改政

嘉政, 改政

[75] 嘉政, 改政は、 江戸時代の日本の改元デマです。

[63] 、 天保から弘化への公年号の改元と時を同じくして出現しました。

[8] 江戸時代には同様の改元デマが多発していました。 改元デマ

用例

続雨夜友

日時事例

[123] 古事類苑 の 逸年號 条に、 續雨夜友 より 年號改元以前紛敷年號市中賣歩行候聞書 なる同時代的な記録と思われるものが収録されています。 >>15

[124] 續雨夜友 は江戸時代の日記的な記録と思われますが、 古事類苑 で2箇所が引用されているのみで、 国立国会図書館デジタルコレクションの検索および Web検索では詳しい情報が見当たりません。

[117] 国立国会図書館デジタルコレクション や Google書籍検索 で検索すると、いくつかの目録に 続雨夜友や続雨夜之友の掲載があります。 しかし全文を掲載したウェブサイトは現時点で見つけられません。

[71] 雨夜之友 や文化2年序聞書雨夜の友との関係も情報がありません。


[125] 弘化への改元からほどなく書かれたと思われる当文章の大意は次の通りです。 >>515

  • [132] 文政13年寅12月16日、天保改元のお触れがあって以来、全国で使ってきた
    • [133] その頃年号についていろいろな噂もあったが、
    • [134] 「天保」の元号名が世の中にかなっていたためだろうか、 この辰年まで15年間続き、
    • [135] その間には凶作の年もあったが、天保10年亥からは全国的に豊作で、
    • [28] 保字金銀、天保通宝のような貨幣も鋳造されるほど、 天保という元号は世の中にかなったものだったのだろうということで、
  • [136] もっとも、京都では御代が替わられたとの話もあって、
    • [138] この夏のうちから改元があると市中ではしきりに言い立てられていたが、 何の発表もなく、
    • [137] 既に翌巳年の新暦も天保16年で許諾が下りて印刷販売されており、
  • [139] ところがこの辰12月になり、 いよいよ改元があるぞと市中に噂が流れ、
    • [140] この隙に乗じて誰が思いついたのか、 12/4, 12/5 の頃、日本橋あたり、伝馬町あたり、その他あちこちで、 どこの誰かもわからぬ者2,3人が申し合わせて、
    • [141] 夜分に提灯も持たずに、「改まった年号が四文」と言って売っており、
    • [142] 市民は何になったのかと買ってみると、
    • [143] 「改政」 であると見せたので、まったくいかがわしい偽物、偽の書き物であり、 もらって貼っておいた
    • [144] 文字さえ読みづらい小紙にあるのは、「改政 (くわいせい) 」 とでもいうのだろうか
  • [145] いずれにせよ、お触れがないうちは、正しい文字だとしても用いることが出来るものではないのであり、
    • [146] 大切な元号を作りこしらえて売り歩くような者は、不届き者だという評判であった
    • [147] しかし余りのことだったためか、その時に逮捕された様子もなく、
    • [148] この先どうなるのかと、当時の風評を書き留めていたところ、
  • [149] 12月13日弘化と改元のお触れがあり年号がついに決まり、
    • [150] その触書の出た夜にも、早く知った者の思いつきで、 「弘化」と書いた小紙を隅々の知らせの行き届かない場所で売ったとのこと、
    • [151] これもまた不埒なことだといっているのを聞いた
[515] 續雨夜友 五 >>516, >>517

