[5] 日本の後南朝が明応と建元したとする伝承があります。 似た異説がいくつかあります。
[29] 応仁3(1469)年4月28日 >>31、 応仁の乱のさなか東軍 (後土御門天皇, 足利義政将軍) は兵革を理由に文明と改元しました。 >>440 西軍についても改元の噂がありました。
[27] 經覺私要鈔 文明元(1469)年5月4日丁亥条 >>31, >>440 (経覚私要抄 応仁3年5月4日条) は 「伯書記云」 として、 文明元年4月28日に文明と改元があったこと、 西方にも年号があるらしいが文字が「不分明」であることを書いていました。 >>31, >>33, >>34
[35]
経覚は興福寺大乗院の門跡でした。
伯書記は僧の名とあります >>34 /104。
京都から奈良まで改元伝達に平時でも数日程度かかっていたとされ
(
[77] 現存する記録ではこの時点でまだ西陣南帝の擁立には動いていないと思われますが、 西軍方でも既に独自の天皇を擁立する動きがあった、 ないしは噂されていたのでしょうか。
[36] 大乗院寺社雑事記 文明元(1469)年11月21日条に、 南主兄弟が吉野と熊野で蜂起し明應元年と年号を建てたとの噂が記録されています。 >>6
[37] 同条は興福寺大乗院の経覚の次代の門跡の尋尊によるものです。 半年前の噂とは違って後南朝の改元で、今度は元号名も明らかにされています。
[30] 同条はこの時期の後南朝の動向の記録の中では古いものとされます。 元号の情報も入っているので、これまでにない実質を備えたものだった可能性が高いと考えられています。 >>38
[43]
平成時代の日本の後南朝研究者森茂暁は、
明応が使われたとすれば「
[51] 文明元年11月21日に明応元年と宣言したとするものもあります >>11 が、この日に噂が記録されたのに過ぎず、噂が事実なら挙兵と建元はそれよりも数日以上前となります。 厳密に言えばこの年の出来事かもわからないのですが、11月なので一応同年中として構わないでしょう。
[49] 日本語版ウィキペディアは私年号の一覧に括弧付きで掲載しています。 >>10, >>322 凡例がないので意味不明ですが、風説で実用例がないからでしょうか。
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 (明応) - 文明元年(1469年) 不明 『大乗院寺社雑事記』文明元年11月21日条。後南朝改元の風説。
[41] 11月の噂の後、 西軍は後南朝の通称西陣南帝を擁立したとされますが、 断片的な記録のみで、文明元年11月に蜂起した者と西陣南帝が同一の者かも明らかではありません。 >>38
[28] 西軍の山名氏は、 6月時点では「応仁三年」を使っており、 応仁4年4月までには「文明」を使うようになっています。 >>440 (大日本古文書 山内首藤家文書所収応仁3年6月10日山名持豊感状、離宮八幡宮文書所収文明2年4月21日室町幕府奉行人連署奉書) 正確にいつ切り替えたのかはわかっていません。
[8] 西陣南帝が応仁の乱の西軍に迎え入れられ上洛したのに、 西軍の文書で使われた形跡がないということは、 西陣南帝と文明元年11月の挙兵は別勢力だったのでしょうか。 それともそれまでに廃されたのでしょうか。 あるいは後南朝関係者以外の西軍関係者には受けいられれなかったのでしょうか。 文明元年4月の西軍改元の噂との関係はどうなのでしょうか。
[97] 菅政友全集, 国書刊行会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/898703/1/110
[98] >>97 南主ごとにわけて編年するスタイルで、 大乗院寺社雑事記の引用を西陣南主条に入れています。 引用のみで特記なし。
[67] 昭和時代の研究者渡邊世祐は、 文明2年2月に南朝の後裔の日尊が紀伊国の宇恵衛門の館で挙兵し、 年号を明應としたと書いています。 >>69 出典は定かではありません。
[60] 日本語版ウィキペディアは11月に兄弟が挙兵し明応と建元したと書いています >>59。 出典不明ですが、明らかに文明元年11月の誤りです。
[61] 日本語版ウィキペディアはそれと共に、 2月に日尊が明応と改元したと書いています >>59。 噂と1年ずれていますし、建元者が違います。
[62] >>60 説と >>61 説の関係は何の説明もありません。
[79] 文明2年建元の出典は明確に書かれていませんが、直後の記述から >>66 が出典とわかります。
