[2] 日本陸奥国の一部 (現在の日本国福島県の一部) で使われました。
[95] に出版された日本国栃木県塩谷郡氏家町 (平成の大合併でさくら市) の自治体史によると、 天保5年、 江戸の米相場の大暴落という経済変動のため寶力と改元される、 との根拠のない流言が江戸から氏家地方まで伝えられたとのことです。 >>93
[96] 残念ながらこの記述の根拠は明記されていませんが、 本書の他の部分は史料を引いて丁寧に地域史を記述するスタイルですから、 この部分も当地に残された何らかの史料に基づき執筆されたと推測されます。 ただ、 >>95 の記述のうちどこまでが史料の記録で、 どこからが著者の解釈であるのかは定かではありません。
[116] 天保4年までの凶作から転じて天保5年は豊作だったようで (>>109)、 それに伴う米価の下落を指すとすれば、秋頃のものでしょうか。
[90] 天保5年を宝力元年に修正していること (>>43)、 天保5年の袋に宝明元年の文書が入っていること (>>47)、 天保5年と宝明元年が併記されていること (>>50)、 午年と併記されていることから、 天保5年 = 宝力元年 = 宝明元年であることは確実と考えられます。
[62] 「天保5年」、宝力、宝明の修正と他筆の順序関係はどう並べるべきだろう?
[94] に出版された日本国栃木県塩谷郡氏家町 (平成の大合併でさくら市) の自治体史で紹介された >>93 のが、 現在知られている研究史上の寶力の初見です。
[98] この記載の元となる資料は不明で、どこまでが記録でどこからが推測か不明ですが (>>97)、 自治体史は次のように説明しています。
[103] 氏家で寶力を実用した事例があったのか、 改元見込みとの情報に留まったのかはここからは不明ですが、 自治体史が断定しているからには流言だったと判明したことまで記録されているのでしょうか。 (そうでなければ他の私年号のように、不明な元号の用例であり私年号だろうかと考察されていた可能性が高いです。)
[104] 氏家宿は奥州街道の宿場町であり、江戸から改元デマが北上したとする説には説得力があります。 実際に江戸からの情報伝達の記録が残っているのか、状況からの推測なのかは不明です。 通常の改元も江戸から藩を経由して氏家まで伝えられたでしょうし、 非公式に江戸から直接伝わることもあったかもしれませんから、 江戸から来たと理解するのは当然のことかもしれず、実際の情報源かどうかは慎重に検討が必要です。
[105] しかし江戸から奥州街道を宇都宮藩領まで北上したという情報伝達経路は、 その後会津地方から用例が発見されることと整合します。
[117] ただ時系列には疑問があります。元から滞留していた改元デマに米価変動という「根拠」 が付与された可能性もあるでしょう。その場合江戸が発信源とも言い切れなくなります。
[106] 残念ながらこの報告は、私年号や改元デマの研究者の目に留まることがなく、 まで知られず埋もれていました。
[109] 天保の大飢饉については研究も多いようですが、 天保5年の江戸の米価の暴落について明確に説明しているものは Web 上では見つけられません。
[110] 米価の変遷の資料によると、会津その他の米価が天保4年から天保5年で半額になっています。 一方、江戸では天保4年の価格が約2倍の幅で上昇したと思われ、 天保5年はその高値の範囲に留まっています。 >>108 しかし年単位でまとめた資料であり年内の変動はよくわかりません。
[112] 天保元年から3年に既に全国的に米が不作でしたが、 天保4年は大凶作となりました。 これによって米価は高騰しました。 >>113, >>111 しかし天保5年は豊作で米価は落ち着きました。 >>113
[114] 越前では天保2,3年に1俵が銀32.3匁だったのが、 天保4年には45.6匁、 天保5年夏には52.3匁と上がり続けましたが、 天保5年11月末には25.6匁まで下がりました。 >>113
[115] 天保5年1月に江戸幕府から発出され天保5年4月に関東取締出役から各村へ伝達されたという触によると、 天保4年の奥羽の凶作により江戸の米の供給は不安定化し、 江戸や各地の米価は高騰していました。 >>111
[76] に日本国福島県の地域史研究者小野孝太郎が宝力と宝明の用例を紹介しました >>3。これが宝明の研究史上の初見です。 次のように解説しています >>3。
[7] の日本国福島県で発行されている新聞 福島民報 のコラムは、 宝力を紹介しました。 出典はなくあたかも独自の見解かのように書かれていますが、 >>3 の説とほぼ同内容です。 >>6
[91] 令和時代に入って初めて認識された私年号で、 一覧表に掲載されたり、 全国的規模の研究で取り扱われたりはされていませんでした。
[92] 令和時代に入って全国各地でいろいろな近世私年号の新報告が相次いでいます。 宝力や宝明はまったく新規の私年号の報告ですが、 既知の私年号が従来の報告例と違う地域で報告されるケースも多数あります。 宝力や宝明も未だ見ぬ用例が眠っているかもしれないという前提で史料捜索と分析を継続していく必要がありましょう。
[107] と書いていたら、昭和時代に既に栃木県で宝力が発見されていたことが判明しました。 独自私年号説はやはり全面的な見直しを迫られることでしょう。
私年号「宝
刀 」「宝明」使用例の発見 小野孝太郎
江戸時代の天保年間、現在の南会津地方の農民は畑を質入れする証文に「宝力元年」と記した。当時は洪水や冷害による大飢饉[ききん]に見舞われていた。「宝」は豊かさ、「力」は強さを象徴する言葉として用いたようだ。他に旧会津郡や伊達郡で「宝久」「宝明」「永長」などがある▼元号は明治以降、天皇一代に一つとする「一世一元」が踏襲された。それ以前は天変地異や伝染病といった災いを断ち切る目的で改元された例もある。私年号はそれにならい、苦境を脱しようとして編み出されたのだろう。願掛けにとどまらず、自助や共助で盛り返そうとする民のしたたかさも垣間見える
[60] 「宝力」「宝明」の異なる2つの元号が狭い範囲、同じ村の同じ人物 (名主馬場近右衛門) の周囲で発見されている (>>40, >>48) のは重要な点。 しかもどちらも2月。
[61] 新元号が何か、同時に2つの情報が流通していた?
