[1] ベトナム、ラオス、カンボジアでは、 が標準時として使われています。
[63] 日本の標準時 とは2時間の時差があり、日本の方が進んでいます。
[59] ベトナムの標準時、 ラオスの標準時、 カンボジアの標準時に加えてタイの標準時も なので、 これらをあわせてインドシナ標準時、 インドシナ時間などと呼ぶこともあります。
[207] ベトナム政府機関は、 時刻を Thời gian chuẩn Quốc gia >>203 (国家標準時) と呼んでいます。
[208] ラオス政府機関は、 時刻を Standard Lao PDR time >>188 と呼んでいます。
[209] カンボジア政府機関は、 時刻を Cambodia Standard Time >>191、 Cambodian Standard Time >>193、 Phnom Penh time >>196 と呼んでいます。
[43] tzdata は越南から
Asia/Ho_Chi_Minh
のみを収録しています >>42。
ホーチミン (旧サイゴン) は南ベトナムの最大の都市です。
[61] Asia/Hanoi
(北ベトナム) も一応用意されていますが、
(1970年以後で異なるもののみ区別するという tzdata 採録基準を満たさないため)
追加データ >>54 扱いになっています。
[62] tzdata はカンボジアから Asia/Phnom_Penh
、
ラオスから Asia/Vientiane
を選んでいますが、なぜかどちらも
Asia/Bangkok
(タイ) の別名と定義しています。
[44] tzdata は Asia/Ho_Chi_Minh
(安南) の元の地方時を
としています >>42。
同様に Asia/Hanoi
(東京) は 、
Asia/Phnom_Penh
(カンボジア) は 、
Asia/Vientiane
(ラオス) は としています >>54。
[16] 一時支那の王朝の支配下にあった現在の越南では、 中国式太陰太陽暦の一種が使われていました。 その計算には、北京の経度 が使われていました。
[211] ラオスやカンボジアでは、 タイと同様に、 6時制が用いられていました。 その後仏印時代に24時間制に改められました。
[94] 1899年時点の情報では、 Saigon の経度より が Cochin China の時刻とされています。 Lower Laos, Cambodia, Annam でもこの時刻が使われているとされています。 Tongking については、 Haifong 平均時 が示されています。 >>93
[95] サイゴンの経度は実際には 近辺で、 ではそれより9分も進んでいます。 は安南東岸に当たり、 あり得ない値ではありませんが、サイゴンの時刻ではありませんし、 サイゴンを退けるほどの大都市もなさそうです。 当時フランスではパリ子午線を用いており、グリニッジ子午線とは9分の差がありました。 グリニッジ子午線基準に換算済みの値に誤ってもう一度9分を加えたらちょうど になりますが...
[96] 当時の電信各社は、 Saigon を としていました >>93。
[49] 1904年頃、仏印の標準時を (に近いパリ中度基準の時刻?) とすることが検討されていたようです。清國海関とも協議しています。
[270] の日本の官報に掲載された電信で用いる時刻の表では、 仏印は「柴棍ノ標準時」とされています >>271。
[226] 1904年頃の米国海軍天文台の時差の表は、 地方平時が法的時刻であるとし、 Cochin China, Cambodia, Anam (Saigon) は >>724 や >>725 や >>725 China、 Tonkin は >>724 や +07:06:39.5 >>725 としていました >>724, >>725 (出典 C.T.)。
[19] より、仏印はパリから東に104度17分17秒の Phu Lien 天文台の子午線の時刻を採用しました (付け仏印官報) >>67。
[45] tzdata の Asia/Ho_Chi_Minh
と
Asia/Hanoi
と
Asia/Phnom_Penh
と Asia/Vientiane
は、
を境に としています >>42, >>54
(Phù Liễn MT と注釈があります >>42)。
パリがパリ平均時 = (→ )
なのかパリ子午線 = 東経 2°20′14.03″
(→ ) のどちらを指すのかわからないが、
いずれにせよ秒単位で丸めて だと注釈があります >>67。
[168] Time Changes の FRENCH INDO-CHINA は、 から Phu-Lien observatory 地方平時 106.35E (= ) としていました >>1256。
[162] Time Changes の VIETNAM, SOUTH と CAMBODIA と LAOS は、 から 地方平時 106.35E (= ) としていました >>1256。
[120] Shanks の VIETNAM と CAMBODOIA と LAOS は、 から としています (それ以前は LMT) >>119。
