[5] 、 初代皇帝洪武帝が死去しました。 同年建文帝が首都南京で皇帝に即位し、 始に建文に改元しました。
[7] 4年に亘る戦闘の末南京は陥落し、 6月17日、 永楽帝が皇帝に即位しました (靖難の変)。
[53] その始に永楽に改元されましたが、 それに先立ち建文は廃止され洪武に戻されたといわれます。
[100] 明史/卷4 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%98%8E%E5%8F%B2/%E5%8D%B74
[13] 夏燮は明通鑑卷25で、 永楽帝が建文元年の挙兵以来、 統治地域で洪武を使い始め、 靖難之役の後に全国的に洪武を使わせたとしました。 >>1
[41] 百度百科の永楽帝記事は建文元年に建文を廃して洪武32年としたとしています >>40。出典不明ですが、これに基づくのでしょうか。 ただし同記事に矛盾する記述があり、他の記事とも一貫していません (>>33)。
[90] 孔尚任所蔵燕王靖难札付によると、永楽帝は、 >>87
[94] これより、建文2(1400)年9月11日に干支庚辰纪年を使い、 建文3(1401)年10月に洪武34年を使う間の時点で、 建文の元号を除去する判断をしたとされます。 >>87
[95] 「庚辰紀年」というのは「庚辰年九月十一日」や「庚辰九月十一日」 のような干支年表記を指すようです。
[101] 「干支庚辰来纪年」というといかにも庚辰年からの年数を数えていそうですが、 そのような例があるのかは不明です。
[102] 追改、除去というのは、過去の紀年も建文元年に遡って洪武に改めたということを言っているのでしょう。
[21]
日本 (足利義満政権) の使者が、
勝者に届けるため建文と永楽の2種類の国書を持参した例が知られています。
[9] 永楽帝は、 洪武35年7月1日付詔書で 「今年仍以洪武三十五年為紀,其改明年為永樂元年。」 としました。 >>8 (明朝小史), >>56, >>105 つまり
... が定められました。
[17] あるいはこれはのことともされました >>16 (明太宗實錄), >>103, >>56 PDF 6ページ。
[49] 中文版维基百科は、 明史を引いて建文4年を改めて洪武35年としたとしつつ >>31, >>48、 他説も紹介しています (>>12, >>13, >>18)。
[12] 中文版维基百科は、 当詔書に基づき7月1日とする記事と、 中国歴代年号考を出典に、 この2つの決定を「建文四年六月(1402年7月)」のことする記事があり >>1、 一貫していません。
[55] この詔書に厳密に従えば、建文4年は洪武35年に改められましたが、 建文元年、建文2年、建文3年は (この詔では) 改められませんでした。
[18] 明鑑綱目によれば、 欽天監は洪武35年だけでなく前の3年も洪武32年、洪武33年、洪武34年と呼ぶようになりました。 >>16
[36] 建文帝時代の物は破壊されたため、 建文と書かれた遺物はほとんど現存しないとされます。 >>35
[51] 中文版维基百科は、 詔書に建文の元号を廃止するとは書かれておらず、 研究者によっては元号廃止は永楽帝の意思ではなく臣下の忖度としていると書いています。 >>31
[20] 日本語版ウィキペディアは、 永楽帝が建文の元号を廃止して洪武の32年から35年に編入したとしています >>19, >>3, >>524, >>30。 32年から34年に関して根拠は示していません。
[33] 百度百科は、記事によって少しずつ記述が違いますが、
... としています。
[57] 永楽帝の真意はともかく、 建文4年当時およびその後の時代に、 建文4年に限らず建文の元号が廃止された (革除) と考えられるようになり、 元号と表裏一体の建文帝の治世もまた抹消されたかのように扱われました。 >>56 PDF 5ページ, >>59 PDF 13ページ
[88] この革除の意図した範囲と永楽帝の関与の程度については、 明の時代のうちに政治問題化し (>>61)、 その後も歴史学的課題となっていますが、 21世紀に至っても諸説あってはっきりしていません >>86。