年號改元以前紛敷年號市中賣歩行候聞書

去ル文政十三寅年十二月十六日、天保與改元有レ之候御觸有レ之候已後、右年號國中取用罷在候處、其頃年號之儀ニ付、種々風説も有レ之候得共、天保與申文字世界ニ應じ候哉、今辰年迄十五年相續キ、右年數之内凶年も有レ之候得共、天保十亥年ゟ諸國豐熟ニ相成、殊更世上通用之金銀も保字金銀通用之儀被二仰出一、又は天保通寶當百錢も新規御吹立被二仰付一候程ニ而、天保與申年號者世界ニ應じ候哉之由、尤京都者御代被レ爲レ替候由取沙汰有レ之候故、當夏中より年號改元可レ有レ之旨、市中專ラ申觸シ候得共、何之御沙汰も無レ之、旣ニ來ル巳年新暦も天保十六年與御免有レ之、新暦開板ニ而賣出し候、然ル處當辰十二月ニ相成、彌年號改元有レ之趣市中へ流申觸し候、右虚ニ乘じ、何者之存付ニ候哉、同月四日五日之頃、日本橋邊、傳馬町邊、其外辻々ニ而名住所不レ知もの兩三人宛申合、夜分無挑灯ニ而、改まつた年號が四文與申立賣致候處、市中之者何と相成候哉與買候處、改 (○) 政 (○) 之由爲レ見候ニ付、全如何之贋物僞筆ニ付、貰ひ張置候、文字さへもよみ兼候小紙ニ有レ之者、改 (クワイ) 政 (セイ) にも可レ有レ之哉、迚も御觸無レ之内者正字ニ候共可レ用儀ニ無レ之處、太切之年號取拵もの賣歩行候と申者、不屆なる者之由風説有レ之候、乍レ然餘リ之事故歟、其節御捕ニ相成候樣子も不レ承候、此上如何可レ有レ之哉與、其頃之風評書留候處、十二月十三日弘化與改元有レ之旨御觸ニ而、年號彌治定致候、右御觸書出候夜も、早く承候もの之思ひ付ニ而、弘化與認申小紙、端々ニ而未ダ行屆不レ申場所賣候由、是以不埒成由申候を承候、