[55] timeanddate.com は、 Phnom Penh と Vientiane の時刻について、 から としています >>311, >>315。
[113] >>270 の表のの改正により、 仏印は「ピユリアン氣象臺ノ時刻(巴里ノ時刻ヨリ早キコト六時五十七分九秒)」 と変更されました >>112。
[21] より、フランス本国が を採用したのに合わせて >>18、仏印は >>18, >>42 に切り替えました (付け仏印官報803ページ所収 付け法令 >>67)。
[169] Time Changes の FRENCH INDO-CHINA は、 から、 Annam と Cambodia は標準時 、 Laos は標準時 (政府のみ)、 他の province は標準時 としていました >>1256。
[163] Time Changes の LAOS は、 から標準時 (政府のみ利用) としていました >>1256。
[121] Shanks の VIETNAM と CAMBODOIA と LAOS は、 から としていました >>119。
[312] timeanddate.com は、 Phnom Penh と Vientiane の時刻について、 から としています >>311, >>315。
[142] tzdata の Asia/Ho_Chi_Minh
と Asia/Hanoi
と Asia/Phnom_Penh
と Asia/Vientiane
は、
を境に としています >>42, >>54。
[1224] 1935年の米国政府の時差の表は、 Indo-China を に標準時採用としていました >>1225。
[170] Time Changes の FRENCH INDO-CHINA は、 全国でから標準時 としていました >>1256。
[165] Time Changes の VIETNAM, NORTH と LAOS は、 から標準時 としていました >>1256。
[122] Shanks の VIETNAM と CAMBODOIA と LAOS は、 から としていました >>119。
[164] timeanddate.com は、 Phnom Penh と Vientiane の時刻について、 から としています >>311, >>315。
[75] 「リール地學協會報告()」によると、 仏印の標準時はフランス標準時 + と定められるようになったようです >>74。
[179] 大正7年出版の文書にも、仏印は 標準時とあります >>192。 加えて、報時球 (北緯10度46分40秒東経106度42分22秒) は
[38] 1929年、中華民国は農暦の計算を
から に変更しました。
越南の旧暦がこの変更に追随したのかどうかは不明です。
[171] Time Changes の FRENCH INDO-CHINA は、 全国でから標準時 としていました >>1256。
[167] Time Changes の VIETNAM, NORTH と LAOS は、 から標準時 としていました >>1256。
[123] Shanks の VIETNAM と CAMBODOIA と LAOS は、 から としていました >>119。
[166] timeanddate.com は、 Phnom Penh と Vientiane の時刻について、 から としています >>311, >>315。
[213] これらの根拠は不明です。
[91] 昭和15年の日本軍の内部文書には「河内時間」 と注記がある仏印に関する記述があります >>90。
[22] に、 仏印は1時間進めてより に切り替えました >>18。
[8] 報告によると、 付で総督府から資源節約のために 夜に1時間進めるとの発表があった >>7ようです。
[9] フランス本国が を採用したのに合わせた >>18 変更だともいいます。
[143] tzdata の Asia/Ho_Chi_Minh
と Asia/Hanoi
と Asia/Phnom_Penh
と Asia/Vientiane
は、
を境に としています
>>42。
[24] には、自由フランス政権の支配下にあった広州湾租借地に、 ヴィシー政権との協定により日本軍が進攻しました。 その後のいずれかのタイミングで、周辺地域と同じ、中華民国南京国民政府の通年夏時刻 に切り替えられた可能性があります。
[99] 日本で昭和13年/1938年に発行された昭和14年暦から昭和18年/1943年に発行された昭和19年暦では、 仏印 (やタイ) は となっています >>106。
[108] 1942年10月出版の >>107 は、「数日前の新聞」によると仏印の日本軍が を使っており、兵員が現地太陽時とのずれに戸惑っているらしい、 と述べています。 (>>22 によればまだ現地標準時は だったはずですが、日本軍がそれと異なる本国の時刻を使っていたというのは不自然なことでもありません。)
[6] 昭和18年の日本政府内の文書には、「佛印時間」 >>87, >>89、「安南時間」 >>89 4ページ、「「タイ」時間」>>89 9ページ といった注記が見られ、軍部隊以外の日本関係者は現地民と同じ時間を使っていたのではないかと思われます。