[58] 太宗実録は、 「四年六月己巳」(17日)、 「洪武三十五年六月庚午」(18日) のように書いていました。 つまり建文帝の時代は元号名なしに年数だけ書いていました。 >>56 PDF 6ページ, >>103
[97] その他でもこのような元号名を「革除」した年数だけの表記が用いられました。
[98] 「革除」は次第に建文帝や建文時代の呼称とも化しました >>86。 Google で 「"革除元年"」 「"革除二年"」 「"革除三年"」 「"革除四年"」 で検索すると、このように革除を元号名とする革除紀年を使った漢文が少なくないことがわかります。
[60] 時代が下るにつれて建文帝の名誉回復が訴えられるようになりました。 明王朝においては建文帝の名誉回復と祭祀、 建文の元号の復活、 建文帝の史書編纂が表裏一体の関係にありました。
[61] しかしただ建文帝の事跡を承認するだけでは永楽帝およびその子孫である現王朝の正統性の否定につながりかねないため、 理論武装と共に慎重に進められました。 永楽帝が建文を廃止してはいなかった、 忖度に過ぎないとする言説も、 こうした背景で盛んに唱えられたようです。
[62] 明後期の文献によると、 10月に建文を使った史書編纂が提案されたとされます。 しかし当時既に其のような提案の記録はないと疑問視されました。 >>59 PDF 8ページ
[64] 建文帝の名誉回復はその後何度か提案されましたが、 万暦帝が建文帝に高い関心を示したことから、 その時期特に何度も繰り返し主張されました。 >>63, >>80
... と主張しました。 >>63 PDF 57ページ
... といった意見が提出されました。 >>63 PDF 63ページ
[27] これによって建文の元号の復活は承認されました。 明史神宗本紀によれば、 9月16日乙酉の詔で、 建文の元号が復活されました >>63 PDF 70ページ, >>524, >>31。
[76] 実録卷之二百八十九万暦23年9月乙酉条によれば、 勅により、 建文帝の事跡を洪武帝の末に付して、 建文の元号を使って記述することとされました。 >>63 PDF 70ページ
[54] 日本語版ウィキペディアは、 万暦帝が撤回したとしています。 >>19, >>3, >>524, >>30
[78] ところが建文帝の史書の編纂はその後頓挫したようです。 建文の元号の復活も宙に浮いたと考えられたようで、 9月9日やそれ以後にも改めて提案されました。 >>77 PDF 27ページほか, >>80 PDF 12ページ, 13ページ
[81] 6月19日乙亥、 南明で建文の元号の復活が承認されました。 >>79 PDF 12ページ
[82] 後の史書はこの時復活が承認されたのを、 万暦時代に復活したことを知らなかったからだと注記していました。 >>79 PDF 12ページ
[83] 実際には当時の明・南明の人々が建文が復活したと認識していなかったのだろうと考えられます。 >>79 PDF 12ページ
[85] 清の時代に入って編纂された史書では、 建文帝の時代は独立して立てられるようになり、 建文の元年から4年として記述されるようになりました。 >>84 PDF 2ページ
[34] 近現代の研究や解説では、建文元年から永楽帝の即位の前までは建文の元号で書くことが多いように見えます。 永楽帝の即位からは洪武の35年と書くことが多いように見えます。
[107] 数代後の奪門の変では、 英宗にかわって皇帝に即位していた景泰帝が廃され、 英宗が重祚しました。
[108] 重祚直後の2月庚子、 明史に 「湯序請除景泰年號,不許。」 とあって、 景泰帝の景泰の元号を除去することが提案されたものの、 実行には移されなかったことがわかります。 >>106
[96] 革除辨 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/zh/%E9%9D%A9%E9%99%A4%E8%BE%A8
[50] 建文 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E6%96%87#%E6%84%8F%E6%B6%B5