[13] 政府が制定したとされる元号を公年号といいます。 それ以外の元号を異年号といいます。 異年号の中でも特に公年号と関係なく実用されたとみられるものを私年号といいます。
[68] 私年号と同義または類義の用語に異年号、 逸年号、偽年号、 僭年号、 古代年号、 九州年号といったものがありました。 これらの用語は中世以来の日本の私年号の研究の中で、 ときに主観的、思想的、政治的な判断とともに、 ときに古代年号と日本中世の私年号を一緒くたにし、 ときに制定・利用者について特定の学説と結び付いて使われてきました。 それぞれの語によって表される範囲にもばらつきがありました。
[65]
そのなかで、日本の私年号研究を大成した
日本私年号の研究
によって公年号に対する各種の異年号 (私年号、古代年号など)
という整理がなされました。
[95]
例えば公年号のバリエーションであって異年号だとしても私年号とはいえない
(私年号の例には適切ではない) 白鳳を私年号の代表例に挙げるものがあります。
偽年号と呼ばれることがあるためか学界から無視されているという根拠のない陰謀論につなげたりするものもあります。
[227]
公年号たる神亀の誤記といわれる白亀が私年号に分類されることがありますが、
適切とは思えません。私年号でない異年号とするべきでしょう。
[93] 日本の元号研究の権威である所功らの日本年号史大事典は、 「異年号 (私年号・偽年号・逸年号)」 を民間で私的に作られた年号であり、 久保の日本私年号の研究以来「私年号」という呼称が一般的になったようだ、 としました。以後本文では「私年号」の語を使いました。 >>40 普及版 p.338
[94] 一方で所功らのより新しい著書 元号―年号から読み解く日本史― は、 法興を私年号と紹介する一方で、 「私的であれ該当時期にあったとは認め難い、 かなり後代に作られたとみられるもの」 を異年号や偽年号といい、 一部で古代年号や九州年号と呼ばれている >>83 p.53 としました。 この間異年号研究にこれといった進展はなく、 なぜ異なる説明となったのか不明です。
[1926] 古代の元号を研究した伴信友は、 「妖僞言せる年號」、 「妖僞年號」 といった表現を使いました >>1731。
[15]
伴信友は白鳳、大長などは実在の公年号とし、
法興もその類として扱い、
古代年号、
(
[46] 具体的には次のようなものを挙げていました。 >>1731
[48] 澤柳大五郎は、 論文の表で 「(私)年號」 の銘文として法興・法興元、 寳元、 永昌を挙げました。 本文で 「私(疑)年號或は外國年號」 であって公年號でないものとしました。 >>1939 「外国年号」とは唐の元号たる 永昌を指します。 残る3例を私年号または疑年号と呼んだのでしょう。 この論文の文脈上、 日本政府の制定したものを公年号と呼んで、 唐の元号はそれに含めなかったものと思われます。 表では簡略して私年号に括ったものと思われます。
... に大別しました。 >>223, >>60 前者は古代年号の類であって、後者は狭義の私年号に当たるものです。
[102] 更にこの2分類に
... を補い、それが時間経過により一に、
空間的伝播により二が生じたのではないかとする指摘もあります >>60。
ただこれは成立要因の分析であって、分類の1つとするには適さないかもしれません。
[50] 前川清一は熊本県の私年号を検討し、関東私年号とも比較しつつ、 次のような見解を示しました。 熊本県でも私年号は混乱期に見られます。 そして私年号は「案外」、福祉元年のように共同体の中で人々の一致した願いを表現したもので、 征露のようにあまり抵抗もなく使用されたきらいがある、 としました。そして、私年号から教養ある人物の存在が窺われるとしました。 >>223
[103]
新版元号事典は、
私年号の建元事由としてよくいわれるものの他に、
四「曽祖父が生きていた○年頃、祖父の時代の第○年目」という呼び方が固有化したもの、
を挙げました。 >>60
具体例は不明で、古い時代でこの類型に当たる事例があるのかわかりませんが、
近年では戦後や命知などが該当するでしょうか。
元号の定義に関わる境界的現象といえます。
[24] 平成31年の元号に関する論文で、 「中国内の正統王朝以外が非公式の独自年号、 すなわち「偽号」を用いることがあったが、 偽号、別の表現を用いれば「私年号」は 」 と書いているものがあります >>124。
[288] 近代諸元号現象 は、 ごく一地域など国家でない限定された共同体内で流通した元号を私年号 (異年号, 偽年号) というとしています。 >>431
[8] そして発生の多くは3分類できるとしています (が出典は明示されていません)。 >>431
[72] Japanese era name - Wikipedia () https://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_era_name#Unofficial_era_name_system
[146] https://toyo-bunko.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=5688&item_no=1&attribute_id=22&file_no=
偽元号
[150] Wikipedia:削除依頼/渤海史の偽史関係 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E5%89%8A%E9%99%A4%E4%BE%9D%E9%A0%BC/%E6%B8%A4%E6%B5%B7%E5%8F%B2%E3%81%AE%E5%81%BD%E5%8F%B2%E9%96%A2%E4%BF%82
偽年号
[193] 日本私年号の研究の私年号的諸資料で挙げられたもの (私年号と認定していないもの)
[237]
日本私年号の研究
は史書にない朝鮮半島の古代の元号を一律で私年号としています。
>>1543
史書から漏れたものかもしれず「一応」と留保されていて、
十分検討した上での判断ではありません。
[235]
避諱年号は公年号に含められています。 >>1543 p.
[18]
僭竊年号は私年号に属するべきものだとされながらも、
章題では区別され、
本文中も分けて説明されています。
>>1543 p.
[163] 紀年法を官方紀󠄆年と民間紀󠄆年に分類している。 清の元号が官方紀年なのは当然、 永清も官方紀年の一環としている PDF p.8。 その他の反乱の元号は民間紀年に分類している。
[230] 昭和時代初期の朝鮮研究者鮎貝房之進の論文では、 歴代朝鮮半島王朝 (高句麗、新羅、弓裔、高麗) の元号をすべて私年號と呼んでいます。 朝鮮は中華王朝の属国でありながら、 中華王朝が衰退した時代には私年号を建てたと説明していました。 >>231
[239]
「王権の発動とは異なる私的な次元での年号の使用」
[69] 8e3b898e0f05f5edbce346f976a21592.pdf, , http://www.wujhss.whu.edu.cn/d/file/rwb/dqml/2017-06-10/8e3b898e0f05f5edbce346f976a21592.pdf#page=6
[47] 中国石刻経研究, 桐谷征一, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3148822/1/461 (要登録)
[12] 097芸文紀要10巻ブック.indb - p058.pdf, , https://www.tad.u-toyama.ac.jp/_wp/wp-content/themes/wp-geibun/assets/images/research/bulletin10/p058.pdf#page=3
[111] 延寿 (高句麗) - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E5%AF%BF_(%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97)
当初は新羅の逸年号と見られており
新羅の私年号延寿元年、
[28] 永和 (朱一貴) - Wikipedia (, ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%92%8C_(%E6%9C%B1%E4%B8%80%E8%B2%B4)
[30] 淑徳大学書学文化センター蔵中国石刻拓本目録.pdf - 淑徳大学書学文化センター蔵中国石刻拓本目録.pdf, https://www.shukutoku.ac.jp/albums/abm.php?d=81&f=abm00000508.pdf&n=%E6%B7%91%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%9B%B8%E5%AD%A6%E6%96%87%E5%8C%96%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E8%94%B5%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E7%9F%B3%E5%88%BB%E6%8B%93%E6%9C%AC%E7%9B%AE%E9%8C%B2.pdf#page=102
建平元年2 月11 日(398)
劉宋の建平元年(454)か北魏の建平元年(415 と508 の2つあ り)。共に私年号。
他に五胡十六国の燕にも建平元年(398)はある(該当するであ ろう時代のみを記した)。この拓本の舊蔵者である天放楼・趙 烈文はこの造像記の按語に「或是劉宋時」と記す。
また、『中国磚銘』では、单燕とする。同書ではこの磚と葉 氏の磚を他にも収錰しているため、单燕の建平元年とするのが 妥当であろう。
#page=116
北魏私年号
聖君
興平
#page=148
廣安3 年6 月2 日造像記(528) 北魏の葛栄の私年号(526~528)