[144] tzdata の Asia/Ho_Chi_Minh
と
Asia/Hanoi
と
Asia/Phnom_Penh
と Asia/Vientiane
は、
を境に
としています >>42, >>54。
[25] 、 ベトナム民主共和国が独立を宣言し、 を採用しました >>18, >>42 (内務省法令 >>70)。
[51] tzdata の Asia/Ho_Chi_Minh
と
Asia/Hanoi
と Asia/Phnom_Penh
と
Asia/Vientiane
は、
を境に としています >>42, >>54。
カンボジアとラオスについては不明のため越南に合わせた >>54 とされています。
[127] 旧広州湾租借地も周辺の旧中華民国汪兆銘政権支配地域同様に から に移行したと思われますが、時期は不明です。
[71] 、 仏印は を採用しました (付け仏印官報所収 法令) >>67。 ベトナム、ラオス、カンボジアのフランス支配領域でこれが用いられました >>67。
[72] ベトナム民主共和国支配地域では、引き続き が用いられました >>67。
[46] tzdata の Asia/Ho_Chi_Minh
と Asia/Hanoi
と Asia/Phnom_Penh
と Asia/Vientiane
は、
を境に としています >>42, >>54。
[58] カンボジアについて、 tzdata の Asia/Phnom_Penh
は (正確な日付は不明として)
を境に としています >>54。
[27] ラオスでは、から >>18, >>67
または >>54 Asia/Vientiane
(その出典は Trần の本)
を境に が用いられました。
[28] 北ベトナムのハノイでは、 から が用いられました >>18, >>67, >>54。
[145] tzdata の Asia/Hanoi
(北ベトナム) は、
を境に としています >>54。
[29] 北ベトナムのハイフォンでは、 から が用いられました >>18, >>67。
[33] 、 ベトナム国 (南ベトナム) は に移行しました >>18, >>67。
[48] tzdataの Asia/Ho_Chi_Minh
は、から としています >>42。
[132] 1957年のカナダの時差の表は、 Indo-China, Federation of: Cambodia, Laos, Viet Nam をいずれも としています >>134。
[34] 、 ベトナム共和国 (南ベトナム) は に移行して としました >>67 (付け法令362-TTP号 >>67)。
[128] tzdataの Asia/Ho_Chi_Minh
(南ベトナム)
は、から としています >>42。
[135] の航空時刻表は、 SAIGON (南ベトナム) を としています >>133。
[149] やの航空時刻表には、 次のようにありました >>148, >>150。
[151] 版にはそれに加えて Kuala-Lumpr, Singapore とありました >>152。
[40] 、 ベトナム民主共和国 (北ベトナム) は を採用しました >>41, >>67 (決議 121/CP >>26)。 同時にグレゴリオ暦を用いることも定めました >>41。
[39] ベトナム民主共和国のこの決議により、北ベトナムの旧暦は、 以後 で計算されるようになりました。 南ベトナムはその後も滅亡まで北京基準のままでした。
[129] 1968年のテト (越南暦の正月) に行われた北ベトナムによるテト攻勢の際には、 時差による南北の暦の違いからテトの日付がずれており、 南ベトナムにとってはテト休戦中に奇襲を受けた形となりました。
[131] 当時サイゴン (南ベトナム) で取材中だった産経新聞記者の友田錫は、 2013年の回顧録で、 東京とは時差が2時間と述べています >>130。 東京は なので、サイゴンは だったことになりますが、他の情報とは矛盾します。
[138] 1968年の米軍の時間帯図に基づくという 1972年の日本の百科事典の時間帯図は、 北ベトナムを 、南ベトナムを で塗っています >>139。
[154] の航空時刻表には、次のようにありました >>153。
[156] の航空時刻表には、次のようにありました >>155。
[158] の航空時刻表には、次のようにありました >>157。
[137] の航空時刻表は、 SAIGON を としていました >>136。
[160] の航空時刻表には、次のようにありました >>159。
[126] サイゴン (南ベトナム) 陥落を現地で体験した日本人記者の藤原亙の 2001年の回顧録では、 南北に時差があり、ハノイ (北ベトナム) が「先行」していたとあります (いつの出来事かは明記されていませんが、 サイゴン陥落が、 藤原記者のサイゴン脱出がで、 の日常光景を記したものと思われます) >>124。 ただ他の情報では北ベトナムが 、南ベトナムが と南が1時間先行しているとされていて、本記事の内容とは整合しません。
