[234] 天将や天政は、 天正の異表記とされる異年号です。
[84] 「本書ノママ」は松藩捜古編者の注釈と思われます。 「(正)」は二本松市史/郡山市史編者の注釈と思われます。
[236] 現況不明。
[8]
>>3 によると、
天の左側あたり、 稔の右側あたりが損傷しています >>3 が、
判読は問題ないと思われます。
[9] 概ね文字の形ははっきりし、それぞれ独立しているものの、点画が明瞭でないところもあります。
[31]
将は新字体と同形とも、他の異体字とも解釈でき、
いずれであるかを議論する意味は無さそうです。
[34]
稔は偏が禾であるかは議論の余地がありそうです。
旁が損傷で一部しか見えないのも問題ですが、旁左側残画から念である可能性は高く、
年の字である稔と考えることに問題は無さそうです。
[41] 会津塔寺八幡宮長帳 は毎年分の記事が長年続いたものであり、 天正3年が他に無いことと干支年から、 天将3年が天正3年であると容易に断定できます。
[37]
会津塔寺八幡宮長帳のうち、将は天正3年相当だけであり、
他は天正2年、天正4年など正が使われています。
>>5
[38] >>36 は会津塔寺八幡宮長帳の一写本の奥書であり、 原文の「天将」を書き写したものと考えられます。
[39]
>>5 は会津塔寺八幡宮長帳の翻刻本ですが、
全編通して旧字体の明朝体を用いており、
「
[238] 秋田藩家蔵文書は、関ヶ原の戦いの後に常陸から秋田へ移封された佐竹家で、 近世に編纂された文書群です。
[239] >>85 の宛所に舟山とあり、船尾山城守昭直と解されています。 >>187 船尾昭直は陸奥国南部に勢力を有し、 には佐竹氏の配下に入りました。
[240] 発給者の素性は不明ですが、福島県下近辺で書かれた可能性が高いと考えられます。
F8001 25 50 某起請文写 天将05 1577 2 22 片次義□(花押影) 舟山 竪 1 A280-69-25- 50 県史料Ⅳ25-50
[97] 新編会津風土記に記録があります >>93, >>231。
[233] 日本国福島県喜多方市豊川町長尾に長福寺は現存するようですが、 掛軸の現況は Web 上に情報が見当たらず不明です。
[243] >>53 は長沼盛秀の墓であると伝承され広く信じられていますが、銘文にそのことなく、 詳細は不明です。紀年も直接的には供養の日付であって、 必ずしも命日と解せるものではありません。
[244] 所在地が長沼家の所縁の寺であり、伝承はそのことと関係しているのでしょう。
[245] 長沼家はこの地の支配勢力でしたが、中近世移行期の政治状況の中で程なく没落しました。 天正18年は長沼盛秀の没した時期に当たるとされるものの、厳密な年月日は不明であり、 この年を没年とする説は当墓碑を主要な根拠と1つとしていると思われます。
[246] 永正18年に既に死去しているとする記録がある (>>230) 一方、 天正年間の天正18年より前、あるいは後にも発給文書があるとする説もあるようですが、 人定に不確実性を抱えており、決定打に欠けるようです。
[247] 五輪塔の様式から時代を推定したものは見当たりません。
[248] 現在 Web 上で見つけられる銘文部分の写真は昭和時代に撮影された >>209 のみですが、石造物の横面に文字が刻まれている雰囲気は把握できるものの、 文字として読むのは至難の業です。
[249] 写真と、同時掲載されている昭和時代の解読を見比べると、 全体的に風化が進んで磨滅しているということではなく、 読めそうで読めない謎の字形だったり、部分的な損傷のようなもののため、 飛び飛びにしか判読できていないように見えます。
[250]
また、左上部分が大きく削り取られたような形で欠損しています。
普通に考えると五輪塔として制作された直後は直方体に整形されていたはずです。
ところが、文字は削れた斜めの面から横面へと連続しているように見えます。
写真は不鮮明でわかりにくいのですが、解読された銘文の文字数と文字の大きさを考えると、
斜め面の凹凸も文字として読んでいるはずです。紀年のうちだと、
おそらく「
[251] もしその通りだとすると、銘文は欠損が発生した後から刻まれたのか、 元々あった銘文の一部が失われてから補刻したか、のどちらかと理解せざるを得ません。 実物の詳細な観察が望まれます。
[252]
不明瞭な写真だけで安易な判断を下すのは危険ですが、
天と読まれる第3字らしき部分は、
通説の通り天と読むべきかは肯定よりの疑問といったところで、
明確に天と断言するのは憚られる雰囲気があり、
かといって他の字とも言いかねます。上部が欠損部分に掛かっていそうなのは要注意です。
永と読むべき可能性は否定しきれないまでも、あまり肯定できないでしょうか。
亅の画が見えません。
[253]
政と読まれる第4字らしきものは、
輪郭だけで細かい構造が消失または元から無かったのではないかとも思えるのですが、
確かに政のように見える形はしています。
しかしそれは政と思ってがんばって見ているからで、
字形は極めて不明瞭です。旁の部分もどうなっているのかほぼわかりません。
石刻ですから全体的に字画は明確で、流暢な草書の崩しは見られないのですが、
この位置に楷書の整った政があったとは思えません。
草書の政の字形の可能性は排除されませんが...
