[2] 𨲢暦 (y~906) は、周の則天武后の元号でした。
[13] 「𨲢暦」 は則天文字ですが、 その後の時代には通常の 「聖曆」 や 「聖暦」 で表記されることが多いようです。 「聖歴」とするものもありました >>151。
[3] , , の3年間でした。
[8] 聖曆元年正月初一甲子(697年12月20日)に神功から改元されました。 >>5
[9] 聖曆三年五月初五癸丑(700年5月27日)に久视に改元されました。 >>5
周の神功、聖暦年号の元年が文献A[37]と文献D[6]で1年食い違う。 文献A[37]が正しい様に思われる。
6 三省堂編修所編 コンサイス世界年表 三省堂(1976)
37 方詩銘・方小芬編著 中国史暦日和中西暦日対照表 上海辞書出版社(1987)
聖 暦三年 (七〇〇) 臈月 (十二月) 十九日
(
8 ) 聖暦三年は五月に久視元年と改元しているから、聖暦二年 の誤りである。 アキなし これは書写の際の誤写によるものであろう。
[1918]
日本の元号の天平
(y~1052)
を天平聖暦 >>1731
や天平聖歴や天平正暦や聖暦と書くものがありました。
[101] 中世頃からちらほら見られます。ただし各文書の成立時からあったものか、 写本で混入したものかは検討が必要でしょう。
「宴曲抄」中巻
三嶋詣
其より以来、アノ、終に聖武の御宇には、天平聖暦の事かとよ。
西金堂。五間四面。奉安丈六釋迦佛像。并脇士二人。
十六羅漢。八部力士。四大天王。梵釋等。 右。天平聖暦六年正月十一日。先妣橘夫人御忌日。 光明皇后所造立供養也。請僧四百口。造納袈裟四百 帖記(考、施カ)之。
18 ページ ... おいしまして、橘樹郡を寄附し給ふとの論言あり。天平正暦十二年十一月、 ことことに成就して、翌年の春二月に開山、行基勅使諸共に帰洛ありけるとそ、 其後星霜を経て、堂社もあるかなきかに荒はてたりしを、慈覚大師、再興した まひ ...
昨年、越前市からみた『越前瑩山禅師ものがたり』を書くにあたり調べた、 帆山寺に関しての資料『武生市史』『福井県史』から抜粋して記載
養老元年(717)正月18日、夢のお告げがあり、聖武天皇聖暦元年(729) 越前国南都帆山寺に、堂宇三間四面が建立され尊像を安置した。
聖武天皇の勅願所で、天平正暦年間に、行基菩薩を開基として、和気の海浜西山に創建せられて、海岸山円明密寺と名づけられました。
2020年8月24日 (一) 12:34的版本
JTA
傳天 平正暦 年 間、行基 菩薩 開基、整備七堂伽藍建立大 寺 創 建 。
91 ページ
與聖化相表裏,創梵宇興象設。殆偏天下。天平聖暦不可盖也。竊考舊記^武皇帝 統御區宇之日。推睿於吾敎。際遇隆篤。繇是天下名佾麋至,間或脔誕謗詒,使人頒洞 者。蓋亦不爲不夥^若大岩千手大士像。其政通靈應^章々焉自大法流國朝,生靈皆知 嚮 ...
因此,據說是文殊菩薩化身的行基(668-749),建立臨海的觀音道場也就順理成章。後世五山詩僧圓伊仲方曾記行基事曰:
竊考《舊記》,聖武皇帝統御區宇之日,推睿於吾教,際遇隆篤,繇是天下名僧麋至,法師行基,簡在宸衷,其密贊陰翅之功,與聖化相表裹。創梵宇、興象設。殆偏天下。天平聖曆四年四月,適謁熊峰神祠,欲親見密迹,蚤暮懇禱。今號東觀音寺。
27 ページ
... 無畏入滅=印度名シユバカラシリン、中国玄宗皇帝ノ治世(七一六)聖暦年=余本 ニアリ(普賢寺王代記)一六) *大仏奉鋳*大安寺平城京移築ハ霊亀二年(七*仁王経ヲ 朝堂及諸国テ講スル七二九)天平聖暦仁王会始之造大安寺四行基造山崎橋七)米( 菩薩) ...