[37] 、 南ベトナム共和国臨時革命政府は を採用すると正式決定しました >>18, >>67。
[50] tzdataの Asia/Ho_Chi_Minh
は、を境に としています >>42。
新しい一日の始まり。
サイゴンと、時計の針が先行するハノイとの二つの標準時が残ってお り、早起きで勤勉な「北」の質実を誇示することで、 「南」の精神風土を矯め治そうとしているかのように感じられた
午前10時前後だった。2時間の時差のある東京の本社では、夕刊の締め切りがせまっているはずだ。
[141] 1979年の英軍の時間帯図は、 越南全域を で塗っていました >>140。
[115] 中華人民共和国の占領下で中華人民共和国の軍隊以外でも中華人民共和国の標準時 が用いられたかは不明です。
[117] 中華人民共和国占領地は中華人民共和国の軍隊の拠点となっており、 もっぱら中華人民共和国の標準時 が用いられたものと推測されます。
[185] カンボジアでは、 長年の内戦で統一政権の統治下になく混乱していた上、 ポルポト政権の弾圧により法律が破棄され法律家が迫害されていましたが、 カンボジア王国再建後、 再整備が進んでいます。 現在カンボジアの法令上明確に標準時が定められているかは不明です。 内戦前の標準時の法令の効力が持続しているかも不明です。
[161] ASEAN標準時 の制定の動きに対して、 1時間の標準時変更が必要となるカンボジアは反対しているようです。
[204] 現在ベトナムの保時は、 Viện Đo lường Việt Nam (Vietnam Metrology Institute) の Phòng Đo lường Thời gian - Tần số (Laboratory of Time & Frequency) >>203, >>199 が担当しています。 本研究室では、 3人の研究員が原子時計を運用しており、 その時刻は UTC(VMI) と呼ばれています >>202。 時刻は NTP により提供されています >>202。
[205]
VMI 研究員の説明 >>202 によると
UTC(VMI) = UTC + 7 h
であり、
UTC に7時間加えたベトナムの標準時が UTC(VMI)
であるとも読めますが、同時に
|UTC - UTC(VMI)| < 100 ns
ともあり、他の UTC(n) 同様に
UTC と誤差以外の時差のない時刻とも説明されています。
[206] VMI の Webサイトには、 「Thời gian chuẩn Quốc gia」 >>203 (「National standard time」 >>199) と称して時刻が示されています。 しかしその実態は http://flash-clocks.com/free-flash-clocks-blog-topics/free-flash-clock-176.swf で無償提供されている Flash により現在時刻を表示する時計であり、 利用者の時計の時刻を表示しているだけに見えます。 (時差も ではなく利用者の設定に従っているようです。)
North Vietnam switched from UTC+8 to UTC+7 on August 8, 1967, with South Vietnam doing likewise in 1975 at the end of the Vietnam War.
office hours: 0900 to 1600 hours (Standard Lao PDR time)
Local time in the Lao P.D.R is GMT+7.
ຂົງເຂດເວລາ Time Zone UTC+7
10:00 A.M. on 27 March, 2014 (Cambodia Standard Time)
Cambodian Standard Time
5:00 p.m. on 31 May 2018 (local time)
5 pm Phnom Penh time (GMT+7)
Monday 25 April 2011, 1700 hours (local time, i.e. GMT + 7 hours).
The standard Cambodian time zone is GMT+7
Hàng ngày có bốn dự báo 72 giờ của VNBAOLUT.COM bằng mô hình WRF cho 00 UTC (7 giờ sáng VN),
06 UTC (1 giờ trưa VN), 12 UTC (7 giờ tối VN) và 18 UTC (1 giờ khuya VN)
Dự báo 15 ngày bắt đầu từ 00 UTC (7 giờ sáng VN) và 12 UTC (7 giờ tối VN)
Vietnam is twelve hours ahead of Eastern Standard Time and 11 hours ahead of Eastern Daylight Time. Vietnam consists of a single time zone.
