光義

神門神社

[90] 日本国宮崎県には百済王の末裔の伝承があります。

百済王亡命伝説

[2] 奈良時代創建の神社には、 飛鳥時代に滅亡したはずの百済の王家が奈良時代に亡命してきて祀られている、 という江戸時代の伝承が残されているそうです。 >>1

[3] 続日本紀など日本側の史書にも三国史記など朝鮮側の史書にも記録がありません。

[4] 江戸時代の記録には百済新羅の混同がみられるようです。 >>1

[6] 平成時代の人達も百済新羅の区別がついていないみたいです。 >>5

[7] そういえば平成時代鬼室神社方面の人達も百済新羅の区別がついていなかったみたいです。 鬼室神社 不思議な偶然もあるものです。

[25] あとからおかしいと気づいたのか、 百済から逃げてきたのではなく、 日本にいた旧百済王族が内紛で逃げてきた、 と新出史料には書かれているそうです。 >>10

[53] 栂尾神楽見学道中記 Part2 百済 禎嘉王 伝説の残る「塚の原古墳」(美郷町南郷) | 日々ブログ MORIMORI @宮崎県, , https://dareyami.pmiyazaki.com/log/eid1245.html

七世紀、滅亡した朝鮮半島の百済の王族は、仲のよかった日本の奈良方面に逃げ、その後の動乱から更に北九州方面を目指す途中、瀬戸内海でシケにあった。 父の「禎嘉王」とその一行は日向市の「金ケ浜」に、そして子の「福智王」とその一行は高鍋町の「蚊口浦」に別れ別れに流れ着きました。

平和な日々が続いておりましたが、やがて、王族らは居場所を知られてしまい、新羅の追討軍との戦いで王の次子・「華智王」そして「禎嘉王」も崩御されました。

[54] >>53 の説 (出典不明) だと朝鮮半島から奈良に逃げたあと、なぜか九州に戻ろうとしたらしい。 宮崎に住んでいた新羅の追討軍がやってきたということは、 新羅軍は九州を南下してきた???? 7世紀って書いてあるから白村江の戦いの後対馬海峡を渡って追撃してきたの???

[1] 神門神社 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%96%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE

南郷村神門神社綾布墨書

[11] 記国号 と題した墨書があって、

帝泉帝皇明雲廿六年(為) 福智帝皇白雲元年

... などと書かれているそうです。 >>10

[16] 神社所蔵の衣服に書かれていたものの、 字形が独特で複雑で判読困難だったのを、 宮崎大学元教授の福宿孝夫が赤外線カメラ映像を使って解読したそうです。 >>10

[20] この人物は比較文字学の研究者と称していたそうです。 >>10 Web検索によると好太王碑の新解釈を示したという自著が出てきますが、 それ以外にこの人物による「比較文字学」関連らしき論文は見つけられません。 他の研究者からの評価も見つけられません。 文字研究の分野では「比較文字学」が学問的な課題として長年意識され続けている様子が窺えますが、 独立した学問分野として確立されているように見えません。 この人物以外に「比較文字学の研究者」だと称する人物は見つけられず、 「比較文字学」に言及する他の研究者がこの人物の研究を参照した例も見つけられません。 (好太王碑の他の研究者が参照しているのも見たことがありません。)

[17] 現物の画像はWeb検索で見つけられません。 宮崎日々新聞 に一部の写真が掲載されたようです >>10。 赤外線カメラで解読ということですから、 (可視光カメラの) 通常の写真があっても読むのは無理かもしれません。

[69] そもそも南郷村奈良文化財研究所に解読を依頼したものの、返答がなかった >>648 といわれています。いつ誰がどのようなルートで依頼したのかは不明です。

[70] 「解読」はに行われ、 地元紙宮崎日日新聞でたびたび報道されていました。 >>10

[18] 行書混じりの楷書で書かれていたものの、 「増画・略画・誤形などの異字体が多く、字形の特徴から百済特有の観念文字である」 「高句麗や新羅の物ではないと判別できる」 のだそうです。 >>10

[65] 「観念文字」とは?