[243] 中国石刻拓本デジタルア-カイブズ 天放楼・経像刹鐘古刻零残彙装|淑徳大学, https://www.shukutoku.ac.jp/university/facilities/syogaku/takuhon/tennpourouzouzouki.html
年代:南燕 建平元年
西暦:劉宋の建平元年(454)か北魏の建平元年(415と508の2つあり)。共に私年号。他に五胡十六国の南燕にも建平元年(398)はある(該当するであろう時代のみを記した)。『中国磚銘』では、南燕とする。同書では葉氏の磚を他にも収録しているため、南燕の建平元年(398)とするのが妥当であろう。
[28] 古代から現代まで天皇を中心とする政府が存続している日本では、 王朝交代に伴う元号の混乱や独自元号の建元はほとんど見られません。
[29] ただし、南北朝時代には北朝の元号の他に南朝の元号が並立しました。 また中世や幕末の戦乱の時代には地方政権の独自の元号らしきものがあったことが知られています。 その他中央政府の改元を無視したとみられる延長年号の例がいくつか知られています。
[30] そのようないくつかの例外を除けば、 日本の私年号 (中央政府の正式な元号ではない元号) は反政府的な意味が薄く、 制定者も不明で長年存続することなく消えていったものがほとんどです。
[658] 刀剣刀装鑑定辞典, 清水孝教, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1222005/1/270 (要登録)
[657] 刀剣史料 (46), 南人社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/8099939/1/8 (要登録)
[309] 古代のものは日本古代の日時, 奈良時代の元号, 平安時代の元号参照。
[235] 日本の中世私年号の利用例の多くは東国 (関東地方) の板碑で見つかっています。
[371] 中世のものは、 まだ性質がよくわかっていない私年号が多いですが、 中世東国私年号、 大和私年号、 中世九州私年号、 その他、 と何種類か違うグループに分けられそうな感じがありますね。
[600] 後北条氏, 上杉氏, 今川氏などの用例は皆無です。 >>594
[611] しかしこれまでの研究では「私年号の用例が見つかっていない」ことと 「私年号を使っていない」こと ≒ 「公年号だけを使っていた」ことを同一視してきたきらいがあります。 また、研究者によっては「私年号を使っていた」ことと「私年号だけを使っていた」 ことの区別もはっきりしないまま論を進めています。
[612] 私年号が見つかっていない大名、見つかっていない時期にどのように元号が使われていたのか、 私年号研究のための基礎情報として、改めて検討が望まれます。
[672] 日本の私年号の研究は、古代年号、改元デマ、 その他の私年号の3系統で進められてきました。
[673]
古代年号は日本古代史の一要素として研究されてきました。
日本書紀は、広義の古代年号の現存最古の研究成果といえます。
その後も年表や系譜資料のような形でまとめられてきました。
中世後期には外国人による日本研究資料の一部にも取り上げられました。
江戸時代になると、国学者らから独立した研究対象ともみなされるようになりました。
[674]
改元デマは古くから記録に残されてきました。
江戸時代以後、歴史研究の一部などの形で個別の事例ベースで考察されるようになりました。
[675] その他の私年号も、江戸時代以後個別の事例ベースで考察されるようになりました。
[676] ただ、古代年号が一連の年号群の形で体系的に出現していたのに対して、 改元デマやその他の私年号は単発の事例が全国各地でバラバラに見出されるのみなので、 それらが集約されることはあまりなく、 せいぜいが古代年号にフォーカスしながらその他も一括して扱われるような形でした。
[678] そうした経緯から、古代年号、偽年号、逸年号、九州年号、 異年号、私年号といった江戸時代以来の各論者が古代年号の性格を評した用語が、 その他の私年号や改元デマまで含めた全体を曖昧に指したり、指さなかったりする曖昧な状態で現在に至っています。 昭和時代に久保常晴が日本私年号の研究の冒頭でこれを整理したものの、 古い辞書の記述などを駆逐するまでには至らず、未だに幾らか混乱が残っています。
[679] それはともかく、いわゆる日本の私年号は古代年号とそれ以外に大別できます。 一覧表でどちらもまとめられたり、雑に両方を一括りにされることもしばしばあったとはいえ、 体系的な検討が必要な古代年号と個別的な検討が必要なその他の私年号は大抵別々に研究されてきました。 古代年号の研究史については古代年号を参照。
[680] また、平成時代に入るまで私年号と改元デマの関係性は不明瞭で、 たまたま私年号扱いされたものとされなかったものでわかれていました。 改元デマ主体の研究史については改元デマを参照。
[34] 昭和時代に関東地方の板碑の網羅的な研究が進められたことで中世東国の私年号の性質が明確になりました。 >>35 日本の私年号は他に古代のものや近現代のものもあり、 西国でも若干数見つかっていますが、最も広く使われたとみられる中世東国のものが研究の中心となってきたようです。
[272] 近世、近代には、それらの年号を人々の願望の現れと理解し、 朝廷によって定められた公年号ではない、という程度の意味で私年号と呼んでいました。 >>271
[274] 今では私年号という呼称が最も一般的ですが、 近代の文献ではむしろ異年号という方が多いようにも思われます。 私年号の語も元からありましたが、昭和時代に一般化し、 日本私年号の研究によって決定的に優勢となりました。
[38] 昭和時代初期、服部清道は板碑から私年号の実態を研究しました。 服部による私年号への理解 >>37 は当時の代表的な辞書である 國史辭典 (四 pp. 756-758 私年號, 日野一郎) にも反映されました。 >>35
[595] 風雲 第6集, 片岡弥吉 (明治潜夫), , , https://dl.ndl.go.jp/pid/893094/1/5 (要登録)
[610] >>595 福徳, 弥勒, 永喜は足利氏の僭号だという主張。南北朝正閏問題的文脈から足利氏を逆賊とする当時の思想の延長なのだが、 根拠が何も提示されておらずなぜそう自信満々に強弁できるのか謎い。
[655] 仏教考古学講座 第五卷, 雄山閣, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1914064/1/82 (要登録)
[656] 国史の研究 総説の部, 黒板勝美, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1918450/1/56
[659] 日本民俗学 〔第1-4〕 隨筆篇, 中山太郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1449499/1/34
[39] 昭和時代中期、
久保常晴は古代から近世までの日本の私年号について大量の史料を収集、検討し、
私年号の利用状況や時代背景などの総合的な研究を行いました。
従来若干の混乱が見られた私年号に関連する用語を整理し、
古代年号や中世の私年号の性格を明らかにしました。
久保の研究は日本私年号の研究としてまとめられました。
>>40
日本私年号の研究はその後の若干の研究の進展によってやや古びているものの、
日本の私年号の「今日の研究水準を導き出す原動力」 >>35
と高く評価されており、
現在でも日本の私年号をメインテーマとした唯一の研究書です。
[569]
昭和9年の論文で久保常晴は、
中山信名の偽年号考の社会が乱れて偽年号が流伝したとする説を引いて、
その流伝の遅速次第で地域によって使用年が異なり諸説を生じたのだとしました。
ところが諸書がそのうち1説のみを挙げるだけなために、
あたかも年が確定しているかのように誤認を誘うのだと問題を指摘しました。
>>568
[330] 多古町史 上巻, 多古町史編さん委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9643568/1/118 (要登録)
[346] 昭和時代の後半には、 日本私年号の研究 を踏まえて私年号の政治的性質を強調する論が出てきました。
[347] 林屋辰三郎は、 「元号を拒否した私年号の使用は、一定の地域の民主的独立の宣言」 だと考えました >>444 (元号問題私見), >>271 (元号問題私見, 林屋辰三郎, 日本史研究 一七二)。
[348] 網野善彦は、 東国・西国論の立場で、 東国のどこかで天皇の改元と異なる改元が行われたものと積極的に評価しました。 >>444 (東と西の語る日本の歴史)
[613] シンポジウム中世の瀬戸内 上, 山陽新聞社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9773917/1/61 (要登録)
[49] 歴史研究者の佐藤進一は、 異年号は国家の正年号を否定する性格を持つと主張しました。 >>60
[349] しかしながら、中世私年号の政治的意義を高く評価するこうした論は、 いずれも史料的根拠がありません。 >>444 私年号から公年号に混乱も抵抗もなく戻っている実態と整合しません >>492 (暦と改元) し、 戦国大名等為政者層の用例がほとんどないこととも矛盾しています >>492。
[356] にも関わらず、このような考え方は元号法制定を巡る当時の政治的な運動ともリンクし、 一部の人達にもてはやされたようです。 元号廃止論者は「天皇の元号」を相対化するこれらの主張に共鳴しました。 元号問題以外でも、反天皇、反日本政府、反自民党のようなイデオロギーととても相性が良かったようです。
[429]
千々和到は、マルクス主義系とされる歴史団体歴史科学協議会で、
林屋辰三郎説や網野善彦説を切り捨てた
「
報告によれ
ば、東国民衆は年号を単に権力から伝達されるものとして一方的に受 け取るだけの受動的な存在ではなかった。東国民衆は、年号に一種の 呪術性を認め、改元を待望する中で私年号を流布させ、天皇の元号を 相対化させていたことをはじめて明らかにしたといえる。