[522] 續雨夜友 五 >>516, >>521

天保十五辰年十二月十三日、年號攺元御觸寫、

覺

年號弘化與改元被二仰出一候間、此旨町中不レ殘可二相觸一候、

十二月十三日

町年寄役所

譯書曰、右御觸出候ニ付、町中一統江觸達し、同日ゟ弘 (コウ) 化 (クワ) 元年と相唱候、尤武家方并諸國江も夫々御觸相廻り候事、

藤岡屋日記

日時事例

[168] 藤岡屋日記 は、 藤岡屋由蔵 ( - ?) による日記で、 江戸市中の諸事件の情報が記録されています。

[169] 藤岡屋由蔵は日本武蔵国江戸神田 (現在の秋葉原付近) を拠点とした商人でしたが、情報屋として武家などに情報を販売していました。

[111] 藤岡屋日記 はこの時代の貴重で信頼できる史料として扱われています。 「嘉政」の事件も具体的な描写で、 これといって疑わしい点はありません。

諸説

経緯

[65] 弘化度の改元と改元デマの経緯は次の通りです。

  1. [29] 天保15(1844)年5月10日、 日本武蔵国江戸の江戸城で火災が発生 >>23, >>41
  2. [42] 天保15(1844)年5月18日、 朝廷に江戸城火災の旨が到達 >>41
  3. [30] 天保15(1844)年5月20日、 朝廷で江戸城火災を理由に改元を協議 >>41
  4. [43] 天保15(1844)年5月21日、 武家伝奏と京都所司代で江戸城火災を理由に改元を協議 >>41
  5. [157] 天保15(1844)年5月27日、 関白と武家伝奏で仁孝天皇の譲位を協議 >>156
  6. [158] 夏、 江戸市中で、京都で皇位継承のため改元があるとの噂 (>>136)
  7. [31] 天保15(1844)年7月3日、 朝廷に江戸幕府から改元実施に同意の旨返答される >>41
  8. [44] 天保15(1844)年7月11日、 朝廷で改元を冬に行う方針がまとまる >>41
  9. [45] 天保15(1844)年7月15日、 関白鷹司政通は武家伝奏日野資愛に改元を冬に行う旨京都所司代に伝達することを指示 >>41
  10. [46] 天保15(1844)年7月18日、 武家伝奏日野資愛から京都所司代に改元を冬に行う旨伝達 >>41
  11. [47] 幕府の同意 >>41
  12. [32] 天保15(1844)年9月22日、 朝廷内で改元実施を発表 >>23, >>41
  13. [52] 武家伝奏は京都所司代に伝達 >>41
  14. [76] 朝廷に提出された新元号案: 弘化、嘉德、万安、万延、文久、嘉永、嘉延、 万和、嘉政、永寧、大暦、嘉享、天秩、寛安、大寛、和平、享安 >>75
  15. [34] 朝廷で7候補 (弘化、嘉德、万安、万延、文久、嘉永、嘉延) を決定 >>23
  16. [53] 天保15(1844)年10月11日、 朝廷は元号案を江戸幕府に提示する書付を作成 >>41
  17. [54] 天保15(1844)年10月13日、 武家伝奏の徳大寺実堅と日野資愛は京都所司代の酒井忠義に新元号案を伝達 >>41
  18. [159] 天保15(1844)年10月30日、 関白と東坊城聡長で仁孝天皇の譲位断念の協議 >>156
  19. [33] 天保15(1844)年11月4日、 朝廷は改元定を天保15(1844)年12月2日実施と決定、 武家伝奏から京都所司代に伝達 >>23
  20. [37] 江戸幕府は弘化がよいと返答 >>23, >>41
  21. [59] 天保15(1844)年11月18日、 京都所司代は改元日を天保15(1844)年12月2日でも延期でもよいと江戸幕府の返答を伝達 >>41
  22. [60] 天保15(1844)年11月20日、 朝廷は改元日を天保15(1844)年12月2日に決定と京都所司代に伝達 >>41
  23. [152] この頃、 天保16年曆が発売 (>>137)
  24. [38] 天保15(1844)年12月2日、 改元日。朝廷は改元定にて弘化と決定 >>23
  25. [160] 12月、 江戸市中でいよいよ改元との噂 (>>139)
  26. [153] 天保15(1844)年12月4日・5日の夜、 江戸日本橋・伝馬町などで、 正体不明のグループが提灯も持たずに、 小さな紙に「改政」と書き付けて、 「改まった年号が四文」 と言って売っていました。 (>>140)
  27. [26] 天保15(1844)年12月6日、 江戸で、 「今日より年号替りました」 と市中を売り歩く者がありました。 小さな紙に「嘉政」と書き付けてあり、 1枚4文でした。 >>105
    • [68] この事件では8人 >>23 ないし6人 >>64 逮捕され入牢しました。 >>40 p.599 (藤岡屋日記), >>64
      • [108] これは >>104 と >>107 を指します。 >>104 の2人が >>107 の6人に含まれるか含まれないかで2説あるようです。
    • [109] 藤岡屋日記 の筆者は購入したのでしょうか、それとも購入した人から「嘉政」 と書かれていたと聞いたのでしょうか。
  28. [104] 天保15(1844)年12月8日、 天保15(1844)年12月6日に「嘉政」 を売り歩いた2人が逮捕され茅場町大番屋に勾留されました。 >>105
  29. [107] その後、 天保15(1844)年12月6日に「嘉政」 を売り歩いた6人が逮捕されました。 >>105
    • [110] 藤岡屋日記の12月6日条 (12月8日条の前) にこの後日談まで書かれています。 後からまとめたのか追記したのかはわかりませんが、 12月6日条のすべてを12月6日に書いたわけではないということです。
  30. [62] 天保15(1844)年12月13日 = 弘化元年12月13日、 江戸城において新元号が発表され、 江戸において施行されました。 諸藩国元へと送付されました。 >>61
  31. [154] 弘化元(1844)年12月13日、 江戸市中へ弘化改元の触れがありました (>>150)。
  32. [155] 弘化元(1844)年12月13日、 江戸で「弘化」の書き付けを販売した者がいました (>>150)。
  33. [162] 12月頃、 現在の日本国新潟県新潟市では、 改元されたとの噂がありましたが、 触がまだありませんでした。 >>161

    [163] 12月朔日から晦日までの記事の後にこの記事があります。 >>161

[95] 有料で配って回る商売が成り立っていたということは、 お金を払ってもすぐに新元号情報がほしいと思った人がそれなりにいるということです。

[72] このスケジュールを見るとわかる通り、 朝廷と江戸幕府は天保から弘化への改元手続きを進めていました。 その最終段階で、朝廷で新元号が正式決定した後、 江戸幕府が新元号を公布する直前というタイミングで、 誤った改元情報が流布されました。

[164] 江戸市中には、皇位継承の動きがあることが噂として届き、 それが改元の契機と認識されていることにも注意が必要です。 仁孝天皇の譲位は結局実現しませんでしたが、 その意向の表明が、当時どの程度の機密性で扱われたかは不明であるものの、 一般の国民の知る所となっていることは、改元に関する情報管理と直接関係しないものの、 当時の情報環境を知るうえで重要でしょう。

[165] 現在知られている限りの関係者の動きと時系列によれば、 改元は譲位と全く別箇に進んでいた案件です。

[119] いざ改元となった折にも、正式な発表や具体的な新元号の情報より先に、 改元がいよいよ行われるとの情報が江戸にも越後にも伝わっていることにも注意されます。 記録がない (または未だ知られていない) だけで、他の諸国にも同様に伝わっていた可能性はあります。