正の可能性はあまり無さそうに思われます。
[254]
その下には「
[255]
更に下、この行の下端には、右上と左下に斜めに
庚、刁があるとされます。
刁はそれらしき字形が見えますが、読みづらく、半ば日のようにも思えます。
この位置は十二支が来るという知識がなければ刁とは読めないかもしれません。
庚は更にハードルが高く、意識して見れば广のようにも見える痕跡がありますが、
右下に字形が続いているのかはよくわかりません。あるいは庚の略字としての
广しか無いのかも知れません。
[285] 干支が確かに「庚寅」であるなら、この天政は天正である可能性がかなり高くなります。 しかし、この画像状況では肯定にも否定にも断定的に判断することが困難です。
[191] 正体不明(要検討)の「天政」
[103] 新編会津風土記によると、 大町の有力者である梁田仙右衛門家の日記に、元和の頃記録されたものとして、 いくつかの文書があるそうです。 新編会津風土記にそれらが収録されています。 >>109, >>100 /437
[130] 平成時代初期の論文では、 >>48 を含む天正年間とされる4点の文書は、 いずれも焼損しており、 焼け焦げた状況、 文字の字体、 紙質などから、 一連のもので同じ意図をもって近世に作成された可能性が高いと評されています。 >>128 筆者の実見による判定のように読めます。
[6] の史料集に、白黒写真が収録されています。 >>133
[155] >>137 の写真によると、ちょうど年の行と月日の行の間が焼損しています。 年の行の左端がわずかに失われた可能性があり、 左側の一部分が見づらくなっている上に、 >>137 が白黒で低解像度かつ印刷の関係で非常に見づらいです。
[156]
そのため字形は非常にわかりにくいのですが、第2字は敢えて喩えるならわのような字形で、
非常に崩れていて容易に判読しがたい状態です。
草書を常用していた且つ古文書の判読に慣れていた江戸時代の研究者が将と読んだという事実は尊重したいところですが、
将と断定することに大きな不安が残るのもまた事実です。
将の字形事例を見ると確かに当字形の如くもなりそうに思われるものの、
ここまで簡略化された字形例で採録されたものは見当たりません。
しかも、天政の政と読まれているものにも似ている字形です (>>157)。
[271]
翻刻は旧字体の將とするものと、
新字体の将とするものがあります。
基本的には出版時の通用字体が選択されたに過ぎないと考えられ、
原字形と乖離していますから、この区別には意味がありません。
[51]
は令和8年現在 Unicode にない文字です。
CHISE データベースの IDS 検索でも見つかりません。
GlyphWiki の将にもこれに近い字形は登録されていません。
新装版異体字解読字典 (令和3年) にも見当たりません。
[52] 日本私年号の研究では明朝体で印刷されており、 作字と思われる若干の違和感があります。 >>50
[272]
翻刻に
が使われていることを確認できるのは、
日本私年号の研究
のみです。
同じ久保常晴の昭和9年の論文には銘文の記載がありません。
昭和39年の論文は「天将」ですが、引用元が違います (>>71)。
昭和42年の日本私年号の研究までの間に、
より新しい日本の古文書を出典に切り替えたようです。
[263]
ところが、日本の古文書の翻刻は「天將」です
(>>186)。少なくても国立国会図書館デジタルコレクションに収録されている版には
は見当たりません。実物の白黒写真も掲載されていますが、
極めて不鮮明で、ここから
の字形を導くことも困難です。
[273]
念のため
大日本地名辞書
の国立国会図書館デジタルコレクション所蔵諸本を確認しましたが、
を使った版は見当たりません。
[274]
日本私年号の研究
の本文がこの文字に全く触れておらず、
当然天将と同じものであるかのように扱っているので、
出版過程の何らかの誤りで生じた誤字形とも考えられます。
将とは遠目に似てないこともありませんから、
手書きの曖昧な字形が誤認されたのかもしれません。
[275] しかしながら、似た他の常用字との誤認ならともかく、 わざわざ作字してまで誤字が発生するものかは疑問があります。 仮に手書き原稿の字形が印刷担当者に読めなかったなら、 作字する前に著者か編集者に確認するのではないでしょうか。 日本私年号の研究 は細かな字形差を明朝体で表現するタイプの書籍ではないので、 作字は稀な例外です。
