[63] 、 天保から弘化への公年号の改元と時を同じくして出現しました。
[123]
古事類苑
の
逸年號
条に、
續雨夜友
より
[124] 續雨夜友 は江戸時代の日記的な記録と思われますが、 古事類苑 で2箇所が引用されているのみで、 国立国会図書館デジタルコレクションの検索および Web検索では詳しい情報が見当たりません。
[117] 国立国会図書館デジタルコレクション や Google書籍検索 で検索すると、いくつかの目録に 続雨夜友や続雨夜之友の掲載があります。 しかし全文を掲載したウェブサイトは現時点で見つけられません。
[71] 雨夜之友 や文化2年序聞書雨夜の友との関係も情報がありません。
[125] 弘化への改元からほどなく書かれたと思われる当文章の大意は次の通りです。 >>515
年號改元以前紛敷年號市中賣歩行候聞書
去ル文政十三寅年十二月十六日、天保與改元有レ之候御觸有レ之候已後、右年號國中取用罷在候處、其頃年號之儀ニ付、種々風説も有レ之候得共、天保與申文字世界ニ應じ候哉、今辰年迄十五年相續キ、右年數之内凶年も有レ之候得共、天保十亥年ゟ諸國豐熟ニ相成、殊更世上通用之金銀も保字金銀通用之儀被二仰出一、又は天保通寶當百錢も新規御吹立被二仰付一候程ニ而、天保與申年號者世界ニ應じ候哉之由、尤京都者御代被レ爲レ替候由取沙汰有レ之候故、當夏中より年號改元可レ有レ之旨、市中專ラ申觸シ候得共、何之御沙汰も無レ之、旣ニ來ル巳年新暦も天保十六年與御免有レ之、新暦開板ニ而賣出し候、然ル處當辰十二月ニ相成、彌年號改元有レ之趣市中へ流申觸し候、右虚ニ乘じ、何者之存付ニ候哉、同月四日五日之頃、日本橋邊、傳馬町邊、其外辻々ニ而名住所不レ知もの兩三人宛申合、夜分無挑灯ニ而、改まつた年號が四文與申立賣致候處、市中之者何と相成候哉與買候處、改政之由爲レ見候ニ付、全如何之贋物僞筆ニ付、貰ひ張置候、文字さへもよみ兼候小紙ニ有レ之者、改政にも可レ有レ之哉、迚も御觸無レ之内者正字ニ候共可レ用儀ニ無レ之處、太切之年號取拵もの賣歩行候と申者、不屆なる者之由風説有レ之候、乍レ然餘リ之事故歟、其節御捕ニ相成候樣子も不レ承候、此上如何可レ有レ之哉與、其頃之風評書留候處、十二月十三日弘化與改元有レ之旨御觸ニ而、年號彌治定致候、右御觸書出候夜も、早く承候もの之思ひ付ニ而、弘化與認申小紙、端々ニ而未ダ行屆不レ申場所賣候由、是以不埒成由申候を承候、
天保十五辰年十二月十三日、年號攺元御觸寫、
覺
年號弘化與改元被二仰出一候間、此旨町中不レ殘可二相觸一候、
十二月十三日
町年寄役所
譯書曰、右御觸出候ニ付、町中一統江觸達し、同日ゟ弘化元年と相唱候、尤武家方并諸國江も夫々御觸相廻り候事、
[168] 藤岡屋日記 は、 藤岡屋由蔵 ( - ?) による日記で、 江戸市中の諸事件の情報が記録されています。
[169] 藤岡屋由蔵は日本武蔵国江戸神田 (現在の秋葉原付近) を拠点とした商人でしたが、情報屋として武家などに情報を販売していました。
[111] 藤岡屋日記 はこの時代の貴重で信頼できる史料として扱われています。 「嘉政」の事件も具体的な描写で、 これといって疑わしい点はありません。
485 ページ
泰明院樣御法事紀付為伺御機煉、溜誌、高家、誌架、御奏者番登城、於席之認老中。一越前守不快忆付今日登城無之、尤見舞断。 1 今日より年号替りましたと市中を売あるくなり。小サキ紙に 嘉政と書付壱枚四文宛に売也。八日に弐人召捕茅場町大番屋江揚る也。追~六人迄召捕るゝ(改)也。先年天保政元の句も、年号永長と書付売あるき召捕るゝ也。十二月八日一御忌御日数中心付、上野俊明院樣、慈德院樣御靈前江御名代無之。
462 ページ
... なり、小サキ紙嘉政と書付、一御據中為何御機煉、尾張殿·水戶殿始想出仕有之、於席、認老中。专枚四文宛二充也。一右同断二付、紀伊殿并御隐居方上的使者被差出之、於题踢間、謁八日二式人召捕、茅場町大番屋江揚儿也、追六人迄召捕石 A 也、先老中。年天保改元之も、年号永長と書付、売あるき召捕るゝ也。 0 十二月八日青蓮院蝦葬送、上野凌雲院江出儿也、文恭院樣御安市石 5 段也。一御忌御日数中二付、上野没明院樣:慈德院樣御靈前江御名代無之。 o 同六日御法事中二付、今朝增上寺泰明院樣御位牌所江 ...