[80] 文明元年11月の明応の噂が真実だとすると、 文明2年に明応元年を使うのは不審です。 偶然に別勢力が使うほど「明応」が魅力的だったり、後南朝と縁が深かったりするようには思えません。 文明元年11月の明応の噂が改元デマだとしても、 その翌年に偶然それと一致する明応元年を使う者が出てくる可能性が高いとは思えません。
[81] するとより古い文明元年11月の噂の存在が信憑性の高い資料に記録されている以上、 文明2年説の真実性は低いと言わざるを得ません。 (文明2年にも明応の噂が流れていた可能性はあります。)
[146] 昭和時代には、 民衆の南朝志向の一側面として私年号を取り上げ、 これらいくつかの明応 (>>36, >>67) や正中を南朝方の私年号の具体例として示したものもありました。 >>337 (明応については引用のみでこれといった新知見はありません。)
[134] この系統の説をベースにした独創的な歴史観を披露する令和時代のブログ記事もあります。 >>84 (他の後南朝の元号も登場します。天靖を参照。)
[71]
日本国奈良県吉野郡天川村に残る南朝の綸旨とされるものに、
日付を
「
[72] 昭和時代に写真で綸旨に相違ないと判断されましたが、 当時既に現物は行方不明となっていました。 >>3 その写真の原板も戦災 (大東亜戦争か) で消失したとのことです。 >>89 なおその被写体は原本でなく写しでした。 >>92
[73] を元年とする明応 (y~1297) とは3年でも6年でも干支年が一致しません。 >>75, >>2
[85] 天川村は奈良県南部では西の方ですが、和歌山県には接していません。 紀伊の宇恵衛門の館がどのあたりか不明ですが、紀の川下流域であればそう遠くはなく、 日尊と関係があるのかもしれません。
[86] 日尊とされる勢力の噂が文明2年、文明3年に記録されていますから、 文明4年にあたる明応3年のものとして、時期的に無理はありません。
[87] 日尊の伝承を元にした後年の偽作なら、3年ではなく明応元年や明応2年としそうなものです。 真作なのか、明応がそれよりも長く続いたという他の伝承に基づく偽作ということでしょうか。
[88] なお、当時のものという意味で真作ではあるとしても、南朝後裔のものではないという意味で偽造という可能性はやはり残ります。
[129] 自称天皇の熊沢天皇に関連して、明応□年文書とよく似た文書の記録があります。
[111] 熊沢天皇説で熊沢家の祖先の南朝皇族とされる信雅王が日本大和国吉野郡天河村において発行した綸旨で、 天河村の弁財天の社家に伝来し、 後裔の日本国大阪府大阪市生野区南生野町五丁目八坂神社に住む井頭利栄宅に所蔵されているといいます。 昭和21年に熊沢正照王が偶然発見したとされます。 >>109 /132
[112]
同文書の本文は虫害によるとされる欠字が多いですが、日付は
「
[113]
干支年を元号年と年の字の間に挾むのは中世にはあまりなく近世に好まれた形式です。
[130] 明応□年文書と明応4年文書は日付以外ほぼ一致しているのですが、 両者が実は同じものなのか (細かな違いは誤読?)、違うものなのか、 情報が少なくよくわかりません。 違うものだとすれば一方は他方の破損後に作られた写本ということになるのでしょう。
[132] 同一だとしても写本だとしても、「三」ないし「六」から「四」への「誤読」 には作為が感じられます。
[54] 美作後南朝説では忠義親王 >>63 (忠義天皇 >>102) の即位時の元号としています。 >>63
[100] 美作南朝説は、信頼できる史料に基づかない独創的な説です。
[277] 昭和時代に行われていた説によると、 忠義天皇はの8月28日に即位、 10月1日に改元して明応 (明應 >>285) としたとされます。 >>102 /48, >>102 /102, >>285 は明応12年とされます >>102 /50。
[64] >>63 は長禄の変 () の直後の即位としており、 同じ説と思われます。
[55] 説も説も、 説 (大乗院寺社雑事記の説) や説とはずれています。
[56] にも関わらず美作後南朝説では説が大乗院雑事記により実証された >>102 /48, >>102 /102 ということになっています。
[57] 美作後南朝説に明応を持ち込んだ人は大乗院寺社雑事記の記事内容詳細までは知らなかったのでしょうか。 大雑把に長禄の変の後、西陣南帝、といったキーワードと明応の元号名だけを知り得た状態で系譜に組み込んだのかもしれません。 美作後南朝説の形成過程を考える上で重要なポイントになるはずです。
[99] 同じ美作後南朝の他の時代の元号とされる天靖, 大明も参照。
