[138] 大日本帝国の領土が拡大した場合、当初は現地の経度に基づく標準時が用いられていましたが、 時差による混乱も多かったらしく、中央標準時へと統合されてゆきました。
[6] 昭和前期には、交通と通信の発達により国内および周辺国との結び付きが深くなっていた上、 世界的なブロック経済化によりますます周辺諸国との経済統合が進んでおり、 時差がその障害となっていたようです。
[139] 標準時が統一された大日本帝国と満州国の領域だけでなく、 中華民国南京国民政府 (汪兆銘政権) の統治下にあった支那大陸の海岸部や英領香港、 上海租界なども夏時刻を実施 (大東亜戦争期は通年実施) していました。 更には第二次世界大戦中の南方占領地でも中央標準時が用いられたといいます。
結局、西太平洋から東南アジアにかけたかなり広い範囲 (当時でいう大東亜) で が事実上の大東亜の標準時として使われることとなりました。
[1]
[415] 滿洲では、
日本の勢力下にあった南満州の
とロシアの勢力下にあった北満州のハルビン鉄道時など、
複数の時刻が混在していました。
満州国の建国時には、 を採用するべきとの提案もありましたが、
により国内標準時の統一がはかられました。
[7] しかしその後日満両国の関係が強化され経済の一体化が進む中で、
通信や交通の便宜のため両国間の時差解消を求める声が高まり、
、
日本の中央標準時と同じ に移行しました。
[25] 満州国内の日本の租借地だった関東州と満鉄附属地も、
足並みを揃えて西部標準時
から中央標準時と同じ に移行しました。
[31] への統一について、当時の新聞は天文学者の山本一清が提唱した >>23 と説明していました。
[65] 、 山本は日本の倉敷で行われた講演会で、 従前の満州国の標準時 の制定時に と のいずれが適切か照会され、 が好ましいと力説したにも関わらず採用されなかったことを紹介しました。 満州国の対岸であるソ連が通年夏時刻を採用したことについて 「感嘆すべき」と称賛しました。 >>133
[77] の雑誌記事によると、 山本は「さきに」、 保険、経済、国際の各理由から満州国の標準時を に改正するのが望ましいとする提案を満州国の主要人物や日本の識者に送付しました >>76。
[78] 、 山本は満州国の標準時を改正するべきことを放送で述べました >>76。 ラジオ放送で主張したということでしょうが、 日本の放送でしょうか。あるいは満州国でも放送されたのでしょうか。 山本は「既に多数の人々の共鳴を得つつある」 とし、実現に向けた手応えを感じていたようです。
[64] 、 山本一清は学会誌天界で満州国の標準時を改めよ!を発表し、 満州国の標準時を中央標準時同じ に改めることを提案しました >>218。 山本は従前の満州国の標準時 の制定時にも、 満州国首脳に対し、 を採用するべきだと提案しましたが、 受け入れられませんでした。山本はその後もこれを改めない満州国を批判し、 隣国ソ連でも採用された通年夏時刻を実施するべきだと主張しました。 通年夏時刻により経済と健康のメリットがあるのはもちろん、 日本との経済的な結合が強まることや、 沿海州との時差が縮まることの意義を説きました。
[62] 、 山本は鉄路で朝鮮から満州国へと渡りました。 後日発表した旅行記に山本は「此の地點での時刻變更が愚の至りなのだ!!」と書きました。 と には、 満州国の首都新京で国務院、観象部、軍司令部、満鉄を訪問して首脳と会談しました。 「クラブで官廳有志のグループに圍まれて、天文時事を主題とした座談會の催し」 もありました。 >>61 こうした場で満州国の標準時について議論された可能性もありましょう。
[63] 、 山本は関東州の大連で満鉄の副総裁の大村卓一と会談し、 「標準時問題について健言」しました >>61。
[105] >>102 は、 に満洲国政府内 (松木侠 (>>102 は当時国務院秘書処長とするが Wikipedia の年表とは一致しない), 武藤富男 (法制処参事官), 土佐林 (技正)) で議題にのぼったとしています。政府内外に意見を照会したところ、 軍部は作戦上都合が良いと賛成したものの、学者や民間からはあまり賛成意見が得られなかったようです。
[185] の朝鮮の新聞記事 (付報告) は、 翌年に日満標準時が統一されると報じ、 京大の山本氏に言及していました >>184。
[106] 満州国において山本一清にどの程度影響力があったのかは定かではありませんが、 標準時統一派は経度的に より の方が適切だと主張したり、 通年夏時間の利点を示したりしており、主張の内容は山本と共通しています。