.. 善無長入滅六、一切経わたる七、三島大明紳始府中顕給ふ八、九十、弁僧正来 之十一、十二十三、金剛智入滅十四、十二月三日有シとして天シに斬り申給なり 紳詳新しく同十七年八月甘三日大和シ」五、大備奉鋳天平聖暦仁王曾始之造 大安寺 ...
Akira Nakagawa 八三大佛の鎬造工事(香取)同書引用の延暦僧敏文の用銅を記した 所にも「始大小十九年九月廿九日迄三勝賞 ... 以上何れも天平十九年九月廿九日 から勝賞元年十月廿四日(この年五月閏)迄では三商年には滿たない、この武天皇御 ...
... に說話がつくり出されたのであらう、鋳造工事の上からは、奉露大佛事のうち に、犬不十九知九月廿九日始作錦窮,以天平勝賀元此十月廿四日本鋳了始日天平聖 暦十九年、造天平勝愛元年、三箇年之間、奉鍔御弥、及八商度、共功始成云々.m ...
124 ページ 聖武天皇天平聖暦の御代のことである。弁財天はその慈悲深さで衆生を救済する ということで信心を集めていた。内匠介・主税介・嘉門介の三兄弟の父は殿上に 報仕する人で、母は安芸国式部豊止という「天地陰陽道理ヲ極メ」た人の娘で あっ ...
34 ページ
供養、天平聖暦二十年二月二十一日巳ノ時ニ、冥土ョリ玉ノ輿ヲ以テ、司命司禄 囲透シ奉リ、二度娑婆世界「送リ奉リ、亦、鴛鴦ノ呢ヲ生ズ。百歳ヲ経、万行ヲ 成ジマシマス。救度衆生ノ御慈悲、猫キ者也。(「かんのう」二三五号、昭和五五 ...
230 ページ
... 初代節文から十四代景盛まで、同筆でならば、この系図はんの同筆部分の最も 新しい年代、 觀忘二年(一三五一)十月以降. 二代利文養老五年齢生。天平聖暦二年 帳十歳而讓( ×禰宜職)代豊景,豊文七十子也。貞一二年駐五月八日他界。歳百一。
692 ページ
... 中八月十八日被補孝謙天皇御祈願大乗戒壇院同百万基石塔一基建立之其後鳥羽 院御宇被補我願寺則被定四至東西三十余町南北四十余丁“ 、自天平正歴十五年至 文明十七年凡七百三十八年“々、然今常寺護持院門跡法印権大僧都有憲貸本願主 再興 ...
[159]
伴信友は、
「
[26] しかし元号名の上と下とで位置が違うのは気になります。 また、天平に限って出現するのも不審です。 天平聖暦と聖暦元号を安易に同一視するのは躊躇されます。
[11] 日本年号史大事典 は、 天平感宝の誤りであろうとしました。 >>7 普及版 p.145 年号読方考証稿 の見解を繰り返したに過ぎない模様です。
[106] 実際の用例は干支年を併記したものが多く、成り立たないように思われます。
[104] 天平年間の21箇年は聖暦や正暦とは直接接してはいません。 聖暦は天平にわずかに先行しており、 天平前後の時代が則天武后の影響を強く受けていたこと、 天平の次の4字元号の連続もそうした影響の1つであることが注意されます。
[105] 天平の次の「天平何々」の4字元号の連続をみると、 「天平」だけの2字はどこか落ち着かない感があります。 「天平聖暦」「天平正暦」が4字元号として認知されたのは、 むしろそのほうが自然に感じられたからでしょう。 聖武天皇の「聖」と重なることも説得力を高めていたのでしょう。
[113] 続日本紀 (成立) 所収天平宝字2(758)年8月25日勅に 「聖暦」 という語が含まれていました。 >>12
《天平宝字二年(七五八)八月甲子【廿五】》○甲子。以紫微内相藤原朝臣仲麻呂任大保。勅曰。褒善懲悪。聖主格言。賞績酬労。明主彜則。其藤原朝臣仲麻呂者、晨昏不怠。恪勤守職。事君忠赤。施務無私。愚拙則降其親。賢良則挙其怨。殄逆徒於未戦。黎元獲安。固危基於未然。聖暦終長。国家無乱。略由若人。平章其労。良可嘉賞。
