支那即位紀年

東洋の即位紀年

[40] 武帝の時代に元号制度が成立するまでは、 支那式即位紀年が使われていました。 基本的に君主即位の後に新たな元期を設定 (称元) するものでした。

他の文化圏との比較は即位紀年

紀年法

[95] 中華文化圏の在位紀年は、 同時代に使われたものも後世の歴史家に使われたものも、 基本的には暦年の名称となっています。 つまり (改元のあったを別にすれば) 暦年の初日に始まり、 暦年の末日に終わるの呼称となっています。

[34] 当時はともかく、現在では区別のため君主名を疑似元号として用いて年番号と併記します。 君主名に揺れがあるときは、 即位紀年の表記にも揺れが生じています (この点、揺れがそれほど大きくない真の元号とは異なります)。 元号年元号スロット

[91] 初までは即位紀年が使われました。 古代支那の日時

[49] 漢武帝は四元から元鼎改元すると共に、一元-四元に名前を与えました。 これが元号の始まりとされています。 漢の元号


[52] 中国の一部を支配した次の勢力は元号ではなく在位紀年を使って表記されます。

[29] 後唐の最後の皇帝である恭帝柴宗訓元号を立てることなくに滅ぼされました。 これを即位紀年で表す史書もあります。

[3] 彝泰元号説と即位紀年があります。 チベット王即位紀年

[51] 一世一元としており、 元号による紀年が実質在位紀年となっています。

[7] 後金天命天聰即位紀年 (汗号紀年) と元号の中間的な使われ方をしています。

[77] 革除紀年

[48] 先秦時代には、 名目上周王を尊重しつつも諸侯が自立していました。 周王即位紀年の他に各諸侯即位紀年が使われました。 諸侯即位紀年の時代になってもなお漢の元号の他に諸侯領内で使われていました。

[21] 前燕 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%87%95#%E5%85%83%E5%8F%B7

元々は東晋の元号を使用していたが、慕容皝は345年に元号を廃止し、この年を燕王12年(燕王慕容皝の治世になってから12年目という意味である。燕王というのは元号では無い)と称した。349年(燕王16年)、後を継いだ慕容儁はこの年を燕王元年(燕王慕容儁の治世1年目)と改めた。そして352年に帝位に即くと、初めて元璽という独自の元号を用いるようになった。

[37] 慕容儁 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%85%95%E5%AE%B9%E5%84%81#%E8%99%8E%E8%A6%96%E4%B8%AD%E5%8E%9F

次年(349年)稱元年,仍不用東晉年號。

[38] 慕容儁 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%95%E5%AE%B9%E5%84%81#%E7%8E%8B%E4%BD%8D%E3%82%92%E7%B6%99%E3%81%90

349年1月、この年を燕王元年と定め、父の時代同様に東晋の元号は用いなかった。但しこれは東晋との従属関係を否定した訳ではなく、周王朝に従属しながらも独自の暦を用いていた春秋時代の列国の故事に倣ったものである。

[39] 燕元 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%87%95%E5%85%83

[46] https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=37019&item_no=1&attribute_id=21&file_no=1

[47] 前燕慕容儁「初立未建元号,但称燕元年,燕二年」 >>146 p.72 (重校訂紀元編, 羅振玉の巻頭自序)

諸侯王等即位紀年

[1] 滅亡後のでは、皇帝以外の諸侯王列侯も、 即位紀年を使っていました。 漢諸侯王等即位紀年

[64] は成立後しばらくして元号制度を導入しましたが、 これによって固有の元号名のある皇帝元号と固有の元号名のない諸侯王等即位紀年の序列が明確化されることになりました。

[2] 郡国制が崩れた後の諸王朝の時代にも、 たまにそうした諸侯王等即位紀年の系譜の紀年が出現しました。

[6] 中華秩序では皇帝元号を建てるもので、 臣下はその正朔を奉じることが求められました。 独自の元号を建てることは反逆の宣言とみなされました。 しかし諸侯王等が即位紀年を用いることは、 必ずしも正朔を奉じることの拒否とはみなされない(こともある)ようです。

