[189]
元徳の異体字が真のように見えるものと考えられていますが、
独立した私年号とする説もあります。
[113] >>27 は昭和時代中期頃、 現地近くの大沢喜一によって報告されました。 >>111, >>250
[29] 元々は志賀の所蔵家墓地に所在していました。 >>250, >>15
[153] おそらくその状態で、それに先立つ昭和18年頃、寺島祐に目撃されていました。 寺島祐は近くの宝城寺の住職に保管を依頼しました。 >>3
[154] 昭和時代中期の報告では、所在地が志賀の宝城寺となっています。 >>76 詳細な説明がなく不明ですが、この時点では宝城寺に移設されていたのでしょうか。
[133] その後、昭和時代後期頃、 盗難防止のため同家敷地内に移動しコンクリートで固定されています。 >>15, >>250
[159] 「九月日」と読む説もありました (>>170)。 拓本を見ると多数派解読の「九月廿三日」が妥当と思われます。
[173]
1字目は正と読む説もありましたが、
拓本を見ると元と思われます。
実見すると正のようにも見えたのだろうと思われます。
同じ著者が後の著作で正から元に読みを改めています (>>170)。
[184] 昭和時代以来議論が多く、大別して私年号説と元徳の異体字説があります。
[185] 不思議なことに、当該銘文の解読ばかりが注目され、
他の徳の用例等と比較した文字学的検討はほとんど行われていません。
[186] 明徳の類例も含め、より広い視野での検討が今後必要となってくることでしょう。
[187] 板碑の様式は南北朝時代頃とされ、 より絞り込んで南北朝時代中期とする見解もあるものの、 現代までの知見で改めて検討するのが良いと考えられます。
[71]
、
日本国東京府東京市上野篠輪池東畔無極亭楼上で開催された集古会第215回例会で、
中西紫雲が
[132] この史料はその後令和時代に至るまで私年号研究で参照されず、忘れられていました。
[155] 頃、 大東亜戦争で疎開していた考古学者の寺島裕 ( - ) は、 >>27 に偶然遭遇しました。 >>3
[156] 、寺島裕はこれを私年号の 「元真元年九月廿三日」 と報告しました。 >>3
[157] 昭和18年当時の記録は米軍の襲撃により失われたとのこと >>3 で、 昭和30年代まで (おそらく) 報告されなかったのも、その混乱のためでしょう。
[158] 寺島裕はこれを私年号の新発見と認識していましたが、 令和時代に至るまで私年号研究の分野では把握されずに埋もれていました。
杉山城址と特殊私年号青石塔婆に就いて 寺島祐
僕はその後東京で前後四回も戦災の厄に逢い、所持の資料の一切を烏有にしたので、これを明確にする資料がないが、おそらくこの地を僕が訪れたのは戦時中の昭和十八年頃ではなかったかと思う。
、前述のような城址を偶然発見する結果となったのである。
◇特殊私年号青石塔婆
僕が杉山城址を発見した日は詢に多幸な日で、ここに掲げる「特殊私年号青石塔婆」もその同じ道に発見したものであった。その場所は、武蔵嵐山駅から宝城寺への途中の県道の傍で、そこにあった個人墓地のような処にあった。
併し此日僕がそこに発見した梵字弥陀三尊に梵字光明真言を刻んだ青石塔婆は僕の記憶にない珍らしい年号が刻まれていた。それは
「元真元年九月廿三日」
というもので、干子がないのが些か気になるが、その「元真」の年号は将に特殊な私年号であると観じたので、直ちに至近距離にあった曹洞宗の大谷山宝城寺の住職にその保管を依頼したものである。結局これは、それまで誰も気着かなかった新たな私年号の一つを、僕がこの日この所に新たに発見した訳で、それは小事ながら史学界に於ける一つの新発見といえよう。
