化を記録し、分析し、そして共有することで、後の研究の礎を築いた。
[36] 菅江 真澄 (1754-1829) : 天明5年(1785)の田山訪問と、その記録。 東北地方を遊歴し、その記録『凡国異器』 の中で天明3年田山暦を詳細に模写・紹介。外部の知識人による最古級の記録の一つを残した。 南部絵暦の文字を津軽地方の方言漢字と比較考察するなど、単なる記録に留まらない分析的視座の萌芽を示した。
[37] 橘 南谿 (1753-1805): 寛政9年(1797)の『東西遊記後編』刊行。 天明3年暦を図と共に紹介。その出版を通じて、絵暦の存在を全国的に知らしめた。 シーボルトが『Nippon』で南部絵暦を紹介する際には、『東西遊記』 が参照元となったと考えられ、西洋への伝播において重要な役割を果たした。
[38] 山片 蟠桃 (1748-1821)、松浦 武四郎 (1818-1888): 山片蟠桃は著作『夢の代』(文政3年(1820)頃)で、 松浦武四郎は『鹿角日記』(嘉永2年(1849)頃)で、 それぞれ絵暦に言及・記録している。武四郎は版元から原本を入手するなど、 積極的な収集活動も行った。 南部絵暦が当時、広範な知識人の関心の対象であったことを示している。
[39] 落合 直澄 (1840-1916): 明治15年(1882)の『日本古代文字考』刊行。 南部絵暦の数字を神代文字の体系の中に位置付ける学説を提示。
[40] この時期、南部めくらものは近代的な学問(民俗学、歴史学)の研究対象へと移行し始める。 新聞や雑誌という新しいメディアを通じて、その価値が再発見され、研究の基礎が築かれた。
[41] 阿部 秀三 (1893-1965): 雑誌『日本民俗』において昭和2年(1927)に「南部のめくら暦」発表。 南部絵暦を民俗学的な文脈に位置づけ、学術的な関心を喚起した。
[42] 渡邊 敏夫 (1899-1994): 昭和15年(1940)の『日本の暦』出版。 現存しない寛政12年暦や天保10年暦の貴重な写真を収録していることを含め、 暦史の研究史における貢献は計り知れない。
[22] 新渡戸仙岳は、日本国岩手県の近代の名士です。郷土史の研究や文化振興のため積極的に活動しました。 新渡戸仙岳の多彩な活動の1つに南部めくらもの関連もありました。
[23] 新渡戸仙岳の南部めくらもの関係の活動は佐藤勝郎に引き継がれたようです。
[24] 佐藤勝郎は、 昭和時代の岩手県周辺で南部めくらものの資料収集と研究を行いました。 生まれ、 死去。
[25] 南部めくらものシリーズをはじめ多くの著作を残しており、本来なら南部めくらもの研究の必読の基礎文献となるべきものと思われますが、 ほとんどがガリ版刷りで地元の少数の図書館にのみ所蔵されている (それも不完全な疑いあり) らしく、 書誌情報の確認すら困難な状態です。
[43] 史料の網羅的な収集が進み、南部絵暦研究は飛躍的な発展を遂げる。
[44] 岡田 芳朗 (1934-2014): 昭和37年(1962)頃から平成25年(2013)頃まで、半世紀以上にわたり活動。 全国の史料を調査し、その成果を『南部絵暦』(昭和55(1980)年)、『南部絵暦を読む』(平成16(2004)年) として発表。田山暦を「前期」「後期」に分類。現代の研究の基礎を完全に確立した。 コレクションは国立天文台に岡田文庫として収蔵されている。
[1] 工藤紘一は、昭和時代後期から平成時代の日本国岩手県の郷土史研究者です。生まれ。 長年岩手県立博物館に勤務していたとみられます。県内各地の民俗資料の収集や分析など幅広い分野に業績がありますが、 その中でも南部絵暦の他には漆に関する研究が目立ちます。
[6] 南部絵暦に関しては、岩手県内各地の多数の史料を報告し、それらを解析しています。 にはそれまでの関連論文等を再編集し大幅加筆した単著 田山暦・盛岡暦を読む を刊行しています。 >>860
[8] 昭和時代後期から平成時代にかけて断続的に多数の南部絵暦関連の論著が発表されており、 他の研究活動と合わせて県内各地を巡ったり、地元住民からの情報提供を受けたりしながら資料収集を進め、 時間をかけて分析と考察を発展させたものと思われます。
[11] 全国的な視点で研究した岡田芳朗と地元に根付いた地道な活動で貢献した工藤紘一とは、 昭和時代から平成時代にかけて相補的にこの分野を牽引した二大巨頭というべき存在であります。
[26] 金澤浩 (新字体: 金沢浩) は、 昭和時代の日本国青森県の郵便局員です。 生まれ >>1630。
[28] 金澤浩は近所の老人との話から絵暦に興味を持ち、 南部めくらもの資料を収集するようになりました >>1630。 昭和41年にはガリ版刷の小冊子を刊行。 時点で