[276]
実物の写真を掲載した書籍がいくつかあります。
いずれも低画質低解像度で字形は不明瞭で、
そのための誤読は発生し得るところですが、
と読むことが出来るかは大いに疑問です。
草書から楷書への変換の一般則を適用したとしても、
のように成り得る他の文字の類似例は思い当たりません。
[158]
>>146 が白黒で低解像度のため非常に見づらいです。
そのため字形は非常にわかりにくいのですが、
第2字は敢えて喩えるならねの縦線抜きのような字形で、
非常に崩れていて容易に判読しがたい状態です。
草書を常用していた且つ古文書の判読に慣れていた江戸時代の研究者が政と読んだという事実は尊重したいところですが、
政と断定することに大きな不安が残るのもまた事実です。
政の字形事例を見ると確かに当字形の如くもなりそうに思われるものの、
ここまで簡略化された字形例で採録されたものは見当たりません。
[157]
しかも、天将の将と読まれているものにも似ている字形です (>>156)。
確かに将と読まれる字形に比べると偏部分が政のようにも思えてきますが、
将の左側は焼損しているため、
構造がわかりにくい。また、
将の右下がわのように処理されているのと比べると政の右下はねのように丸めてあるようにも思われますが、
不明瞭です。
[159]
ただ1つだけ言えるのは、明朝体では明らかに異なる政と将が、
手書き原本ではそこまで違って見えない字形となっていることです。
[160]
なお、いずれの字形も、正の字形と考えるのは無理だと思われます。
筆者が正ではない何かを書こうとしたことは断定して良さそうです。
[151]
第1字は不明であり、諸書が異なる読み方をしています。
上部は焼損していますが、周囲の配置と焦げた部分の様子から見て、
読めなくなった部分字形は存在しない可能性が高いと考えられます。
また、天と読まれる第2字と連続しているともしていないとも取れ、
第1字と第2字とされる部分合わせて1字の可能性もありますが、
運筆上の勢いで軽く接触しただけの別字と解するのが妥当と思われます。
[152] なぜか第1字の解釈 (または読めないという事情) について諸書で論じているものはなく、 みな当然に天正の日付とみなすのみです。
[153]
>>177 は旹と読んでいます。
この種の文書の紀年には似つかわしくありませんが、
当文書群が同時に作られた偽文書の可能性を指摘されていることを鑑みた時、
崩しの程度や干支の書き方などに意図的にバリエーションを入れたのではないかとも思われるところがあり、
1つの試みで紀年接頭辞を書いてみたのではないでしょうか。
[154] あるいは単なる誤字とも考えられるところですが、日付の先頭という奇妙な位置で、 しかも訂正もなくそのまま発給する、 というのはあまり例がないのではと思われます。
[25]
>>12 の写真によると、第1字は楷書の字形とはかなり違いますが、崩し字の
天ではあり得る字形の範囲内と思われます。
[27]
日の前は五と断定してよいと思われます。九とは読めません。
手書きの五と九はやや似た字形になることがあるので、
直接の誤読ではなく、メモ書きなどを経由したのでしょうか。
[19] >>16 の写真によると、正は伝統的字形の系統、
五や丑は現行楷書字形とは違いが大きな字形であるものの、
通説の読み方で何ら問題ないと思われます。
[20]
月日の第1字は、 >>16 の写真だと細部がわかりづらいものの、この位置でこの字形になるものは消去法で
拾と読むことに異論ないものと思われます。
[277] 多くの用例が報告されているものの、 元号名の正確な字形が不明なものが多く、 議論がほとんどないまま最初の読み方が引き継がれているのが実情です。 すべての議論の基礎として、正確な銘文の字形を確認する作業が必要です。
[278] 特に、
... の字形に関する疑問点は、異年号としての検討の根幹に関わるものです。
[281] 更に、それぞれの史料の性質を明らかにすることが必要です。中でも、
... は取り扱いに細心の注意を要するところです。