[16] , , , , , でした。
[17] 聖暦と同音ですが、無関係です。 天平正暦との関係も無さそうです。
[18] 西暦の誤記で正暦と書かれた例がままみられます。 Twitter に用例が多いのはあまり確認しないまま投稿するからでしょう。
[163] 本朝文粋 (日本康平年間成立) は、漢詩文集でした。
[164] 巻8所収の源順の詩序 後三月陪都督大王華亭、同賦今年又有春、各分一字応教 に、 「于時聖暦改元老春得閏。 案頭則添三十行之暦日窓外亦望千万里之春風。」 とありました。 >>166, >>167, >>168 (「閏」は流布本では「潤」 >>166, >>168)
[169] 閏3月と改元があったとの記述から、 日本天徳5(961)年2月16日に応和元年に改元されたことを指すとされます。 >>168, >>170 本詩序は応和元年閏3月開催の詩宴のものとされます。 >>170
[192] 「聖暦」とはこの文脈では直接的には元号のことですが、 前後含めて閏月、改元、暦本 (30行云々) に触れているのですから、総体としての「暦」でもあります。 「聖」は国家編纂の暦という意味での文飾でしょうか。
39 ページ
垢、生前之遺恨此無兩種之佛具也、奉與之處、護謂非據乎、所以西蓮地俗綱、剃 除贅要、貯乏一鉢之底、思絕三衣之外、世雄乘知口令成就祈願、現當之勝利、唯 英過期兩物哉、佛種從縁起自化願焉、于時聖暦永治二年戌仲夏五日丁酉記其由緒 、 ...
49 ページ
... みすゑ一ちやう一一すん也、にしひかし一へぬし、一ちやう二しやく三すん、 五てうのハうもん、むろまちはうもんおもて、きたのつら、うりわたすちい所「 五てうのハうもんむろまちのちのけん」(襯裏書)〇補三一六めうねん所領資券點一二鏺釜勸進比丘西蓮永治二年五月日本願主 金剛佛子延增酉記其由緒、西蓮跪言、哉、佛種從緣起自化願焉、于時聖暦永治一 一年壬戊仲夏五日丁之外、世雄乘知口、令成就祈願、現當之勝利、唯莫過期兩物 乎、所以、西蓮抛俗綱、剃除愛髮、貯乏一鉢之底、 思絕三衣塵垢、生前之遺恨、此無兩種之佛具也、奉與之處、誰謂非據之机濁、唯 恨 ...
鐘釜紡進比丘西蓮」(「四二)永治二年五月日本願主金剛仏子延増告初之磐鳴、湯釜 之缺不除徒衆之塵垢、(中略)于時聖暦永治二年壬戌仲夏五日丁酉其由緒、西蓮跪言 (四ヵ) □人金剛仏子延僧千日籠居、草創五間口面梵宮之内、五大明王所奉造立也、( ...
187 ページ ... 威音之德何然來臨非一鎮座多端采記各別頗有能導发予愁朝更異他州若帶神道爭 尋:墨跡然則今審山因同致态疑,異途試會語文調為三卷喝呼微官有一王鎮座聊約通别 大用三高先通示:神道大趣以審怖料簡雖痛且學先開再贈後賢于時聖曆元弘奖次別辨 ...
初に彼の神道學說の大要聖曆元弘癸酉初夏上旬沙門慈遍蓮敘云爾。予因同致」恣 疑...異途 í 試會諸文調三三巻。嗚呼、徴管有怖、料簡雖痛、且舉先聞」再贈 u 後千 時抑神國垂迹日吉威光、靈地施、化、山王輝德暉、然來臨非一、鎮座多端、楽記 ...
山王神道と伊勢神道との交渉抑神國垂」迹日吉卿三威光、銀地施」化、山王輝:德 暉、然來臨非」一、銀座多端、衆記各別、頗有元遼、交予因同致恋疑異途、試合 諸文調三巻。嗚呼、徴管有怖、料簡雖痛、且、先聞」再蝉後賢千時聖曆元弘癸酉 ...
