[12] 天年号は、元号の年数と干支に続ける年の字を通常の年
のかわりに天
と記すものです。江戸時代の墓石などに見られます。
[40]
東洋の日時表示では年番号の後に年
を書くのが最も標準的ですが、
他にも色々な漢字が使われてきました。
[41]
天
を使うことにどのような意味があったのかは定かではありません。
もっとも、この種のものは最初に使い始めた人が何らかの意味を込めたとしても、
後続の人達は流行に乗って深く考えずに使っただけという可能性もあります。
[42]
年とは天における太陽と地球の年周運動 (公転) のことですから、
年
を天
に置き換えるのは必ずしも突飛なことではありません。
とはいえ年から天へはいくらか飛躍があるようにも思われます。
両者の字形もやや似ていますが、酷似というほどには思われません。
[38] 中世後期から江戸時代の日本各地で使われたようです。
[39] 墓石など仏教系の金石文の用例が多く知られていますが、 写本の用例 >>23 もあります。
[44] いつどこで誰が使い始めたのか、いつ頃使われなくなったのか、 どれくらいの地理的範囲で使われたのか、 どのくらいの規模で使われたのか、 どのような目的や階層で使われたのか、 など詳細は未だわからないことだらけです。
[31] 用例は無数にあります。
[32] ごく一部挙げると:
[45]
各地の自治体史などの金石銘リストを見ると天
はまあまあの頻度で見かけます。
質問者.佐伯 隆 2004-07-17 (土) 00:24:03 近世中期の石碑や墓石に刻んである年号について、例えば「寛文十一辛亥天」のように「年」のはずが「天」のものが多く見られます。「星」の場合もあります。これはどうしてですか?
A.申し訳ありませんがわかりません。銘文によく見かけますが、そう言った解説書には、説明も載っていないところを見ると、そう言った方面では「常識」なのかも。
笠岡市吉浜の恵比寿様のお堂前にある大岩には「享保十七 壬子天此道成就 (みずのえねのとしこのみちじょうじゅす)」と刻まれており、岩山を切り開いて経路の付け替えを行ったものと考えられている。
左側面を見ると、「"天保十一庚子天五月吉祥日依建立"」の文字が刻まれており、江戸時代後期天保11(1840)年の碑であった。
[13] キリシタンの墓であることを示しているとする説もありますが、 否定説もあります。
[16] 「天」表記は広い時代と地域に分布しているようです。 キリスト教に関係して「天」が採用されたこともあるのかもしれませんが、 「天」だからキリスト教関係ということはなさそうにみえます。
「庚申供養塔」と彫られている側面に、「元文二丁巳天」と彫られています。最近このブログをお読みになり始めた方々は、「天」年号に驚かれるかもしれませんが、会津では「天」年号は珍しいものではありません。とある墓地では、建てられている墓石の半分くらいに「天」年号が彫られています。
ただ、「庚申供養塔」と彫られている石塔に「天」年号が彫られているのは、会津でも珍しいです。
[2] 会津の「天」年号墓石 | 会津キリシタン研究所 - 楽天ブログ () http://plaza.rakuten.co.jp/aizukirishitan/diary/201305150002/
画像の地蔵は、その善導寺境内にあるものだが、建立年が『元禄7甲戌天』で天年号の地蔵菩薩石像だ。像高176cm(総高230cm)もあり、石造り地蔵の中では市内屈指の大きさがある。
隠れキリシタン説によれば、天年号の石造物は、墓であるにせよその他の物であるにせよ、隠れキリシタン関係のものだとする。
これは、群馬の十字錫杖を持つ地蔵石仏を調査して、隠れキリシタンであることを統計的に明らかにしたという吉田元や、「関東平野の隠れキリシタン」を著した川島恂二などが唱える説だ。特に前者は地蔵菩薩の持つ錫杖の文様の綿密な調査を行って、統計的検討をしたもので興味深いものがある。
しかし、これを再検証もせず、統計的結果なるものを、まともに信じるわけにはいかない。
例えば、館林石仏調査研究会や館林教育委員会の調査記録を基に、天年号地蔵菩薩を集計してみると、館林市内にある全149基の石造地蔵のうち30基が天年号になっている。他は、「年」が43基、「歳」が18基、年号と干支だけのもの24基、建立年不明のもの27基、「暦」その他7基である。
