[17] 萬喜 (新字体: 万喜), 高喜 は、 マタギの文書に出現することのある元号です。
[18] 東日本のマタギの家には 山立根本巻 などと呼ばれる秘伝書が伝わることが多いそうです。 それらは大筋で一致しながらその細部は異なる、つまり異同のある写本がいくつもあります。
[19] そして写本によっては奥書に独特の元号が書かれています。
[27] 時点で日本国秋田県の歴史研究者髙橋正は、 この分野は資料の収集・分析に至るまで論じ尽くされた感すらある (が実際にはまだ研究の余地がある) と指摘していました。その当時 山立根本巻 の奥書は 「建久四年五月」 ないし 「建久四年五月中旬」 とあるのがさも当然のように論が進められていました。 >>26 #page=1 おそらくそれが最も一般的な写本の系統なのでしょう。 ところが髙橋正も紹介するように、 奇妙な元号を書いた写本も存在するのです。
[14] また、 山立根本巻 と関係する文書が無年号だったり建久4年だったり元慶4年だったりするとのことです >>13。
[15] この種の文献の奥書はあまり信用できないのかもしれません。 はじめから作為ある日付が書かれていたのかもしれませんし、 伝写の過程で変化しておかしな日付になったのかもしれません。
[11] 佐藤雲外は昭和時代の民俗研究者藤井萬喜太の調査 (>>55) を引いて萬喜は私年号でおそらく元中2年だろうとしています。 >>9, >>12 藤井萬喜太の解説のままと書いているので、 これは藤井萬喜太の見解かもしれませんが、 判断の理由は書かれていません。
[128] 藤井万喜太の調査結果がいつどこで発表されたものかは不明。 佐藤雲外の言及の翌年に関係しそうな題名の論文を発表していいる >>127 ので、 続報があるかもしれません。
[21]
昭和時代後期の大迫町史は、 >>10 の万喜は、
「
[23]
大迫町史
は、 >>22 の萬喜は、
「
[92] の論文で 「万喜元年(架空)」 と書いているものがあるようです。 >>91 詳細不詳。
[44] 冒頭文 (例えば >>42) は清和天皇 (現在の数え方でも第56代) の元号が高喜であるように読めますが、 実際には践祚時の天安と代始改元の貞観 (と譲位後の元慶) です。約50年後に延喜となるのが最も近い「喜」です。
[90] 昭和時代中期の民俗学研究者山口弥一郎は、 「高喜元年人皇五六代清和天皇」などと書いているが 「高喜という年号が見えるわけではない」 と述べています。 >>86 意味はよくわかりませんが、清和天皇時代に高喜という元号がないことを言っているのでしょうか。
[29]
平成時代の研究者髙橋正は >>61 (と >>60) の高喜を
「
[31] 髙橋正は他本の奥書の「建久四年」に近い建久5年がちょうと甲寅年であることと、 他の関係事項も含めて考察しています。 >>26 #page=6 ただし「建久四年」系統の写本と「甲寅歳」系統の写本の関係性が不明なままでの検討は不安が残ります。 より多くの資料を集めて考察の深化が望まれます。
[96] 平成時代の歴史研究者藤田恒春は、 偽文書研究の文脈で、 平成時代初期の網野善彦の研究を引いて 「高喜甲寅歳」 と書かれた文書を 「全く架空の元号をもつ偽文書」 と述べました。 >>95 「全く架空の元号」との判断が網野善彦によるものなのか、 藤田恒春独自の見解なのかは不明です。
[30] 髙橋正は慎重ですが (>>29)、 書き方と異本の記述を鑑みて、 これは元号名とみなして問題ないと思われます (他の解釈も思い当たりません)。 「高」はこの写本では「高」ですが、「髙」と書けば「萬」と字形がかなり似てきます。 山立根本巻 諸本には誤字が多いとされ、異本と比べて微妙に文字が変わっている例もありますから、 これも同じとみて構いません。 ただしどちらの文字が原形だったのかはわかりません。 どちらも原形とは違う可能性もあります。
[71] 昭和時代後期の民俗学研究者佐久間惇一は、 その収集した 山立根本巻 について、
があったと報告しています。 >>62 /55
[130] 山立根本巻 はマタギ研究の基本資料で、よく言及されていますが、 書名や一部の紹介が多く、有名な割には全文掲載されることは多くありません。 東北地方各地に多数の異本が現存するようですが、 それらを収集して比較検討する研究も、この資料の重要性に比べると少ないです。 特にその奥付の日付に注目した研究は >>29 と >>71 くらいしか見当たらず、「万喜」と「高喜」の両方を掲載しているのは >>71 しかありません。