を擁し、江戸期盛岡絵暦コレクションとして最大と言われていました。 >>1630 それらは当時の研究者に参照され、後に金澤コレクションとして岩手県立博物館に寄贈されました。
[34] また、賀状に暦の絵を使っており、受け取った人に喜ばれたといいます。 >>1630
[27] 金澤浩自身の著作と思われるものは、 青森県のいくつかの図書館にわずかに所蔵されるのみです。 古書として Web 上に掲載されるものも見当たりません。 その全貌はまったく不明と言わざるを得ません。
[2093] 小笠原喜康は、 平成時代の教育学者です。 日本大学文理学部教育学科の専任講師 (後に教授) として、 視聴覚教育を研究していました。
[2094] の論文では、 「絵図記号」と「言語記号」を区別する視聴覚教育分野の「常識」 に当てはまらない「特殊な例」として「「南部めくら暦」」を取り上げています。 >>2092
「南 部
め く ら 暦 」 〔注 2 ) と か 「絵 経 」 と い う、一般 に 「判 じ 物 」 と呼 ば れ る も の が あ る 。 こ れ は 子 ど も の 時 に 経 験 し た こ と の あ る 人 も多 い 、 絵 に よ る 遊 び に 類 し た も の で あ る と い わ れ る 。
として紹介されています。絵暦と絵経は明確に区別されず、 盛岡系と田山系の違いにはまったく言及せず、一般の判じ物とすら区別しないままに雑に扱われています。
[2096] 図2には盛岡絵暦から2マス分を抜き出したと思われるものと、 絵経の「摩訶般若波羅蜜多」部分の漢字と南部文字の併記部分が白黒低解像度で掲載されています。 図の出典は示されていません。
[2097] 版元として中儀本店の連絡先と、 「手近な文献」として永野賢の昭和51年の論文が挙げられています。
[2098] 著者は、絵がただその対象の単純な形状を記述しただけのものではなく、 発音を通じた類推などの原理で対象と結び付けられていると指摘しています。 しかし、いくつかの例示に留まり、深い分析もなければ、先行研究による分析の引用もありません。
[2101] 本文中には漢字やヒエログリフへの言及もあるものの、 それらを「絵図」のようにも見える「言語記号」として扱い、 南部のものは「言語記号」のようにも見える「絵図」として扱って、 異なる方向からの境界事例として取り上げているようにも読めます。
[2100] 文字と絵の関係性の中で南部文字, ヒエログリフ, 漢字, その他の図記号の類の性格や機能性を問い直すという着眼点は当論文の優れた点であると考えられる一方で、 視聴覚教育分野の「常識」を疑い、それに反対する自論を展開するという強い目的意識が議論の幅を狭めてしまっているようにも感じられます。
[2102] 当論文の本筋とは若干逸れてしまう (あるいは言語と絵との二元論に反対する著者の立場の逆に向かってしまう) おそれはあるものの、「文字」とは何か、南部めくらものを構成するものは「文字」なのか、 といった当論文の検討の前提となる基礎的な事実認識の擦り合わせ (文字学における先行研究や南部めくらものの構成要素の体系的な検討) は行われるべきだったでしょう。
[2103] それがないままの当論文の議論は、南部めくらものを娯楽性が強く体系的で継続的な利用が見られない一般の「判じ物」 と一緒くたにした雑な印象論の範疇を出ておらず、脆弱と評さざるを得ません。
[2099] なお、教育現場で接する機会もあると思われる一般の判じ絵ではなく、 特に南部文字を選んで取り上げたことは一見奇怪ですが、 著者が日本国青森県八戸市生まれであることから、地元での知見、 もしかすると自らの体験も背景にあったのかもしれません。
[70] 小笠原喜康は、博士論文に南部めくらもの関連の研究を収録しようとしたそうです。 ところが査読者がこれを妨害したといいます。査読者は、「めくら」は差別用語であって、 たとえ参考文献の書名であっても使うことが許されないとしたそうです。 そこで小笠原喜康は南部めくらものの章を博士論文からすべて削除せざるを得なくなりました。 >>1170
[71] 小笠原喜康はに筑波大学から博士号を授与されたようです。 Web で公開されている博士論文は確かに南部めくらものへの言及がありませんが、 そこまでの研究過程からすると不自然に感じていました。研究方針の転換でもあったのかと不可解に思っていましたが、 本人の >>1170 の述懐で合点がいきました。
[1171] >>70 酷い話。「査読者の一人」の研究不正なのでは。
[2088] こうやって不当に葬られた研究成果が少なくても1つ、もしかしたら他にもあるってこと!? 日本学術会議さん、我が国の学問の自由は一体どうなってるんです???