[166] 実際に流通したと記録が残る改元デマは改政と嘉政の2系統があります。 両者は文字だけでなく、流布されたとされる日と販売者の身柄についての経過も異なります。 どちらかが不正確なのか、どちらも正確なのかは検討の余地があります。

[167] が、大きな流れはよく整合しており、同じ現象の部分部分を異なる観測者が記述したものと考えて良いでしょう。

[171] 続雨夜友は日本橋や伝馬町と具体的な地名を出しており、 しかも夜分の出来事も記述しており、その近辺で生活しながら仕入れた情報と考えられます。

[170] 藤岡屋日記の著者は神田を拠点に活動していましたから、 その方面の情報と考えられますが、情報屋であり広範囲の情報を仕入れられた可能性もあります。

発生

[77] 当時の朝廷や幕府の情報管理がどのようなものだったか詳しくはわかりませんが、 改元に向けて準備している情報を半年間まったく外部に漏らさずに進められたか、 といえば疑わしいですし、秘匿する必要があることとも思えません。 改元が行われる、ということは社会の共通認識というほどではないかもしれませんが、 江戸の一般市民でそろそろ改元がありそうだ、と知っていた人はいたと考えていいのではないでしょうか。

[83] まったくの偶然で時期が重なった可能性も皆無ではありませんが、 偶然にしては良く出来すぎています。 代始改元なら予測もし易いですが、江戸城火災理由の改元の前例は多くありません。

[78] 改元日が天保15(1844)年12月2日に決まったこと、 江戸城での新元号披露が天保15(1844)年12月13日に行われること、 新元号が弘化であること、 が事前にどれだけの人に知られていたのかもよくわかりません。 しかし朝廷での改元日は一般市民にとってさほど重要ではない情報だと思われますし、 江戸城での披露の日は朝廷の改元日ほどかっちりスケジュールを組まれているイメージもありません。 (イメージだけで裏付け資料はありませんが...) 冬頃に改元があるらしい、ということくらいは広まっていたとしても、 厳密な日取りまで知っている人はあまりいなかったのかもしれません。

[11] 当時の京都と江戸の間の情報伝達は1週間程度、早ければ3日程とされます。 天保15(1844)年12月2日に決定した新元号の情報が天保15(1844)年12月6日に江戸に到達していたかどうかは、 微妙なラインです。 また、京都でも朝廷が直接一般市民に新元号を発表するわけではないでしょうし (公家から一般市民へと伝わることはあるでしょうが。)、 一般市民が独自に京都から江戸に速報で知らせる動機も考えにくいです (速報といってもこの時代に公式ルートより早く江戸につくことはないでしょうし。)。 従って嘉政は新元号が正式に決定した改元日かそれ以後に京都から伝わった情報ではない可能性が高いということになります。

[79] といっても江戸幕府幹部はそれ以前の段階から決定に関わっていたので、 新元号が弘化であることは元々知っています。 また、 決定案以外の最終候補6案も朝廷から提示されています。 ただ、計7案以外の案を知っていたのかは不明です。 嘉政は7案には含まれていません。 ですので弘化度の候補だった嘉政が江戸で一般市民に伝わった可能性は低いのではないでしょうか。

[12] ということで、

  • [80] 弘化度の早い時期で落選した「嘉政」が京都の公家からなんやかんやで江戸まで届いた
  • [81] 過去に落選した「嘉政」が何らかの理由で弘化度の新元号案と誤認された
  • [84] 他の候補である嘉德、嘉永、嘉延が何らかの理由で誤って「嘉政」 として伝わり弘化度の新元号案と誤認された
  • [82] 公年号案と無関係に誰かが考案した「嘉政」が何らかの理由で弘化度の新元号案と誤認された

といった可能性が考えられます。

[14] 不採用案から発生した改元デマ事案は何度かあります。 有力でもない候補が誤認されるのは不思議ですが、 他の事案でも実際そういうことが起こっているので、 可能性はあります。 改元デマ

[85] 当時の未決定元号案が秘密情報だったのかはわかりませんが、 有力候補ほど上層部で慎重に扱われていると思われる一方、 不採用が決定した案はもはや重要な情報でもないので粗雑に扱われるような感じなのでしょうか。