[107] 標準時変更を伝える新聞その他の記事は、みなその利点を強調しており、 反対意見の存在に言及したものは見当たりません。
[32] 関東州の標準時改正に関する説明文書 >>30 では、 日満標準時統一によって経済や交通・通信の両国の一体化が促進されるなどと意義が説明されています。
[18] 日本政府の朝鮮総督府の観測所長の国富信一は、 東京や京城でも地方時と標準時に時差はあることを指摘し、 鮮満時差撤廃を「大英断」であると評しました >>3。
[26] 日満時差撤廃といっても内地と満州国は離れていますから、 最もメリットがあったのは地続きの朝鮮と満州国を行き来する両国政府職員や商人達だったのでしょう。
[4]
満州国の官庁執務時間も同時に改正されました。
基本的には表示上の時刻がそのまま (実質1時間繰り上げ) でしたが、
冬季間のみ表示上の時刻が1時間繰り下げられ (実質無変更とされ) ました。
標準時改正をまたいだ年末年始で時刻は1時間遅れとなったものの、
執務の時間はそのままとなったようです。
標準時改正は事実上の通年夏時刻ですが、
執務時間に着目すれば季節性の夏時刻に近い変更ということになります。
[27] 満州では旧標準時の20時頃でもまだ明るく、 夕食後に野球の試合が行われるくらいでした。 (当時日本ではナイターは珍しく、プロ野球の初のナイターは大東亜戦争終戦後でした。) それが1時間繰り上がったのですから、 夜なかなか日の入りにならず困ったかもしれません。 また、冬は日の出が遅く、とても辛かったことでしょう。 >>248
[28]
鉄道ダイヤも表示上1時間繰り下げ (実質無変更とされ) ました。
[379] 沖縄県の先島諸島では当初中央標準時が施行されていましたが、
標準時未実施だった台湾が大日本帝国領となった際、
(県境とは無関係に) 新設された西部標準時 が実施されました。
[95] この西部標準時は、 より中央標準時 に移行しました (内臺時差撤廢)。
[79] 、 山本一清は満州国の標準時改正の提案が受け入れつつあることを踏まえ、 臺灣は通年夏時刻のメリットをより多く享受できるとし、 臺灣の標準時を中央標準時に改めることを提案しました >>76。
[56] 1936年秋には臺灣で中央標準時への統一が議論され、 賛否両論があったようです >>54。 満州国と関東州の標準時改正が報じられてから注目され、 是非が議論された >>69 ようです。
[57] 1936年秋にはフィリピンが季節性とはいえ中央標準時と同じ日光節約時 を実施しました。これは臺灣にも伝えられており、 臺灣の標準時改正案とも関連する事象と捉えられていたようです。
[94] 臺北商工會も時差撤廃を推進したようです >>153。
[17] (西部標準時?)、 台湾総督府は総務長官の森岡二朗の上京直前の部局長会議を開催し、 内台時差撤廃を決定しました。 勅令の改正を経て実施とみられていました。 >>216
[87] の論文によると「過般」、 上海自然科學研究所 (大日本帝国と中華民国の共同事業として設立された研究所) の所長の新城新藏博士 (元京都帝国大学総長で宇宙物理学・天文学の権威) が渡臺し、 臺北放送局の放送や新聞記者との会見談で、 時差撤廃は「自然に逆らうことであり、日輪を呼び戻すの愚に等しい無謀さ」 と批判しました >>84。 臺灣のラジオ放送や新聞で報じられたものと思われます。
[83] 、 台湾総督府中央研究所衛生部技師の冨士貞吉 (後に台北帝国大学医学部などで教授を歴任した熱帯衛生学者) は、 標準時改正は非科学的であり、 健康問題を引き起こすとして反対する論文を発表しました。 次のような内容でした。 >>84
[9] の日本の西部標準時の廃止は、 沖縄県と台湾総督府からの申請によるもので、 次のような理由が挙げられていました >>378。
[578] 八重山諸島では西部標準時廃止の半年以上前のに既に 「官民合同の時差撤廃協議会」が開催されました >>575。
[74] 臺灣では「数年来」改正意見があり、 台湾総督府が商工会他 >>216 各界の意見を聴取して改正を決めました >>69。「数年」が何年かはわかりませんが、 満州国の改正で議論が活発になる前からそうした意見はあったのでしょう。
[43] の 台湾日日新報 夕刊一面には、 「今夜十一時、お宅の時計を一時間進め、午前零時にして下さい」 とありました。 >>177