[110] 昭和時代の熊沢天皇説支持者は南帝の熊野宮信雅王がに明応と建元したとしています。 >>109 /131, >>109 /209
[117] 年表では1年から10年まであります。 その前後に接続する南朝元号は空欄となっています。 >>109 /209
[128] 明応4年文書とされるものがあります (>>111)。
[114] 北朝の明応は後南朝の明応を抹消するため故意に重複させられたのだといいます。 >>109 /132 根拠は不明です。
[115] >>109 /165 からには「明応七戊午年八月十五日」文書など、 の「富士山麓会議」 以来の遺物とされるものが紹介されています。 しかしこの「明応」は公年号の方です。
[106] 平成時代のウェブサイト >>101 は熊沢天皇説や明治天皇すり替え陰謀論説に従っていますが、 ここでは西陣南帝を紹介しています。
1471(北朝文明3・後南朝明応3)年
1473(北朝文明5・後南朝明応5)年
と書いています。 >>101 (しかし明応の説明はありません。西陣南帝擁立の説明をしているのに。)
[108] >>101 のページでは皇統正史, 長島銀蔵を出典としています。 >>109 巻末の年表に従ったのでしょう。
[121]
昭和時代の別の本の年表では、天靖の後しばらく空欄を経て、
が
「
[122]
「
の2説(?)を書いています。 ページ末尾に参考文献が数冊まとめて書かれていますが、そのいずれかによるものでしょうか。
[93] 後南朝研究者の間では昭和時代以来知られていました (>>43 >>68 >>67 >>71)。
[94] 私年号研究者には知られておらず、 昭和時代の日本私年号の研究にも平成時代の千々和到の一覧表にも掲載されていませんでした。 平成時代後半のウィキペディアの表には掲載されています (>>10)。
[83] 「応仁」から「文明」への改元の年に出てきた噂で、 しかも改元直後から既に怪しげな改元の噂が流れていた、 ということは「明応」という元号名も新旧元号名が混乱のもとで変化して発生した可能性を考えるべきかもしれません。
[131] Wikipedia は延徳4年7月19日 (ユリウス暦1492年8月12日) を改元日としています。 「ただし室町幕府は改元吉書始を7月28日(8月21日)に行い、この日から新元号を採用している。」 ともあります。
[9] 後南朝の明応が噂になっていたのに、 それが公年号として採用されてしまったのは、 この頃には既に忘れられていたのでしょうか。 それとも取るに足らないとされたのでしょうか。
[23] 噂の記録が残るのは奈良。京都の元号考案者らは知らなかったのですかね。
[125] 知っててわざとぶつけたという陰謀論説もあります (>>114)。
[19] 千葉県史料 中世篇 香取文書, 千葉県史編纂審議会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3450860/1/248 (要登録) 左下
[20] >>19 癸丑年とだけありますが、 目次によると明応2年癸丑と推測されています。
[21] 前後の同地域、同時代の文書と比較すると、なぜかこれ1通だけ干支年で浮いています。
[25] 信濃史料 第9巻 (応仁2年正月-明応2年11月), 信濃史料刊行会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3013099/1/288 (要登録)
[26] >>25 延徳4年壬子12月15日、16日を訂正して明応元年。いつ訂正されたのかはわからないが、 改元伝達タイミングがこの頃だったということか。
[13] 明応 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BF%9C
[17] 川口市史 古代・中世資料編, 川口市, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9641575/1/317 (要登録)
[18] 川口市史 古代・中世資料編, 川口市, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9641575/1/320 (要登録)
干支ずれ
[136] >>135
[137] >>135 は妙應を明応と断定しています。根拠は不明です。
[144] >>143 ただの誤変換の可能性が高いですが、 この種の解説文は寺社縁起の類の孫引きでしょうから、 古い資料にこの表記がある可能性もまったく皆無とまでは断言できないかもしれません。