[21] 具体的には、 「国」字は4種類に書き分けられていて、 「方形の中に小さい百の字」 を使った「国」の字が百済文字なのだそうです。 >>10 福宿孝夫が新聞への寄稿でそう断言していますが、 根拠は何も記されていません。 このような書き分けのある百済の遺物は他にあるのでしょうか。 (聞いたことがありませんが。。。)

[64] この説はともかく、百済で使われた漢字字体というのはある 百済語

[12] 帝泉帝百済禎嘉王福智帝百済福智王で、 帝位継承に伴う代始改元を表しているのだそうです。 >>10

[66] 百済本国では独自の元号を使った形跡がないのですが、 故国を失って日本にやってきて元号制度を創設したのでしょうか。 日本の元号制度に倣ったのでしょうか。 畿内百済王氏などもそのような振る舞いはしていないのに、 南九州には亡命政府でもあったというのでしょうか? 日本政府百済王氏等はそれを知っていて放置していたのでしょうか、 それとも知らなかったのでしょうか。不思議なことばかりです。

[128] 明雲 (y~1755), 白雲 (y~1756) は、他書にない元号です。

[22] 福宿孝夫によると、 「帝は、泉(黄泉。あの世)ノ帝皇(先代の王)ノ明雲廿六年ヲ、福智ナル(幸福を与える賢い)帝皇ニテ、白雲元年ト【為】シタリ。」 と解されるようです。 >>10 (>>12 の解釈 (誰の?) ともまた別の解釈です。)

[23] 東アジアでは 「福智帝皇白雲元年」 のような構文は常識的に「皇帝名元号名年数年」 と解釈するので、 「福智帝皇」の「白雲」の第1年の意味ととるのが普通ですが、 ここではなんだかよくわからない修飾語 (美称?) のように解釈されているのでしょうか。 よくわかりません。 好太王碑文の新解釈とやらもこんな感じで独創的なものなのですかね? 気になります。

[67] この解釈だと「帝泉帝皇」は固有名詞ではなくて大行天皇のような使い方の語なのでしょうか。

[24] これが改元布告だという解釈 >>10 だと、 新皇帝の即位時点で皇帝名 (諡号?) がもう決まっているのが不自然になるので、 そうではない何かと無理矢理解釈せざるを得なくなるのですね。

[13] 「百済の分国であった周防にいた百済王の直系の子孫は、百済滅亡とともに自動的に本家本元百済王の位を継ぎ、「定居」と改元し、さらに「倭京」と改元した。それから13代周防にいたが、新羅派の攻勢にたえきれず、日向の国に落ち延びた」 とかいう(誰の?)解釈が示されています。 >>10

[14] 周防というのは大内氏偽系図琳聖太子の関係でしょうか。 分国というのは朝鮮民主主義人民共和国の研究者が提唱した分国論 (三韓各国がそれぞれ日本列島内に植民地を有していたという根拠のない妄想。) のことでしょうか。

[15] 定居倭京は中世に流布された古代年号 (大宝より前に実在したと考えられていた元号) ですが、 この説では百済元号らしいです。 九州王朝説九州年号とも解釈が違います。 何を根拠に言っているのかわかりません (どちらも)。

[26] , https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/cahierdusud/history/kudaranengo.html

襲国偽僭考には「百済国定居元年、聖明王第三皇子琳聖太子わが朝に渡来」の記事がある。この定居元年は百済琳聖太子と縁が深いらしく、『法隆寺の中の九州王朝』巻末には前田博司の収集した山口県の伝承が記載されてあり、その中に特筆すべき記事がある。 「百済国聖明王第三王子琳聖太子周芳国多々良浜に着玉ふ。天皇佐波郡大内県に皇居を建て定居王と号す」素直にこれを読めば、琳聖太子が周芳国に百済の分国を造り、皇と称したことにならないか。

さらに想像をたくましくすれば、百済滅亡ののち周芳国は自然に百済の亡命政権となり、とここで宮崎の百済王伝説がむくむくと頭をもたげてくる。

いわゆる九州年号は九州に多く遺存している。それも寺社に多い。これは僧侶が百済からやって来て、百済の年号を使っていたからではないか。山口にも多く残っているのは、山口が百済の植民地であり、倭国の同盟国だったからというのが私の仮説である。今でも九州駅伝には山口と沖縄が参加する。天気予報では九州と山口が一緒にされている。2005.4.

[74] なるほど、これは (古代の史料として信頼できないものばかり根拠にしていることを除けば) 一応筋は通っていて、九州王朝説による九州年号よりも現実性がありますね (目糞鼻糞ですが)。

[75] よりにもよって九州年号の聖典の襲国偽僭考九州年号百済説の出典というのがおもしろい。

[19] 多額の費用を投入して町おこしを既に進めていた現地ではこの墨書が 「「百済王伝説」を史実として裏付ける内容」 だと評されたようです。 >>10

[118] 禎嘉王または死去かとされているようで >>55、 これがおよその改元時期ということになるのでしょうか。

[119] >>13 によると倭京の時代から13代を経ているそうです。 倭京説を採ると100年から150年といったところですが、 13代も代替わりするとはいったいどうなっているのでしょう。 親子以外の継承も数えたとしても、1代当たり10年で継承し続けるのは尋常ではありません。