[125] リゾート施設は、国内標準時とは異なる独自のリゾートタイムを採用していることがあります。 海洋リゾートの類は日照時間確保のために夏時刻相当のものを採用しており、 中華人民共和国国境近辺のカジノの類は中華人民共和国人観光客 (と従業員) のため中華人民共和国の標準時を採用しています。
[109] 中華人民共和国とラオスの国境のラオス側の都市ボーテンには、 2002年以来中国資本のカジノが進出していました。 2003年から経済特区となり >>76、 半ば租界化していたといいます。 現地の中国人は中華人民共和国の標準時 を用いていました。 ラオス人はほとんどいませんでした >>78。
[110] 2011年に中共政府の圧力でカジノは閉鎖され >>102、 ボーテンは廃墟と化しました。 その後改めて中国資本による再開発が進められており、 2017年の取材でも当地では が用いられている >>105 ようです。
2009 年 3 月,東京経済大学雲南研究所のプロジェクトとして,中国雲南省と東南アジア を結ぶ交通ルートに関する調査を実施した。
ところで,このボーテンにも中国資本のカジノが置かれている。ここには “Boten Golden City” と呼ばれる 21 km2 の経済特区が設置され,中国企業ゴールデンシティ・グループが 2003 年にラオス政府から 30 年の年限で使用権を得る契約を結んでいる。この契約は,さら に 60 年の延長が可能である。この中に,カジノやホテルのほか,将来はゴルフ場,コンベ ンションセンター,別荘から空港までの建設が計画されている17)。
ここですでに開業している 271 室のカジノホテル皇京錦倫大酒店では,中国の人民元だけ が通用し,中国時間と中国語が使用され,中国人はノービザで入国できる(写真 36)。つまり, ここは完全に中国人のための経済特区なのである。
kenichiro_yamadaさんにメールで問い合わせたところ、いろいろ教えていただきました。
同ブログによると、彼が初めてボーテンを訪ねたのは、2008年9月です。
ボーテン国境(2008年9月5日)
http://laotimes.exblog.jp/8569316/
そこには、こんな風に書かれていました。
「本地域はラオス国内であることを、忘れてしまいそう。ここでは食べ物から飲料水、人、通貨、言葉、全てが中国でした。面白いことにホテルの時間も中国時間。中国南下の前線がウドムサイとすれば、ここはさながら基地といったところでしょうか」。
私は以前2 度ラオスに調査に入ったことがあるが、この五月連休に三度目の調査を行なった。一度目は2008 年8 月の南部サワナキット・クロン間の「東西回廊」地区の視察、二度目は2009 年-2010 年の年末年始のボーテン・フェイサイ間の「南北回廊」地区の視察、そして今回はムアンサイ、ボーテン、ルアンナムタ、ムアンシン地区の調査である。
ただし、あまりに多くの中国人が進出し、一種の「租界地」化した国境の街ボーテンの問題自体も論じないわけにはいかない。ここは、ラオス政府が設定した「特区」として、ここでは殆どの看板は漢語で書かれ、ラオス人を見つけることは難しい。ようやく、3 店のレストラン、2 店の小商店をラオス人が経営し、他に国境管理員と警官、中国人経営のホテルやカジノの従業員として働く少数のラオス人がいるが、人口の99%は中国人である。大型のビルの建設が進み、綺麗なアパートは既にラオス語の話せない、ないし話す気もな ければ必要もない中国人入居者で満ちていた。特に不遜と思ったのは、彼らは腕時計を中国時間に合わし、中国時間で暮らしていたことである。
午前7時に宿をcheck-outし、バスターミナルにてチケットを購入。 中国との国境の街・ボーテン行きのバスは今日はないらしく、 国境を越えた所にある中国の街・モーハン行きのバスに乗って ボーテンにて途中下車することにした。
さすが中国行きのバス、である。乗客は私達を除き(おそらく) 全員が中国人。バス内の時計は中国時間を表示し、乗客は持参した 食べ物を食べ、ゴミを床に散らしていく。タバコを吸う人もいる。 バスの中に入ると、ここがラオスだということを忘れそうになる。 (色々な意味で)とても旅情に溢れた移動だった。
ラオス北部、ウドムサイ県の中国国境地点にオープンいたしましたカジノホテル「皇京錦倫大酒店」をご紹介いたします。
同ホテル、国内では2ヵ所目となるカジノ場で、主にカードゲームが中心のカジノです。
ホテルは横に長く、ロビーを中心に両ウイングが客室部分で、一階ロビー奥がカジノ場となります。カジノ場の入口手前にはセキュリティーチェックがあります。(カメラは持ち込み不可!です)
尚、カジノ場も含め、ホテル館内では中国元払いとなります。よって同地へご旅行の際は、中国元をご持参いただく必要があります。
(さらに申し上げると同地域は特別経済区扱いのため、ラオス領土ではありますが地域の基本通貨は元と考えた方が良いと思われます。)