と要約しました。これが千々和到の報告の「
[430] しかし千々和到は確かに東国の民衆の「改元待望」を論じており (>>385)、 (千々和到はそのような表現を用いていないものの) これを民衆の能動性と理解することはできるもの、 「天皇の元号を相対化」 したとはまったく主張していません。 それどころか千々和到は私年号が公年号と誤認されて流布されたことを発見し、 公年号の改元があるべき(なのになされない)ときに私年号がその補完となったことを主張しているのですから、 相対化とは正反対です。
[2]
そのことは千々和到の論文 >>444 を読めば明白ですし、
井原今朝男もそれをしっかり要約に含めている >>428
にも関わらず、なぜ正反対の方向に曲解しなければならなかったのかは、
千々和到の報告の「
というのです >>428。
[434]
更に井原今朝男は、日の丸や君が代に関する
「
[435] 千々和到による純粋な歴史学研究に属する学会発表に対してこのような評価が学会誌に掲載されるというのは、 現在ではなかなか理解し難いところがあります。 この歴史科学協議会は昭和時代後期の元号法制定の頃に積極的に元号反対 (元号廃止) を訴える政治活動に取り組んでいました。 しかし世論の理解を得るには至らず元号法は制定され、 この発表のあったの前年には新制度下で初めての改元 (平成改元) がありました。 平成改元とそれを含む皇位継承関連行事は、 極左過激派によるテロ事件などもあったとはいえ、 ほとんどの国民には肯定的に受け止められていました。
[436] 井原今朝男にとって私年号は元号法や「天皇の元号」 を「相対化」し、ひいては否定し得る貴重な歴史的遺産で、 目下進行中の国旗国歌法制定 (紆余曲折を経て) につながる動きへの反対運動を盛り上げる素材にもできると思えたのでしょう。
[437]
しかし千々和到の発表に対しては「
[61] 勝俣鎮夫は、 東国で戦国時代に広まった私年号を「地域年号」 と呼びました。 >>60
と主張しました。 >>258
[545] 広く普及した私年号をそれ以外の私年号と区別するべき、 というのは千々和到の主張と同じです。 しかし千々和到は京都の公年号と異なるものをすべて私年号という枠内の小分類にとどめていたのに対し、 勝俣鎮夫は普及した私年号を私年号と呼ぶべきではなく、 京都とは違う公年号であると主張しているわけです。 そして京都とは違う東国の公年号をこれまで私年号呼ばわりしてきたのはイデオロギーのせいだ、 と別の地域主義的イデオロギーで対抗しようとしていたということです。
[546] 東国の「公年号」がそれまで私年号と呼ばれていた理由は、 「公」的に制定されたことを裏付ける史料的根拠がなかったから、 に尽きます。天皇家以外は「公」とは認めない、 というイデオロギーで公私の区別をした人も中にはいたかもしれませんが、 それで研究者の目が曇って「公」的性を示す史料を見逃してきた、 ということでもありません。 その後も今に至るまで「公」的性を示す史料は見つかっていません。 見つかれば分類も変わっていくはずです。 イデオロギーのせいで「私」年号と軽視しているのではありません。 (が、そのように主張する陰謀論は今でもあるんですよね。 「私」年号なら軽視されているというものでもないと思いますが...)
[530] 平成時代の歴史研究者の阿部浩一は、 勝俣鎮夫に師事していましたが、 命禄が伊豆暦に書かれていたとする記録を発見し、 伊豆暦 = 三島暦の発行者 (暦師ないし三嶋大社) が命禄の建元者としました。他の私年号もそうである可能性があるとしました。 >>529
[550] 勝俣鎮夫は阿部浩一の見解を踏まえて、 三島神社が地域年号を制定し、三島暦で広まったと主張しました。 >>258
[586]
勝俣鎮夫は、
「
[587] この主張は、論者の前提知識が根本的に誤っていることを明確に示しています。 キリスト紀元とイスラム暦のいずれも、 元号制度より数百年遅れて成立したものです。 世界の多くの地域で、 こうした宗教的紀年法が採用される遥か前から、 その地域の統治者の即位紀年が使われています。
[588] 特に日本において天皇と無関係な宗教的日時制度が確立されていたことを示す遺物は何1つ発見されていません。 これは紀年法についても暦法についてもです。
[608] 強いて言えば干支年は木星 / 歳星との関係で信仰から発達した宗教的紀年法といえないこともありませんが、 西暦やイスラム暦とは紀年法としての構造も宗教としての性質もまったく違っています。 しかも大陸では即位紀年や元号の方が干支年より先に発達、普及しました。 日本では干支年の方が元号より古くから使われているものの、 寺社との特別の関係性は認められません。 何より中世においても干支年は京都を含む日本全国で偏りなく使われています。
[589]
そして年代記類の古代年号が中世を遡らないことは、 >>258
の冒頭で引用された日本私年号の研究が断言する最も重要な研究成果の1つです。
[343] 山田邦明もこれに賛同して論文で「私年号 (地域年号)」のように書いていました。 公年号を「京都の年号」とも書いていました。 >>148
[290] 浅沼徳久は、私年号資料に占める板碑の多さにより、 板碑を中心に中世私年号を考察しました。 ただし板碑に偏った検討となることや、 改刻を想定した史料批判が必要である (が不十分な) ことには注意を促しています。 >>289
[291]
浅沼徳久は私年号の伝播への順礼が寄与したと考えました。
当時知られた板碑36件のうち、
板東三十三番札所の7箇所に24個があり、残りのほとんども順礼行路から10キロメートル以内にあります。
また、弥勒の文書・経典・板碑などの分布もこれと一致します。
実際に順礼の遺物で私年号を使った例も残されています。
[293] 私年号は民間で私的に創作されてひそかに伝えられ広まったものであり、 その伝播も公然たる方法によれなかったため、 戦乱激しく社会の混乱した関東で自由にかつ広域で通行する者の力が必要だったと考えました。 すなわち、社会の不安と混乱を神仏に祈って救われようとし、各地を巡り歩いた順礼は、 社会不安、苦難の原因たる権力者の公年号に反感を持ち、ひそかに民福を希求し創作された私年号の伝播に相応しい存在だったとしました。 >>289
[295] 私年号が公年号への反感から民福を希求して創作されたものであることは、 命名から窺えるとし、福徳や命録は福禄寿思想に基づく、 弥勒は弥勒菩薩待望からの発想、と説明しました。 >>289
[296] そして公年号の改元で歳運の転換を願うのが常識化しており、 私年号もそれに準じたものだとしました。 >>289
[297] 私年号の発生は公権力の与える苦難に反感を覚えた庶民の自然な希求が原因だとしました。 ただしその庶民とは、順礼者を含む下層教化階級だったとしました。 >>289
[298]
ただし享正は足利成氏と関係有るもので、
足利持氏・足利成氏が権威を保持していた永享・享徳を継承する意識に基づき、
関東足利氏の勢力範囲内で室町幕府への対抗意識を背景に使われたとしました。
[501] 地域的公年号説に対しては、 利用期間が京都の公年号に対してあまりにも短く、 両者を同等と見て良いものかと疑問が示されています。 >>492
[503] 三島社建元説に対しては、 伊豆や駿河の私年号用例の少なさから疑問視されています。 >>492
[41] 千々和到は、
関東に残る板碑を分析して私年号の利用状況を調査し、
中世私年号の性格や改元の伝達経路について考察しました。
>>42
千々和到の研究は、発表数、頁数で見ると少ないですが、
重要な指摘が多く「高密度」で、
日本私年号の研究以後の私年号研究の方向性を決定付けました。
[361] この研究方針はその後の多くの私年号研究者に承認、踏襲され、 私年号の性格の理解が進むことになりました。
[360] 千々和到以前の私年号研究ではこうした区別がなく、 一体的な現象として理解され、議論されていました。 例えば、 仏教的性質の元号名であればその使用者の間に信仰が広がっていたとみなし、 反権力的性格が感じられればその使用者が自らの反抗心を表すため作って使っていたのだとみなしていました。 ところが千々和到やそれ以後の研究者の分析と新発見によって、 従来(たまたま見つかっていた用例の存在だけを根拠に)考案者と思われていた者がただの1使用者に過ぎないことがわかったり、 私年号を公年号と誤解して使った人々がいたことが判明したりしました。
[362]
久保常晴はすべての私年号にその成立の背景となる願望を推測しました。
しかしほとんどの私年号には改元の理由の記録はなく、
板碑などの用例が残るのみです。
千々和到はこの史料的限界ゆえに私年号の建元の事情を推測することは
「
[487] すなわち改元という行為、伝達そのものに祈念の意味がある、 と指摘したものと理解されています。 >>440
[344] その他に千々和到の重要な指摘の1つは、 史料批判の必要性です。 平成時代初期の時点で約40例の私年号が発見されていましたが、 用例が1例しかないもの、伝聞史料にしかないもの、誤記かと疑えるものもあって、 それ以外ときちんと区別されていませんでした。 これを史料の実物にあたって再調査、検討する必要があると指摘しました。 >>444
[345]
これは歴史研究の基本ではありますし、
先行する研究者も実物の調査や記述内容 (文書、銘文) の吟味をしていないわけではありません。
[273] 千々和は、 一種の徳政願望であって、 災異改元による除災招福を求めたもので、 異年号の継続的な使用よりも改元されたという情報が重要だったとしました。 >>13 普及版 p.343 (千々和 1990, 1995)
[275] 千々和到は板碑の研究で知られていますが、その専門性もあってか中世私年号を中心に考察しています。 平安時代や鎌倉時代の私年号の多くは使用例が少なく、 史料残存の偶然性よりも限られた僧侶などがまさに「私」年号として使ったのに対し、 室町時代以後はかなり広範囲に用いられ使用例も多いと指摘しています >>271。