比木大明神系図

[33] >>34 より, >>48 にもあり

P121 2 比木大明神系図

比木大明神系図は児湯郡高鍋町中鶴村百姓五郎兵衛所持のものを、明 治二年十月、永友司が書写したものの再掲である。

百済国王神門帝家二御王子福智王奉申、百済国正光元年辛巳福智王吾 朝渡給三体三恭日本年号弘安四年辛巳安芸国着岸自是又鎮西日向国児湯 郡之内級鉱添仁爽着任給甲胃捨御衣千絵比所級鉱ト云。…(以下略)…

[77] 百済国正光元年辛巳がということでしょうか。 そうでないとも読めるのかもしれませんが...

[84] 百済が滅亡して何年経っているんだという話ではありますが、 ちょうど元寇の年であることが想起されます >>51

[120] 福智王禎嘉王です。8世紀に継承したはず (>>118) ですが、 400年生きたのでしょうか?

[121] 正光北魏元号にありますが、干支が合いません。無関係でしょう。

寺社縁起に見える即位紀年

[78] 神門神社明細帳 >>34

P124~125 5 宮崎県日向国東臼杵郡南郷村神門神社明細帳追記

神社明細帳追記

人皇四十六代孝謙天皇之御時百済国之帝 王貞家帝止奉申御即位治世二十一年御歳 四十有余之時

[79] 孝謙天皇は在位 - 重祚して称徳天皇として在位 -

[81] 神門神社縁起 >>80, >>51 (>>80)

人皇四十六代孝謙天皇之御宇百済国之帝王貞嘉帝即位治世二十一年歳四十有余之時、 東宮邇譲 位福智王奉申、即位治世三年之時百済国大擾乱、貞嘉帝有 思召、 和国者神国邇天和成留国也止聞伝有者、辞 百済国 而入 和国 其時和皇孝謙天皇 天平勝宝八年(原文ママ)丙申之秋九月下旬、中国安芸国厳島之邊爾御着船有而、暫御滞座有、 然共此由本国百済江聞得、若敵賊徒襲来留事御意邇思召賜、同十年戊戌之秋、

[82]

[83] : 延長年号

[86] 百済国伯知王略縁起 >>49

人皇四十六代孝謙天皇之御時百済国之帝王貞家帝止奉申御即位 治世二十一年御歳四拾有余之時東宮邇譲位福智王奉申 御即位治世三年之時百済国大擾乱貞家帝有思召 和国者神国邇天和成留国也止聞伝有者 辞百済之国而入和国其時和皇孝謙天皇天平勝宝八年(原文ママ)丙申之秋九月下旬、 中国安芸国厳島之邊爾御着船有而暫御滞座有 然共此由本国百済江聞得若敵賊徒襲来留事御意邇思召賜 同十年戊戌之秋筑紫邇船遠為趣賜爾南海之風波烈鋪而風之随々

[85] 日州児湯郡高鍋比木大明神縁起 >>49

百済ハ禎嘉王二十一年譲位福智王福智三年百済大乱ル 福智王与禎嘉王奔 本邦 始テ至ル 芸(ゲイ)之厳島ニ 時ニ孝謙天皇天平勝宝八年(原文ママ)丙申之九月也、 後二年戊戌之秋福智王更ニ到ル日州児湯郡蚊口浦乃所 [雨/活](うるおう)韉(したぐら)衣帯

[122] 記国号 (>>11) では26年に改元したようですが、 これらでは21年に譲位したことになっています。 どういうことなのでしょうか。

[123] 即位紀元 (y~4151) と元号は数え方が違うということなのでしょうか。なぜ。

[124] そもそも元号があったならなぜこれらは使っていないのでしょうか。

[125] 福智王 (y~4152) の3年に起こった百済の大乱というのもどこの異世界の話なのか意味不明です。 奈良時代百済が復活していた世界線もあるのでしょうか。 歴史ロマンですね。

百済年号

[649] 超古代史陰謀論の一種である九州王朝説を信じる人達は、 九州年号に対して百済百済年号として明雲白雲を挙げています >>648, >>29, >>63

[92] 百済年号という語は本来はただの百済元号という意味で、 元々はそのような意味で研究者の間では (たまに) 使われていました。

[139] 百済元号を使っていなかったことが明確になった昨今では使われなくなり、 かわりに九州王朝説など独創的な歴史物語を創作する人々ばかりが使う専門用語になってきています。