[131] この分野は地方自治体の自治体史編纂事業や博物館学芸員などに関係する地域史・地域文化の研究者による取り組みが多いように見受けられます。 そのために多くの報告が地方自治体単位の資料収集・比較に留まっていて、 広域的に分布する 山立根本巻 諸本の比較検討、系統分析を行う動機に欠けているのかもしれません。 また、偽文書であることが明らかで、文献史学方面からの興味も惹かれにくいのかもしれません。
[132] 「万喜」「高喜」の存在は昭和時代初期から知られていて、 私年号説、架空の元号説などが提示されていますが、 令和時代に至るまで元号研究、私年号研究の方面では見逃されてきました。 これも文献史学に近い元号研究分野や関東の仏教考古学を中心とした中世私年号研究分野と東北地方の民俗学分野との距離の遠さによるのでしょう。
[133] これら一連の文書の冒頭と奥付の紀年は、
とまったくばらばらです。「万喜」と「高喜」を除けば字面も似ておらず、 続く年月日の記述にも違いが多いです。地理的な分布も混在していて、 地域差が異本の伝播の違いともなっていません。
[138] 日付以外の本文も含め、諸本を広域的に収集、比較分析し、 原形がどのようなもので、どう変化しながら広まったのかを解明する作業がまず必要でしょう。 それはマタギの諸派の活動実態、各地域への進出や地域交流の様子とも深く関わっているはずです。
[157] 諸本の成立時期がいつなのか、祖本の成立時期がいつなのか、 その中で「万喜」「高喜」がいつ出現したのかを解明する必要があります。
[139] 万喜 (萬喜) と高喜が同源なのはほぼ間違いないでしょうが、 どちらが原形なのか、どこから生じたのかも解明が必要です。 何らかの公年号から派生したのか (候補は思いつきませんが)、 他の何らかの語句の誤読から発生したのか、 それともまったく架空の元号として創造されたのか、 だとしたらその目的は何なのか。
[158] 他のマタギ関連文書等に用例はあるのかどうか、 マタギと関係しない文書等、他地域の文書等に用例はあるのかどうか、 の調査も必要です。 現時点でウェブ上にはそのような情報は発見できませんが、 電子化されていない文献に出現例が眠っている可能性はあります。
[140] 年数は元年と明記されたものと、省略されたものがあります。 どちらが原形なのでしょう。単純な多数決なら元年でしょうが...
[141] 干支年は万喜が乙丑で揃っていますが、 高喜は壬戌, 甲寅, 甲戌とばらばらです。甲寅が多いでしょうか。 これはどう理解するべきなのでしょうか。 これだけ違いが多いと、単純な誤写では片付かないようにも思われます。
が該当する年です。
[154]
想像を逞しくして、「貞
[142]
年の字は天が目に付きます。天は近世によく使われていました。
[143] 月日は万喜が4月17日で揃っていますが、 高喜は省略されたものが多く、7月や7月1日のものもあります。 この日付にはなにか意味があるのでしょうか。
[144] ウェブ上にない諸本にはこれらとは異なった特徴のものもあるかもしれません。 更なる調査が望まれます。
[145] 現時点の情報では、 高喜と万喜は、 マタギの伝承中の清和天皇の時代を記述するため発生した私年号 (古代年号と同種のもの) と理解しておくのが妥当でしょうか。
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... 巻第五號山. ンの卷物亦此の類で、田舎者の純朴なるよく其の言ひ傳へを違奉し、開けて見以所に其の食厳と威宝とが保持されて ... 立根本裕なるものを秋田地方のマタギが傳へて居た。余輩の探訪にかくるもの、秋田営林署の培村卯助君より二篇、之を假りに甲 ...
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歴史地理第五十九巻第五號山民マタギの研究(喜山)四五四たけなかで其の宣命書きを讀み易き樣本假字交り書き下しとして、煩はしけれど$左に紹介する。山立根本念抑人王五拾八代清和天皇の御時、關東下野國日光の麓に、万事万三郎と云ふ人あり。天智天皇より十七代の子孫なり。下野國に流され、日光山の麓に住み給ふ。此の人天下無双の弓の上手なり。譬へば天に飛ぶ鳥の聲を聞いても、射落さずといふ事なし。さろに依て山へ行き、鹿猿 s ろくの歌を射殺して月日を暮らし給 ...