[284] 天政は、天正 (あるいは他の公年号) の誤植であること明らかな近現代の用例を除くと、 「天□」文書群の1例と >>53 の1例しか報告されていません。 前者は4年、後者は18年と時期が大きく離れており、 同じ会津地方で地理的には近接しているものの、 両者が同系統の用例と言えるかどうかは慎重な判断を要します。 前者は字形の判読に疑義がある上に偽文書の疑いが掛けられています。 後者も字形判読に疑義がある上に永正説が提示されていて、 天正説も永正説も安易に肯定も否定もできない状況です。 要するに、 「天政」 が天正時代に同時代的に存在したかどうか、 確証に欠けます。
[286]
天将は、
>>1
の写真から将の文字であることを確認でき、しかも >>1
の前後関係から天正を意味していると断定できます。
他の「天将」用例 (「天□」を除く。) も、それと矛盾しません。
天将は天正時代に同時代的に使われることがあったと断言できます。
[287] 近世以来、多くの文献が天将や天政に言及し、 その多くが天正と推定または断定しています。 ほとんどは、深い議論を展開しておらず、音通や先行説の踏襲に基づく素朴な理解と思われます。
[288] 天将を天正に比定する説は、 新編会津風土記に遡ります。 新編会津風土記は、 「古文書」や会津塔寺八幡宮長帳が天正を天将と表記している、 と注釈していて、これを当時の一般的風潮と理解している節があります。 新編会津風土記は「天□」の天政と天将の性格は推測していませんが、 類似内容の天正文書と共伴する文書群であることから、 編集者が天正と理解した可能性は高いといえます。 会津塔寺八幡宮長帳とは異なる他の「古文書」とは、 消去法で「天□」文書群のことと考えられます。
[289] 天政を天正に比定する説を明言した最初は、 新編会津風土記の昭和8年刊本注釈 (>>121) と思われます。 「天□」文書群からの推測と考えられます。
[290] 現在知られている前近代のすべての「天将」「天政」「天□」の用例は、 福島県下、会津地方近辺に所在します。 天正時代頃のこの地域は主に蘆名氏の統治下でしたが、 いくつかの小勢力も割拠していたと思われます。
[291] 近世は会津藩や二本松藩の所領で、両藩の地誌編纂事業を通じて用例が収集され、 現在に伝えられました。 従って用例の偏在の直接的な理由は収集作業の実施範囲に由来するものといえます。
[292] それでは、他の地域で「天將」や「天政」は使われたのでしょうか。 使われたとして、現存するのでしょうか。 令和時代に至るまで、この地域的な偏りを考察した研究は見当たりません。
[294] 現在 Web検索や国立国会図書館デジタルコレクションでは、 会津周辺や近現代のものを除いた、他地域の用例は見つかっていません。 他地域の地誌等でも全く拾われていないようなのです。 当時全国で広く使われていたなら、 ここまで全く用例が出てこないとは考えにくいので、 会津以外で使われなかったとは断言できないとしても、 あまり一般的ではなかったと考えられます。
[295]
もし天將が会津でのみ使われたのだとすると、
將と正の音通だとしても全国で同時多発的に見られた普遍的な現象ではなく、
改元デマと似たような特殊な現象の可能性を考える必要が生じます。
[296]
しかし、
年数にばらつきがあり、
同地域内に天將でなく天正と書いた用例が多数現存することは、
改元デマ説ではうまく説明できません。
会津でも多くの天正紀年文書は正と表記しています。
[297] 偽文書を疑われる「天□」文書群も、 地域と時期がちょうど天將の流通地域・時期と一致していることは無視できません。 もし近世に入ってからの完全な偽造であれば、 敢えて天正初期だけ不審な字形につくる理由がありません。
[237] に日本国二本松藩の成田頼直が編纂した 松藩捜古 は、 >>82 を紹介しています。 ママ注以外は特に注釈していません。 >>83
[98] に日本国会津藩が編纂した 新編会津風土記は、 次の記述を含みます。
[268] これ以後の多くの研究・言及は 松藩捜古 や 新編会津風土記 からの孫引きであり、 用例の実物を確認したものは少数と見られます。
[108] >>107 は新編会津風土記から「天將三年」云々を引用して使っていますが、
將に対する注釈は引かず言及もしていません。
[229] >>228 は >>53 を紹介しています。先行書籍からの孫引きでしょう。
