元賀

元徳

[80] 元徳は、 日本の公年号の1つです。

元号名

⿰彳𫧇

[200] ⿰彳𫧇は、 元徳異体字⿰彳𫧇で書いたものです。

元真

[188] 元真は、 日本の私年号の1つです。

[189] 元徳異体字のように見えるものと考えられていますが、 独立した私年号とする説もあります。

用例

日時事例

[113] >>27昭和時代中期頃、 現地近くの大沢喜一によって報告されました。 >>111, >>250

[29] 元々は志賀の所蔵家墓地に所在していました。 >>250, >>15

[153] おそらくその状態で、それに先立つ昭和18年頃、寺島祐に目撃されていました。 寺島祐は近くの宝城寺の住職に保管を依頼しました。 >>3

[154] 昭和時代中期の報告では、所在地が志賀宝城寺となっています。 >>76 詳細な説明がなく不明ですが、この時点では宝城寺に移設されていたのでしょうか。

[133] その後、昭和時代後期頃、 盗難防止のため同家敷地内に移動しコンクリートで固定されています。 >>15, >>250

[159] 「九月日」と読む説もありました (>>170)。 拓本を見ると多数派解読の「九月廿三日」が妥当と思われます。

[173] 1字目はと読む説もありましたが、 拓本を見るとと思われます。 実見するとのようにも見えたのだろうと思われます。 同じ著者が後の著作でからに読みを改めています (>>170)。

諸説

[184] 昭和時代以来議論が多く、大別して私年号説と元徳異体字説があります。

[185] 不思議なことに、当該銘文の解読ばかりが注目され、 他のの用例等と比較した文字学的検討はほとんど行われていません。

[186] 明徳の類例も含め、より広い視野での検討が今後必要となってくることでしょう。

[187] 板碑の様式は南北朝時代頃とされ、 より絞り込んで南北朝時代中期とする見解もあるものの、 現代までの知見で改めて検討するのが良いと考えられます。

研究史

[71] 日本国東京府東京市上野篠輪池東畔無極亭楼上で開催された集古会第215回例会で、 中西紫雲異年號板碑拓本 (>>73) を出典しました。 「元眞元年五月日」 と読みました。 >>1

[132] この史料はその後令和時代に至るまで私年号研究で参照されず、忘れられていました。


[155] 頃、 大東亜戦争で疎開していた考古学者寺島裕 ( - ) は、 >>27 に偶然遭遇しました。 >>3

[156] 寺島裕はこれを私年号の 「元真元年九月廿三日」 と報告しました。 >>3

[157] 昭和18年当時の記録は米軍の襲撃により失われたとのこと >>3 で、 昭和30年代まで (おそらく) 報告されなかったのも、その混乱のためでしょう。

[158] 寺島裕はこれを私年号の新発見と認識していましたが、 令和時代に至るまで私年号研究の分野では把握されずに埋もれていました。


[161] 昭和39年の久保常晴の論文は、正真を掲載し、

としていました。 >>114

[160] 昭和42年の日本私年号の研究は、 >>27 によって初めて私年号元真が知られたとし、 様式から南北朝時代中期頃の可能性が強いと推定しています。 >>111

[118] その銘文を「元真元年九月日」としています。 >>115

[119] 次のように推測しています。 >>115

[131] 一覧表では南北朝時代としています。 >>130

[170] 明記されていないことを想像で補うと、次の通りです。 久保常晴は他の元号と違って先行文献ではなく、 一次報告者から直接知って、現地に赴きました。所在地は志賀とされますが、 久保常晴鎌形と認識していました。はじめ、元号名正真と読みましたが、 後に元真に認識を改めました。月日は現在の通説と異なり「九月日」と読みました。

[191] 所功は、日本私年号の研究を出典に、 元真一三六九?とし、 南朝に心を寄せる関東土豪たちの私年号か、 と説明しています。 >>190

[192] >>191 の前者は長慶天皇代始改元説に基づくもの、 後者は併記された至大の説明に基づくもので、 まったくの出鱈目ではないものの、 日本私年号の研究の説明が単純化され違ったニュアンスに変質しています。


[18] 昭和時代日本国埼玉県浦和市の歴史研究者中英夫は、 埼玉県内に

  • [17] (1) 元悳元年十月廿三日 (1329) 比企郡菅谷村志賀 宝城寺
  • [120] (2) 元得三年四月日 (1331) 比企郡菅谷村平沢 平沢寺