したがって、天年号の地蔵は全体の20%もあり、地域差はあるものの、一般的な年年号の28,8%と比較してみても、天年号そのものが決して珍しいわけではない。
上部は分かりませんでしたが、「辰」と書いてあるようですから、年号を表す文字でしょう
が、その後に「年」の代わりに「天」の文字。いわゆる。「天年号」といわれるものです。
塚墓、また、年号に「天」と言う文字が使われていると、潜伏キリシタン(現在は、江戸時代
の禁教時代、信仰を守った方を、潜伏キリシタン、キリシタン禁教がとかれても、密かに
自分たちで信仰した方を、隠れキリシタンと区別して研究されています)を研究されている
郷土史家の方は、潜伏キリシタンと結びつけて考えておられます。
「天」は「アマ」または「アメ」とも読み「アーメン」に通ずるというのだ。
また、死して主の元へ昇天するのが切支丹の願いであるという。
「天」の文字の代わりに「,/コンマ」を「テン」と読ませて戒名等に刻む場合もあるらしいが
これはまだ発見に至っていない。
心の外に・・・ - へんろみち大将の 大好き!別府 - Yahoo!ブログ () https://web.archive.org/web/20190727051522/https://blogs.yahoo.co.jp/beppu_call/34391016.html
キリシタン特有の五角形の立墓。上部の三角が三位一体を意味すると言われる。
元禄の年号の下に記された「天」年号。(女の横)
その左奥、お目当ての天樹院千姫の供養塔も大きいです。五輪塔は下から、地水火風空と積上げます。千姫の五輪塔の「地」の石には、寛文六丙午天二月六日と「新説・おくのほそ道」「芭蕉革命」をお読みの方にはお馴染みの天年号があります。私は一昨年の秋のセミナーの後、前田さつきさんに誘われて高野山へ寄りました。その折、千姫の供養塔があるはずだから見てくるようにと編集長から言われていて、そのときに見つけてから、もう二年になります。やっと皆さんに見て頂けました。その手前には、千姫の嫁ぎ先、本多家の供養塔があります。鳥居はありません。そして、この近辺のみならず、あちこちに小さな一石五輪塔(積んでなくて形だけ五輪にしてある)が無縁となって片寄せてあります。
露の世の天年号や高野山 百花
台の高札場跡があるように、ここも江戸幕府の禁教政策から逃げていった人達の大切な土地。巾着田際のお墓は天年号のものがたくさんあるし。そういう歴史の痛みが、どんどん娯楽施設と入れ替わっていくのが残念です。
【バテレン塚出土】
如意輪観音墓
墓石には次のような戒名などが、刻まれています。
登誉蓮慶信士宝永元甲申天
七月十六日
凉月知光信女 元禄十五年午年
六月九日
夫婦の墓ともいわれます。宝永元年は一七〇四年。元禄十五年は一七〇二年です。
信徒と思われる墓には、 「年」の代わりに「天」と彫られた年号 (天年号) を使うという人もいます。この墓石にも天年号があり、隠れキリシタンの墓石だとする説があります。
「慶」の文字の隣に、点「﹅」が見えることから、 「﹅」が天を示し、天は「あま」とも読めることから、天の文字を「アーメン」と読む隠れキリシタンの墓石だろうと推定する研究者もいます。
[25] 近代に入ってから隠れ切支丹の遺物を安易に認定する人々がいて、現在もその流れの中にあるらしい。 それに呼応して切支丹の遺物とされる偽造品も多く出回って現在にも尾を引いているらしい。 天年号切支丹説もそのような文脈で提示され支持された説ということだろうか。
[49] >>46 の写真にある「見分け方図」は切れていて全文が読めないが、 石造物の八月大吉日は昇天日、 十二月廿五日・廿六日はクリスマス (キリスト昇天)、 □日・大吉日はキリスト□日、 といった切支丹認定根拠となる特徴が説明されている。 また、特に説明はないが、いくつかの石造物の図には「天」と目立って描かれている。
[11] 天年号青面金剛(谷中村遺跡) ( 宗教 ) - 庚申塔を訪ねて - Yahoo!ブログ () http://blogs.yahoo.co.jp/akagiiwana/69849680.html
[33] 心の外に・・・ - へんろみち大将の 大好き!別府 - Yahoo!ブログ () https://web.archive.org/web/20190727051522/https://blogs.yahoo.co.jp/beppu_call/34391016.html