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... 注意すべく、終に、萬喜元乙丑天四月十七日右先祖山立家相傳此卷物之趣令傳者万三郎六十八代孫相野氏とある。此の万事万三郎の說話は、奥州遠野地方にもあるらしく、嘗て同地の土俗研究者佐々木喜善君が、何かに書かれた事があると聞く。大の筋は近江の湖水の龍神が、田原藤太に依嘱して三上山の百足を退治した說話と同じ事で、敢て異とするにも當らいが、共の報酬として與へられた狩猟權は、津輕高野ュタンの ...
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... の火にかしつた凡ての料理品は、絕對に出獵せるものの家に入れない事にして居るとある。是は勿論山神に對する遠慮で、前記山立根本念にも、萬三郎が伊佐志明神と航はれ、山の神にておはします。之に て産火死火を忌むなり」とあるの. 52.
63 ページ
... (寺石ギタマ○取締令禁裏御警衛戊辰役参加叉鬼、即ち狩獵人達は物、或は證文と稱し、建久四年、萬喜元年、高喜元年など年號のある秘をば所持してゐるが、その内容には、彼等の大祖先の萬字萬三郎といふ者が、武藤鐵城秋田マタギ諸資料.
この時
代は高喜元年人皇五六代清和天皇 (八五八―八七六) などと書き、ときに清和天皇・弘名天王など の判まで見えるが、高喜という年号が見えるわけではない。それよりはるかくだって鎌倉期、し かも頼朝のご朱印のある建久四年 (一一九三) の「山立根元巻」というのが流布されて、只見町の 水没村田子倉の皆川甚平という狩人などは持っていた。
613 ページ
... 清和天皇山判高喜元天尤心外無別法者山崩計也其時萬三郎少*不騷白木之弓神通神矢取引操奇引而放者明神之左`御目發立者亦奇引,放矢右,御自發*當者神變武*明神*兩眼被射而其儘黑雲*一成而上野`山江行給扠日光權現者大喜給從夫內裏登-萬三郎物語弓,名人御咄 ...
53 ページ
... 清和天皇五拾六代之御時関東下野之国日光山之山麓爾萬事萬三郎止云人從天智天皇拾七代子孫也下野国被流日光山麓爾住此人天下無双之弓上手也譬波天於飛志鳥成止毛射落左寿止云事奈志依而去山江行鹿猿色々埜獣於射落志天月日於暮志給所爾上野国赤木明神止 ...
55 ページ
... 高喜元歳也仁皇五十六代之孫清和天皇奉申其頃関東下野国日光山麓二萬治萬三郎ト云狩人有之弘明天皇九十三代後胤也下野之国日光山麓住玉此人天下無隻之弓術之達人也天高々飛行ノ鳥迄モ声聞不射落無云支依テ是レ山歩行シ鹿猿色々之獣物射殺シテ身命續月日ヲ送玉ヒケル然ルニ彼ノ所 ...
56 ページ
... 清和天皇弘明天皇己上日本六十余州地々裏々島々之山々嶽々ニ至迄天下一ットゥ代々御証印ノ者如件♡山達根本之巻<日光派〉(打当シカリ鈴木辰五郎氏所蔵)山達萬三郎源助成花押 五月中旬事然者汝是日本一之. 立也一位山/守護権現ト奉仰今御座ナリ依去山立何 ... 高喜甲寅歳赤木之明神者其長拾八尋之大蛇爾天御座寿依去度々軍尓御負被成恵留或時権現白鹿登成天山於出天給処尓万三郎此鹿射取武止昼夜三日三夜之間押掛留去登茂此鹿尔矢不當万三郎不思議尓思天日光山之御堂之前迄天押掛利行見礼波鹿忽尔権現止頭礼如何万三郎 ...
205 ページ
... 高喜元年という存在しなかった年号としたものである。前者が九州方面の狩の巻物のうち、狩猟のはじめをこの点ではむしろ高野派の巻物には、住民の慣行の一部が含まれており、口頭伝承には第一節に記したような、二人の狩人があって神の恩恵を受けた者と ...
... 動雷電稲妻ハ山モ崩ル計也去共万三郎少モ不」騒白木ノ弓ニ神通鏑箭取而作イ寄引而放矢が明神之左之御( ? )抑山達初リハ高喜元年也然者人王五拾六代之帝ヲハ清和天皇ト申其頃関東下野国日光山之麓二満治万三郎芸人( ? ) (延? ) 1 山達初り 12.
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... 元年仁平淳助狩人弐人御賄壳夜分受取申候追而御判紙引替可申侯以上文久四年 以上のマタギ文書中、時以上の用例 御賄狩人七人老夜分請取申侯右者鹿討御用明罷帰候時追而切八十六已二月明治二年茅根喜 ... 元年山崎運助(印)狩人老人昼食御賄老攵度請取申侯右者 ...
