会月

三統暦

[4] 三統暦は、 で用いられた暦法の1つです。

概要

[9] 三統暦は、 劉歆が編纂しました。 >>1 p.

[10] 三統暦年月日を画定する従来の暦法の機能に加えて、 日月食を推算し、五星の運行を論じています。 つまり天体暦の機能を有することになりました。 以後の支那暦はみなこれを踏襲しました。 >>1 p.

[12] しかも三統暦は、単に天文学的立場から構成されるのみでなく、 暦法の定数が度量衡象数と結びつけられ、 一切の学問を総合的、有機的に組織しようという漢儒の見解に立脚しています。 そもそも支那暦改暦受命改制、民心の一新という極めて政治的な手段で行われたもので、 政治思想と密接に関わるものです。 >>1 pp.-

[13] こうした三統暦 (や他の支那暦とその改暦) のあり方はしばしば牽強付会と非難されます。 しかし 漢書律暦志の研究 は、 度量衡音律の原器である黄鐘管から導かれ互いに有機的に連関することは、 今日のメートル法度量衡の関係を彷彿とさせる、先駆的なものだと評価しています。 >>1 pp.-

[54] 黄鐘管度量衡とのつながりとは具体的に、次のようなものです。 >>1 p.二五

[212] 三統暦は、 235太陰月 = 19 = 1とし (章法 = メトン法)、 1 = 294381日としました。 >>201

[213] の大小と閏月は 1539 = 1で循環しました。 日干支は3 = 1で循環しました。 >>201

[215] 三統暦ではじめて中気のない閏月とする置閏法が採用されました。 >>201

元期

[17] 改暦のことが決まってから、 晷儀漏刻を使って二十八宿を測り、 分至を定めました。 そして元封7年11月に日月五星が規準状態にあることがわかりました。 前暦上元泰初から4617年の後であり、 閼逢攝提格 (甲寅) 歳、 中冬11月甲子朔旦冬至、 日月在建星、 太歲在子の状態であり、 これが太初本星度新正とされ、暦首とされました。 >>1 p.一二, >>16

[82] この文については木星紀年法も参照。

[29] 暦首朔旦冬至のどの瞬間であるかは明記がありません。

[30] 後世の支那暦では暦首朔旦冬至を採用していますが、 とあることに大した意味はなく、 が同日同時刻に合致することを意味しています。 >>1 p.一九-二三

[31] 史記太初暦とされるものは、 「夜半朔旦冬至」と明記しています。 しかしこれは実際には四分暦です。 >>1 p.一九-二三

[32] 漢書によれば、 鄧平は元の曆を陰暦暦首を半日前にずらしたものを陽暦としました。 陰暦では夜半朔旦冬至から起算し、 陽暦ではその半日前が朔旦冬至にあたるとみなすようです。 >>1 p.一九-二三

[35] 漢書晦日日干支が明示されたもの27例と太初暦の推算値を比較すると、

となり、陰暦が用いられ夜半暦首朔旦冬至とされ、 陽暦は用いられなかったと推測されます。 >>1 p.一九-二三

[34] 陽暦は諸侯王群臣を朝せしめるに便なりとされていました。 しかし暦首をずらしたところで鄧平のいうような月明の利便は考えられず、 机上の空論だったと評されています。 >>1 p.一九-二三

[33] 、つまり新月の暗い夜 (朔日になってから月が出る) よりもずらした月明かりのある日 (月が出てから朔日になる) の方が朔旦冬至の儀式のため都合がいいという考えのようです。
[57] この陽暦陰暦は極めて特殊な用例とされています。 >>1 p.三一 その後の支那暦では使われなくなっています。 当然、近代でいう太陽暦太陰暦とは無関係です。

[40] 現在の推算によって長安 (経度 108度54分) の天象を求めると、

と実際よりも太初暦が1日余りも遅れていたことがわかります。 >>1 p.一九-二三

[48] 当時の観測精度では冬至の1日程度の誤差はやむを得ないものの、 それより一段と大きなの齟齬は疎漏だと評されています。 ただしそれ以前の暦法では2日余りもが遅れており、 改善はされています。 >>1 p.一九-二三

[58] 漢書に、

漢曆、太初元年、距上元十四萬三千一百二十七歲。前十一月甲子朔旦冬至、歲在星紀婺女六度、故漢志曰歲名困敦、正月歲星出婺女。

とあります。 >>16

[80] この箇所については超辰法も参照。

[59] すなわち太初元年は三統暦上元から 143127 年 (= 31元) で、 太初元年前11月甲子朔旦冬至に、 歳星星紀の次にあって婺女6度にあたり、 漢書当時存在した漢志によると困敦 () 歳でした。 >>1 p.五六

[60] 太初元年 = 西暦紀元前104年の 143127 年前は、 に当たります。 これが三統上元 = 太極上元 (文脈で明らかな時は単に上元) と呼ばれるものであります >>65, >>66, >>67

