[59]
日本国滋賀県大津市超明寺の石碑に
「養老元年十月十日」
とあり、改元日前のため偽作とされていますが、
書体や字句から、
日付より少し遅れて製作されたものとする説もあります。
>>13 普及版 p.139 (東野治之 1997)
[70] 超明寺碑拓本/滋賀県立琵琶湖文化館 The Museum of Shiga Prefecture,Biwako-Bunkakan, biwakobunkakan.jp, , http://www.biwakobunkakan.jp/db/db_06/db_06_012.html
碑文は高さ 40.6センチの堆積岩の一面を平らに成形し、「養老元年十月十日石柱立(たつ)、超明僧(ちょうめいほうし)」と刻みこんでいます。江戸時代の延宝4年(1676)、この地域の新田開発中に月輪大池から出土したもので、何かの記念碑だったと考えられます。発見者の子孫からこれを寄贈されたのが浄土真宗本願寺派の「超明寺」で、碑文に刻まれた「超明僧」の名にちなんで寺号が名付けられたものです。ただし養老元年に10月は存在しないことから、歴史学会では長く偽銘(ぎめい)を刻んだ贋物とされてきました。
ところが近年、国立歴史民俗博物館の企画展示図録などで、「超明寺碑」を再評価して正しく古代に制作された石碑である可能性を認める説が示されています。実際には養老元年11月17日の改元後に作られながら、過ぎた10月10日の事業を記念するにあたって、あえて新元号を称した可能性もあるというわけです。
[32] 万葉集巻八所収の山上憶良の歌のうち、 1518番左注に、 「右養老八年七月七日應令」 とありました。 同1519番左注に、 「右神亀元年七月七日夜左大臣宅」 とありました。 >>31
[33]
ところが、
養老8年
[34] 1518番の「応令」とは、 令旨に応じることで、ここでは皇太子の命に応じることを表します。 山上憶良は、 養老5年1月23日に東宮に侍することを命ぜられていました。 東宮は養老8年(神亀元年)2月4日に即位しました。 以後神亀4年11月2日まで皇太子は空席でした。 養老8年が延長年号で神亀元年の意とすると説明が付きません。 >>36 p.四一六
[54] 万葉代匠記 は、 養老6年の誤りとしました。 >>63, >>53
[37] 坂本太郎は、 明らかに誤りであって、 養老5、6、7年のいずれかとしました。 >>36 p.四一六
[39] 一般の Webサイトで取り上げられることも少なくなく >>29, >>40, >>42, >>44, >>49, >>50、 養老6、7年 >>41, >>46, >>48、 養老7年 >>38 などとされています。 困ったことに、根拠や依拠した学説が明記されないことが多いです。
[52] これを素材に日本書紀や続日本紀の改刪を主張する人もいます。 (一般的な説ではありません。)
[43]
天平7年7月7日にもやや問題があります。
[58] 長谷寺の縁起を記述した文献はいくつかありますが、 日付が一致しない例がいくつかあります。 養老時代に関する問題もあります。 >>57
[60] 縁起文 には 「元正天皇即位六年壬戌秋七月」 とありますが、 即位6年は養老4年庚申に当たるはずで、 養老6年が壬戌です。 そこで元正天皇即位紀年と養老の元号の混同と解されています。 >>57
[66]
養老ではなく真の元正天皇即位紀年で書いた事例もありました。
[61] 「養老八年七月」との延長年号もみられます。 >>57
[62] また改元された次の神亀時代の太政官符による勅許についても 「神亀元年」と「神亀六年」 の混乱があり、前後関係から6年が穏当で元年は字形の類似による誤りとされました。 >>57
『万葉集』巻八の「山上臣憶良の七夕の歌十二首」の冒頭1518番の歌の注に、「右は、養老八年七月七日に、令に応ふ」とあり、1519番の注に「右は、神亀元年七月七日の夜に、左大臣(長屋王)の宅」とあることです。