[67] 私年号は同時代の公年号の文字を使う傾向が知られています。 私年号の発生原理が同時代の人々にとっての「元号らしさ」 の支配下にあるためなのでしょう。 江戸時代には「宝」が入った宝永、宝暦があり、 同音の「保」が入った元号も多数あります。 「明」が入った明暦、明和、天明があります。 従って宝明は当時の人にとってとても自然に感じられた元号名だったはずです。
[68] ところが「力」は江戸時代どころか東アジア史を通しても他に例がありません。 「宝力」はあまり元号らしく見えませんが、当時の人にとっても新奇に感じられたのではないでしょうか。 ただし「明暦」「宝暦」の「暦」との音の響きの類似には注意するべきかもしれません。 あるいは方言音も考慮が必要かもしれません。
[36] 唐の宝暦が宝力と書かれる例があるが (誤記? >>25)、日本の宝暦は天保5年より前で時期が合わず、 誤記とは考えられない。
[4] 久宝も同じ年の3月。地域は遠く離れていても、 まったく同じ月に「宝」が入った元号名。 偶然と片付けていいものか?
[8] 人吉市史 第2巻 上, 種元勝弘 編著, 人吉市史編纂審議会 編さん, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9776277/1/126 (要登録)
[24] この中なら宝治が最もそれっぽいがしっくりこない。
[35] 明はどこから来たのか。
[79] こちらでは「
[80] >>69 >>10 は同じもののはずなので、 >>69 が誤植?
[81] 球磨郡村誌は明治時代の成立らしい。 もし活字本なら >>69 の誤植は当時の本に遡る可能性が。
[33] 同じ人吉市域の他の八幡社でも
相良氏の”戦の神”として信仰を集めた八幡宮。宝治元年(1247)、2代相良頼親が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して創建したといわれる。現存の建物は江戸時代中期の元禄12年(1699)の再建時のもの。
と宝治。
[22] 直前に嘉禎2年、直後に建治2年とあるので、その中間で宝治か。
[23] 明はどこから来た?
[84]
どちらも活字の出版物に遡るとすると、
よく一緒に使われるので明
, 治
の活字がセットで用意されていて、
間違えて違う方を使ってしまったのかもしれません。
他にも類例があります。
[25] 元稹简介_虚阁网, , https://www.xuges.com/mj/y/yuanzhen/000.htm
唐敬宗宝力元年(825年),元稹命所属七州筑陂塘,兴修水利,发展农业,深得百姓拥戴。
[27] 中華人民共和国のウェブページで他にも元年、2年などでこのような例あり。
[28] 在博物馆里 文雅过年 ——大唐宝船里的风物(上)_华语环球, ck 465, https://chinese.cri.cn/media/album/zdfw/4486/20210209/619079.html
长沙窑青釉褐绿彩“宝力二年”铭花草纹碗
新加坡亚洲文明博物馆藏
本器为“黑石号”沉船出水器物中非常重要的一件,因器外壁在入窑烧造之前刻有“宝力二年七月十六日”铭记,这为判断“黑石号”沉没的年代以及船上装载货物的制作年代提供了可靠的依据。宝力二年为公元826年,以此为依据可以确定,“黑石号”沉没的年代不会早于公元826年。
[29] 写真があるが「宝力」の部分の字形はわかりにくい。
[39] こちらの写真のほうがまだ見やすいが、「宝暦」部分がどういう字形なのかはっきりしない。
[30] 「沈没船文化財展」が伝える1200年前の世界 中国と中東を結んだ海のシルクロード 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News, https://www.afpbb.com/articles/-/3306229
船の材木はアフリカ産で、アラビア商人が中国の産品を中東に運ぼうとしたとみられる。西暦826年にあたる「宝暦二年七月十六日」と記された磁器があり、年代が特定された。船からは陶磁器、金銀器、銅器、鉄器、銭、ガラス、香料など6万点が見つかり、「まるで1200年近く前のタイムカプセル」と大きなニュースとなった。
[31] 从出土的陶瓷看唐宋时期中国与马来西亚的关系_杂志论文_文史博览(理论)杂志, https://www.zz-news.com/com/wenshibolanlilun/news/itemid-580215.html
船上有一件外侧下腹刻有“宝曆二年七月十六日”字样的长沙窑阿拉伯碗。[8]
[8] 陈克伦. 唐代“黑石号”沉船出水白釉绿彩瓷研究[J].上海博物馆季刊,2012.