[19] 2017年の新聞記事によると、 現沖縄県石垣市新川在住 (当時も同地在住か?) の山根慶子は、 当時の尋常高等小学校6年の担任の安村トヨに、 時計がある家では時刻を1時間早めるようにと指導されました。 しかし当時時計のある家が少なかったためか、 1996年時点で他の同級生の記憶には残っていませんでした。 >>53
[75]
臺灣では、標準時の改正後も、
公務員を含む多くの業界で就業時間が1時間繰り下げられ、
実質的な時間は元のまま維持されました。
[58] 2017年時点で数え94歳なら、 生年は1924年。 昭和12年には数え13歳で小学6年生。 数え73歳は1996年。
[44] A02_0110_010(055)0775.pdf, , https://www2.i-repository.net/il/user_contents/02/G0000002chosakai/A02_0110_010(055)0775.pdf
- レコードNo.
- A02_0110_010(055)0775
- タイトル
- 同盟旬報 第1巻 第10号(通号010号)
- 巻数
- 第1巻
- 号数
- 第10号
- 掲載年
- 1937年
- 掲載月
- 09
台湾時差撤廃
[45] A03_0116_016(068)1368.pdf, , https://www2.i-repository.net/il/user_contents/02/G0000002chosakai/A03_0116_016(068)1368.pdf
- レコードNo.
- A03_0116_016(068)1368
- タイトル
- 同盟旬報 第1巻 第16号(通号016号)
- 巻数
- 第1巻
- 号数
- 第16号
- 掲載年
- 1937年
- 掲載月
- 11
台湾時差撤廃と税関執務時間改正
[40] 日本と満州国の標準時統一が軍部の介入によるものだという主張もありますが >>92, >>401、 少なくても軍主導で統一されたというわけではなさそうです。
[385] 同様に西部標準時の廃止を軍部の都合としたり >>141, >>401, >>1050、 あるいは戦争と関連付けて説明したり >>416, >>422, >>627, >>429, >>53, >>577, >>1823, >>29, >>196 する人もいますが、 少なくても当時の申請 >>378 は、そうした理由付けはされていません。 軍へ廃止について照会があったようですが >>384 (利害関係者なので当然でしょう)、 軍として強い主張があるようにはみえません。 当時の新聞報道も商工会からの要望には触れています >>216 が、 軍から要求があったとは言っていません。
[73] 通信・交通や経済と並んで軍事上の必要性を理由に挙げた説明は、 当時からありました >>69。 軍としても分かれているよりは統一されている方が楽なのは確かでしょう。
[499] 日本軍の台湾駐在部隊は標準時改正に先立つ に中央標準時 に移行しています。には、 陸軍台湾部隊から本省に対し、 陸海軍は移行済みで台湾総督府はに移行すると決定して主務省に申請しているものの、 進捗が芳しく無いとして、斡旋を依頼しています。 >>498 検討自体はに既に行われていたようですが >>378、 その後停滞していたのでしょう。
[33] 軍としては民間が移行するかどうかと無関係に独自の判断で先に移行しました。 軍民別より統一されている方が当然楽でしょうし、 先に移行したのも民間が移行すると見込んでのことなのでしょうが、 軍は民間の動向に関わらず独自の時刻を採用できるのですから、 軍の都合で民間の時刻をかえさせる必要などありません。
[68] 斡旋の効果があったのかどうなのか、 に閣議決定があり >>69、 ぎりぎりには改正勅令が公布されました。
[500] 台湾側は標準時統一を強く望んでいたのに対し、 東京側はそれほど関心を持っていなかったのでしょうか。
[402] この時期の制度改正はすべて軍のせいだと言っておけばそれらしい説明になるような風潮もあり、 眉唾ものです。 当時の人々が生活を良くするために切望した標準時改正を、 軍部が無理な要求を通した、中央政府が現地を無視して統一した >>51 と根拠も示さず安易に語るのは不誠実です。
[204] 本当に日本軍の作戦行動の都合で統一されたというのであれば、 満洲、台湾、南洋群島でばらばらのタイミングで中央標準時を採用したことや、 東京が標準時統一にあまり積極性を見せていないことの説明がつきません。
[80] また、実際に軍は臺灣の標準時の改正に先立って軍用時を独自に中央標準時に改めているのですから、 文民の時刻と一致しているのが理想的とはいえ、 無理にでも全体の標準時を改正させるほどの動機がありません。