[140] 本来の意味の百済国に於ける元号については百済の元号を参照。

[71] 九州王朝説の世界に紹介されたのは「解読」の翌年で、 ならば滅亡した百済の末裔が元号を建てていたという福宿孝夫の説を知っているはずです。 にも関わらず、 >>648 ではなぜか、 百済の時代に日本の天皇家は元号がなかったのだから、 百済と対等だったのは九州年号を使っていた九州王朝で、 この「一元史観の解き難い矛盾に通説派は困っている」という珍妙な理論が展開されています。

[72] 九州王朝説用語で「一元史観」とは九州王朝説でない一般の史学上の通説のこと。 「通説派」とは日本史研究者のこと。 ここでは奈良文化財研究所 (>>69)。

[68] 九州王朝説の人達が九州年号認定している定居倭京がどういう扱いなのかは謎です。 分国論九州王朝説とは相容れないはずですが...

[73] 分国論の世界では日本三韓植民地なので、 倭国百済が対等だとは思っていないのではないでしょうかね。 分国論九州王朝説の矛盾の方こそちゃんと解いてくださいな。
[648] 百済年号の発見, 古賀達也, 1997年 6月16日, http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga20.html

読みや解釈は難しく、今後の課題としたいが、いくつかの注目すべき点がある。一つは「明雲廿六年」「白雲元年」という年号である。文脈から改元を意味していることから、年号であることは間違い無い。同村に伝わる百済王伝説からすれば百済年号である可能性が高い。

[96] 二つの試金石 九州年号金石文の再検討, , https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu2/koga02ko.html

[111] >>96 は書籍 >>112 にも収録。

[29] 356話 2011/12/03 南郷村神門神社の綾布墨書, , http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nikki7/nikki356.html

[76] >>29>>648 の他に建興を引いて、百済年号の実在は疑えないと主張しています。 驚くべきはこれが付で発表されたという点です。 その時点で建興高句麗の元号だとする説が発表されてから数十年経過していて、 もう大韓民国の研究者も日本の研究者も百済元号だと考えていた人はほとんどいなかったはずです。

[114] 従来の主張の繰り返しですが、 新たに正光 (>>33) にも言及しています。

[63] 海東諸国紀と古代逸年号 – 古代史俯瞰 by tokyoblog, http://tokyox.matrix.jp/wordpress/%e6%b5%b7%e6%9d%b1%e8%ab%b8%e5%9b%bd%e7%b4%80/

[91] ※九州王朝史年表を作成しています, huzi2, http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:FFdnghwskW4J:www.tagenteki-kodai.jp/nenpyo_20101102.doc&cd=9&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

※百済年号:「建興五年歳在丙辰」(536年or596年・金銅釈迦如来像光背銘)。「帝泉帝皇明雲廿六年<為> 福智帝皇白雲元年」(宮崎県南郷村神門神社)。ほとんど残っていない。

[93] 謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!66, https://yomogi.5ch.net/test/read.cgi/history/1337252884/

[94] >>93 の 659 が九州王朝説百済年号を援用して独自説を展開している。 このスレには九州王朝説系の人も混じっている (659 がそうかは不明)。

[95] 천문과 역사 그리고 진실... : 상식과 이설, Comte, http://katnani.egloos.com/490288

>>26, >>648, >>96 を紹介。

[130] >>129 これは九州王朝説陰謀論の一種だが、 本家九州王朝説と違って熊襲九州年号の制定主体とする異端グループ (江戸時代に唱えられたことがあるので、ある意味この説の方が元祖かもしれない)。 ( 九州年号 )

明雲白雲宮崎百済古文書にあるので百済元号かもしれない、 と言っている (なぜ宮崎にそんなものがあるのか、いつの時代の元号か、 は説明なし)。

新羅元号延寿百済元号かもしれない建興、 と言っている (半世紀以上前に否定された旧説)。 ( 延寿, 建興 )

[131] 昭和を生きてるのか江戸時代を生きてるのかようわからんが、 これが令和最新版なんだぜ。びっくりだな。

光義

[97] 九州王朝説グループの中には、 (南郷村と別の) 百済年号の1つとして光義 (y~4153) があったと主張する者があります。 >>98

[99] それによると、 聖徳太子全集 2卷 p.388 所収 聖徳太子伝記 に、

此ノ歳、善光寺如來値多生持者本太善光下向信濃 國也、自信州下向至文保二年六百四十二年也、自 百濟國光義至文保二年六百九十五年也。

とあるそうです。 >>98

[127] が695年とすると、 が1年になります。 ただし何年とは書いていないので、それが元年かはわかりません。

[100] 聖徳太子全集は昭和初期のものと昭和後期の復刻版があります。 昭和初期の方の第2卷は国立国会図書館で検索しても見つけられません。 題名から昭和初期の第3卷と復刻版の第2卷が同じ内容のようにも思われますが、 事情はよくわかりません。