この注によると、養老5年正月3日に東宮(首皇子、のちの聖武天皇)に侍する一員に任じられた憶良は、養老8年に皇太子から七夕の歌を詠むように命じられたことになります。
ところが、養老8年2月4日に元正天皇が譲位し、首皇子が即位した際、年号が神亀に改まったので、養老8年7月7日という日付は存在せず、この日は神亀元年7月7日になります。
養老八年(724年)の二月四日に改元して「神龜元年」になるので、 養老八年七月七日はないですよね。どうなっているのでしょうね~。
養老8年7月7日(723年) 1首 *養老6年乃至は養老7年の説がある
723(養老7)年7.7、七夕歌を詠む(08/1518)。左注に「養老八年七月七日、令(皇太子の命)に応ふ」とある。養老8年は2月に神亀に改元しているので7年の誤りか。
724(神亀1)年7.7、長屋王宅で七夕の歌を詠む(08/1519)。
この部分は万葉集を読む人たちが皆気にする不思議な部分 でもある。
右は、養老8年7月7日、令に応ふ。
と書いてあるのだ。養老8年は2月に神亀へ改元されたので 養老8年7月7日は存在しないのだ。
さらに
右は、天平元年7月7日の夜、憶良、天河を仰ぎ観て作れり。
これも、8月になって天平に改元されたのだから、元年の7月 は存在しないのだ。
「養老八年七月七日」この年の二月に聖武天皇は即位し、改元されて神亀元年となった。だから、 養老六年か七年の誤りかと言われている。
724年:養老8年は1月のみ。2月に聖武天皇が即位し、神亀元年となる。また即位直後、長屋王は左大臣となる。1518番の左注「養老8年7月7日令に応じて作る」は、神亀元年と同じ年を指していると思われる。令に応じた歌というのは(詔ではないので)左大臣の求めに応じてあらかじめ作った歌か。そうだとすると、2首は724年7月7日の詠歌である。
続日本紀(しょくにほんぎ)には、養老八年二月四日に元正天皇から聖武天皇への禅譲があり、養老から神亀へと改元されたことが書かれているので、養老八年七月七日は誤りと考えられています。
「令旨」は皇太子の命令。但し、講談社文庫の今西進氏の「万葉集」の注によれば、『養老八年は二月に神亀』に『改元』されているから、『六か七の誤り』とある。
[11] 町のいろいろな事業で「ようろう」の仮名表記が使われているようです 例えば >>12。
[28] 全国地方公共団体コードの一覧には、読み方が「ヨウロウチョウ」とあります。
[15] 町章は、 「ヨーロー」 をデザインしたものとなっています >>14。
[17] ローマ字表記として「YORO TOWN」が用いられています >>16。
親孝行な子供の話を聞き、当地へ行幸した元正天皇が若返りの滝の水(養老の滝またはその近くにある菊水泉とされる[1])を知り、元号を「養老」としたのが町名の由来である。
[19] 養老の改元日である旧暦11月17日に因んで、 と定められました >>5。 明治時代に国によって換算された祝祭日はグレゴリオ暦換算されましたが、 平成時代に定められたこの記念日は日付そのままで旧暦からグレゴリオ暦に移されました。
[20] 平成24年6月29日条例第17号 養老の日を定める条例 により定められました >>7, >>6。
○養老の日を定める条例
平成24年6月29日
条例第17号
(趣旨)
第1条 この条例は、西暦717年、時の帝・元正天皇が養老の地に行幸され、元号を「養老」に改元されたという史実を踏まえ、町民1人ひとりが、ふるさとを愛する心を育み、より豊かで魅力あふれるわたしたちの町「養老」を将来にわたって築き上げることを期する日として、養老の日を定める。
(養老の日)
第2条 養老の日は、11月17日とする。
(行事等)
第3条 町は、養老の日を中心として、町民とともにその趣旨にふさわしい行事を行うものとする。
(委任)
第4条 この条例の施行に関し必要な事項は、町長が別に定める。
附 則
この条例は、公布の日から施行する。