[277]
千々和到は公年号の1字を良い字に置き換えた私年号が多いとしました。
[282] 弥勒は公年号と関係しませんが、 憧れのミロク世の出現と改元という変革思想の結合として説明できるとしました。 >>271
[278] 千々和到は、久保常晴が享正と延徳が足利成氏の勢力下にみられその関係で利用されたと推測したことについて、
と指摘し、この背景のもとで享徳の1文字置き換えで享正・延徳の私年号が発生したと考えました。 >>271
[283] 千々和到は、 福徳の改元伝達情報が妙法寺記に残ることから、 福徳は正規、または正規に近い改元伝達ルートで伝わり、 妙法寺記の筆者や他の使用者は福徳を公年号と理解していたと推測しました。 公年号の改元で何の摩擦もなく自然に私年号が終息するのものそのためとしました。 >>271
[284] そして福徳が改元伝達ルートに乗り得たのは飢餓や将軍死去などの情報があって、 改元待望 (>>277) が背後にあったためだとしました。 >>271
[488] 千々和到は私年号用例が宗教史料に偏在することから、 寺社間の改元伝達ルートを想定しました。 後に室町時代は五山の改元伝達ルートが存在したことが指摘され、 この推測を補強する材料となりました >>440。
[285] 政治的性格 (>>346) を否定し、宗教的・呪術的側面とのかかわりがあるとしました。 >>271 武蔵国全般で広く使われた福徳ですら、 1年間しか通用していません。 「独立宣言論」はもちろん、東国のどこかで独自に改元したとする説も、 短期間で混乱なく元の年号に復する事態を説得的に説明できそうにありないと考えられます。 >>444
[51] 日本年号史大事典は、 こうした中世の 「公年号の存在を前提としつつ、それと異なる年号を用いる例」 とその研究を踏まえ、 「「私年号」と呼ばれるものが、中央の「公年号」 への対抗への意思などから作成・利用されたものではなく、 何らかの理由による改元情報の誤伝達などにより発生したものであることを物語る。」、 「それほど強い独立への志向はなく、 何らかの事情で伝わった京都での改元の結果が伝えられたものと理解していた可能性が高く、 誤りが判明すると、すぐにそれらは打ち捨てられている。」 としました。 >>13 普及版 p.341, p.343
[174]
その後、
前川清一の研究により、
従来関東中心と考えられてきた私年号が九州でも次々に発見されました。
>>13 普及版 p.343 (前川清一 1982)
[14]
また幕末や第二次世界大戦の終戦後に私年号が発生したことも次々に判明しています
(
[342] 足利成氏 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%88%90%E6%B0%8F#%E4%BA%AB%E5%BE%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1%E5%8B%83%E7%99%BA%EF%BC%88%E6%88%90%E6%B0%8F%E3%81%AE%E6%94%BB%E5%8B%A2%EF%BC%89
[493] 平成時代初期の歴史研究者渡部恵美子は、 先行研究から戦国時代の私年号の特徴を
と要約しました。 そして1つの寺院や1個人で非常に私的に用いられた他の時代の私年号と違って特異であるとし、 そこから当時の人々の意識を読み取ろうとしました。 >>492, >>594
[504] 戦国時代の用例が多い私年号について、 次のような実例をもとに、 当時の人々は公年号と私年号を明らかに区別していて、 私年号は公年号と比べて呪術的、宗教的な性格を持った年号との意識を持ち、 宗教的な資料で選択的に私年号を使ったと主張しました。 >>492
[523] 千々和到はこの時代の遺物に宗教関連史料が多いため必然的に私年号が宗教史料に多いのであり、 必ずしも私年号の使用が信仰のあらわれとは言えないとしていましたが、 渡部恵美子は板碑文化圏外の長野県には私年号が少ないのは私年号が宗教的史料に集中していることを示している (私年号の使用は宗教的だ) と主張しました。 >>492
[524] 渡部恵美子は、 従来や西国では朝廷の元号が統治機能を果たしていたものの、 戦国時代の東国では戦乱、飢餓、疫病でそれが果たされなくなり、 それを東国の人々が自ら担うべく生み出したのが私年号であり、 自力救済の社会を象徴するものだったとしました。 >>492, >>594 当時の人が頼った場所が寺社だったからこそその史料に私年号が多く残るのだとしました。 >>594
に3分類していました。 >>492
[525] このうち >>498 と >>500 は中央の元号と異なる元号を東国独自に立てるという点で同じように見えますが、 政治的権威が建元し排他的な >>498 と宗教的権威が建元し共存する >>500 で別物としているように見えます。 どちらの説にも不十分を感じたようですが、 結論は >>500 説に近い所に着地しています (>>524)。 違いは >>500 のように特定の宗教的権威によるものでなく、 東国の人々全体が建元者と考えているところなのでしょうか (否定するだけで誰が建元したかはお茶を濁しているともいえます)。
[526] また、千々和到の説は現在では私年号と公年号が区別されていなかったとする発見を中心に理解されていると思われますが、 渡部恵美子は改元の呪術的性格の指摘を重視しているように感じられます。 結論に引きづられている感がないでもありませんが、 宗教的、呪術的性格は千々和到以前からの学界の私年号に対する漠然とした認識としてあったもので、 その延長線上での理解ともいえます。
[601] 私年号用例には少数ながら戦国大名によるものがあります (>>596)。 呪術的私年号説は私年号の利用に宗教目的があるとしていますから、 純粋に政治的な文書に私年号が使われることに説明が付きません。 これについて渡部恵美子は、
とばらばらな意図で使ったと説明しました >>594。
[527]
渡部恵美子の見解はその後の研究者にはあまり支持されていないようです。
千々和到説と地域的公年号説の折衷的な見解で、
どちらと比べてもはっきりしないように感じられるためでしょうか。
千々和到の新説の多くのポイントに否定的な反論を加えていますが、
千々和到説より説得力が劣るように思われます。
私年号の呪術性による選択的利用を主張しながら、
どのように私年号と公年号が使い分けられたか実例に対して的確に説明できていないのが最大の課題と思われます。
[571] 書誌所蔵情報 | 石川県立図書館, https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/wo/opc_srh/srh_detail?detail[sid]=1009910082311
書名 日本史学年次別論文集 中世2-1997年(ニホンシガク/ネンジベツ/ロンブンシュウ(チュウセイ-2-1997)) 著者名等 学術文献刊行会‖編集(ガクジュツ/ブンケン/カンコウカイ)
; 戦国期の私年号について / 渡部/恵美子‖著(ワタベ,エミコ) ;
[265] 東京都文化財調査報告書 第2, 東京都教育委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2515336/1/22 (要登録)
[195] >>194 筆者は極左活動家で元号廃止を求めている。 元号に反対する理由に私年号の「伝統」が使われている。
[148] その時代、当時の私年号研究の成果を曲解して元号廃止の主張に組み込んだり、 そこまでしなくても公年号を相対化して元号や日本政府に批判的な政治的・思想的主張の論拠の1つに使ったりする人達が出現していた。
[52] そうした「曲解」はもとより妄想部分が多くて学術的価値はないし、 今ではそのベースになっていた私年号研究の描く中世像も研究の進展で様子が変わってきていて、 当該政治的・思想的主張の拠り所にはならない。
[198] イデオロギーの曇った目で見た「歴史」を主張の根拠にしてはならないというのは、 そういう主張の人達が反対していたのであろう戦前の皇国史観と同じ轍を踏んでいるのであって、 どちらも歴史学の成果を濫用して社会を混乱させた黒歴史として学界は大いに反省しなければならないだろう。 特に戦後史学の濫用は、皇国史観の反省のはずの暴走だから余計にたちが悪い。
[201] 昭和時代の日本国奈良県の歴史研究者田村吉永は、 昭和47年に当時知られていた奈良県域の私年号をまとめて発表しました。 >>200
[203]
いずれも寺社関係であることから、
神社仏閣等が縁起を担いでつけた年号と推測しました。
>>200
[202] 特に永宝, 歓喜, 法興, 迎雲が法隆寺に関係していることに注目しています。
[208] 昭和時代の歴史研究者浅沼徳久は、 当時知られていた下野の私年号用例を
に分類しました。第2類の多くは日光輪王寺慈眼堂収納で関東各地から集められたと考えられるものが多く、 下野での用例かどうかにわかには立証できないものです。 >>207
[211] このうち第1類の延徳、福徳は、同時期に日光山で公年号を使用した史料が見当たらず、 むしろ最大行事の記録や事実上の別当が私年号が使っていることから、 一山全体が私年号のみを使っていたと考えられます。 >>207
[212] 延徳は足利成氏と関係するという先行研究 (おそらく日本私年号の研究などのこと) を踏襲して公年号同様の儒教的発想があり、政治的対立によるとします。 一方福徳以後は仏説的な現世利益希求だとします。 後者は天災、飢饉、兵乱などに続いて発生し、解消すると使われなくなるとします。 特に弥勒や永喜は孤例で日光山の他の記録では公年号なので、 伝播による偶発的知識による使用だとします。 よって日光山は足利成氏の時代には私年号を使用し、 死後は使用しなくなったと結論付けています。 >>207
[215] 示された文献4つのうち最初の2つは日光山が私年号を作っていたとはいっていない。 ということはまた網野善彦?
