[185] 新字体は宝寿、旧字体は寶壽。 伝統的楷書の系統は寳壽。
[241] この小型宝篋印塔は、基礎のみが現存します。 >>247, >>230
[235] 時点の情報によると、 もとは能満城跡にありましたが、その後井原家で保管されるようになりました。 >>247
[242] の論文では、 能満城跡で出土した宝寿二年銘の宝篋印塔基礎部で、 読み取るのがかなり困難と説明されています。 >>240 実見して書かれたものかは不明です。
[244] >>242 を信じるなら元号年もがんばれば読み取れるということでしょうか。
[236] 地元の研究者らは宝寿を元号名と解釈していますが、 銘文を見ると元号年も年の字や干支年もなく、 配置の都合か他の行にわかれて月日があります。もう1行ありますが、 1文字しか判読されておらず、元号年や干支年では無さそうです。 果たしてこれが年表示なのかどうかには、議論の余地がありそうです。
[250] そこで >>249 の白黒写真を見ると、翻刻された銘文だけで伝わらない配置を知られます。 銘文の面は、左右2つの区に分かれています。その左下部分は崩壊しており、 一部は完全に判読不能です。
[251] 2区のうち、右の区の右上に、「宝寿」に当たると思われる凹凸の存在を確認できます。 実物を見ればおよその字形は読み取れそうです。 左の区の右上には「正」と思われる凹凸が、 左上には「十一月」と思われる凹凸が確認できますが、 各行の下部は不明瞭または破損しています。
[252] この配置をみると、右区には左側にあと1,2行は入れる余地がありそうですが、 文字が書かれていそうな凹凸は読み取れません。また、「宝寿」の下に文字が続くのかどうかも、 明確ではありません。直接観測した人達が銘文に何も書いていないので、 写真で判読できないだけでなく、実物にも文字はありそうに見えないのかもしれません。 が、非常に不自然な空白域が存在することになります。
[253] また、右区右行が年だとすると、 それに続く月日が左区左行にあるのも不自然に感じます。 いわゆる書字方向「小」は左右対称だから成り立つのであり、 この宝篋印塔のような配置ではあまり見られないのではないでしょうか。
[149] 天明2(1782)年壬寅3月11日、 >>145 が掘り出されました。 >>148
[151]
同時に經筒も掘り出されましたが、
そちらには
「天文廿年今月今日、信州住人順慶」
とありました。
>>148
(>>204 : 「
[163] 明珍信家 (? - ?) は、戦国時代の甲冑師です。 日本越後国府中 (現在の日本国新潟県上越市) に居住していたとされます。 長尾憲景に寵愛されたとも、 武田晴信の名前1字を賜った >>176, >>162 (ただし >>212 は反証を提示。) ともされます。 >>162
[160] 明珍家譜 に >>159 と書かれていたとされます。 >>157
[161] これはに山崎美成が引用したことで知られます。 >>157 その明珍家譜がどこの所蔵で、現在どこにあるのかは不明です。
[217] に編纂された鏨工譜畧 に >>215 が掲載されています。明珍信家の人物紹介と共にいくつか銘文例が提示されているうちの1つです。 >>212
[180] に伊賀上野の西沢長兵衛が出版し著者は不明という 古今金工便覧 に >>179 が掲載されています。明珍信家の人物紹介と共に2つ銘文例が提示されているうちの1つです。 >>176
[181] >>215 >>179 は花押があることから、ある程度実際の銘文の雰囲気を模したものと思われますが、 どれだけ忠実に再現されているのかは不明です。
[182] >>160 >>215 >>179 の関係は不明です。 いずれも直接の出典が実物なのか先行する別文献なのかは不明ですが、 何らかの情報源があっての記述と思われます。
[34] 用例が1点知られています。
[36] 伝承によると、 小和鎮座御霊神社は御霊神社本宮 (現在の奈良県五條市霊安寺町) からに分社しました。 分社の際、小和の氏子が御神体を背負って運搬し (他村と争っ) た逸話が残ります。 >>4
[73] また、小和の御霊社の略縁起は久留野の吉田氏に近代の写本があり、 原本にはとあったとされますが、 それによれば、神像は霊安寺から移したものです。 >>7 霊安寺は御霊神社本宮の神宮寺でしたが、神仏分離により廃寺となりました。