344 ページ
... 万三郎白鹿於射取止昼夜三日押掛気留去共鹿雨矢不当万三郎不思議爾思天日光山之御堂之前迄押懸行見礼波白鹿忽千爾権現止顕礼 ... 元量寿学仏止願念志天神通之矢於寄曳兵止離世波明神之左御眼爾噹止立石流之武幾明神毛二度矢亦右御目爾立気礼波両眼被射其儘村雲止成利上野国江引給日光山権現大仁喜給天從其內裏江上里給天万三郎加弓之上手一々次第奏聞有気礼波公卿大臣茂舌於卷感給布其時從內裏御朱印於被下置日本国中 ...
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... 年から猟師渡世をしてゐるが山の不思議なんかに会った事はない。方々で話は聞くが理窟に会はない話で話しにならぬ。 1 宝川 ... 高喜元年也仁王五十六代之帝者清和天皇奉申其頃関東下野国日光山麓万治万三郎云人有是然者弘名天王九十三代之末孫也下野国日光山麓住給、此人天下無双弓之上手也、天飛(越後北魚沼郡湯之谷村下折立、星秀文氏蔵)狩の巻物[ (七) (八)大坪沖衛氏談〕(昭和十二年三月 ...
393 ページ
... 高喜元天. オ十二サマと云ひ春は旧二月十二日秋は旧十月十二日に祭りがある。皆寄って酒を飲むだけである。供物として頭付きの魚をあげたがどんな魚でもよい。オコヂョと呼ぶダボハゼの如き頭の大きい川魚は旧十月二十日のエベス講に供へたものだ。オ十二サマがどう ...
394 ページ
サンカとマタギ 谷川健一. 尤心外無別法高喜元天座而其時権現仰鳧様者、何万三郎御身是迄連来事別之子細"而不者上野国赤貴之明神度~之合戦仕候然者赤樹明神〝十八`蜈蚣也我者大蛇成依合戰負也汝者日本一之弓之上手汝頓赤城明神為射利度御身頼今度合戦”勝成 ...
64 ページ
... 高喜元年也仁王五十六代之帝者清和天皇奉申其頃關東下野國日光山麓"萬治萬三郎云人有是然者弘名天王九十三代之末孫也下野國日光山麓住給、此人天下無双弓之上手也、天飛鳥迄聲聞者射落無云事依之山行鹿猿狩の巻物(越後北魚沼郡湯之谷村下折立、星秀文氏藏) ...
二通を一通にした
木下秀吉書状について ―偽文書作成の真意をさぐる― 藤田恒春
網野善彦がいうように偽文書を偽文書として切り捨てる
ことは、その由緒などの上に立ってさまざまな歴史像をつ くりあげてきた人々の世界を顧みないことに通底しよう。 たとえば、マタギの由緒を記した『山達根本巻』は、ひと つは「建文四歳五月中旬」、今ひとつは「高喜甲寅歳」、と いう全く架空の元号をもつ偽文書であるが、少くとも近世 秋田藩内ではマタギの由緒と特権を語る根本史料として今 日まで伝えられてきたのである。そのまま信じることはで きないにせよ、マタギ集団の歴史を窺ううえでは捨象しき れないものであることを網野は言っているのであろう。 (
4 ) 網野善彦『日本中世史科学の課題―系図・偽文書・文書―』一八󠄂三頁、弘文堂、一九九六年。秋田県北秋田郡阿仁 町「鈴木松治氏・伊東仙一氏蔵文書」。
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... (高)「奥州五十四郡のうち猟廻るべしの由(他)「山の神より七つ峯七つ谷を下さる也、そのときよりまたきと申すなり」|万喜元年(架空) (日)「日本国中山々嶽々その身そのままにて行かざる所なく山立許すことなり」建久 4 年( 1193 )宝永 3 年( 1706 ) (日)「この末汝に嶽々山々嶋々まで獣もの汝あたふるものなり」(日)「日本国中山々嶽々知行今御朱印下し置し山立御免」(日 ...
[93] ページ番号に従うと、これか?
(写真あり)
最終箇所に萬喜元?とあります。
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宮城県仙台市より
[5] 紀伊続風土記 所収 熊野別當代々次第 および 新宮市史 所収 熊野山別当次第記 に 「三條院御時萬喜元年十一月十三日」 とあります。 >>4, >>7
[6] 前後の文脈から、三条天皇の次の後一条天皇の萬壽 (万寿) を意味することは明らかです。 直前に「萬壽元年六月廿日」ともあります >>4 /83。
[8]
新宮市史
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