[70] 嘉政はこの前後の時期に何度も新元号案として提出されていました >>64 嘉政 。 既に世に出ていた過去の候補が弘化度の改元の動きに触発されて発掘されて誤解されて噂になった、 という可能性もあるのかもしれません。

[13] 嘉政のうち政は天保の前の文政、そのしばらく前の寛政で使われていて、 当時の人にとって元号でいかにも使われそうな文字だったと思われます。 何らかの理由で独自の元号を作った人が政を使うというのも、 考えられないことではありません。

[87] 他の候補が誤解されて政になったという可能性はどうでしょう。 どの候補の2文字目も政とは字形も音もあまり似ていません。 強いて言えば延の字形が似ることは考えてみてもいいのかもしれませんが...

[86] 嘉は次の嘉永が江戸時代で唯一で、前は嘉吉まで遡ります。 江戸時代の一般人も歴史知識がある人は知っていたかもしれませんが、 元号名としてあまり馴染みがない文字だったかもしれません。 この時期の新元号案の候補にはしばしば使われているので、 京都の公家 (のうち新元号の提案に関わる人々) の流行だったのかもしれませんが、 江戸で勝手に独自の新元号を作る人 (がいたとして。) にとっても使いたい文字だったかは疑問が残ります。

[88] 以上まとめると新元号案だった「嘉政」がデマ化した可能性が (消去法で) 最も高いと思われますが、物証はなく、 新元号案がどのような経路でデマとなったのか、 疑問は残ります。

伝播

[96] 当時の江戸では合棟乞食が信憑性の疑わしい情報も含めて様々な情報を伝えていました。 >>20 現在のゴシップ誌に相当するような媒体でしょうか。

[97] 合棟乞食は改元の情報も伝えており、 嘉政もその1つだったと考えられているようです。 >>20, >>21 これが個別具体的な根拠あってのことなのか、 他の同様の情報伝達や事件と同様にそうであろうという推測なのかはよくわかりません。

[101] 合棟乞食グループが自ら取材して入手した情報なのか、 どこか誰かから伝わった噂を広めたに過ぎないのかは検証が必要です。


[98] 役人が新元号を嘉政とするべきかと協議しているのを、 合棟乞食の親方の仁太夫が聞きつけてスクープしたため、 先に報じられた嘉政を避けて別のものに変えたのだ、 とする説があります。 >>21

[99] これが何を根拠とする説なのかは不明です。 改元手続きの時系列をみればこの説が成り立ち得ないのは明らかです。

[100] なぜか改元デマにはこのような「漏れたから差し替え」説が近現代に出現しがちです。 改元デマ

利用

[128] 嘉政・改政の同時代的な用例は、これまで全く報告されていません。

[131] 他の改元デマでは、 嘘情報を信じて使った事例も伝わっています。 改元デマ 嘉政も「今日から」との触れ込みで伝えられた >>64 というのですから、 その日のうちに使った人もいたかもしれません。

評価

[1] このような嘘改元情報の出現を政治への不満を背景にしたものとする説があります。 >>40 p.599 (藤岡屋日記), >>64, >>15

[69] 歴史研究者の吉野健一は、 庶民に改元で新時代を期待する願望があったと解説しています。 >>15 また、改元伝達の時間差の最中に起きた事件で、 改元が為政者の論理だけでなく世間の改元待望論と連動していたことを示唆しているとの解説もあります。 >>64

[7] >>1 この推測の理由は明記されていませんが、 元号を偽造するという事自体や、 「嘉政」 という元号名からでしょうか。

[89] 私年号と同じで改元デマも

  • [90] 元号を作った人 (意図的に作られたものだとすると)
  • [91] 元号情報を流布した人
  • [92] 元号情報を受けとった一般市民
  • [93] 元号情報を流布した人を取り締まる政府機関

のそれぞれの思惑があるはずで、 いつ誰が何を考えてどう行動したのかを明らかにしないままでの雑な評価は実態を見誤る危険があります。

[94] 「政治への不満」 が理由だといっても 「政治に不満があるのでそれを表現する嘘元号を作った」 と 「政治に不満があるので新元号を政府よりも早く流通させようとした」 と 「政治に不満があるので新元号情報が非正規ルートから届いても受け入れた」 とでは話がまったく変わってきます。

研究史

[118] 明治時代の類書 古事類苑 は、 逸年号条に 続雨夜友 を収録しました。 (>>123)