[61] 更に、 23639040 年 = 5120 × 4617 年 = 5120 元で再び太極上元に戻るとされます。 >>1 pp.五九-六〇

[62] 太極上元暦算に無関係で天文学的意味も稀薄とされます。 >>1 pp.五九-六〇

[64] 一方でむしろ太極上元は数理的意味のある大周期で、 緯書暦と対比すれば太極上元暦元に相応しいとの評価もあります。 >>63

[69] >>1上元 = 三統上元太極上元 = 23639040 年大周期と別個のものとし、 それに引きづられた >>63 が前者を中途半端な周期というのは誤解であり、 三統上元 = (第1回)太極上元と解する方が自然な理解のように思われます。 31元は改暦のあった太初元年から上元までの年数を求めたものに過ぎず、 それ自体で周期というほどのものでもないでしょう。

八十一分法

[18] 造暦に当たっては二十数人の専門家が選ばれました。 その中で鄧平落下閎の方法が採用されました。 17家の暦法は疏遠であるとして罷廢されました。 >>1 pp.一二-一四, >>16

[81] 落下閎日法81 としました。

律容一龠、積八十一寸、則一日之分也。

とある通り、黄鐘律管の容積と結びつける形で決めたものです。 >>1 pp.一二-一四, >>16

[20] これは鄧平

1 月 = 294381

とした法と同じです。 これが八十一分法と呼ばれるものです。 >>1 pp.一二-一四, >>16

[19] また、

與長相終。律長九寸、百七十一分而終復。三復而得甲子。

とされており、 9 × 171 = 1539 年、 1539 × 3 = 4617 年の周期を表しています。 >>1 pp.一二-一四, >>1 pp.一八-一九, >>16

[21] 3復で甲子を得るとありますが、

1 月 = 294381

19 年 = (12 × 19 + 7) 月 (章法: 19年7閏)

4617 年 = 9 × 171 × 3 年 = 9 × 9 × 19 × 3 年 = 81 × 3 × 19 年

4617 年 % 60 = (81 × 3 × 19 年) % 60 = (81 × 3 × (12 × 19 + 7) 月) = (81 × 3 × (12 × 19 + 7) × 294381 日) % 60 = (3 × (12 × 19 + 7) × (29 × 81 + 43)) % 60 = 0

と剰余が 0 になることから日干支がちょうど周回することを確認できます。

[22] 19年7閏の法支那暦が古来採用してきたものです。

1 章 = 19 年 = (12 × 19 + 7) 月 = 235 月

の後、 気節および月相は同一のとなります。 >>1 p.一八

[23] また、

81 章 = 1539 年 = 19035 月 = 562120 日

とちょうど整数数となるので、 気節および月相は同一の、同一の時刻となります。 >>1 p.一八

[24] あるいは:

81 章 = 81 × 19 年 = 81 × (12 × 19 + 7) 月 = 81 × (12 × 19 + 7) × 294381 日 = (12 × 19 + 7) × (81 × 29 + 43) 日

[25] 李鋭三統術注は、

と説明しています。 >>1 p.一九

[28] , , という用語は太初暦を整理した三統暦で使用されたもので、 太初暦制定当時に行われたかは不明ですが、 推算上それに相当する考え方があったことは疑いありません。 >>1 p.一九

[79] は、三統説三正論五徳説との矛盾が劉歆によって解決され三統暦として大成されたことに関係するとされ、 従って太初暦になく三統暦で導入されたものと考えられています。 >>1 pp.六三-六八

[78] の始まりを元首といいます。 の始まりを元首から順に第一統首、第二統首、...といいます。 元首は第一統首です。 の始まりを統首から順に第一章首、第二章首、...といいます。 >>1 pp.三五-三六


[56] 漢書 は4章をと呼んでいます。 三統暦ではそれほど意味のある単位ではなく、 従来の四分暦 (4 = 1) との連関を示したものとされます。 >>1 p.二六


[70] 漢志および左伝隠公3年の孔疏 三統暦では食周期を135月とし、23回のがあり得るとしています。 すなわち、 52023月に1回の割合でがあり得るとしています。 >>1 pp.四四-四五

[71] また、135月 × 会数47 = 6345月を会月としています。 >>1 pp.四四-四五

[72] 会月は、会歳513歳に当たります。 513歳 × 3 = 1となります。 >>1 pp.四四-四五

[73] すなわち、

であります。 >>65

[77] なお、 これらの周期単位は他の暦法等では異なる意味で使われていることがあります。 超年的時間範囲

干支年

太初暦紀年法, 超辰法

研究史

東洋の暦法研究史

[3] 天平宝字元年、 漢書律暦志 >>16暦算生の教科書となりました。 >>1 p.

[5] 日本では、

などくらいしか見るべきところのあるものはなく、 そのいずれも暦算については深く研究したとは言い難いものでした。 >>1 p.

[2] 昭和時代初期に能田忠亮薮内清が詳しく研究しました。 >>1

[11] 太初暦三統暦は根本的に同一で発展したものであることは通説となっていましたが、 その詳細や史記四分暦との関係は十分明らかにされておらず、 この研究によって追求されました。 >>1 p.

[14] これ以前は史記を根拠に太初暦史記記載四分暦であるとする説もありました。 東洋の暦法研究史, 四分暦

メモ

[15] https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/download/3045