[126] 日独戦争で日本領となった南洋群島は、
東西に広大な領域にわたっており、標準時は3区に分かれていました。
に実施された南洋群島の標準時の2区制への改正は、
内地および南洋群島内各地域の関係が密接になって時差が不便であることが理由
>>55 とされています。
また、台湾で用いられていた西部標準時の廃止にも言及があり >>55、
当時の台湾や関東州での標準時改正の動きが南洋群島にも波及したと考えられます。
[5] 支那事変や大東亜戦争では、日本軍は中央標準時
を軍用時として全世界的に用いました。
[96] しかしこれは日本軍部隊の作戦上用いる時刻で、 軍政下の行政機関や市民が用いた時刻とは必ずしも一致しません。 また日本軍の影響下にあったとしても、 すべての地域ですべての期間が軍政下にあったわけではありません。
[98] 日本軍の軍政下にあった地域では、 現地の標準時が中央標準時に改正された場合があるようです。 しかしその詳細な時期や範囲はほとんど明らかになっていません。
[418] 満州国の標準時を改め中央標準時と一致させることを主張し続けた山本一清博士は、 その実現後の1938年、中華民国の各政府 (北支の臨時政権 = 北京の中華民国臨時政府および中支の維新政権 = 南京の中華民国維新政府。当時は統一政府がありませんでした。) に対しても同様の標準時改正を呼びかけています >>417。 山本博士は、台湾と満州の新標準時は夏時刻の通年採用に当たりそのメリットを享受できるとする一方、 日本内地は東アジア全体の標準時統一維持のため夏時刻採用を断念することを説いています >>417。
[423] 支那事変後支那大陸の海岸部を統治した中華民国の各政権や地方政府は、 夏時刻 を実施しました。 中華民国域内にあった治外法権地域である上海租界や香港でも、 夏時刻 が実施されました。 1942年には、夏時刻 が通年実施されるに至っています。
[52] 米領フィリピン準州では、 日本軍の進攻前から現地政府が夏時刻を実施しており、 日本軍もそれを引き継いだため、 中央標準時 と現地時刻が一致したようです。 中華民国南京国民政府も夏時刻を実施しており、 途中から通年化したため、 中央標準時 と現地時刻が一致したようです。
[101] 英領マラヤ、 英領シンガポール、 蘭領東印度では、 日本軍の進攻後に現地時刻から1,2時間進めた通年夏時刻に相当する中央標準時 に標準時が改められました。
[144] tzdata や Wikipedia などは日本軍の統治期間を中央標準時の時期としていることが多いですが、 統治期間と標準時改正の時期は実際には一致していなかったと考えられます。 また、日本軍の統治下にあったというだけで十分な根拠なく中央標準時に改正されたとして扱っている疑いのある地域もあります。 今後、当時の資料の発掘により正確な状況が判明することが期待されます。
[140] 第二次世界大戦の終戦後には、台湾、満州、南洋群島の一部、
戦時占領地は旧来の標準時に戻ったり、
新たな標準時を採用したりして現在に至っています。
大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国は紆余曲折を経て中央標準時と同じ時間帯を現在も採用しています。
[2] 一方で中華人民共和国の標準時である が臺灣や東南アジアを含めて広く使われるようになり、
実質的に大東亜の標準時の後継であるとの見方もあります。
[416] 戦前日本の法令〜条文bot pe Twitter: "【解説】明治二十八年に制定された標準時の制において、日本には中央と西部の二つのタイムゾーンが設けられました。しかし中国との全面戦争が開始していく昭和十二年、西部標準時は廃止され、国内の時刻は東経百三十五度の中央標準時に一元化されました。" ( 版) https://twitter.com/senzen_law/status/687078285377802242
[99] Kyoto University Research Information Repository: 大陸と時刻制 () https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/167828
[100] Kyoto University Research Information Repository: 北京だより () https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/167825