もし中国元をお持ちでない場合には、ホテルのカジノ場内(ロビーにはありません)に両替所があります。ここではドル、バーツ、キープが両替可能です。
又、ホテル内の公用語は中国語となります。タイ語の通訳は数名しかいないため、混雑時には通訳をつかまえるのもやっとの状況です。
さらに館内の時計は中国(北京時間)を示しておりますので、モーニングコールをご利用の際には注意が必要です。
(ラオス~中国間には1時間の時差がありますが、ここでは営業時間も中国時間でシフトしています)
同ホテルをご利用の場合、ラオス国内にはありますが、サービスも含め中国国内のホテルとの認識が必要です。
※皇京錦倫大酒店 (Royal Jinlun Hotel) 住所: The Golden Boten city, Luangnamtha, Laos
[64] [tz] [PATCH] tzdata: Asia/Ha_Noi: Add new timezone () https://mm.icann.org/pipermail/tz/2014-October/021669.html
null, , https://web.archive.org/web/20121101024207/http://www009.upp.so-net.ne.jp/K_Yoshida_web/Laos2012_07.html
ハノイに着陸するときの衝撃がすごくて、思わず「下手くそ」とつぶやいてしまった。ハノイは日本の古い地方空港みたい。滑走路の端っこがぼこぼこだったのが気になった。ハノイで3時間ほど待たされた。暇なのでお土産物屋さんを見て回ったが、活気はあまりなく、店員にもやる気があまりなかった。ある店舗では店員がおらず、水を買おうとしてうろうろしていたら、ベンチに座っていた女性が来てレジの対応をしてくれた。立ちっぱなしが面倒だから、近くのベンチに座ってよう、と言うことなのだろう。
ベンチに座ってみていたら、空港の時計がバンコク標準時に比べて10分遅れていることに気がついた。空港内の別の時計も同じ時刻を指していた。確かハノイはバンコクと同じ時間を使っているはずだが、まあ、なんかの手違いかな、と思っていた。自分の腕時計で搭乗開始の時間になったが、窓口では全然準備が始まらない。ただ時間にいい加減なだけかと思っていたら、そうではなかった。なんと、10分遅れの空港の時計がその時刻になると、係員がきっちりとその時間にゲートを開けた。どうやらこの空港には特殊なローカルタイムがあるらしい。
ハノイ国際空港は変な空港だった - ミャンマー・日本語教室ブログ - Yahoo!ブログ () https://web.archive.org/save/https://blogs.yahoo.co.jp/winjapn1789/26099071.html
3. 出発便を案内するテレビ画面がない。時計も全然ない。
空港なのだから、各航空会社の出発便の時刻や搭乗口番号などをずらっと表示したテレビ画面があるのが当然なのに、ここの待合ロビーには1台もありません。
出発時間が近づくとやっと搭乗口が何番かのアナウンスがあり、その搭乗口に便名などが掲示される仕組みです。
また、時計が全然ないので、ベトナム時間が今、何時なのか全然わかりませんでした。
結局、探し回った末、喫茶店に小さなデジタル時計があるのを発見しました。
ベトナムのハノイに着き、みなさんは出口や国内線乗り継ぎに向かいました。私たちは国際線
乗り継ぎなので、係の人に聞いてとごに行けばよいのか教えてもらいました。すると、中国の
大連でもそうでしたが、検問所みたいなところに行き、そこでパスポートに通過の印を押して
もらい、カンボジア行きの待合室へと無事行くことができました。
待合室の時計を見ると、時差は2時間という情報だったのにそれより30分遅れています。
それで、今は何かで時差は2時間30分なのかなと思ってしまいました。だって、待合室内
の時計すべてが30分遅れて同じだったのですから・・・。
[84] 7.西貢港報時信号ニ関スル件 (昭和11年、アジア歴史資料センター | Japan Center for Asian Historical Records著, ) https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_B10074461600
出発まであと少しかと時計を見てたら、他の場所の時計と示す時間が違う。
デジカメで確認すると、その時計の時間は早かった。
国際空港の時計の時間くらいちゃんと合わせておけよ…
国境を越えたところで、すぐにガイドさんと会えなかったことは、改善点が必要だと思いました。中国とベトナムでは川1本で時差1時間となり、双方それを理解していなかったのは意外でした。今一度、場所、時間、風社の黄色いロゴをもっていることなど、手続きの確認が必要だと思いました。
[100] Remove many invented abbreviations in 'asia' (eggert著, ) https://github.com/eggert/tz/commit/1b99dcde6342dd10969041b32b00b813d4f4a36e