があると紹介しました。いずれも実見しているようです。 >>117

[19] 延真の類例を挙げて、元徳のことだと判断しています。

[8] 中英夫は後に日本私年号の研究>>17元真と判断したことを 「参考までに 申しあげておこう」 と注釈しています。 >>7

[9] よくわからない表現ですが、納得しないものの反対するほどの材料も持ち合わせていないというところでしょうか。

[32] 千々和実の史料集は、 >>76元年の間になんとも言い難い字形らしきものswc752を書き、 その右側に(徳?)と注釈を入れています。 西暦年を一三二九としています。 >>31

[33] これについて、 >>15>>31 を引用して、千々和実は「元真」とみなしながらも 「真」に「徳?」と注釈して疑問を表していると紹介しています。

[34] しかし >>15 の表現からと読むのは難しいように思われ、 千々和実元真と読んだかどうか >>15 からは判断しかねます。


[36] の史料集は、 「元悳元年九月廿三日」 とし、 古字と注釈し、 に比定しています。 >>35


[134] 板碑の総合研究は、 次のように述べています。 >>251

  • [250] 板碑の総合研究 1 (総論編), 坂詰秀一, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12226011/1/155?keyword=%E5%85%83%E7%9C%9F (要登録)
  • [4] 仏教考古学研究 - 石村喜英 - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?id=NbIwAAAAMAAJ&q=%22%E5%85%83%E7%9C%9F%22

    373 ページ

    これらはカッコ内の公年号を誤って記したか、異字にそれほど違和感や正誤感をもたなかったための表記であったものと思われる。ゆえに、私年号からはここでは除外し、同音異字年号として扱っておく。また片仮名交り私文で表示した「永ワ」(永和)なども、 ...

    374 ページ

    ... 鎌倉末期)、元真・至大・致得・永幻(以上南北朝)、徳昌・享正・延徳・福徳・徳応・弥勒・命禄(以上室町時代)の一例であるが、これらの板碑所在地をはじめ、これを公年号に比定すると、それぞれどの年代に該当するかを、以下簡明に明らかにしたい。

    375 ページ

    た(註 9 )が、埼玉県で調査の『板碑』でもこれを「元悳(徳)」とし( # 10 )て、同様の観点に立っている私年号板 埼玉鼻比企郡嵐山町志賀高崎武治氏 表示された(註)が、久保常晴氏はこれを「元真」と見做し、私年号として解明を加えている( # 12 )。 ... ところが千々和実氏坂は「元真元年九月廿三日」として、「元真」とはしながらも真字のかたわらに「徳?」とし、「元徳」への疑問を併せて銘文中、年号の二字目がやや不明確ながら、大沢氏はこれを「元悳(徳)元年」と見て、「元徳」の同音異字年号と ...

    379 ページ

    板 私年号板図 130 弥勒 2 年 9 月 され、しかも「如」件」の用例からみれば、恐らく康永(一二~一四)前後のものであろうと ... 熟知の一基であるが、あるいは一般的といえるかどうか、これを同音異字の「至徳元年甲子(三四)」とすることが行われている。


[12] 千々和到元真鎌倉時代年号ではないかと考えている (南北朝時代ではない) と述べています。 >>11 (根拠は記載なし。)

[43] 千々和到私年号の一覧表等には掲載しつつも、 備考欄で、あるいは元徳か、と注釈しています。 >>174

[175] 日本私年号の研究以後の私年号の表などに多く掲載され、 時期は次のように表現されています。 >>174

[183] 日本語ウィキペディアにも初期から掲載されています。 時期は細かく変更されていますが、根拠が不明です。 >>182

[197] の辞典で、 南北朝時代私年号として真賀元賀を掲載しているものがあります。 >>196

[198] 個別の私年号の詳細が記載されていないので、元賀の正体は不明であり、 他書にも出現しませんが、本書の他の掲載私年号から総合的に考えて、 元真誤記/誤植が疑われます。幽霊元号の1つです。