[71] ただ中央の皇帝元号ではなく独自の即位紀年を使うということは、 反逆者ではないにせよ独立的な強大な勢力を保持し続けていることを暗示していますし、 政権を狙うレベルに成長しつつある (がまだそれに至らない) 大勢力が元号を建てることを一応憚って即位紀年にとどめて恭順を装っているだけのことも多いです。

[65] なお皇帝またはそれに準じる地位を称していても、 時代の制度を復古するなどとして、 元号を廃止して即位紀年を使う勢力がたびたび表れました。

[12] から元号制定を非難された新羅や、その後継の高麗李氏朝鮮の歴史が即位紀年で記述されるのも、 其の理由の1つには元号がだめでも即位紀年は必ずしも憚られないという事情があったのかもしれません。 朝鮮半島の紀年法

[13] 曹操の魏元年

[14] >>38

[82] 周書は、 属国だった西梁元号名を紹介しつつ、 それは使わずに 「詧之二年」 のような書き方で即位紀年を使っていました。

[58] 晋書馮跋は、 国の馮跋の即位と元号太平を紹介した後、 紀年は一貫して晋の元号を使い、この元号は使いませんでした。 その後の素弗の記事には、 「跋之七年死」 とありました。 >>19

[70] 馮素弗の死去はとされています。 >>69 「跋(之)」 (y~2155) は太平 (y~1263) の元号と並行する即位紀年と考えられます。

[85] 晋書天文志に、 「恭帝元年正月戊戌」 とあります (y~2156)。 >>84 帝紀恭帝元熙元年 (y~676) 春正月壬辰朔戊戌条に同内容の記事がある >>84 ので、 を表すとわかります。

[86] 恭帝東晋最後の皇帝でわずか2年で南朝宋禅譲しました。 「恭帝元年」という表記はあるいはその元号を認めない意図が含まれるのでしょうか。 ただし晋書自体は帝紀で恭帝の即位と元熙元号を認めていることには注意が必要です。

[87] 「恭帝元年」は西魏恭帝の時代を表すために使われることが多いようです。 西魏の元号
[88] 単に誤脱の可能性もあります。

[30] 協和

[8] jor002_1_14.pdf, , https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/145574/1/jor002_1_14.pdf

[99] cks_007_001.pdf, https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/60793/cks_007_001.pdf#page=13

漢土

[45] 漢土即位紀年

[41] 朝鮮賦1卷, 明董越撰, 明王政校, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2538547/1/34

[42] >>41 後序の冒頭に「聖天子紀元之二年歳在己酉」とあります。 後序の末尾には「弘治庚戌菊月九日」とあります。

[43] 本書はの公務視察記録です。 後序の日付はに当たります。

[44] 元号を忌避するべき事由はまったく見当たりませんから、 文飾的な理由で敢えて即位紀年を使ったと考えられます。

日本

[10] 日本元号導入前・中断期は在位中の天皇 (または神功皇后) による紀年法を用います。 天皇即位紀年

[81] 日本では中央政府の勢力の弱い時期も中央政府元号が使われており、 地方勢力の在位紀年を使ってはいないようです。

[50] 琉球王国の歴史の記述では普通は中国元号 (場合により日本元号) を使い、在位紀年はあまり使わないようです。 (使うこともないわけではない: 琉球王即位紀年)

朝鮮半島

[11] 朝鮮半島は大部分の期間に中国元号を使っていました。 正史では朝鮮半島の王の在位による紀年法を用いています。 歴史書や百科事典等でもそれに従っていることがあります (し、本来の中国元号を使うこともあります)。 朝鮮半島の紀年法

蒙古

蒙古王即位紀年

越南

越南皇帝即位紀年

中央アジア

[15] 個別記事参照: 拓跋の即位紀年, 遼の即位紀年, 蒙古の即位紀年, 滿洲の即位紀年, チベットの元号


[16] 中国における歴史の記述では、 元号を使っていない周辺異民族の年を君主の即位紀年で示していることが (実用していたまたは正史がそれを採用していた場合以外の民族でも) 稀にあります。