[14] 時間関係雑纂 9.台湾及澎湖列島ニ於ケル標準時改正関係 (アジア歴史資料センター | Japan Center for Asian Historical Records著, ) https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_B04011419200
[15] 15.「カレワ」「インパール」「ホマリン」に於ける4月6月日出没・2月3月月齢時刻表 昭和19年3月12日 (アジア歴史資料センター | Japan Center for Asian Historical Records著, ) https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C14060352300
[20] Newspaper Article - Daylight Saving To Save Power, The Straits Times, 6 December 1947, Page 9 () http://eresources.nlb.gov.sg/newspapers/Digitised/Article/straitstimes19471206-1.2.82.6
[21] () https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/167819/1/tnk000218_249.pdf
[22] () https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/167824/1/tnk000218_236.pdf
[24] 石垣島時間 ヤエヤマタイム | 八重山探検 () https://ameblo.jp/09808/entry-10559390958.html
[34] 오늘은 "時의 記念日" 東亞共營團의 標準時間은 어떤가 가지각색이나 日本標準에 統一不遠 http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00095141150 http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00095141150
[35] 谷謙二/TANI Kenjiさんのツイート: "現在日本国内は時差はないが、戦前は1896-1937年にかけて台湾・先島諸島は1時間時差があった(西部標準時)。満州国も1時間時差があったが、1937年に日本の中央標準時に合わせられた。戦時体制になって時差の計算が面倒になったのだろう。" () https://twitter.com/ktgis/status/1026650630025179136
[36] いしだゆうすけさんのツイート: "https://t.co/IIvijSblBj とかみると沖縄本島あたりまでは明石時間がよさそう? 台湾はもちろんUTC+8が適切で西部標準時を設定したのだけど戦時中に政府軍部(?)の都合でJSTを押し付けたかと 中国は西の果てまで北京時間ですよね… " () https://twitter.com/iyuusuke/status/1030645786105733126
[37] いしだゆうすけさんのツイート: "西部標準時は八重山/宮古/台湾に適用で本州よりも低緯度だから夏時間の必要性は低そうですよね :) 台湾が日本領になったので西部標準時を設定して1937年に戦時体制で中央標準時(JST)に統合したっぽい 台湾からみたら年間通して夏時間強制??… " () https://twitter.com/iyuusuke/status/1030638906255921152
[38] ¿さんのツイート: "「1986年以降宮古・八重山地方は植民地下の台湾と共に東経120度の西部標準時を採用し東京はおろか同じ県内の沖縄本島とも時差ができた。この時差がなくなるのは1937年戦時体制で、当時の日本の阿呆のように広がりきった領土全体が統一された時間を使用するという無茶な制度になってからだ」" () https://twitter.com/uraraka_na_hi/status/885419606642262016
[39] Kyoto University Research Information Repository: 東亞の標準時政策を論ず () https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/167658