[21] 春、 伊藤宏之は未報告の板碑 >>27元真銘を確認しました。 論文で報告しました。 >>15

[49] 伊藤宏之>>22 >>27 2つの板碑の第2字を比較し、これをと結論付けました。 >>15

  • [50] 2つの板碑の第2字はよく似ている
    • [51] A : ともに
    • [52] B : (ではない) の下に
    • [54] C : 左下。嵐山町板碑では左上から右下へ。 蓮窓寺板碑では点を打つ様に刻まれる。
    • [55] D : 右下。点を打った後右に曲げられている。 嵐山町板碑では状。 蓮窓寺板碑ではL状、点を打った後右へ移動し、更に左下で次のへ続くように流れる。
  • [56] ならば C, D はでなければないが、 でない、このため説を認めない見解がある
  • [57] 両板碑をよく観察すると、 C, D は明らかに文字の一部として刻まれており、 傷や剥落であない
  • [58] 草書体なら C, D はのようになり、 特に D はLのようにはならない
  • [59] 草書体のようになることがある
  • [61] 多くの共通点を持つから、同一人物もしくは同系列の書体を書く2人の文字をもとに別個の石工により刻まれた可能性がある
  • [63] 元徳元年7月日は遡及年号、 元徳元年9月23日は改元1ヶ月以内であるが、 造立日を表すとは限らず、刻まれたのが改元後で新年号を使用したに過ぎない可能性があるから、 不審とはいえない
  • [65] なぜ2基だけが使われたのかは課題として残る
  • [66] 嵐山町と東松山市は10kmも離れていない。 同系列の書体の板碑があるということは、 嵐山町南部から東松山市西部一帯に所在する中世寺院、おそらくは同一僧の関与の可能性
  • [67] 板碑形態からの分析も必要
[62] 字形の分析は妥当に感じられますが、 >>61 についてはどうでしょうね。第2字については確かに似ているように感じますが、 は違いが大きいです。同一人物でもこの程度の字形の揺れはあるでしょうが、 第2字が似ているだけに違いが際立ちます。これだけを材料に同一の系列か否かを判断するのは難しいと思われます。

元得

[108] 元得は、元徳の異表記の1つです。

用例

日時事例

諸説

[104] 元徳の異表記とする説が通説となっています。特段深く議論されたことはありませんが、 これといって疑問視するべき要素もありません。

[105] >>99 >>101 と同一地に元徳元得が共存する事例があり、 板碑の様式等の検討を要するものの、同時代であることの強い根拠と成り得る史料と思われます。

[106] もしそうなれば、が当時の人に使い分けの強い意志なく混用されていたこととなります。

[107] 他でも通用はまま見られます。

研究史

[14] 昭和時代>>46 は元得3年4月日板碑を >>117 を出典に掲載しています。 「中秀夫氏は元徳?としている。」 と説明しています。

[103] の史料集は特に注釈もなく掲載していますが、 年代順となっているので、元得元徳と解釈したようです。 >>98

[97] それ以外に私年号研究の文脈で紹介されたことは無いと思われます。

元徳の延長年号

日本中世の延長年号

[68] 栗原郡の板碑, 栗原郡郷土史研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12221636/1/14?keyword=%E5%85%83%E5%BE%B3 (要登録)

元徳六年 延長年号

[70] 習志野市史 第1巻 (通史編), 習志野市教育委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9644794/1/161?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7 (要登録)

元徳5年

[6] 川口市史 古代・中世資料編, 川口市, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9641575/1/242 (要登録) 左下

延長年号

[13] 神奈川大学 学術機関リポジトリ, https://kanagawa-u.repo.nii.ac.jp/records/14171 #page=64

延長年号

□徳4年板碑

[93] □徳という未知の私年号の可能性が指摘された板碑があります。

用例

日時事例

[85] >>83 では字形が不明瞭で、第1行の判読が困難です。 >>84元号年は、と書かれているように見えますが、 不鮮明で自信を持てません。

[86]板碑の銘文の一部は追刻とされます。 >>69 既存部分が不鮮明なのも改竄の疑いがあるのかどうか、言及はされておらず、 拓本でも判断が付きません。

諸説

[89] 用例の元号名が判読困難であることと、 元徳が3年までとされることから、 元徳を有力とみつつも未知の私年号「□徳」とみる説が提示されています。

[90] しかし、令和時代に至るまで、私年号研究の中で紹介されたことがなく、埋もれていました。

[91] 拓本では元号名の判読が困難であり、おそらく実見しても同じと思われます。

[92] 元徳の4年が存在しないとの理解によって元徳と読む説に自信が持てないでいるものと思われますが、 他に元徳延長年号の用例多く、甲斐国という位置から見ても、 元徳4年とすること自体には問題がないと考えられます。

[94] 今後新たな情報が報告されない限りは、新出の私年号の可能性は低いと考えて良いと思われます。

研究史

[87] の史料集は、 元号名を「元徳」と翻刻した上で、 判読し難いとし、 元徳は3年までなので私年号□徳」の可能性もあるが、 「ここでは」元徳と判読しておくと説明しています。 >>69

[88] また、板碑の様式は鎌倉末期 (正安 - 元弘) と判定しています。 >>69

関連

[193] 元貞OCR中華人民共和国系の低品質解説等で元真となっていることがよくあります。

[194] 中政院 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E4%B8%AD%E6%94%BF%E9%99%A2

元真二年,

[195] >>194 出典は書籍の元史。原典でどう表記されているのかは不明。

メモ