『関東史蹟会報』第195号 1960年(昭和35)9月11日
正は南北朝時代に正平を見るに過ぎず、鎌倉時代に多いとしていました。 >>114
[160] 昭和42年の日本私年号の研究は、 >>27 によって初めて私年号の元真が知られたとし、 様式から南北朝時代中期頃の可能性が強いと推定しています。 >>111
[118]
その銘文を「
真は公年号になく、元は鎌倉時代に2例あって鎌倉時代的要素も強いが、
既述の理由から南北朝時代とみるべき[170] 明記されていないことを想像で補うと、次の通りです。 久保常晴は他の元号と違って先行文献ではなく、 一次報告者から直接知って、現地に赴きました。所在地は志賀とされますが、 久保常晴は鎌形と認識していました。はじめ、元号名は正真と読みましたが、 後に元真に認識を改めました。月日は現在の通説と異なり「九月日」と読みました。
[191]
所功は、日本私年号の研究を出典に、
元真を
[192] >>191 の前者は長慶天皇の代始改元説に基づくもの、 後者は併記された至大の説明に基づくもので、 まったくの出鱈目ではないものの、 日本私年号の研究の説明が単純化され違ったニュアンスに変質しています。
[18] 昭和時代の日本国埼玉県浦和市の歴史研究者中英夫は、 埼玉県内に
があると紹介しました。いずれも実見しているようです。 >>117
[19] 延真の類例を挙げて、元徳のことだと判断しています。
[8] 中英夫は後に日本私年号の研究が >>17 を元真と判断したことを
「
[32]
の千々和実の史料集は、
>>76
のを書き、
その右側に
[33] これについて、 >>15 は >>31 を引用して、千々和実は「元真」とみなしながらも 「真」に「徳?」と注釈して疑問を表していると紹介しています。
[34]
しかし >>15 の表現から真と読むのは難しいように思われ、
千々和実が元真と読んだかどうか
>>15 からは判断しかねます。
[36]
の史料集は、
「悳は徳の古字と注釈し、
に比定しています。
>>35
[134] の 板碑の総合研究は、 次のように述べています。 >>251
真は悳とは到底読めない373 ページ
これらはカッコ内の公年号を誤って記したか、異字にそれほど違和感や正誤感をもたなかったための表記であったものと思われる。ゆえに、私年号からはここでは除外し、同音異字年号として扱っておく。また片仮名交り私文で表示した「永ワ」(永和)なども、 ...
374 ページ
... 鎌倉末期)、元真・至大・致得・永幻(以上南北朝)、徳昌・享正・延徳・福徳・徳応・弥勒・命禄(以上室町時代)の一例であるが、これらの板碑所在地をはじめ、これを公年号に比定すると、それぞれどの年代に該当するかを、以下簡明に明らかにしたい。
375 ページ
た(註 9 )が、埼玉県で調査の『板碑』でもこれを「元悳(徳)」とし( # 10 )て、同様の観点に立っている私年号板 埼玉鼻比企郡嵐山町志賀高崎武治氏 表示された(註)が、久保常晴氏はこれを「元真」と見做し、私年号として解明を加えている( # 12 )。 ... ところが千々和実氏坂は「元真元年九月廿三日」として、「元真」とはしながらも真字のかたわらに「徳?」とし、「元徳」への疑問を併せて銘文中、年号の二字目がやや不明確ながら、大沢氏はこれを「元悳(徳)元年」と見て、「元徳」の同音異字年号と ...