188 ページ
于時聖曆元弘弘抑神國垂迹、日吉增威光、靈地施化、山王輝德暉。然来臨非一、 鎮座多端。眾記各別、頗有違。发們以月氏佛意既開于佛教日本禪惠額頗于神道。 夫如來應外益聯系於頭上、靈明載內利要機於身界。天地神祇審鎮要記上【原文】 上 ...
... 意不忘者也、凡漢才已渡、書契以來、空中塵中開諸—乙「請」于ー乙ナシ調— 甲「調為」 3 ,恕別次先想神祇今別別今宜,辦,審鎮, ,社一先出自神道,誓,利生為,懷誓 護,圓宗,。山再贈後賢一于時聖曆元弘西初夏上旬、沙門慈遍謹敘云爾、有三乖建、 ...
[120] 三百六十番歌合 (13世紀初頭成立) は、 和歌集でした。
[129]
序文の日付は、
日本正治2(1200)年
[135] なお 三百六十番歌合 には翌年の歌も収録されており、 序文が書かれた後にも編集作業があったものと推測されています。 >>127, >>122
[115] 新古今和歌集 (13世紀前半編纂) は、 後鳥羽上皇により編纂された勅撰和歌集でした。
[116] 真名序に 「元久之歳」の語があり、また「于時聖曆乙丑王春三月」とありました。 >>114
[117] 仮名序に「元久二年三月廿六日」 とありました。 >>114
[118]
仮名序の日付は日本元久2(1205)年
[119]
元号名 + 干支年 (年番号なし) の年表記は日本では鎌倉時代後期から多くなるようですが
[131] 日本最初の勅撰和歌集の 古今和歌集 の仮名序に 「延喜五年四月十八日」、 真名序に 「于時延喜五年歳次乙丑四月十五日」 とありました。 >>132
[133] もまた 「聖暦乙丑」 と同じ乙丑年でした。 >>134
底本ハ窪田空穗挍訂。校註新古今和歌集。是昭和十二年一月二十日印刷。同年同月二十五日發行。東京武藏野書院發行。已上奧書。凡例ニ曰ク≪流布本を底本とし、隱岐本、及び烏丸本新古今集と校合≫セリト。
已下所謂眞名序。
亦欲呈皇家元久之歳、有温故知新之心。修撰之趣、不在玆乎。于時聖曆乙丑王春三月云爾。
已下所謂假名序。
時に元久二年三月廿六日になんしるしをはりぬる。
ここでいう「聖暦乙丑」とは、元久二年を指すこと勿論である。古今集の影響を 色濃く受けた後拾遺・千載・新古今三集の序文に於て、編集の完了と上奏年月日 を銘記しているこ同じき三つの年のくれの秋のいざょひのころほひ、撰びをはり ...
