天授 (日本)

天授 (日本)

[1] 天授は、 日本の元号の1つです。 南朝の元号でした。

元号名

[249] 天壽天授の異表記とされます。

天壽

[221] 読みは、 「てんじゅ」 です。 >>220

用例

南部家文書の用例

日時事例

[248] >>88 については情報が少なくよくわかりません。

佐倉藩領の用例

日時事例

[247] 情報がなく現況不明ですが、 >>168 に掲載があるので昭和時代初期には現存していたのでしょうか。

[250] 不審で偽文書ではないかとの説 (>>158) もあるものの、あまり検討されていないようです。

近代南朝顕彰系用例

日時事例


[91] 鉄道 第14年(3月號)(165), 鉄道共攻会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1547683/1/25?keyword=%E5%A4%A9%E5%AF%BF (要登録)

但し玉山宮の遺址は紀 州入口と呼ぶ山里にして字玉山の 半腹に天壽二年と刻せる字を朧毛 に讀み得らる古碑の存在せし事を 近來發見せられたとの事である。


日時事例

[214] 昭和時代の書籍に写真 >>215 と翻刻 (手書き文字) が掲載されており、 その説明によると、寺部家は皇室から拝領したという菊花紋付きの物品を所蔵すると共に、 当写本の原本を所蔵するのであり、当写本は昭和17年に郷土史家星川良吉が書写したものです。 >>211

[216] 寿に注釈がありますが、いつ誰が書き入れたものか不明です。


[218] >>217 は本文と年表で天寿と書いています。 >>224菅野善三郎述として収録しています。


[226] 次の諸書は長慶天皇の登山の旨で天壽と書いています。


[171] 次の諸書はおそらく同系統で、 宗良親王の事績紹介に天壽三年云々と書いています。


[183] >>182 天壽四年冬云々

近現代出版物の用例

[54] >>52>>53 を引用して説明するもので、時系列で正平の後に書いていますが、 説明文中でもことわりなく天壽二年に至り云々としていて、 天授のことを疑問なく天寿と考えて使っているようです。


[243] >>242後亀山天皇南朝天壽六年云々と縁起を説明しており、 原出典から天壽だったのか検討を要します。


[45] >>47, >>44毛利貞親天壽元年八月死去としています。 文脈より誤植と思われます。 ただしウィキペディア1月としています >>46

[40] >>48 >>39 >>50 >>51天壽元年島津義久日本国宮崎県都城市に築城したことを説明しています。 島津義久 = 北郷義久に築城しました >>41

[124] >>123長元, 永承と共に「天壽二年八月五日」と書いています。

[43] >>42天壽元年七月の伊賀国解状 (東大寺文書) を引いています。 天授元年7月の誤植と思われます。

[180] >>179西園寺公良天壽三年岩瀬城に入って松葉城と改称した、 と説明しています。現在一般には日本伊豫國宇和郡 (松葉のある地) に入ったと説明されているようで、 はその翌年にあたります。

[92] その他文脈より明らかに天授の誤植たるもの :

諸説

[251] 江戸時代中頃からたびたび紹介されていますが、天授の異表記という解釈で一致しています。

[252] その異表記の意味には言及しないものが多く、推測を加えたものも各論者の感触を述べたに留まっており、 議論は深まっていません。


[253] 南部家文書の用例 >>6 については、 よく参照されていますが、これまで形態、内容とも何ら不審点は指摘されておらず、 まさしく天授年間のものと考えてよさそうです。

[254] その意味について、 死期を悟った著者が天寿を全うしたことを喜んで天授から天寿に替えたなどと説明するものもありますが、 物証も何も提示されておらず、面白い説話と評しておきましょう。

[255] 佐倉藩の用例 >>8 については、干支年がまったく一致しないのが問題となります。 元号年十二支で最低2文字の訂正が必要ですが、 いかにも南朝方といった内容だけに、他の公年号の異表記とも考え難いところです。 従って偽文書説も説得力を持ち得るところであり、一考を要します。