[23] 史志办|内蒙古十通·内蒙古自然灾害通志 () https://www.shizhiban.com/p/detail/fbe7a6559d/

------ 周赧王二十六年 秦昭襄王十八年
------ 秦始皇嬴政十七年
------ 秦始皇嬴政十九年
------ 汉惠帝刘盈二年 匈奴冒顿单于十七年
------ 汉景帝后元年二年 匈奴军臣单于十九年
------ 汉武帝元封三年 匈奴乌维单于六年
------ 汉武帝元封六年 匈奴乌维单于九年
------ 汉宣帝本始三年 匈奴壶衍鞮单于十四年

[22] 《说匈奴》之五单于草原逐鹿, https://www.sohu.com/a/156011669_745623

握衍朐鞮单于二年(前58年),日渐强大的乌桓袭击匈奴东部的姑夕王,姑夕王大败,被掠走许多人畜。

[26] 民族学考研:匈奴英主呼韩邪单于_冒顿_会议_大人, https://www.sohu.com/a/619792472_121124715

公元前58年(汉宣帝神爵四年,握衍朐鞮单于三年),左地的贵族与乌禅幕乘机拥立稽侯珊为呼韩邪单于,随即调动左地兵将西击握衍朐鞮单于。

[24] 史海寻踪.帝王世系.唐时期(二), , https://web.archive.org/web/20070928073617/http://40881.host3.tfidc.com/tang2.htm

掲載された表の各欄の意味は明らかではありませんが、 元号があれば元号名が示され、 また継続 (在位) 年数を示した欄に、 西喇拉汗阿赫马德について、 「(前元)(1)」 「(后元)(6)」 と支那式即位紀年前元後元であるかのように書いた箇所がありました。

[27] 严肃地“戏说”历史,不利于振兴戏曲_参考网, https://m.fx361.com/news/2021/0905/8819219.html

柔然丘豆伐可汗元年正月十九日(魏天兴五年正月十九日,402年3月12日),丘豆伐可汗郁久闾·社仑自立。针对正史首次出现的“可汗”这个词,史学家的解释是:“‘可汗,犹魏言‘皇帝也。

君主以外によるもの

[4] 皇帝国王が空位で、 その代理を称する事実上の君主の即位紀年を用いる場合もあります。 称制紀元

後元

[61] 改元のうち、 治世最初の代始改元のことを称元在位中の改元のことを改元と特に呼び分けることがあります。

[35] 関連: 重祚, 朝鮮半島の即位紀元, 至元後

[60] 錯誤天皇 - Uyopedia, , http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E9%8C%AF%E8%AA%A4%E5%A4%A9%E7%9A%87

追号説

[9] 即位紀年に後世、追号したものや、 追号が疑われているものがあります。

[33] 追号説のある元号

メモ

[28] 元号-2200年前に生まれて、今使っているのは日本だけ: ことのはくりえーと ( 版) http://adekalifecreate.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_99db.html

「このめでたい日を境に、元号を後元(こうげん)としよう」

といったのでこの年が後元元年とされました。それまでは皇帝の即位から単純に元年、弐年と数えていたので(在位紀年法といいます)、この文帝の改元をもって中国正史では元号のはじめてとされています。

[56] 年号うんちく ( 版) http://www002.upp.so-net.ne.jp/ayuta/rekisi/syoji/nen.html (消滅確認 )

年号うんちく, , https://web.archive.org/web/20031217015047/http://www002.upp.so-net.ne.jp/ayuta/rekisi/syoji/nen.html

元号(年号)が初めて正式に定められたのは、漢の文帝の後元元年(紀元前168年)であるようです。

[62] 漢復 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%BE%A9

柏楊はこの年(30年)から33年までを「朔寧王隗囂元年」から「4年」まで、34年を「朔寧王隗純元年」とする在位紀年を立てている。

[76] 廃帝 (西魏) - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E5%B8%9D_(%E8%A5%BF%E9%AD%8F)

元欽の在位中には元号が建てられなかったため、後世の史書では552年・553年を「西魏廃帝元年・2年」と呼んでいる。

[5] 佐藤 信弥 (Shinya Satō) - 年号以前――中国で年号制度ができるまで - 社会貢献活動 - researchmap, Japan Science and Technology Agency, https://researchmap.jp/satoshin257/social_contribution/2632600

[31] jor008_5.6_283.pdf, , https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/145814/1/jor008_5.6_283.pdf#page=4