[19] 渡辺章悟は、平成時代の日本の仏教学、特に般若心経の著名な研究者です。 の著書 絵解き般若心経―般若心経の文化的研究 は、 南部絵経各種について、その全文とその文字の解釈を収録しています。巻頭にはそれらの実物のカラー写真も収録されています。 >>1767 ありそうであまりない、南部絵経の基礎的資料として重宝できる書籍です。
[21] 本書は「文化的研究」と銘打ってはいますが、史料の全文の提示やいくらかの事実関係の整理と解釈の提示にとどまっています。 もちろん、それは研究基盤を整えるための重要な仕事で、その成果を全国区で一般流通させ続けていることには大きな意義があります。 しかし、渡辺章悟自身によっても、他の研究者によっても、その後十数年にわたって新たな研究成果はごくわずかであり、 研究分野としての発展が見られないのは残念です。
[45]
平成時代には、
博物館等の展覧会で取り上げられたり、
暦や判じ物の書籍で紹介されたりと、
南部絵暦の知識を普及させる活動も多く行われました。
[13] 太田原潤は、平成時代から令和時代の日本国の考古学・民俗学の研究者です。 生まれ。日本国青森県生まれで、長年当地の文化財行政に携わっています。 また、令和時代に入って神奈川大学で民俗学を専攻しています。
[14]
太田原潤の研究分野は多岐にわたりますが、博士論文とそのもとになったと思われる論文群では自然暦を中心課題としています。
[15] 本段落執筆時点で南部めくらものに関する太田原潤の業績として知られるのはこれだけです。 当論文の優れた内容や活動領域の広さを鑑みれば、今後もこの分野の発展へのご尽力を願わずにはいられません。
[16] さて、当論文は、題名にある通り田山暦を題材としています。昭和時代から平成時代にかけて五月雨式に報告が続けられてきた田山暦を、 改めて集大成し、それらの来歴を検討して6種類に分類しています。 >>7 これは、研究対象となる史料を特定しその性格を明らかにする重要な、 しかし蔑ろにされがちな作業であり、田山暦を扱う今後のすべての研究が参照するべき研究基盤を整備するものと高く評価できます。
[17] 当論文はその上で、田山暦の暦注の取捨選択の基準を探ります。農事暦的性格を想定する従来の素朴な通説に対し、 農耕作業の手引きとしては不完全で、むしろ庚申信仰との関連性が強いことを指摘し、信仰とのつながりに造暦の動機を求めます。 >>7 南部絵経との歴史的な関係をみればむしろ自然な解釈といえます。
[302] に情報処理学会の人文科学とコンピュータ研究発表会の「学生ポスターセッション」 で発表された IIIFを利用した非文字資料・文字資料の比較分析 は、小野寺華子が田山暦の内容を検討したもので、 その予稿が公開されています。 >>1958
およそ題名から予想が付きませんが、概要によると田山暦と伊勢暦を IIIF Curation Viewer で比較し、田山暦の暦注の選択に法則性を見出そうと試みたものとなっています。 >>1958
[303] 当論文および他の Webサイトから得られる情報は多くありませんが、著者は発表当時千葉大学の大学院生で、 南部めくらもの関係で公表された業績は当論文のみです。所属は日本史系と思われますが、 本人および周辺で他に近接する業績も見当たらず、なぜ田山暦を題材に取り上げたのかは定かではありません。
[304] 当論文が実のところポスターセッションの予稿であることや、人文科学とコンピュータ研究発表会という学会の性格によるところもあるのでしょうが、 題名をみても本文を読んでも当論文の主題が何であるのか分かりづらいものとなっています。田山暦の分析だとしても、 工具の利用報告 (研究手法の提案や紹介) としても不完全で軸がぶれている感が否めません。また、当研究は対象史料の IIIF データを製作してソフトウェアを活用して分析するものですが、製作された史料データや注釈データは公表されていないようで、 第三者による再検証や発展的研究も困難となっています。
[305] 当論文は
通説では文字
が読めない農民向けに農作業の適切な時期を伝えるためで あったり,娯楽のために利用されていたと言われているが, そこには疑問が多くある.