[36] 誤りでも偽文書でもない可能性として、日本の公年号で天□3年乙未は他に天喜があります。 天福も該当しますが、2年で改元されていて延長年号になります。 天喜天寿と誤った事例が少なくないので容易に捨てるわけにいかず、 内容の整合性を検討する必要があるでしょう。 天喜

[256] 現在までに知られる確実に前近代に遡る用例はこの2例のみです。 同時代的によく用いられた異表記にしては少なすぎるように思われますが、 南朝の弱体化著しい時期ですから、元々利用者が少なく、残存するものは更に少ないと考えると、 数は問題ではないかもしれません。

[257] しかし南朝方としてよく知られる南部氏の >>6 はよいとして、 奥州とも吉野南朝方勢力圏とも離れた佐倉に孤立する >>8 の存在には問題が残ります。

[258] 近代の出版物等にも天寿は一定数出現することが確認できます。 その一部は偶発的な誤りでしょうが、いくつかは先行書籍の転載で異表記が引き継がれたと思われます。 その一部または全部は前近代の手書きの文献に由来する可能性があります。

[259] 中でも長慶天皇南朝の事績の紹介でしばしば出現する (史実性の疑わしいものも含みます。) ことが注意を惹かれます。そうした記事の執筆時に参照された未確認の書物の 「天壽」 表記の影響を受けた可能性があります。 近世から近代にかけては長慶天皇等の顕彰の動きが強まった時期であり、 その中で「天壽」表記がどの程度流通していたのか追跡作業が求められます。

研究史

[142] 日本国佐倉藩で編纂された地誌 佐倉風土記下総国印旛郡瀧村瀧水寺条に、 その建武五戊寅八月八日鐘銘についての考察があります。 >>143

[144] その1つは、建武は南朝では3年に改元したのに対して、 北朝では5年戊寅8月28日まで使っており、 下総国後醍醐天皇足利尊氏に与えた地であるから、 その関係で建武をまだ使っていたのだろう、 との推測です。 >>143

[145] もう1つは、

としています。 >>143

[246] この書き方からすると佐倉風土記の編者自身は実物を見ていないのでしょうか。

[165] 日本水戸藩士で彰考館大日本史編纂にも従事した研究者の小宮山楓軒 ( - )楓軒偶記 は、 >>142 を引用していますが、 検討を要するとのみ書いています。 >>163

[1935] 江戸時代の研究者伴信友は、 下総國の佐倉志に、 印旛郡瀧村瀧水寺のことを書いてあり、 「藏國司藤原朝臣手狀、曰不可隨武家等、 亦似自南朝置國司、然其狀記天壽三年乙未二月八日、 按大寶以來無有天壽號矣、 但吉野乙卯改文中爲天授、未考授壽以音通用耶否、 天授三年乃丁巳而、己未其五年也、終號不有乙未焉、 若果天壽通天授則三當作五、 乙當作己耳、未知古紙蠧漫之所致乎、 抑其狀之不眞乎」 とあるとしました。 >>1731

[2] 伴信友は、 指摘の通りであって、 乱世の東国の未熟な者が壽と誤って書いたものを、 紙が古くなって五を三、己を乙とみえたものだろう、 としました。 >>1731


[86] 序の 三翁昔話 は、 八戸氏の歴史書ですが、 >>6 (と >>89) を収録し、天授年間に掛けています。 >>85 それ以上の説明はありません。


[136] 近世後期頃の成立という 八戸南部系図 は、 >>6 を収録し、 時系列で正平の後に置いているようです。 >>135


[96] の書籍は、 >>6 を紹介し、 「 ((マヽ)) 」 と注釈しています。 また、時系列で天平の後に置き、 本文でも天壽二年云々とそのまま時期の表現に使っています。 >>95