[21] 養老改元1300年祭など養老改元一三〇〇年事業が平成29(2017)年までに養老町で実施されました。
[23] 養老元年に改元されたのが西暦717年でしたが、 1300年祭は西暦2017年で、養老1301年でした。 1300年は元号年ではなく改元何周年記念の数え方です。
[24] イベントでは養老改元宣言として改元の詔書をアレンジした宣言文が読み上げられたようです。 「平成二十九年を改め、養老千三百年といたしましょう。」 とされました。 >>346
[25] 元は霊亀3年を養老元年に改めるという内容で、それを当時現行の元号たる平成に単純に当てはめたもので深く考えていなかったのでしょうが、 1年のずれがあり、もう少し考えたほうが良かった気もします。
養老改元1300年祭開催の年である2017年(平成29年)は、元号を「養老」に改元する「養老改元の詔」が発せられた717年から起算して、1300年という節目の年にあたります。
養老町では、この記念すべき年を好機ととらえて、“観光のまち養老”や“親孝行のふるさと養老”の魅力を全国に発信し、交流人口の拡大や地域活性化につなげていくために、子どもからお年寄りまでの町民すべてが参加・参画し、町全体で盛り上げていく「養老改元1300年祭」の開催を予定しています。
◇ なぜ11月17日が養老の日なの?
元正天皇の「養老改元の詔(みことのり)」によって、養老改元がスタートした日は、旧暦11月17日にあたります。旧暦のため、現在のカレンダーとは異なりますが、養老町では、町民一人ひとりが、ふるさとを愛する心を育み、より豊かで魅力あふれるわたしたちの町「養老」を将来にわたって築き上げていこうという思いから、平成24年6月に町議会の議決を得て、11月17日を「養老の日」と制定しました。
奈良時代の七一七年に元号が「養老」に改元されたことにちなんで養老町が制定した「養老の日」の推進大会・養老改元宣言が十七日、町民会館で開かれた。開催中の養老改元千三百年祭の一環。女帝・元正天皇に扮(ふん)した女優鈴木ちなみさんが「養老改元の詔(みことのり)」を読み上げた。
元正天皇は養老の地を訪れ、美しい泉に感銘を受けて、元号を「霊亀(れいき)」から「養老」に改元した。町は二〇一二年、改元された十一月十七日(当時は旧暦)を条例で「養老の日」と定めた。
式には古田肇知事や町民ら六百人が出席。鈴木さんは当時の衣装をまとい、養老小学校六年の渋谷琴音さん、岩永乃愛(のま)さんと登場。続日本紀にある改元の詔を読み上げ「平成二十九年を改め、養老千三百年といたしましょう。美しい水と自然を大切に、後世に残すため努めてください。親孝行に努めてください」と続けた。
岐阜県養老郡養老町石畑の町民会館で開催された「『養老の日』推進大会」(養老改元1300年祭実行委員会主催)で史実に倣い「養老改元宣言」を行った。
元正天皇は717年の旧暦9月20日に養老の地を訪れ、その年の11月17日に年号を改めたとされる。町は条例で改元の日を「養老の日」としている。
鈴木さんはあでやかな天平衣装に身を包み、女官役の養老小6年の岩永乃愛さん、澁谷琴音さんとともに登場。続日本紀に記された改元の詔(みことのり)を現代語にして朗唱し、「今後も親孝行に努め、美しい水と豊かな自然を大切にしていきましょう」と呼び掛けた。
[69]
日本年号史大事典
に挟み込まれた著者コメントにも、
「「養老」改元から千三百年の秋記す」
と書かれていました。
[1] 養老 - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E8%80%81
この地を行幸した元正天皇は『醴泉は、美泉なり。もって老を養うべし。蓋し水の精なればなり。天下に大赦して、霊亀三年を改め養老元年と成すべし』との詔を出し「養老」に改元した。
[68] 養老改元千年祭を探せ! - おすすめテーマ, , https://tagizou.com/main/jiyukenkyu/osusume/2013/04/post-6.html