[218]
平成時代の歴史研究者佐々木茂は、
私年号の延徳が東北地方で使われていたことを初めて指摘しました。
しかも鎌倉の鶴岡八幡宮の延徳改元記事とほぼ同時期であることから、
従来説の巡礼者
中世私年号と板碑―私年号伝播者および足利成氏との関係を中心に―, 浅沼徳久,
のような悠長なメディアではなく、
私年号を迅速に伝える情報網が東北日本全域に張り巡らされていたことを想定するべきだとしました。
>>217
[219] 佐々木茂は、 東北地方と私年号はあまり結びつかない印象があるが、 正しくないと指摘しました。 日本私年号の研究で東北地方の福徳、弥勒、永喜の用例が紹介されているにも関わらず、 その後東北地方の私年号はほとんど紹介されていませんでした。 しかし自治体史等で容易に閲覧できる史料が増えた結果、 新たな私年号史料が見出されるようになりました。 千々和到が永喜の史料を紹介したり、 佐々木茂が延徳の史料を紹介したりしました。 >>217
[220] 佐々木茂は、 私年号発見地を結ぶ情報網を明らかにするには材料が少なすぎて生産的ではないとしながらも、 共通性を見出し情報伝達ルートを探る試みは (困難だが) 無意味ではないだろうとし、 思考を巡らせています。明瞭な結論はやはり得られていないものの、 掻い摘んで紹介すると、
と指摘しています。 >>217
[232]
そして私年号を「宗教的」「呪術的」など特殊な元号と捉えてきた従来説に与せず、
「
こうした徴証を踏まえて関東や東北の私年号と、同時に使われた私年号の使用状況の分析が必要だと問題提起しました。 >>217
[256] 史料と考察がこれだけでは不十分と考えて断言しなかったのでしょうが、 ここまで説明されればその構想は明白です。つまり、
という仮説を立てられます。そして交通の要所に残された私年号は、 改元伝達の経路の痕跡なのでしょう。
従来公年号の使用に反感を表す意図によって使用されたと言われてきたが、近年千々和到氏ら
の研究によって、そのほとんどのケースにおいては、私年号の使用と公年号への反抗・反感との間に直接的なかかわ りは無いという説が有力になっている。
と研究状況を説明しています。 (1) は千々和到の板碑とその時代です。 >>288
[629]
日本国福岡県古賀市の亀光私年号墓石の文化財登録審議の資料は、
元々は遺跡調査の報告と思われ、
市の文化財担当の学芸員か発掘に関わった研究者が用意したものなのでしょうが、
私年号研究の当時として最新の状況を非常に的確かつ簡潔にまとめていました。
ウェブ上で入手できる良質の私年号情報として、
平成時代末期から令和時代初期における最も良質な情報源でした。
亀光に限らず私年号の研究への非常に大きな貢献といえます。
>>60
[441] に歴史研究者の遠藤珠紀は、 中世の元号に関係する研究状況をまとめた論文を発表しました。 既発表論文の成果の紹介が中心と思いきや、 改元伝達の様相など若干の他にまとめられていない情報も含まれます。 >>440 平成時代のこの分野の研究成果の総覧としてよい文献です。
[456] 関連: 永伝, 改元手続き, 改元伝達, 日本南北朝時代の元号, 後南朝の元号, 日本私年号一覧表, 元二年
[482]
遠藤珠紀は公年号の改元伝達で音のみが伝わった事例 (
[489] 伊豆暦 (三島暦) との関わりについては、 これを紹介しつつも >>440 (戦国期の徳政と地域社会)、 意図的かは不明ながらこうした形で私年号が流布することもあったと考えられる >>440 と述べるに留まっています。東国独自の改元については千々和到の論を引いて否定的です。
[391] に日本国東京都府中市の歴史研究者深澤靖幸は、 中世私年号の研究史を簡潔にまとめるにあたり、 日本私年号の研究後の研究状況を
を代表して紹介し、
こうした理解は史資料を素材に丁寧に組み立てられていて、
戦国期の私年号に関する研究の到達点を示している。当然、議論は尽くされ、新たなアプローチ の道は見出しにくいように感じる。
と述べています。 >>390
[396] つまり私年号研究の行き詰まり、閉塞感のようなものがあったようです。 これは論文の前段の現状紹介で、深澤靖幸は新たなアプローチで切り込もうとしているので、 これでどん詰まりという認識ではないのですが、それを除いてもこのまとめには違和感があります。 勝俣鎮夫の説に従えば自ら元号を意図的に建てて使わせた勢力があることになりますが、 千々和到の説ではどこかから伝わった元号が間違って使われたことになります。 両者は必ずしも矛盾しないのですが、「議論は尽くされ」 というほど明確には権力構造も元号の広まる過程も描かれていないのが地域年号説の現状でしょう。
[414] 同じ深澤靖幸による一般向け小冊子には、このあたりも説明があります。 基本的には千々和到の解釈を踏襲していて、 僧侶などによる限られた人たちの「マイナー」な私年号と、 私年号として意識せず改元伝達ルートを通して誤って伝わった「メジャー」な私年号があったとします。 >>411
[73] その上で、三島神社建元説を紹介し、地方暦が私年号の創出と流布に関わったとする考えは魅力的だとします。 しかし、私年号が短期間で公年号に戻ることや、 三島暦の範囲を遥かに超えて福徳が通用していることから、 誰がどこで私年号を生み出したかは謎のままだと述べています。 >>411
[74] 深澤靖幸は武蔵地域の福徳銘板碑と同時期の公年号板碑の型式分類による計量的分析を通じて、 武蔵地域における板碑の生産体制と、そこに現れた福徳私年号の伝播の様子を推定しました。 >>390
[399] 深澤靖幸は千々和到の説を再検証したに過ぎないと謙遜していますが >>390、 より多くの史料をより精細に分析することで、 元号の切り替えの様子を従来にも増して鮮やかに描き出せたのは、 重要な成果といえます。 とりわけ、 私年号研究のために大量の公年号史料を活用した点は評価されるべきで、 従来の私年号史料を中心とした考察では解明できないエリアへと研究のレベルを一歩引き上げたといえます。
[76] これまでの諸研究によって、 私年号の伝播と公年号の改元伝達に強い関係があることや、 私年号と公年号の延長年号にただならぬ関係があることが示唆されています。 しかし中世東国の公年号の改元伝達の実態は未だ十分解明されておらず、 公年号の伝達と私年号の伝播を比較することは現在の研究状況では困難です。 今後は中世東国の公年号, 私年号, 延長年号, 改元伝達は一体的に研究を推進していくことが求められます。
[402] 深澤靖幸は、 武蔵の板碑における福徳の受容をめぐる「ドラスティック」 な変化に基づき、特に短期間で私年号から公年号へと復することに触れ、 民衆が私年号に強い呪術性を認識していたとする説 渡部1997 を否定しました。 >>390
[403] 深澤靖幸は府中市郷土の森博物館の学芸員です >>390 (令和5年時点で館長)。 府中市郷土の森博物館は令和改元を記念した企画展 「中世東国と改元」をからに開催しました。 この研究はそれに連動したものです。 >>390
[404] 令和3年には府中市郷土の森博物館から小冊子中世東国と年号 >>411 が刊行されており、 私年号を含む中世東国の元号事情が一般向けにわかりやすく紹介されています。 企画展をベースにしたとのことで、 中世私年号等の入門書としてちょうどよさそうです。 今までこの分野の教科書的なものはありませんでした。
[547]
写本間の比較により、書写時に私年号が公年号に改められた例があることが知られています。
[548] その1例をもって私年号が公年号に書写時に書き改めることが多かったとする説があります。 >>258 「多かった」とする根拠はありませんが、今伝わる公年号の写本の中にも本来は私年号だったものが他にもあるだろうとは推測できます。
[327] テキスト / コラム 板碑に刻まれた私年号, https://adeac.jp/miyashiro-lib/text-list/d100010/ht200510
私年号とは、公的な年号である元号と異なり、一地方や限定的な地域において使用された非公式な年号であり、その存在は許されなかったが、一部の人々に使用された。私年号を異年号、偽年号とも称している。私年号は、保寿、和勝、迎雲、永福、白鹿、応治、天靖、享正、福徳、永伝、徳応、弥勒、宝寿、命禄、永長、元真、至大、延徳、永喜、大道、延寿などがあり、平安時代末期から江戸時代にわたって使用されているが、室町時代~戦国時代にかけて著しく増加している。
私年号が用いられた理由は、①朝廷に対して力を持った豪族が、対抗意識や勢力誇示のために使用した説、②天変地異や疫病流行などを忌避(きひ)したいがために使用した説、③地方の豪族が自己顕示のために使用した説などがある。