船岡館跡
塔寺村八幡宮長帳に、天将(古文書往々天正を天将に作る者あり)3年(1575年)松本図書助安積郡にて討死せし由見ゆ。
その子太郎同12年(1584年)16歳にて聊恨の仔細ありて葦名家を乱さんと企て、その頃男色の知音なる河沼郡笈川の地頭栗村下総を語い、葦名盛隆城東羽黒山にて舞楽の遊覧ありし隙を伺い、松本と栗村と800余人を引卒し黒川の館へ討入りしが、事成らずしてそれに討るという。
[212] 大正3年の地方史は、 >>53 を紹介していますが、 特に注釈はありません。 >>227, >>211
[123]
大正時代の研究者による
蘆名家由緒考証
(古伝に注釈を加えたものですが、ここで関係するのは大正時代執筆の注釈部分。)
は、
>>1
の天將3年乙亥の記事を引いて、
「
[178]
の書籍は、
>>48
>>144
>>14
を紹介し、 >>44 には「
[222] の書籍は、 新編会津風土記 から >>53 を紹介しています。
と推測しています。 >>221
[163]
,
の書籍は、
>>48
を紹介し、
「
[260] これらは古文書学の教科書的な書籍であり、 >>48 は古文書の形式の1つの典型例として紹介されています。
[125] の 年号読方考証稿 は、 元号名の読み方の検討に資する史料の集成ですが、
[40]
の翻刻本では、
>>2
>>36
を収録していますが、
>>2 の將に「
[170]
の地域史では、
>>48 >>116 >>144 >>10 >>14
の写真と概要が紹介されています。
「
[216] の地域史では、 >>53 が紹介されています。 とされていますが、 それ以上には説明していません。 >>124
[174]
の地域史では、
>>48
の写真と概要が紹介されています。
「
[42] の久保常晴の初期の論文では、 異年号のその他のものの紹介の中で、 公年号の異字同音の表記の事例として、
と一括して簡単に触れています。 >>32 (引用は無し。)
[72] 昭和39年の久保常晴の論文では、 同音異字の異年号として
[45] 昭和42年の 日本私年号の研究 は、 異年号のうち私年号でない分類の1つである同音異字年号として、 >>46 >>48 を紹介しています。 >>44
[58] この両者に対して、 会津塔寺八幡宮長帳 で元亀の次、文禄の前にあるので、 天将は天正であることが一目瞭然だと述べています。 >>44
[59] 双方の説明でありながら、
なぜか >>48 のこともの字のことも何の言及もありません。
[60] また、 >>58 の論理は 会津塔寺八幡宮長帳 の構成に対して証明として不十分です。
[56] また、異年号のうち私年号でない分類の1つである同音異字年号として、 >>53 を紹介しています。 >>44
[270] 日本私年号の研究 が私年号ではないと分類した影響なのか、 以後の (以前もですが) 私年号の一覧表などで紹介した事例はほぼ見当たりません。 >>269 異年号研究の文脈で取り上げた事例もほぼありません。
[257]
の史料集は、
>>82
を紹介し、
「
[242]
の書籍は、
>>53
を「
[138] の史料集は、
[256]
の史料集は、
>>82
を紹介し、
「
[210]
の地方史は、
>>53
を紹介し、
新編会津風土記の引用と独自の写真・銘文を示し、
「
[219]
その別巻でのものは、
>>53
の同じ写真を掲載し、
新編会津風土記を引用しており、
「
[87]
の史料集は、
>>85
を紹介し、
「
[189] 付けで Web 公開されている目録 (初出不明) は、 >>85 を紹介し、 西暦年を としていますが、 それ以上には説明していません。 >>78
[131] の論文は、 >>48 を紹介し、 偽文書の可能性が高いと判定しています。 物理的な不審点 (>>130) の他、内容の疑問点も指摘しています。 >>128
[132] 天将は天正の当て字であろう、との見解を示しています。 >>128 しかし、他の天正文書と同時に偽文書として作られたのだとしたとき、 なぜ2点だけが天将/天政と表記されたのか、には検討が及んでいません。
簗と梁が混ざっています >>100 が、 昭和時代の簗田家公式史料集は簗に統一しています >>133。