7日バンコクで明らかになったところでは、プノンペン放送は同日午
後5時半(カンボジア時間も同じ、日本時間同7時半)に予定されていた定時放送から中止した。
0000 Indochina time, that is 0100 Saigon Time
zero hour 24 December 1967 Indochina time--that is from 0100 24 December 1967 Saigon time
from 1800 hours on
24 December 1965 to 0600 hours on 25 December 1965, Indochina time--that is. from
1900 hours on 24 December 1965 to 0700 hours on 25 December 1965, Saigon puppet
government time
0700 Saigon time {1800 EST 1 November in Washington.)
Commencing at 2 a.m. on
Feruary 7th, Saigon time (1 p.m. yesterday,eastern standard time
However
it was not specified whether the meeting time, 1200 hours was to
be Saigon time or Hanoi time (Hanoi is one hour behind Saigon - ed.)
2130 hours Hanoi time--2230 hours Saigon time
毎日新聞 1975年(昭和50年)5月14日(水曜日) (3)
陥落 サイゴン72時間 -3- 撤退命令
サイゴン時間は、自然にさからっている。子午線どおりなら、グリニッジ標準時との差は7時間、
ハノイと同じ時間になるはずだ。しかし、北ベトナムと張り合うためか、ハノイより1時間早い時差
をおいている。だから、サイゴンでは午前6時にならないと夜が明けない。
4月29日午前4時。まだ、真っ暗な空の、西の一角が赤く染まっていた。
The southern half of Vietnam (Republic of Vietnam) was formerly part of this time zone prior to the communist takeover of the South on April 30, 1975, making it 1 hour ahead of North Vietnam.
第2条 休戦は,グリニッジ標準時1973年1月27目24時に南ヴィエトナム全域にわたり実施される。
一九四五年
三月九日午後四時、日本の大使館員は、一九四五年にフランスが日
本に米を供給する新しい協定を結ぶ件でドク!と討議するため、サ
イゴンの総督府にやってきた
。
この討議は折り合うのに困難はなか
った。六時〔現地時間。日本時間では七時――訳者〕になると日本の大使
松本〔俊一〕と総領事河野が協定調印のため総督府にや
っ
てきた。
七時ちょうど その一枚の紙切れ
は最後通牒であった。
その附帯事項は、インドシナ総督の回答の時限を同月九日夜九時
以前と明確に定めていた。すなわち最後通牒を受け取ってから二時
間である。
[227] [tz] Add new timezone for Hanoi Capital, Vietnam () https://mm.icann.org/pipermail/tz/2019-February/027533.html
[228] [tz] Add new timezone for Hanoi Capital, Vietnam () https://mm.icann.org/pipermail/tz/2019-February/027547.html
[229] [tz] Add new timezone for Hanoi Capital, Vietnam () https://mm.icann.org/pipermail/tz/2019-February/027584.html
[230] [tz] Add new timezone for Hanoi Capital, Vietnam () https://mm.icann.org/pipermail/tz/2019-February/027585.html
[231] 東南アジア伝統天文学の重層構造 () http://www2.nao.ac.jp/~mitsurusoma/gendai5/24_ohashi.pdf
[232] [tz] oral history contribution to the time zone history of Cambodia () https://mm.icann.org/pipermail/tz/2019-August/028408.html