[607] なぜか誰も指摘しないが、鶴岡八幡宮は延徳、福徳、命禄という戦国時代私年号四天王のうち3つの利用がみられる (弥勒は未発見)。 私年号の近くに私年号が見つかる傾向はあるものの、3つも揃っている、 しかも超重要史料込み、 で東国最大級の寺社、というキーポイント。
[615] 国民百科辞典, 富山房編輯局, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/897520/1/417 (要登録)
[616] Xユーザーの東行斎さん: 「@medieval_oota こんばんは🌙😃❗お疲れ👋😃💦さまです。鹿沼史林第14・15・16号に浅沼徳久氏の中世の私年号の論文があります。確認して見てください。」 / X, , https://twitter.com/5X4nBy3lIDmBLSZ/status/1549357404324007937
[624] 14号の目録 >>617, >>625 には浅沼徳久の記事が見当たらない。 記事単位ではない雑報扱い (発表会概要など?) で掲載されている可能性もある?
[626] 私年号秘密説: 元暦, 永佳, 永長, 宝明, 宝力, 久宝, 天晴, 正中, >>293
[635] 公年号との衝突: 大同★, 天延, 永長★, 元暦★, 長徳, 建保★ (★は公年号になぞらえて使った等の説がある)
[662] 1文字踏襲:
[627] 新旧公年号の合体:
[457] 年末年始に出回り始めた?: 福徳, 延徳, 弥勒, 命禄, 慶喜, 元暦
[631] 令和改元直後に発行されたオカルト雑誌のムーの記事で、 私年号を取り上げたものがあります。特に幕末の私年号の天晴、 大政、 明治時代の征露を中心に紹介しています。 そして妖怪の油取りと関係があるのだ! な、なんだってー!? という構成になっています。 >>630
[632] 前半の私年号の紹介は、一般向けの解説としては標準的なまともな内容です。 そしてそれと同じ時代、同じ地域に油取りの伝承があるのだ、と繋げていますが、 「同じ」判定がガバガバな辺りはムーの本領発揮というか、 エンターテインメントですね。
[633] 私年号がそのような娯楽の題材に取り上げられること自体がおそらく前例がなく (今後もあるのかどうかw)、令和改元という出来事の大きさが感じられます。
[647] 地域ナショナリズムに引きずられた事例: 久宝, 天晴, 長徳
[648] >>647 昭和時代後期から平成時代初期に各地の地方研究者がこのような説を唱えた背景には、
という純粋な地元民の感情をベースに、
という近代から昭和時代の社会風潮と教育で生み出された負い目のようなものや、
に大きな価値を見出した昭和時代の歴史学界の雰囲気が複雑に絡まっているのでしょう。 どんな動機だろうと史実を追求している限りはいいのですが、 このタイプの研究は往々にしてあることないことをつなぎ合わせてそれらしいストーリーを作る方向に進むようで、 偽史町おこしのような危うさを感じます。
[319] 歴史研究者の清水克行は一般書で中世の元号について紹介しています。 >>316
[447] 本書は現代日本の常識から乖離した中世日本の諸相をわかりやすく解説した一般書であり、 その1つの分野として元号が取り上げられたものです。令和改元から日が浅い時期の発表というのもあるのでしょう。
[449] 清水克行は一般向け書籍やテレビ出演で知名度も高い歴史研究者で、 中世日本を専門としています。しかし元号が専門分野ということではなさそうで、 内容は参考文献の示した見解を簡単に再構成し、 筆者の体験した令和改元とも紐付けて紹介したものとなっています。
[448] どちらかといえば中世と現代の同じ「日本人」の考え方の違いにフォーカスを当てた本書にありながら、 改元や元号という現象から見える日本人の変わらない部分を指摘しているのはおもしろいところかもしれません。
[450] 本旨からは逸れるのかもしれませんが、 現代の改元の研究が前近代の改元の理解に資するところもあるはずだと、 中世日本史研究者の立場から示唆したものと受け取っておきたいです。
[451] ただし、改元待望説を中心に据えた結果 「時間のものさし」機能の評価が過剰に低くなっているようにも感じられます。 長期間の計測の機能を元号年でなく干支年が果たしたという説明は、 その通りでしょう。だからといって元号年に「時間のものさし」 機能がないといえるでしょうか。
[452] 中世文書に書かれる日付は基本が元号年です。 金石文でもそうです。 干支年だけしか書かないのは例外的です (元号年に干支年も併記することはよくありますが)。 それが天皇の秩序への従属を示すことを主目的に書いたもので「時間のものさし」 機能は持っていないと考えるのはさすがに難しいでしょう。
[453] 改元すると何年前か計算が難しいから「時間のものさし」 には使えないと考えるのは現代人的な思考のように思われます。 日常でそんな計算が必要になることなんてそうそうなかったでしょう。 そしてたまに計算が必要になったときはがんばって計算している痕跡を見かけますよね (計算を間違えてることもしばしばありますよねw)。
[455] また、「多元性」「重層性」という中世世界全体のキーワードへの結びつけは、 一般書ゆえに細部を省いたのかもしれませんが、強引さを感じます。 「多元性」はあたかも建元勢力が多数乱立したかのような言い方ですが、 実際は南朝と北朝の2勢力だけです。本文中は3元号並立の事例を引いていますが、 延長年号が含まれるのであくまで元号を立てた勢力は2つです。 また、改元デマ起因だと本書も述べている私年号を公年号と 「重層的」だというのは無理があるのではないでしょうか。 元二年説も一般書で紹介するほど確立された説とは思えません。
[314] >>313 は、 小説新潮 2019年9月号から2020年12月号の連載 アナーキー・イン・ジャパン を加筆修正したものです。 >>313 p.[254]
[318] >>316 関連記事: 新元号予想, 元二年, 久宝, 節約
[645] >>644 は節約の私年号の作者。引用しているのは >>646。
気になるのが、上記の私年号で、贋作あるいは中世人の悪戯による可能性はモチないんだよね(^_^;) 美術史を見てると、騙されて、もっともらしい作品解説をしている専門家がいるから(^_^;)
とか
都で改元が行なわれたという「情報」が「関東地方や南九州」には「誤」って伝わり、「福徳元年」 等を使い始めたら「誤情報」だったことが判明して「三年ともたずに」使用を止めただけで、ソレを 現代の研究者が新説を唱えたいばかりに「私年号」と名付けて、もっともらしい理屈をこねたような 感も(^_^;) 戦国時代は「それまで以上に」飢饉や戦乱が あったとするけど、古代にも「飢饉や戦乱」はあったわけだし、同じように「一種の厄払いとして」 私年号が使用されててもおかしくない気も(^_^;) 私年号の使用が中世の戦国時代に限られるのなら、 「天皇や室町幕府」の権威が低下しまくってた状況を前提にしているはずで、私年号使用の根底には やはり「天皇や室町幕府」が「日本国の主宰者であること」を認めない政治的意思がありそう(^_^;)
とか、着眼点が鋭い。前提知識なしで書いているのでこれらの推測は逆方向にいっているのだけど、 旧来の説の「弱点」を的確に突いている。
[7] 江戸時代は政情が安定し私年号は見られなくなったとかつては考えられていましたが、 実際にはいくつか私年号や改元デマが知られており、 しかも改元デマは恒例化していたようです。
[306] 一覧は江戸時代の元号, 幕末維新期の私年号参照。
[462]
近世、
各地の研究者がいくつかの私年号や改元デマを見つけていました。
[463] 近世日本の元号研究者らは中世の私年号をいくつか報告、検討していましたが、 同時代である江戸時代の私年号や改元デマは知り得なかったのか、 研究対象と認識していなかったのか、取り上げられることがありませんでした。
[464] 近代日本の元号研究者らは近世の研究の蓄積に新規の発見を加えて私年号の知見を積み重ねていきましたが、 幕末の私年号の1つ延寿を除き、近世の私年号や改元デマは知られないままでした。
[465]
明治時代から昭和時代中期にも、
狭い範囲で個別的のみ知られ全国的な元号研究に捕捉されなかったものがいくつかありました。
[108]
昭和時代中期の
日本私年号の研究
は、
政治的統一、中央集権的体制の確立に向かうなかで
「
[48] 、 歴史研究者の河野昭昌は 江戸時代私年号に関する覚書 で永長と長徳を報告しました。 >>471, >>947
[476]
当該研究会の機関誌 >>9233