[41] 鎌倉時代創建の神社は、昭和時代の所在地より下方の平地にありましたが、 水害を避けるために移されました。 >>4
[118] 所蔵する定光寺は、その創建が建武3年とも暦応3年とも伝わります。 >>2 /3
[119] 祠堂帳には、文明から天正の頃の日付が見えます。 後筆の端裏書には、寛政5年癸丑の修補と記載があります。 >>2
[142] 各項目の順序は必ずしも時系列順と保証されていないとは考えられるものの、 おおよそ古いものから新しいもので並べられているようです。少なくても年単位では、 古い順とみて矛盾ありません。
[155] 天明2(1782)年壬寅3月11日、 日本信濃国で >>145 と >>151 が出土しました。 >>148
[153] 日本信濃国岩村田 (現在の日本国長野県佐久市岩村田) の研究者吉澤好道 (? - 春, 鶏山好謙こと吉沢好謙の子) は、 >>145 >>151 の模写図を作成し、 親交のあった日本越後国の穂積保に送付しました。 >>148
[154] 吉澤好道は、 >>145 >>151 が同時に土中に埋められたものと考え、 を日本出雲国では 「宝寿2年」 と別の元号を用いたのだろうか、 と穂積保の見解を求めました。 >>148
[152]
穂積保は春序の異年号考の
[171]
の栗田寛による
逸年號考
は、
[164]
、
山崎美成は
僞年號考附言
に
[166] この項目は異年号考からの転載のようにも読める書き方をしていますが、 現在知られている異年号考の記述とは出入りがあります。 >>157 異年号考に未知の異本があるので無ければ、 山崎美成が要約し按語を足したということになります。
[165] ここでは、 >>145 >>151 の出土のことを記述しています。これは異年号考と共通です。 >>157
[167] 「按ずるに」、と >>158 を紹介しています。これは異年号考にありません。 >>158 によりに比定でき、 >>151 のより天文であることは間違いないとしています。 >>157
[213] 5月に栗原孫之丞が編纂した鏨工譜畧 は、 >>215 を掲載しています。 >>212
[218] そこでは、 を宝壽元年と関東では称したことが知られると注釈されています。 >>212
[222] に尾關善兵衛永冨が編纂した 掌中古刀銘鑑 の 日本僞年号之事 は、 僞年號考 を出典としつつも独自の解説を追加しています。 寳壽 は独自と思われます。 >>255
[223] それによると、 関兼貞が打った刀剣銘で寳壽元年のものがあり、 応永後の作品と考えられるようです。 それ以上の詳細の記述はありません。 >>255
[224] 日本国石川県の歴史研究者森田平次 ( - ) の遺稿である 能登志徴 は、法徳と関係して僞年號の説明があり、 寶壽にも触れています。 >>221
[225] 宝寿の部分は古刀銘鑑からの引用という形になっています。 >>221 内容は >>223 と一致しています。
[228] とのすいけんこと福永酔剣の論文は、 校正古刀銘鑑を引いて、 関兼貞の作刀に宝寿元年と切ったものがあると紹介しています。 私年号で、宝寿元年は天文2年と説明されています。 >>226, >>227
[229] 昭和41年の論文では、お芽出度い文字だから、 美濃地方が凶作のとき縁起直しに使用したものだろう、 としています。 >>227 同稿では他の私年号にも縁起担ぎの意味付けをしています。
[168]
伴信友の逸号年表補考は、
[173] 伴信友の年号の論は、元号名のみ紹介しています。 >>174
[203] の和田千吉の經筒についての論文は、 銘文を列挙する中で >>151 と 「異年號」の >>145 を紹介しています。 >>202
[206] の高橋健自の経筒についての論文は、 >>151 と >>145 を紹介しています。 いずれも和田仙吉が図を所蔵しているとのことです。 >>204
[208] この論文では、 寶壽は異年號で、 天文21年 = 皇紀2212年に当たる、とされています。 >>204 /11 文脈より、宝寿2年は、ということと思われます。根拠は示されていません。
[211] それに先立つの高橋健自の論文は、 他の経筒を主題にしつつ当經筒等も紹介していますが、 >>151 と >>145 の銘文を掲載し、 寶壽は異年號で、 天文20年に当たる、とされています。 >>210 文脈上不明瞭ですが、 >>208 と比べると宝寿元年は、ということと思われます。根拠は示されていません。
