[10]
三統暦は年月日を画定する従来の暦法の機能に加えて、
日月食を推算し、五星の運行を論じています。
つまり天体暦の機能を有することになりました。
以後の支那暦はみなこれを踏襲しました。
>>1 p.
[12]
しかも三統暦は、単に天文学的立場から構成されるのみでなく、
暦法の定数が度量衡や易の象数と結びつけられ、
一切の学問を総合的、有機的に組織しようという漢儒の見解に立脚しています。
そもそも支那暦の改暦は受命改制、民心の一新という極めて政治的な手段で行われたもので、
政治思想と密接に関わるものです。
>>1 pp.
[13]
こうした三統暦 (や他の支那暦とその改暦)
のあり方はしばしば牽強付会と非難されます。
しかし
漢書律暦志の研究
は、
度量衡が音律の原器である黄鐘管から導かれ互いに有機的に連関することは、
今日のメートル法の度量衡の関係を彷彿とさせる、先駆的なものだと評価しています。
>>1 pp.
[54]
黄鐘管と度量衡とのつながりとは具体的に、次のようなものです。
>>1 p.
[212] 三統暦は、 235太陰月 = 19年 = 1章とし (章法 = メトン法)、 1月 = 29日としました。 >>201
[213] 月の大小と閏月は 1539年 = 1統で循環しました。 日干支は3統 = 1元で循環しました。 >>201
[215] 三統暦ではじめて中気のない月を閏月とする置閏法が採用されました。 >>201
[17]
漢で改暦のことが決まってから、
晷儀や漏刻を使って二十八宿を測り、
朔晦分至、
躔離弦望を定めました。
そして元封7年11月に日月五星が規準状態にあることがわかりました。
前暦上元泰初から4617年の後であり、
閼逢攝提格 (甲寅) 歳、
中冬11月甲子朔旦冬至、
日月在建星、
太歲在子の状態であり、
これが太初本星度新正とされ、暦首とされました。
>>1 p.
[29] 暦首の朔旦冬至が日のどの瞬間であるかは明記がありません。
[30]
後世の支那暦では暦首に朔旦冬至を採用していますが、
旦
とあることに大した意味はなく、
気朔が同日同時刻に合致することを意味しています。
>>1 p.
[31]
史記の太初暦とされるものは、
「夜半朔旦冬至」と明記しています。
しかしこれは実際には四分暦です。
>>1 p.
[32]
漢書によれば、
鄧平は元の曆を陰暦、
暦首を半日前にずらしたものを陽暦としました。
陰暦では夜半朔旦冬至から起算し、
陽暦ではその半日前が朔旦冬至にあたるとみなすようです。
>>1 p.
[35] 漢書 で朔や晦日で日干支が明示されたもの27例と太初暦の推算値を比較すると、
となり、陰暦が用いられ夜半が暦首の朔旦冬至とされ、
陽暦は用いられなかったと推測されます。
>>1 p.
[34]
陽暦は諸侯王群臣を朝せしめるに便なりとされていました。
しかし暦首をずらしたところで鄧平のいうような月明の利便は考えられず、
机上の空論だったと評されています。
>>1 p.
[40] 現在の推算によって長安 (経度 108度54分) の天象を求めると、
と実際よりも太初暦が1日余りも遅れていたことがわかります。
>>1 p.
[48]
当時の観測精度では冬至の1日程度の誤差はやむを得ないものの、
それより一段と大きな朔の齟齬は疎漏だと評されています。
ただしそれ以前の暦法では2日余りも朔が遅れており、
改善はされています。
>>1 p.
漢曆、太初元年、距上元十四萬三千一百二十七歲。前十一月甲子朔旦冬至、歲在星紀婺女六度、故漢志曰歲名困敦、正月歲星出婺女。 とあります。 >>16
[59]
すなわち太初元年は三統暦の上元から 143127 年 (= 31元) で、
太初元年前11月甲子朔旦冬至に、
歳星は星紀の次にあって婺女6度にあたり、
漢書当時存在した漢志によると困敦 (子) 歳でした。
>>1 p.
[60] 太初元年 = 西暦紀元前104年の 143127 年前は、 に当たります。 これが三統上元 = 太極上元 (文脈で明らかな時は単に上元) と呼ばれるものであります >>65, >>66, >>67。
[61]
更に、 23639040 年 = 5120 × 4617 年 = 5120 元で再び太極上元に戻るとされます。
>>1 pp.
[62]
太極上元は暦算に無関係で天文学的意味も稀薄とされます。
>>1 pp.
[64] 一方でむしろ太極上元は数理的意味のある大周期で、 緯書暦と対比すれば太極上元は暦元に相応しいとの評価もあります。 >>63
[69] >>1 が上元 = 三統上元を太極上元 = 23639040 年大周期と別個のものとし、 それに引きづられた >>63 が前者を中途半端な周期というのは誤解であり、 三統上元 = (第1回)太極上元と解する方が自然な理解のように思われます。 31元は改暦のあった太初元年から上元までの年数を求めたものに過ぎず、 それ自体で周期というほどのものでもないでしょう。
[18]
造暦に当たっては二十数人の専門家が選ばれました。
その中で鄧平や落下閎の方法が採用されました。
17家の暦法は疏遠であるとして罷廢されました。
>>1 pp.
律容一龠、積八十一寸、則一日之分也。
とある通り、黄鐘律管の容積と結びつける形で決めたものです。
>>1 pp.
とした法と同じです。
これが八十一分法と呼ばれるものです。
>>1 pp.
[19] また、
與長相終。律長九寸、百七十一分而終復。三復而得甲子。
とされており、
9 × 171 = 1539 年、
1539 × 3 = 4617 年の周期を表しています。
>>1 pp.
[21] 3復で甲子を得るとありますが、
と剰余が 0 になることから日干支がちょうど周回することを確認できます。
[22] 19年7閏の法は支那暦が古来採用してきたものです。
の後、
気節および月相は同一の日となります。
>>1 p.
[23] また、
とちょうど整数の日数となるので、
気節および月相は同一の日、同一の時刻となります。
>>1 p.
[24] あるいは:
と説明しています。
>>1 p.
[28]
章,
統,
元という用語は太初暦を整理した三統暦で使用されたもので、
太初暦制定当時に行われたかは不明ですが、
推算上それに相当する考え方があったことは疑いありません。
>>1 p.
[56]
漢書
は4章を篇と呼んでいます。
三統暦ではそれほど意味のある単位ではなく、
従来の四分暦 (4章 = 1蔀) との連関を示したものとされます。
>>1 p.
[3]
天平宝字元年、
漢書律暦志 >>16
が暦算生の教科書となりました。
>>1 p.
などくらいしか見るべきところのあるものはなく、
そのいずれも暦算については深く研究したとは言い難いものでした。
>>1 p.
[2] 昭和時代初期に能田忠亮と薮内清が詳しく研究しました。 >>1
[11]
太初暦と三統暦は根本的に同一で発展したものであることは通説となっていましたが、
その詳細や史記の四分暦との関係は十分明らかにされておらず、
この研究によって追求されました。
>>1 p.