によるとに法政大学で開催された月例会で河野昭昌が
[477] 近世の私年号に関する覚書 >>947、 江戸時代私年号に関する覚書―永長・長徳をめぐって― >>471 と紹介されることもあって題名すら一定しません。
[478] 「覚書」と題するからには配布資料くらいはあったのか、 それとも口頭発表のみだったのかわかりませんが、 この報告内容が収録されたものは見つけられませんでした。 河野昭昌の他の著作等でこの話題を扱っていそうなものも未発見です。
[472] この報告を引用したものによると、
近世でも狂歌・落首の類には私年
号が多く見られると指摘したが、同時代の第三者による記 録で流布が確認できたのは「永長」の事例のみであった
のだそうです。 >>935
[473]
同時代の第3者の記録というのが永長の出典として引かれた我衣 >>947
のことをいうのか、
それ以外で河野昭昌が報告しているのか、
はたまた >>935 の引く事例 (
[474] 多く見られるという近世の狂歌や落首の私年号も、 どんなものがあったのか、 現在広く知られているものには見当たりません。
[468] 昭和時代後期から全国各地で近世史の研究が進み、 私年号や改元デマの新報告が続出しています。 令和時代に入っても新出の史料や、 報告済みながら埋もれていた研究が次々と見つかっています。
[310] 中世に爆発的な発生をみた私年号が中近世移行期から近世初期に小康状態となるのはおそらく間違いないにせよ、 その後も私年号はしばしば発生しているのであり、 しかも今なお新発見が続いていますから、 既出の史料は氷山の一角に過ぎないとも考えられます。
[466] また、農村部で報告の多い私年号に対し、 都市の記録によると改元デマが頻発していたことが知られます。
[470] 各地、各時代の研究者はそれぞれが知り得た史料をもとにあれこれ想像を巡らせるのですが、 その後遠く離れた地にも用例が見つかり当初の想像が的外れだった事例がいくつかあります。 限られた史料から推測するしかないという歴史研究の性質上如何ともしがたいものであり、 各研究者の能力の低さを示すものでは決してありませんが、 間違った結論がときに間違った「地域の誇り」のようなものを生み出すこともあり、 安易な結論付けには注意が必要です。
[467] いまはいたづらに結論を急ぐよりも新史料の発掘と収集につとめるのが賢明かもしれません。
[479] 現在知られている日本の私年号諸用例は、日本全国に均等に分布しておらず、 明らかな地域的な偏りがみられます。 この偏りが
のいずれに由来するものか、未だ十分解明されていません。
[491] 私年号の中でも研究が進んでいる中世東国私年号も、 東国に濃厚に分布していますが、 域外にも少数用例が残ることを平成時代までの私年号研究者は知らないまま分析していました。 東国の板碑がよく保存されてきたことが私年号用例が「残される」 理由となり、近現代日本の首都が東京にあることが昭和時代に東国板碑の悉皆調査が実現する理由となったのであり、 そうした私年号が使われたのが本当に東国だけだったのか、 なおも検討の余地が残されています。
[502] また、現在知られている私年号用例は石造物や地方の旧家の文書などにひっそり紛れていたことが多いですが、 そうしたものは地方の自治体所属研究者・学芸員や郷土史家の地道な調査で副産物的に判明しがちです。 たまたまそうした方面に興味を持った人がいた、たまたま自治体史の編纂事業があった、 たまたま関係者に私年号研究者とのつながりがあった、 といった偶発的事象が私年号としての報告につながります。 自治体史に掲載こそはすれど、 私年号としては長年知られていなかった、 という事例もいくつもあります。 こうした事情により私年号の報告に地域的な偏りが生じるのは必然であり、 しかしその偏りが私年号の利用の偏りとは限らないことに注意が必要となります。
[118] >>117 は筆者手持ち資料に基づく私年号板碑の一覧表。 久保常晴の論文を参照しているものの、 日本私年号の研究より前の時代。 日本私年号の研究未掲載の用例が含まれます。
が知られていました。 >>565
[567] その記事の書き方と時期からみて後の5つは1970年代に立て続けに発見されて話題になったようです。 >>565 令和時代が始まった時点でその5つのうち知られていたのは久宝と永長と慶喜の3つだけで、 他の2つは埋もれてしまっていました。
[144] 当時に石川県域で発見されていた私年号 (「異字年号」を含む。) は12種25例で、そのほとんどは江戸時代とのこと。 しかし具体的にどれかは示されていません。 >>143
[566] 当時発見されていたはずのものを探すと:
[182] 以上、□徳と白禄を除くと11種類。あとの1つは何か。
[185] 石川県は関東を除くと私年号発見数最大級ではないでしょうか。 私年号が多く使われた理由があるのか、それとも多く見つかる理由があるのか。 しかし発見数が多いからといって研究が進んでいるわけではないのは残念。
[186] 能登が多いですが、加賀にもあります。ところで富山県域では報告がないのが気になります。 近世の越中の大部分は加賀藩領、富山市付近はその支藩の富山藩領でした。
私年号とは一部の人々が密かに用いた年号である。
とまとめています。 また中世私年号を
これが応仁文明の乱が終ってからは従来の政治的対立から生まれた私年号とは異なって、打続く兵乱に加えて、
天変地異のため、またそれからくる飢饉等の苦を遁れようとして、朝廷、幕府の制定した年号の名称が何ら民衆 に密着したものでないため、幸福と寿命の延びること、経済的な即禄の増す事を求め、福徳、命禄、宝寿等の私 年号が関東に広く使用されている。
と説明しています。 >>2581
[262]
私年号は人目を憚って用いられ、
「
[263] しかしその根拠となる法令なり、道徳規範なりを明確に示した研究は見つかりません。 元号の違いと政治・軍事勢力の違いが直結していた中世の元号利用状況や、 大陸の事例からの類推なのでしょうか。 日本の農民層や近世にも無条件に援用できるようには思われません。
[264] もちろん一般論として反政府的な言動が見つかればただでは済まされないでしょうが、 私年号がそうであるとの認識が広く存在したかは疑わしいです。 私年号の存在と反政府的性質を持つとの理解が反政府的庶民側にも取締る支配層側にも広く共有されていなければ、 反政府のため私年号を作ろう、でもバレないようこっそり使おう、 とはならないはずです。 そしてそれが氾濫していなければ、禁止しようともならないはずです。
[90] 安定した政権の元号であれば制定の記録が残されていることが多く、 正しい表記も明らかです。 しかしそれ以外にも制定者の明らかではない元号や、 短命政権や反乱軍が使った元号、 公年号の表記のバリエーションらしき元号、 実用目的ではないスローガン的元号や架空の元号などが存在しています。 こうしたものの総称が異年号であり、 その中でも特に (公年号のバリエーションや非実用ではなく) 私的に実用されたとみられるものが私年号です。
[66] 大陸の私年号とされるもののほとんどは、 短命政権や反乱軍などの正統王朝とみなされない政府によって制定されたとされています。
[67]
一方で日本の私年号のほとんどには反政府的要素は見られず、
戦乱などのための社会的混乱や改元デマから広まったものとみられています。
[639] 元号を公年号とするか私年号とするかには、 政治的な判断も含まれてくることがあります。 複数政権が並立した時、その当時あるいは少し後の時代には一方が他方を偽の元号と扱うことがあります。 短命の反乱軍の元号などはそうした経緯から私年号に分類されるのかもしれません。 しかし現在の日本政府の数える日本の元号の数に北朝も南朝も含まれるように、 和解や時の経過によりどちらも正統な公年号と扱われる場合もあります。
[97]
南朝の元号が公年号として扱われる一方で、
後南朝の元号は私年号として扱われます。
これを短命の反乱軍の元号で私年号と矮小評価している、
と批判することもできますが、
実のところ後南朝の元号の記録は二次資料しか見つかっておらず、
制定や実用の様子がはっきりしないようです。 (
[91]
近年の新興宗教の中には、国を越えて信者が広がっており、
かつ独自に紀年法を用いるものも見られます。
そうした紀年法は、国をまたがって使われる元号と言える場合もあるかもしれません。
[190]
久保常晴は、
集権体制の崩壊と文字の一般層への普及により、
正しい表現が崩れていき、
「公年号を軽視する態度」
から
「公年号無視の傾向」
へと発展し、
私年号の出現に至ったと考えました。
仮名書年号等をその私年号発生に至る前段階としました。
>>189 p.