[102] 昭和初期の方の聖徳太子全集の第3卷には、当該部分は

自百濟國光儀至文保二年

とあります。 >>101 /243 同書解題 >>101 /44 や同書を引用した論文 >>103 も同じく「光儀」 と引用しています。

[104] 復刻版の方は未調査ですが、復刻時の誤植よりはこの記事 >>98 の誤引用が強く疑われます。 ただ、元号の新発見の報告記事で肝心の元号名を誤記することがあり得るのか、 という疑問もあります。

[105] さて、この記事 >>98 は、年数が記載されていないことに注意しながらも、 新羅倭国元号が使われていたのだから、 百済でも元号が使われていたのだとして、 「光義」なる百済元号を発見したと断定的に報告しています。

[107] 九州王朝説でいう倭国とは九州王朝のことで、 九州に本拠地を持ち日本列島を代表する政権という設定になっています。 九州年号と呼ばれる独自の元号を使っていて、 元号を持たない天皇家九州王朝に従属していたそうです。

[108] 仮に百済元号が使われていたとしても、 元号年のないこの経過年数表示中の語句を元号名とみなすのは強引が過ぎます。 相応の根拠が提示されるべきです。

[110] さて、辞書によると光儀

他人を敬って、その来訪をいう語。光臨。光来。

「さても只今の―、覚めての後の夢、夢の中の迷ひかとこそ覚えて候へ」〈太平記・三九〉

という意味がある語です >>109 (デジタル大辞泉)。 ちょうど太平記から引用されていて、 この種の聖徳太子の伝記物語が形成された時代にこの言葉が使われていたことが知られます。 無理に元号名と解釈する必要はなかったようです。

百済の館

[5] 百済の館 / 宮崎県美郷町ホームページ, 最終更新日:2021年3月12日, , https://www.town.miyazaki-misato.lg.jp/kiji00384/index.html

「百済の館」は、百済最後の王都となった大韓民国の古都「扶餘」の王宮跡に建つ、(元)国立博物館の「客舎」をモデルに、日韓交流のシンボルとして造られました。

韓国大使館や総領事館などの協力を得て建てられ、屋根の反り返りや色使いがとても鮮やかな美しい建物です。

瓦や敷石は、韓国から取り寄せられ、梁や軒を埋め尽くす赤、青、緑といった極彩色の丹青(タンチョン)は、本場韓国の名工によるもの。

[8] 李朝風の建築で百済関係ないやん。 ギリシャ神話のシンボルとして聖書展示するようなものでは??

[9] >>5 写真見る限り建物だけでなく展示内容も百済関係なさそうなんだが

[126] 行政がこんな感じで偽史町おこししてる >>46, >>52 のなら、 百済王が日本で謎改元してようがもうどうでもいい、 周防で13代だろうが奈良時代だろうが元寇時代だろうが些細な違いな気がしてきますね。

メモ

[88] 日本平成時代の複数のウェブサイトブログでは史料を検討して懐疑的な見解を示しています。

[60] 日向の百済王, , https://web.archive.org/web/20131029194800/http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/kwch-lit/hyuga.htm


[87] 韓国語Wikipediaは伝説ではと注釈しながらも全面的に肯定して実在人物かのように各登場人物の記事を立てています。

[89] 大韓民国では複数の媒体が伝承を肯定的に説明して南郷村の祭を紹介しています。

[58] 일본 미야자키 난고손(南鄕區) 백제마을의 시와스마쓰리(師走祭り) : 월간조선, http://monthly.chosun.com/client/news/viw.asp?nNewsNumb=201403100034

[59] 일본열도에 분포된 유물 이야기 – 미야자키의 백제촌 < 종합 < 뉴스 < 기사본문 - 아시아씨이뉴스, http://www.asiacenews.com/news/articleView.html?idxno=2756

[61] 日규슈 ‘백제마을 난고손’ 한글 도로 표지판 따라 가보니…, https://www.donga.com/news/Culture/article/all/20150708/72355655/1

[62] 일본 속의 백제 혼-백제마을 ‘난고손(南鄕村)’ :: 대전일보, http://www.daejonilbo.com/news/newsitem.asp?pk_no=851573

[116] 백제인의 숨결이 살아 있는 히키신사와 난고손 백제 마을에 전해지는 시와스마쓰리! > 참한역사칼럼, , http://ichn.co.kr/kgs/312?ckattempt=1

[117] 남향촌신사 묵서 : 네이버 블로그, https://blog.naver.com/sohoja/50045553398