[220] 大正時代の >>219 は、 經筒の一覧に >>151 と >>145 を掲載しています。 寶壽二年は異年號で、 とされています。 >>219 根拠は示されていません。
[188] 、 關口老雲は僞年號についての論文で宝寿について検討しました。 >>187
[194] ここでは、 >>189, >>190, >>191 を紹介し、干支年なく比定できないとし、一方で >>193 から宝寿元年は天文2年であること明瞭だとしています。 >>187
[195] そして、宝寿12年は天文13年にあたり、 命祿元年が天文9年とすれば天文中に2つの僞年號があったこととなるものの、 もとから俗間に用いたものであれば、必ず1つに定まっていたとはいえないので、 俗に適宜用いたのだろうとしています。 >>187
[183] に編纂された古事類苑は、逸年号の寶壽について、 >>178 と >>171 を掲載しています。 >>175
[184] >>178 に対しては、甲午年は天文3年に当たると注釈しています。 >>175 干支年と古今金工便覧本文記載の明珍信家の経歴による推定と思われます。
[42] に編纂された地誌 北宇智村誌 は、 >>35 を紹介し、保寿は異元号と考えられると注釈しています。 >>4 それがいつであるかは述べていません。
[43] 、 奈良県文化財保存課主事の吉川政治を主任とし、 佐藤雅彦と2名により、 北宇智村誌 編纂を契機とした北宇智村の第二回文化財調査が行われ、 >>35 が紹介されました。 >>4
[44] 銘文は「過般」の調査で発見されたとされており >>4、 >>43 がそれと思われます。
[49] の報告では、 保寿という私年号の神像が祀られていることは「かなり早くから知られていた」 とされます。 >>46
[50] 私年号が「かなり早く」から知られていたとすると、 >>44 と矛盾するようですが、 どうなのでしょうか。
[51] この記事によると、保寿をとし、 神像を室町時代の擬古作とする説が「かなり強かつた」そうです。 >>46
[52] 、 奈良文化財研究所が調査し、 「きわめて明らかな藤原時代の特色」 があると報告しました。 >>46
[53] また、銘文の書体は、「ほぼ藤原の末頃のものとも云われる」とされます。 >>46
[54] 銘文中の「仏師僧厳意」は他に所伝なく不明です。 >>46
[55] 銘文中の「願主伴久行」は、「きわめて近い名」の一族の者達がに興善寺の釈迦如来像を造ったことが知られています。 >>46
[62] の史料集で土井実は、 保寿像銘文に簡単な注釈を加えています。 >>5
[47] それによると、
保がつくのは保安, 保延, 保元しかなく、保寿はない... とのことです。 >>5
[67] 唐突に天文元年説が提示されています。銘文等の根拠からそう考えることも可能だが、 という仮定の話というよりは、天文元年説を唱える者もいるが、同意しない、 という趣旨と読むべきでしょうか。
[68]
具体的な比定年は明言していませんが、
[69] の土井実の年表では、 保寿元年は天文2年と天文3年の間に配置されています。 >>32 こちらには説明がなく、理由は不明です。
[75] の自治体史は、 保寿を「私年号らし」いとしています。 >>7
[76] また、造像は「中世の末と考える方がよいようである」としています。 >>7
[77]
編者の一人
[90] 同書の別項では、
... と断定しています。 >>3 /91
[95] 更に別の項では、保寿を私年号と紹介しています。 >>3 /361, /362 しかし、比定年は空欄としています。 >>3 /369
[96] また別の項では、 中世の末尾に比定年なしで掲載しています。 その上で、次のように解説しています。 >>3 /385
[201] 昭和時代の日本国奈良県の歴史研究者田村吉永は、 昭和32年と昭和47年の論文で、 日本国奈良県宇智郡北宇智村大字小和 (昭和の大合併により五条市小和町) 御霊神社の女神像の墨書銘を紹介しています。 >>20, >>200
[16] 墨書銘には
などとあります。
[17] 国史辞典には「保寿元年継続一年後奈良天皇天文元年」とあります。 >>20, >>200
とあります。