[104] の史料集は、 >>6 を紹介し、 「 ((授)) 」 と注釈しています。 >>55, >>66 それ以上の説明はありません。

[65] の書籍は、 >>6 を紹介し、 「 ((授)) 」 と注釈しています。 >>64 それ以上の説明はありません。

[100] の地方史は、 >>6 の日付「天壽二年」と他の「天授六年」などを列挙し、 吉野朝元号であると述べています。 >>99 それ以上の説明はありません。

[82] の論文は、 >>6 を紹介し、 「寿 () 」 と注釈しています。 >>80 それ以上の説明はありません。

[58] の史料集は、 >>6 を紹介し、 「 ((授)) 」 と注釈しています。 >>55, >>66 それ以上の説明はありません。

[84] の書籍は、 >>6 を紹介し、 「天寿二年( 一三七六)」 のものとし、 「天授年代 (一三七五―)」 は云々と説明しています。 >>83 それ以上の説明はありません。

[112] , の地域史は、 >>6 を紹介し、 天授2年文書として 「天寿二年」 を掲載しています。 >>115, >>111 それ以上の説明はありません。

[118] の地域史は、 「天寿二年 (一三七六) 正月」 として >>6 を紹介し、 「寿 ((授)) 」 と注釈しています。 >>117 それ以上の説明はありません。

[129] の地域史は、 >>6 を紹介し、 天授2年文書として 「天寿二年」 を掲載しています。 >>128 それ以上の説明はありません。

[109] の書籍は、 >>6 を紹介し、 「寿 ((授)) 」 と注釈しています。 >>108 天授南朝の元号と説明していますが、 それ以上の説明はありません。


[79] 年号読方考証稿 は、 元号の読み方の史料集ですが、 >>6 を紹介し、 同音なのでこう書いたものだろう、 干支年が一致する、 南部氏南朝正朔を奉じていたので疑いないと思う、 と注釈しています。 >>78


[245] 昭和39年の久保常晴の論文は、 >>6 >>8天授同音異字の異年号として紹介しています。 >>8 については5年己未のに誤ったのだろうと注釈しています。 >>244

[18] 昭和42年の日本私年号の研究は、異年号のうち、 私年号ではなく同音異字年号天寿を分類し、 次のように説明しています。 >>5


[106] の書籍は、 本文中で「天寿、二年正月」 のように書いています。 >>105, >>122 それ以上の説明はありません。

[107] は本来の前に置かれるのが妥当であり、 誤植と考えられますが、 何らかの情報源の原文から転記するに当たり、 「天寿」を元号名と認識できずに先行する語句 (固有名詞) の一部と誤認し、元号年の前にを入れて句を分けたとも考えられます。

[75] の書籍は、 >>6 の写真を掲載していますが、本文では特に触れていません。 ただし本文では「信光が天寿をまっとうすると、」 と述べています。果たして >>6 の紀年を意識したのでしょうか。 >>72

[71] の書籍は、 >>6 を紹介し、 天授2年1月22日に譲状をしたためた後、 天授2年1月23日に死去したのであり、 天授を全うした感で満たされていたのであろう、 天授天寿と書いて満ち足りた心で冥福されたことであろう、 と解説しています。 >>68

[121]


[127] その他、 >>6孫引きして 「天寿2年」 表記になったと見られる事例 :

関連

[35] 天喜の誤りと思われるものがそれなりにあります。 天喜


[77] >>76 天壽二年十月、前後から久壽の誤植。


[192] >>191 淳和天皇天壽四年天長


[195] >>193 天寿四年閏 四月十八日没。天平宝字4年 >>194

[196] どのように誤りが生じたか検討を要する。


日時事例

[201] 天授4年は閏月なし。 近くだと天授5年閏4月。 (ただし北朝暦による。南朝暦があったかは不明。)

[202] 他の公年号4年閏3月は、

[208] 茜部庄日本美濃国厚見郡にあり、東大寺領。 美濃国守護地頭らは北朝方。

[209] 茜部庄では頃伊勢大神宮役夫工米が賦課、 に免除宣旨を得た、という流れがあるとのことで、 その流れからすればが該当します。

[210] いかにから寿となったものか検討を要します。


[37] 寿命の意味で書いたものが「天寿年」のような語形になった事例は案外少ないようです。 このような言い方があるとしても何十何才くらいが普通だからかもしれません。

天授への改元

[4] 新田の旗風 : 南北朝史, 秋山英一, 片山才一郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12269448/1/193?keyword=%E6%94%B9%E5%85%83 (要登録)

メモ