[72] このスケジュールを見るとわかる通り、 朝廷と江戸幕府は天保から弘化への改元手続きを進めていました。 その最終段階で、朝廷で新元号が正式決定した後、 江戸幕府が新元号を公布する直前というタイミングで、 誤った改元情報が流布されました。
[164] 江戸市中には、皇位継承の動きがあることが噂として届き、 それが改元の契機と認識されていることにも注意が必要です。 仁孝天皇の譲位は結局実現しませんでしたが、 その意向の表明が、当時どの程度の機密性で扱われたかは不明であるものの、 一般の国民の知る所となっていることは、改元に関する情報管理と直接関係しないものの、 当時の情報環境を知るうえで重要でしょう。
[165] 現在知られている限りの関係者の動きと時系列によれば、 改元は譲位と全く別箇に進んでいた案件です。
[119] いざ改元となった折にも、正式な発表や具体的な新元号の情報より先に、 改元がいよいよ行われるとの情報が江戸にも越後にも伝わっていることにも注意されます。 記録がない (または未だ知られていない) だけで、他の諸国にも同様に伝わっていた可能性はあります。
[166] 実際に流通したと記録が残る改元デマは改政と嘉政の2系統があります。 両者は文字だけでなく、流布されたとされる日と販売者の身柄についての経過も異なります。 どちらかが不正確なのか、どちらも正確なのかは検討の余地があります。
[167] が、大きな流れはよく整合しており、同じ現象の部分部分を異なる観測者が記述したものと考えて良いでしょう。
[171] 続雨夜友は日本橋や伝馬町と具体的な地名を出しており、 しかも夜分の出来事も記述しており、その近辺で生活しながら仕入れた情報と考えられます。
[170] 藤岡屋日記の著者は神田を拠点に活動していましたから、 その方面の情報と考えられますが、情報屋であり広範囲の情報を仕入れられた可能性もあります。
[77] 当時の朝廷や幕府の情報管理がどのようなものだったか詳しくはわかりませんが、 改元に向けて準備している情報を半年間まったく外部に漏らさずに進められたか、 といえば疑わしいですし、秘匿する必要があることとも思えません。 改元が行われる、ということは社会の共通認識というほどではないかもしれませんが、 江戸の一般市民でそろそろ改元がありそうだ、と知っていた人はいたと考えていいのではないでしょうか。
[78] 改元日が天保15(1844)年12月2日に決まったこと、 江戸城での新元号披露が天保15(1844)年12月13日に行われること、 新元号が弘化であること、 が事前にどれだけの人に知られていたのかもよくわかりません。 しかし朝廷での改元日は一般市民にとってさほど重要ではない情報だと思われますし、 江戸城での披露の日は朝廷の改元日ほどかっちりスケジュールを組まれているイメージもありません。 (イメージだけで裏付け資料はありませんが...) 冬頃に改元があるらしい、ということくらいは広まっていたとしても、 厳密な日取りまで知っている人はあまりいなかったのかもしれません。
[11] 当時の京都と江戸の間の情報伝達は1週間程度、早ければ3日程とされます。 天保15(1844)年12月2日に決定した新元号の情報が天保15(1844)年12月6日に江戸に到達していたかどうかは、 微妙なラインです。 また、京都でも朝廷が直接一般市民に新元号を発表するわけではないでしょうし (公家から一般市民へと伝わることはあるでしょうが。)、 一般市民が独自に京都から江戸に速報で知らせる動機も考えにくいです (速報といってもこの時代に公式ルートより早く江戸につくことはないでしょうし。)。 従って嘉政は新元号が正式に決定した改元日かそれ以後に京都から伝わった情報ではない可能性が高いということになります。