と説明しているものの、この「通説」には出典が示されておらず、詳細は不明です。 >>1958
[306] 確かに世間ではこうした通俗的理解も見られるものの、専門の研究者はここまで単純化した構図では語っていないように思われます。 特に、実用的性格が強い田山暦と娯楽的性格が見える盛岡暦の違いを無視して「通説」としてまとめることには無理があります。
[307] 当論文は
文字が
使われない“絵暦”
としており、田山暦を「非文字資料」とみなしているようです。 >>1958
[308] しかし、岡田芳朗が平成16年に刊行した南部絵暦を読むは「絵文字」と表現するなど、 学術的な「通説」は南部絵暦の構成要素を一種の「文字」と考えていると思われます。 何の説明もなくこれを「非文字資料」とみなすのは乱暴です。 あるいは「文盲」に引きづられて漢字や仮名でなければ「文字」と認めないような立場でしょうか。
[2] 令和5年に発表された当論文にとっての不幸は、令和4年に発表された田山暦の研究史の画期となり得る重要論文 >>7 を (おそらく) 参照できなかったことでしょう。同論文は、既知のすべての田山暦を整理分類した上で、 暦注の検証を通して農事暦的性格よりも信仰の重要度の高さが検出できると結論付けています。 着眼点と方法論の大筋において両者は一致していますが、資料収集、史料批判、分析のすべての段階で同論文は非常に優れており、 そこで当論文と異なる方向の結論が導かれているとすれば、 当論文の着想は評価しつつも、分析結果には厳しい目を向けざるを得ません。
[3] 大学院の学生の研究会発表にこうした不満が残るのは、ある種予定されていることであり、その事自体が問題とされるべきではないでしょう。 当論文の場合 (少なくても Web で見つけられる限りにおいては) 孤立した発表であり、その後の改善、発展した研究成果が見当たりません。 指導教員が研究の進め方と発表の方法を適切に指導し、 完成に近づけさせられているのかどうか、 大いに疑問を持たざるを得ません。
[4] 本段落執筆時点で既に3年が経過しているわけですが、もし大学院を修了し研究職に就いていないのであれば、 指導教員や後輩大学院生が引き継いでいるのか、それとも放置されているのか。 もし仮に後者だとすればあまりに無責任な研究・教育体制です。
[46]
令和時代に引き続き南部絵暦を展示するイベント等はたびたび開催されています。
地元の岩手県では、地域の児童や住民を対象とする体験型のワークショップも定期的に行われているようです。
[47]
平成時代後期以後、諸機関で史資料の電子化が進められており、
南部めくらもの関連資料もその恩恵を受けています。
中でも国立国会図書館デジタルコレクションは、
貴重な絵暦史料等の高解像度画像を自由利用可能な形で公表しています。
また、昭和時代の雑誌等の関連記事も閲覧可能となっており、
研究環境は著しく改善されました。
[48] 一方で、北東北地方に偏在する重要史料や初期の研究者の著作はアクセス困難なままであること、 電子化された画像を Web 公開していても、低解像度だったり、 法的根拠不明の謎の利用制限が提示されていたりすることが少なくないこと、 といった課題も山積しています。
[49] 岡田芳朗の死後、南部めくらものに継続的に取り組む研究者が不在の状態が長く続いていること、 令和時代に入って盛岡暦の発行も中断してしまっていることなど、 南部めくらもの自体もその研究体制も存続が危ぶまれています。