169 ページ
それは、真名序に記される「聖暦乙丑」という干支が、五めぐり遡る『古今 和歌集』両序に記される延喜五年(九○五)のそれと一致するからであり、仮名序の 「元久二年三月二十六日」は、その後も、新古今成立年月日として機能し続ける 。
[27]
教行信証
(草稿)
に、
「奏達
[162] 2月上旬と解されています。 建永2年10月25日に承元に改元されたので、 遡及年号に当たります。
[1919]
日本の江戸時代の研究者伴信友は、
本願寺三世覺如の
親鸞聖人繪詞
に「
[教行信証後序 より]
太上天皇(後鳥羽の院と号す)の今上土御門の院と号すの聖暦・承元の 丁の卯の歳、 仲春上旬の候に奏達す。
平雅行氏は親鸞の『教行信証』後序を左のように読むべきであると説かれた(『歴史のなかに見る親鸞』99ページ法蔵館、2011年4月10日)。
太上天皇〈諱(いみな)尊成(たかなり)〉に
今上(きんじょう)〈諱為仁(ためひと)〉の聖暦(せいれき)、承元(じょうげん)丁卯(ひのとう)の歳(とし)、仲春(ちゅうしゅん)上旬(じょうじゅん)の候(こう)に、奏達(そうだち)す。
[195] 日本仏教史之研究 続編, 辻善之助, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1050700/1/55 (要登録)
[196] 承元(じょうげん)の奏状(そうじょう)をめぐる論争史 : 親鸞, hukohitomi, https://hukohitomi.exblog.jp/11681178/
[194] 国文東方仏教叢書 法語部, 鷲尾順敬, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1913631/1/207 (要登録)、 /217
いま今上聖暦永和五年巳未
... とありました。
[182] それぞれ10月、 6月とされます。 弘安本の「戊午」は日付の修正漏れと見られています。
年紀 弘安元年(1278)
銘文内容
〔下巻の最終段詞書末尾〕 (前 略) 于時聖暦{戊午} 弘安元年夏六月のころ微功をおふ と云事爾也備考 詞書中の年紀であるが、制作年代を示唆する。「聖暦戊午」は他本により正嘉二年(一二五八)と知られ、詞書はこの時の成立といわれる。本巻はその正嘉本を弘安元年に転写したものである。なお断簡は各所に分蔵される。 参考文献 『日本絵画史年紀資料集成 十世紀―十四世紀』(東京文化財研究所、一九八四年)
北野天満宮所蔵の下巻詞書の末尾に「于時聖暦戌午弘安元年夏のころ微功をおふと云事爾也」とあることから、「弘安本」の名称が用いられているが、弘安元年は干支が戌寅である。「于時聖暦戌午」とするのは、干支が戌午の正嘉2年(1258)に成立した「正嘉本」の語句を踏襲したことによると考えられている。
[193] 年の字としての「暦」に聖をつけたものでしょうか。
[154] 日本弘安四(1281)年四月六日付の東大寺宛太政官牒に、 「去る弘仁第十の聖暦嵯峨天皇の御宇」 とありました >>155 (続々群書類従の『東大寺続要録』「諸院篇 真言院」), >>156。
[157] と解されています。
388 ページ
... e右によって慶長五年( 1K00 )に書写されたものなる岡の写本奥と全く同じ文言 あり省略 e室町末期次本と同時頃書写か証卷奥御本寺依当門跡樣尊命 抗老眼書之」慶長第五聖曆蒐集于林鐘廿八日售案際七十載化末奥」字点矣」本云 」于時正忘四年五月始之同八月上旬終」功畢忍七十載信末奥時慶長第五聖曆電集 庚子初春中旬八日」本寺 依 ...
[185]
日本国石川県金沢市常徳寺の
[148] 日本国静岡県静岡市清水区隆覚寺薬師堂の天井裏で発見された 純円独妙経 版木に 「聖暦寛永十三丙子仲秋 良辰」 とありました。 >>149
[150] 8月と解されています。
[152] 江戸時代の怪談 浅草の堂にて人を引き裂きし事 に、 「聖暦寛永七、八の年かとよ」 とありました >>151 (江戸怪談集上, p.24)。
聖暦せいれき
一、立派な天子の治める平和な世
二、天子のこと。また、天子の年齢
ちなみに聖歴は周王朝で使用された元号(698-700)
『聖暦寛永七、八の年かとよ』(岩波文庫「江戸怪談集上」p24)
「浅草の堂にて人を引き裂きし事」という怪談の冒頭文なのだが、伊勢物語を下敷きにしており、なかなか怖い話であった。
参照:漢字源
[111] Twitter で検索すると周の聖暦と架空の聖暦が半々くらい、 西暦の誤記が少々。 架空のものが多いのは作品人気もあって頷けますが、 周のものも古くて短い時代なのに案外言及が多くて驚かされます。
[197] この「聖暦」というのは (今知られている中では) 日本の中世 (と少々近世) に数例だけ登場する不思議な、どういう意味でどういう用法なのかよくわからんものなのですが、 その意味を考察したのが伴信友くらい、それも根拠があるんだかないんだかよくわからない推察だけなんですよね。
[198] 喜田貞吉も今上に注目しているのに聖暦はあんまり気にしなかったのかな。
[199] 他の研究者もさも当然のことのようにスルーしてるのなんなんでしょうね。