[167] 日本百科大辞典 第5巻, 三省堂編輯所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/898069/1/121 (要登録)
[166] 正朔要覧, 宮本和一, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1190088/1/60 (要登録)
[175] 栗里先生雑著 : 一五巻 下, 栗田寛, 栗田勤, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1087995/1/212
[226] 正年号(せいねんごう)とは? 意味や使い方 - コトバンク, ,世界大百科事典内言及, https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A3%E5%B9%B4%E5%8F%B7-1350220
[173] 国史便覧, 重田定一 等編, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/769393/1/77
[176] 経済史観日本 上巻, 中村直勝, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1276238/1/65 (要登録)
[177] 新撰日本仏教年表, 橋川正, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1174324/1/245 (要登録)
[178] 図書館学研究報告 (15), 東北大学附属図書館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1796754/1/3 (要登録)
[179] 日本の歴史 8, 樋口清之, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1627745/1/83 (要登録)
[180] 日本建築様式, 井上一之, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2469974/1/234 (要登録)
[181] 対照世界美術年表, 中村亮平, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1902443/1/237 (要登録)
[184] Museum (88), 東京国立博物館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4429480/1/6 (要登録)
[191] 香取文書纂 巻之1,2, 伊藤泰歳, 村岡良弼 校, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/815200/1/10 (要登録)
[149] 令和4年末に国立国会図書館の全文検索が拡充されてから約1ヶ月のうちに、 平成時代までに報告済みの異年号でこれまでに一覧表等に掲載されてこなかったものが十個くらいみつかってます。 きっとこの先もっとみつかるでしょう。
[63] 読史の趣味 - Google ブックス () https://books.google.co.jp/books?id=yuI8YiwZLMcC&pg=PP245&dq=%E5%BE%81%E9%9C%B2%E5%85%83%E5%B9%B4
[87] 同和はこわい考通信 No.34 - 藤田敬一 (, ) http://kowaikou.main.jp/34.htm
[139] [抜書き]『日本史への挑戦 「関東学」の創造をめざして』 (, ) http://www.kkjin.co.jp/boso010_130317.htm
[141] 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ, NetCommons, https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2429&item_no=1&page_id=13&block_id=41
[145] 渡部恵美子 戦国大名と私年号 信大史学 22
[151] https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4424952
卒業論文・報告 十五・六世紀における私年号の考察--「永喜」を中心として=Graduation Theses and Reports A Study of "Shinengo" (Unofficial Name of an Era) in the 15th and the 16th Centuries / 山崎真佐恵/p154~177
[161] ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム () https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1320715100/1320715100400030/ht072480
[183] タテ05_水上氏.indd - 0529-6803_61_55-82.pdf, , https://chuo-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=12948&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1
[303] Xユーザーのノザキハコネさん: 「柳田國男が紹介してたけど日本では近世後期ぐらいまで自分が信心してる仏様とかにちなんで勝手に作った私年号を使う習慣があったそうなのでこの美しい伝統を復活させましょう。令和とか使わず各職場やご家庭でガンダム元年とかちいかわ元年とか好きに決めて使おう。」 / X, , https://twitter.com/hakoiribox/status/1720837313583108351
[300] 少なくても 定本柳田国男集 索引で「私年号」は1箇所だけで、その 海上の道 には確かに柳田國男の弥勒の考察が見えるのだけど、柳田國男は
すなわち一時は少なくともそういう年号が、新たに制定せられたものと信じて、これを用いた人が多かったのである。
と書いてるんだよなあ。
[299] 「近世後期ぐらいまで自分が信心してる仏様とかにちなんで勝手に作った私年号を使う習慣があった」 ってのはどの本のどこに書いてあるんだろうか。 真逆に見えるんだけど、いつどういう理由で新説を唱えたのか、どちらが新しいのか。
[279] 平成時代はじめくらいまで「私年号の時代は近世初期で終わった (幕末など例外あり)」 ってのが通説だったのに。柳田國男が近世後期までの習慣を紹介しているなら、 見逃されてるはずないと思うんだけど。
[266] XユーザーのDr. Yusuke YAMASHITA, PhD, Associ.Prof. of CSRさん: 「歴史上、日本には「私年号」「異年号」と言われるものが存在する。これは、 元号の一字を縁起の良い文字に変えて使う、という縁起物的風習であり、 例えば、「延徳」を「福徳」として使用した事例が存在する(※二代古河公方・足利政氏の御書の事例)。 (参照:市村高男『足利成氏の生涯』)」 / X, , https://twitter.com/YAMASHITAnoID/status/1721055025487900672
[260] 「縁起物的風習」。足利成氏の生涯にそう書いてあるのか、この人がそういってるだけなのか。
[261] Xユーザーの幣束さん: 「何年か前に石仏の側面確認したら全く知らん年号出てきて検索しても無いし?????ってなったんだがアレも私年号だったのだろうな多分」 / X, , https://twitter.com/goshuinchou/status/1721357299237929184
[535] 日本社会事彙 下巻, 経済雑誌社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1805636/1/576
[241] 日本社会事彙 下, 経済雑誌社, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/898057/1/639
[242] 國學院図書館 Digital Library, , https://opac.kokugakuin.ac.jp/digital/diglib/yoshidakemonjyo-04/etc/kaisetsu.html
44 覚書 私年号等の覚
[304] 香取文書の売券から見える中世の東国 () https://www.yokoreki.com/wp-content/uploads/2018/07/%E9%A6%99%E5%8F%96%E6%96%87%E6%9B%B8%E3%81%AE%E5%A3%B2%E5%88%B8%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%81%88%E3%82%8B%E4%B8%AD%E4%B8%96%E3%81%AE%E6%9D%B1%E5%9B%BD.pdf
[461] Xユーザーの衣笠書林@猫の生活が第一さん: 「・・安倍晋三の私年号「令和」2年は昭和2年の再現、暗黒時代の始まりになる危険性が。しかしそれを防ぐ理性的な日本人は明らかに少数派だ。国内の世論ではブレーキが効かない、国際社会からの批判が殆ど唯一のブレーキだが・・ともかくいま出来ることはメディアの虚報・洗脳を暴露拡散することだ。」 / X, , https://x.com/syuugoro2/status/1235345830518951937
[570] https://rissho.repo.nii.ac.jp/record/1018/files/KJ00000189213.pdf #page=7