[79] といっても江戸幕府幹部はそれ以前の段階から決定に関わっていたので、 新元号が弘化であることは元々知っています。 また、 決定案以外の最終候補6案も朝廷から提示されています。 ただ、計7案以外の案を知っていたのかは不明です。 嘉政は7案には含まれていません。 ですので弘化度の候補だった嘉政が江戸で一般市民に伝わった可能性は低いのではないでしょうか。
[12] ということで、
といった可能性が考えられます。
[14] 不採用案から発生した改元デマ事案は何度かあります。
有力でもない候補が誤認されるのは不思議ですが、
他の事案でも実際そういうことが起こっているので、
可能性はあります。
[70]
嘉政はこの前後の時期に何度も新元号案として提出されていました
>>64
[13]
嘉政のうち政は天保の前の文政、そのしばらく前の寛政で使われていて、
当時の人にとって元号でいかにも使われそうな文字だったと思われます。
何らかの理由で独自の元号を作った人が政を使うというのも、
考えられないことではありません。
[87]
他の候補が誤解されて政になったという可能性はどうでしょう。
どの候補の2文字目も政とは字形も音もあまり似ていません。
強いて言えば延の字形が似ることは考えてみてもいいのかもしれませんが...
[86]
嘉は次の嘉永が江戸時代で唯一で、前は嘉吉まで遡ります。
江戸時代の一般人も歴史知識がある人は知っていたかもしれませんが、
元号名としてあまり馴染みがない文字だったかもしれません。
この時期の新元号案の候補にはしばしば使われているので、
京都の公家 (のうち新元号の提案に関わる人々)
の流行だったのかもしれませんが、
江戸で勝手に独自の新元号を作る人 (がいたとして。) にとっても使いたい文字だったかは疑問が残ります。
[88] 以上まとめると新元号案だった「嘉政」がデマ化した可能性が (消去法で) 最も高いと思われますが、物証はなく、 新元号案がどのような経路でデマとなったのか、 疑問は残ります。
[96] 当時の江戸では合棟乞食が信憑性の疑わしい情報も含めて様々な情報を伝えていました。 >>20 現在のゴシップ誌に相当するような媒体でしょうか。
[97] 合棟乞食は改元の情報も伝えており、 嘉政もその1つだったと考えられているようです。 >>20, >>21 これが個別具体的な根拠あってのことなのか、 他の同様の情報伝達や事件と同様にそうであろうという推測なのかはよくわかりません。
[101] 合棟乞食グループが自ら取材して入手した情報なのか、 どこか誰かから伝わった噂を広めたに過ぎないのかは検証が必要です。
[98] 役人が新元号を嘉政とするべきかと協議しているのを、 合棟乞食の親方の仁太夫が聞きつけてスクープしたため、 先に報じられた嘉政を避けて別のものに変えたのだ、 とする説があります。 >>21
[1] このような嘘改元情報の出現を政治への不満を背景にしたものとする説があります。 >>40 p.599 (藤岡屋日記), >>64, >>15
[69] 歴史研究者の吉野健一は、 庶民に改元で新時代を期待する願望があったと解説しています。 >>15 また、改元伝達の時間差の最中に起きた事件で、 改元が為政者の論理だけでなく世間の改元待望論と連動していたことを示唆しているとの解説もあります。 >>64
[7] >>1 この推測の理由は明記されていませんが、 元号を偽造するという事自体や、 「嘉政」 という元号名からでしょうか。
のそれぞれの思惑があるはずで、 いつ誰が何を考えてどう行動したのかを明らかにしないままでの雑な評価は実態を見誤る危険があります。
