[2] 日本の律令時代 (ここでは大宝元年から平安遷都までを指します。) の日時制度についてです。
[106] 大宝以後、元号は継続して建てられるようになり、現在に続いています。
[59] 大宝律令制定後奈良時代にかけて元号制度が定着しおおむね代替わりごとに祥瑞改元がありました。
[1029] 元号の使われ方に特に注意を要するもの: 養老、 白亀、 正法, 4文字元号
[6] 関連: 元号一覧, 元号一覧データファイル
[286] 公文書で元号を使用することは大宝律令で規定されたといいます >>457。 大宝律令は現存しませんが、養老律令 >>458 に
儀制令廿六 公文條:凡公文應記年者。皆用年號。
凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。
... とあります。
釈云はく、大宝・慶雲の類、之を年号と云ふ。 古記云はく、年号を用いよ。 謂ふこころは、大宝と記して辛丑と注さざるの類なり。 穴云はく、年号を用ゐよ、 謂ふこころは、延暦と云ふ是なり。 問ふ、近江大津宮の庚午年籍は、未だ知らず、何の法に依りて云ふや。 答ふ、未だ此の文を制する以前に云ふ所のみ
... とありました。古記とは大宝令の注釈書でした。 養老令と大宝令とおそらく同文だったのであろうと推測されています。 >>246 普及版 p.130
[290] また貞観式 (小野宮年中行事所印逸文)、 延喜式太政官式に 「およそ諸司の年終帳 それ年号下注せよ」 とありました。 >>246 普及版 p.74
[288] こうした一連の法令や法解釈により、従来の干支年表記が廃され、 現在に続く元号年表記が日本の公式の紀年法となりました。
[360] 国家の基本法である大宝令において官から出す文書も民から出す書類も元号年を使うことが定められたのは、 日本が独自元号を用いる独立国であること、 統一国家として官民共通の年代表記をすることが明確にされたものであると評されています。 >>352 p.64
[289] これらの条項がいつ失効したのか、あるいは現在も有効なのかは不明です。
[3] 官僚機構の整備により文書行政が拡大したところ、 大化の改新から60年経過した西暦705年には干支年が一周し、 年次表記が混乱するおそれが出てきたことから、 元号年の記入を義務付けることで 「連綿とした書類整理が可能となった」 (榎村寛之 2001) と推測されています。 >>246 普及版 p.130
[1250]
上野三碑には干支年から元号年への移行が忠実に現れており
[294] その他全国各地の金石文でおおむね大宝時代を境に干支年から元号年に移行した様子が見られます。
[582] 用例を見るに、 元号年単記方式と元号年・干支年併記方式が早い時期から混在していたようです。
[1818] https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/9/9911/7757_2_%E6%9B%B4%E5%9F%B4%E5%B8%82%E5%86%85%E3%81%9D%E3%81%AE2%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%E5%B1%8B%E4%BB%A3%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%BE%A4%E5%87%BA%E5%9C%9F%E6%9C%A8%E7%B0%A1.pdf #page=15
[2745] 元岡・桑原遺跡群8 - 全国遺跡報告総覧, https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/20439
PDF2つめ #page=75
[82] 続日本紀 の文武天皇の紀には、 文武天皇の即位から4年まで記事が続いた後に、 「大寳元年春正月乙亥朔。 三月丙子。 甲午。對馬嶋貢金。建元爲大寶元年。」 >>81 とあり、ここでも年始から新元号で記述されました。
[361]
大宝は改元ではなく建元と記されており、
元号制度の創建であることが示されています。
[291] 大宝の建元は金の献上を祥瑞としたとされていますが、 後に虚偽が判明したと記録されています。 制定済みの大宝儀制令に元号利用が定められていたため、 その施行までに元号を建てる必要があった政府の意図が考えられる、 といわれています。 (所功 1978) >>246 普及版 p.127
[362] 大宝2年、 遣唐使が送られました。 大使の粟田真人は大宝律令制定にも関わっており、 大宝律令も唐に献上したのではないかという説があります。 さらには、 大宝の元号による国書を持参した可能性も指摘されています。 >>352 pp.65-66
[83] 続日本紀
のこれ以後の改元の年も、基本的に年始から新元号を使って書かれたようです。
(基本的に最初の日付のみ年を明記するスタイルなので、年始以外は元号が省略されています。)
ただし天平、天平感宝、天平勝宝と年に2度改元された天平21年は、
「天平勝寳元年春正月丙寅朔」から始まりますが、
「天平廿一年二月丁巳。」などと天平21年を明記した記事も混じっていました >>84。
[8] 続日本紀は編纂時の混乱のために紀年の乱れが酷いと言われています。
[9] そのためもあるのか、あるいは他にも曆の混乱があったのか、 この時代の日付記録には長暦と一致しないものが多数報告されています。
[11] また、史料的根拠に乏しく陰謀論じみた怪しげで独創的な説も、 日本書紀に記述された時代ほどではないにせよ、 いくつも発表されています。
[7] 関連: 旧暦, 1年ずれ, 日本古代の日時, 古今帝王年代暦, 異種紀年法, 養老の延長年号, 元正天皇即位紀年, 天平の遡及年号, 白亀, 日本書紀後世改刪説