[24] 明珍を天文弘治の頃とし、よって天文3年とする説があります。 >>200
[27] 甲斐国志に明珍は天文・弘治の際に及ぶ人とあり、 明珍在世中の甲午年は天文3年なので、 宝寿元年は天文2年とされます。 >>20 (金石文に現はれたる異年号について)
[28] 逸年号考によると信濃国佐久又郡上畑村宝塔に 「宝寿二年今月今日」 とあります。 >>20
[29] 国史辞典の保寿元年 = 天文2年説は >>27 >>28 の宝寿との混同とも思われます。 何に依拠したか不明で、小和の女神像の墨書以外にもあるなら要検討です。 >>20
[19] 奈良国立文化財研究所の小林剛は藤原時代末の神像としています. >>20, >>200
[30] 田村吉永によると、 墨書そのものも決して天文まで下るものではありません。 >>20
[31] 田村吉永はいつに当たるかはわからないものの、 造像時期から藤原時代末と考えるより仕方がないとしています。 >>20
[143] に発行された史料集で、 >>117 が紹介されました >>2。 「保寿」に何も注釈はなく、編者が私年号と認識していたかは不明です。
[237] やに日本国千葉県市原市が発行した書籍は、 >>231 を紹介しています (「宝寿」 (年無し) の銘文を掲載しています)。 宝寿は私年号であり、 に相当すると述べています。 >>230 それ以上のことは説明されていません。
[245] のこの地方の石塔物を対象とした論文では、 >>231 について、 宝寿2年をとしています。 >>240 それ以上のことは説明されていません。
[108] 保寿が私年号の代表例の1つとして紹介されることがあります。
[8] 仁安説により(中世)私年号の最古のものとしばしば紹介されています
[116] 日本語版ウィキペディアの一覧表には保寿が初期から掲載されています。 当初は「仁安2年(1166年)?」だったものが、 に「仁安2年(1167年)?」 に訂正されています。 >>115 元号年と西暦年の関係性は後者が正しいです。
[世界大百科事典内の保寿の言及
【異年号】より
,異年号が初めて現れるのは12世紀後半である。まず1167年(仁安2)に当たる保寿の年号は,平清盛の全盛時,平氏と藤原氏の対立を背景に,藤原氏の息災を願う者の使用するところ,
旺文社日本史事典 三訂版「私年号」の解説
私年号
しねんごう
狭義の私年号としては,平安末期の保寿が最初とされる。
平安末期の保寿(ほうじゅ)(1167年頃)が狭義の私年号の最初とされる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」
平安末期の保寿(ほうじゅ)(1167年頃)が狭義の私年号の最初とされる。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 保寿 - 仁安2年(1167年)? 不明 奈良県五條市御霊神社神像銘
[38] 時系列 :
[11] 奈良県史 - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?id=alpMAQAAIAAJ&q=%22%E4%BF%9D%E5%AF%BF%22
57 ページ
O 天文元年(一五三三)八月九日保寿元年 1870 瑞景寺五輪塔地輪奈良市法蓮町八月廿一 1872 五條市御靈神社神像銘 1871 松井寺一石五輪塔五條市須惠一丁目梵道性禅 願主件久行梵道春右為. 1869 春日大社石灯籠奈良市春日野町三輪神社登道北、花崗岩、 ...
58 ページ
五條市大野町 8 五、側面九·八造立之公師僧敬意天文元年寿殊致精誠 1875 造立如右敬白「保寿元年」は私年号とみる。保のつく古い年号は「保安」「保延」「保元」的名加、「保寿」士見当在 S。「宝寿」という私年号があって、「天文元年」に相当するので、 ...
[33] 奈良県大般若経調査報告書 1 /本文篇, 奈良県教育委員会事務局文化財保存課, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12748404/1/32?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7 (要登録)
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