[94] 「政治への不満」 が理由だといっても 「政治に不満があるのでそれを表現する嘘元号を作った」 と 「政治に不満があるので新元号を政府よりも早く流通させようとした」 と 「政治に不満があるので新元号情報が非正規ルートから届いても受け入れた」 とでは話がまったく変わってきます。
[118] 明治時代の類書 古事類苑 は、 逸年号条に 続雨夜友 を収録しました。 (>>123)
[10] の概説書に、 偽年号の1例として元号名が示されています (>>2)。 >>1
[4] 著者の大島延次郎 ( - ) は、 東北大学所属の歴史研究者で、専門は日本交通史。
[5] 当論文は日本の元号の概説で、元号に関する幅広い方面の基礎的知識が紹介されており、 >>2 はそのうち偽年号を説明する部分です。
[6] 当論文は、昭和37年当時の歴史辞典の類で構成可能な一般的事項で構成されています。 大島延次郎に元号関連の業績は見当たらず、独自の研究成果と思しき内容は含まれていません。
[7] なお >>2 が伴信友が挙げたとして参照しているのは長等の山風所収年号の論。
[9] 「その他」として挙げられた元号は、古事類苑が収集したものから伴信友が挙げたものを除外した残りと似ています。 昭和時代中期までの既知の辞典類等で、改政を掲載したものは他に知られていません。 よって古事類苑がこの部分の情報源の可能性が高そうです。 >>13
[112] 平成時代後期の 日本年号史大事典 のコラムで嘉政が紹介されています。 >>40
享和4年(1804年)に「文化」に代わる直前には「元明」と改元されたと売り歩いた者がいたという。文化14年(1817年)には改元していないのに「永長」(実際は翌年に「文政」)を、天保15年(44年)には「嘉政」(実際は翌年に「弘化」)と書いて売るなどのケースが続いた。吉野氏は「幕府はニセ元号に神経をとがらせ、どのケースも犯人を入牢や追放の処分にした」という。
特に「嘉政」は当時の幕政への不満も背景にあったようだ。吉野氏は「日常で元号を利用しながら生活している庶民に、改元で新時代を期待する願望があった」と話す。
天保 15(1845)年の師走、江戸で改元に関する偽の情報が流れるという事件が起こりました。『藤岡
屋日記』の同年 12 月6日条によれば 今日から年号が替わりました、と紙切れに「嘉政」と書いて1枚4文で売
り歩いた輩がおり、都合6人が捕縛されたという。また、去る天保改元の 時も「永長」と書いた紙を売り歩いた事件があったとのこと といったものでした。
改元の時間差の最中に起きたこの事件は、改元が単に為政者の論理で行われるものではなく、世の中
の改元待望論とでもいうべきものと連動していた事を示唆している、と見ることも出来そうです。また、 偽の元号として流布された「嘉政」は、実際に元号に採用されたことこそ無いものの、文化・文政・弘 化・嘉永の各改元で元号候補として挙がったものであることも興味深い点です。
[120] 令和時代に至るまで、私年号研究の文脈で改政に言及したものは見当たりません。
[115] 嘉政には言及がいくつかあるものの、 研究はあまり進んでいません。史料が少ないためでしょうか。
[113] 私年号研究の多くは中世史の研究者によるもので、 近世の私年号は長らく視野に入っていなかったため、 近世の改元デマは異年号の研究からこぼれ落ちていたと思われます。
[116] 本書はその後の私年号研究でも多く参照されていると推測されるところですが、 なぜか以後の研究や辞書類の表には改政は収録されていません。 日本私年号の研究 にもありません。 私年号として実用された元号でないために関係が薄いと判断されたのでしょうか、