[10] の概説書に、 偽年号の1例として元号名が示されています (>>2)。 >>1

日時事例

  • [3] 日本の改元, ,
    • [2] 「結局、泰平が院政時代に起ってから、信友があげた文徳から永覚まで十四年号あったが、これまた総てを尽したもの でなく、その他に天靖・大道・永福・宝寿・改政・延寿・永然等二十を越えている。」 >>1

[4] 著者の大島延次郎 ( - ) は、 東北大学所属の歴史研究者で、専門は日本交通史。

[5] 当論文は日本の元号の概説で、元号に関する幅広い方面の基礎的知識が紹介されており、 >>2 はそのうち偽年号を説明する部分です。

[6] 当論文は、昭和37年当時の歴史辞典の類で構成可能な一般的事項で構成されています。 大島延次郎に元号関連の業績は見当たらず、独自の研究成果と思しき内容は含まれていません。

[7] なお >>2 が伴信友が挙げたとして参照しているのは長等の山風所収年号の論。

[9] 「その他」として挙げられた元号は、古事類苑が収集したものから伴信友が挙げたものを除外した残りと似ています。 昭和時代中期までの既知の辞典類等で、改政を掲載したものは他に知られていません。 よって古事類苑がこの部分の情報源の可能性が高そうです。 >>13


[114] の研究で嘉政が若干触れられています。 改元デマ

[112] 平成時代後期の 日本年号史大事典 のコラムで嘉政が紹介されています。 >>40

[15] 庶民の世論が影響? 江戸時代の改元|日経BizGate, 日本経済新聞社, , https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO4285708025032019000000?channel=DF150320194919&page=2

享和4年(1804年)に「文化」に代わる直前には「元明」と改元されたと売り歩いた者がいたという。文化14年(1817年)には改元していないのに「永長」(実際は翌年に「文政」)を、天保15年(44年)には「嘉政」(実際は翌年に「弘化」)と書いて売るなどのケースが続いた。吉野氏は「幕府はニセ元号に神経をとがらせ、どのケースも犯人を入牢や追放の処分にした」という。

特に「嘉政」は当時の幕政への不満も背景にあったようだ。吉野氏は「日常で元号を利用しながら生活している庶民に、改元で新時代を期待する願望があった」と話す。

[73] と弘化元年は同じ年。「翌年」は誤り。
[64] 平成 30 年度(第 7 回)県立図書館・公文書館合同展示(平成 31 年 2 月 1 日~3 月 31 日) 「改元漫遊」 その1:江戸期の改元、または、改元あ・ら・かると Part1&2 解説パンフレット, Ver1.2_20190210, , https://archives.pref.kanagawa.jp/www/contents/1552954521928/simple/2018_kaigen_pamphlet.pdf#page=18

天保 15(1845)年の師走、江戸で改元に関する偽の情報が流れるという事件が起こりました。『藤岡 屋日記』の同年 12 月6日条によれば

今日から年号が替わりました、と紙切れに「嘉政」と書いて1枚4文で売 り歩いた輩がおり、都合6人が捕縛されたという。また、去る天保改元の 時も「永長」と書いた紙を売り歩いた事件があったとのこと

といったものでした。

改元の時間差の最中に起きたこの事件は、改元が単に為政者の論理で行われるものではなく、世の中 の改元待望論とでもいうべきものと連動していた事を示唆している、と見ることも出来そうです。また、 偽の元号として流布された「嘉政」は、実際に元号に採用されたことこそ無いものの、文化・文政・弘 化・嘉永の各改元で元号候補として挙がったものであることも興味深い点です。

[74] 。 天保15年12月の全体がグレゴリオ暦のに含まれるための誤りか。

[120] 令和時代に至るまで、私年号研究の文脈で改政に言及したものは見当たりません。

[115] 嘉政には言及がいくつかあるものの、 研究はあまり進んでいません。史料が少ないためでしょうか。

[113] 私年号研究の多くは中世史の研究者によるもので、 近世の私年号は長らく視野に入っていなかったため、 近世の改元デマは異年号の研究からこぼれ落ちていたと思われます。

[116] 本書はその後の私年号研究でも多く参照されていると推測されるところですが、 なぜか以後の研究や辞書類の表には改政は収録されていません。 日本私年号の研究 にもありません。 私年号として実用された元号でないために関係が薄いと判断されたのでしょうか、

関連

嘉政 (新元号候補)

メモ