2015/7/24 17:10 《現在地》
現在、全長約1.3kmの旧道のラスト200mに差し掛かっている。
だがそこには、手前200m辺りから遠望出来されていた、大規模な路盤流出地点が横たわっていた。
500m手前の、おそらく橋が流出していると思われる地点よりも、さらに長距離にわたって、路盤が失われていた。完全に川に削り取られてしまっている模様。
ここを越えれば、すぐにゴールだ。奥に現道が見えている。
どうせ自転車を置き去りにしているので最後は戻らねばならないが、折角ここまで来たならば、“完抜”で締め括りたい。
そんな気持ちで歩みを進めた。
この場所は、もともと難所と呼べる地形であったと思う。
道は、蛇行する川の流れが山にぶつかり、激しく岩肌を削る“衝”の部分を横断しており、これは最も典型的な“川道の難場”である。
たとえ洪水がなくても、つぶさに保守補強を続けなければ、やがて浸食によって壊される運命にあった道だろう。
件の大水害は、平時なら数十年分にあたる変化を、わずか数日の間にもたらしたようだ。
ちなみに、この分かりやすい難場が、新宮市の大字相賀と大字高田の境になっている。これは明治22(1889)年の町村制施行により高田村となる以前の相賀村と高田村の境であった。
さて、 ここからが本題。
段階を踏んで先細っていく路盤を早々に見限った私は、画像に示した“矢印のルート”で、先に河原へ下りてしまうことにした。
岸が垂直に切り立っていて、安全に下りられないことを心配していたのだが、幸いそれほど険しい傾斜ではなく、問題なく河原へ下りることが出来た。
が、そこに衝撃の発見があったのだ。
この河原への下降の最中、ちょうど画像の“☆印”の地点で私が見たものは、 全く想定外 のものだった!!
――河原に築かれた石垣――
この写真だけでは、私がなにゆえ驚愕したのか、全く伝わらないと思う。
だがこの石垣は、 本来ここにあるはずのないものなのだ。
崩れた石垣の中から、 別の石垣が出現した?!
もう少し引きの画で見てみると、特異な状況がより一層際立って見える。
明らかに、 県道の路肩の下にあった石垣の内部には、別の石垣が内蔵されていた。
洪水によって県道の石垣が破壊されることがなければ、決して明るみにはならなかっただろう石垣だ。
この隠されていた石垣の正体を考え