379 ページ
板 私年号板図 130 弥勒 2 年 9 月 され、しかも「如」件」の用例からみれば、恐らく康永(一二~一四)前後のものであろうと ... 熟知の一基であるが、あるいは一般的といえるかどうか、これを同音異字の「至徳元年甲子(三四)」とすることが行われている。
[12] 千々和到は元真は鎌倉時代の年号ではないかと考えている (南北朝時代ではない) と述べています。 >>11 (根拠は記載なし。)
[43] 千々和到の私年号の一覧表等には掲載しつつも、 備考欄で、あるいは元徳か、と注釈しています。 >>174
[175] 日本私年号の研究以後の私年号の表などに多く掲載され、 時期は次のように表現されています。 >>174
[183] 日本語版ウィキペディアにも初期から掲載されています。 時期は細かく変更されていますが、根拠が不明です。 >>182
[197] の辞典で、 南北朝時代の私年号として真賀や元賀を掲載しているものがあります。 >>196
[198] 個別の私年号の詳細が記載されていないので、元賀の正体は不明であり、 他書にも出現しませんが、本書の他の掲載私年号から総合的に考えて、 元真の誤記/誤植が疑われます。幽霊元号の1つです。
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 元真 - 14世紀半ば 不明 埼玉県小川町発見板碑。公年号「元徳」の異表記か。
[21] 春、 伊藤宏之は未報告の板碑 >>27 で元真銘を確認しました。 の論文で報告しました。 >>15
[49]
伊藤宏之は
>>22
>>27
2つの板碑の第2字を比較し、これを悳と結論付けました。
>>15
悳ならば C, D は心でなければないが、
心でない、このため悳説を認めない見解がある真の草書体なら C, D はハやいのようになり、
特に D はLや乙のようにはならない心の草書体はルのようになることがある悳が使われたのかは課題として残る[104] 元徳の異表記とする説が通説となっています。特段深く議論されたことはありませんが、 これといって疑問視するべき要素もありません。
[105] >>99 >>101 と同一地に元徳と元得が共存する事例があり、 板碑の様式等の検討を要するものの、同時代であることの強い根拠と成り得る史料と思われます。
[14]
昭和時代の
>>46 は元得3年4月日板碑を >>117 を出典に掲載しています。
「
[103] の史料集は特に注釈もなく掲載していますが、 年代順となっているので、元得を元徳と解釈したようです。 >>98
[68] 栗原郡の板碑, 栗原郡郷土史研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12221636/1/14?keyword=%E5%85%83%E5%BE%B3 (要登録)
元徳六年 延長年号
[70] 習志野市史 第1巻 (通史編), 習志野市教育委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9644794/1/161?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7 (要登録)
元徳5年
[6] 川口市史 古代・中世資料編, 川口市, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9641575/1/242 (要登録) 左下
[13] 神奈川大学 学術機関リポジトリ, https://kanagawa-u.repo.nii.ac.jp/records/14171 #page=64
[93] □徳という未知の私年号の可能性が指摘された板碑があります。
[85] >>83 では字形が不明瞭で、第1行の判読が困難です。
>>84 の元号年四は、と書かれているように見えますが、
不鮮明で自信を持てません。
[86] 当板碑の銘文の一部は追刻とされます。 >>69 既存部分が不鮮明なのも改竄の疑いがあるのかどうか、言及はされておらず、 拓本でも判断が付きません。
[89] 用例の元号名が判読困難であることと、 元徳が3年までとされることから、 元徳を有力とみつつも未知の私年号「□徳」とみる説が提示されています。
[90] しかし、令和時代に至るまで、私年号研究の中で紹介されたことがなく、埋もれていました。
[91] 拓本では元号名の判読が困難であり、おそらく実見しても同じと思われます。
[92] 元徳の4年が存在しないとの理解によって元徳と読む説に自信が持てないでいるものと思われますが、 他に元徳の延長年号の用例多く、甲斐国という位置から見ても、 元徳4年とすること自体には問題がないと考えられます。
[87] の史料集は、 元号名を「元徳」と翻刻した上で、 判読し難いとし、 元徳は3年までなので私年号「□徳」の可能性もあるが、 「ここでは」元徳と判読しておくと説明しています。 >>69
[193] 元の元貞が OCR や中華人民共和国系の低品質解説等で元真となっていることがよくあります。
[194] 中政院 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E4%B8%AD%E6%94%BF%E9%99%A2
元真二年,