[87] 清末は日時制度において(も)混乱の始まりの時代でした。
[8] 清国時代の末期にはたくさんの紀年法が提案され、利用されました。
[4] 20種類以上の紀年法が存在するとされます。 >>30
[7] しかしそれらを一覧にした日本語のウェブサイトは見当たりません。 せいぜい主要な4,5個程度しか紹介していません。
[9]
各紀年法はその背景に政治思想がありました。
従来の中華王朝の伝統的な紀年法の体制からの脱却を狙いながらも、
紀年法が思想を体現するという東洋の伝統
[10]
現代の中華人民共和国や日本では清末・辛亥革命期の政治思想研究などの分野で、
思想としての紀年法が研究されています。
[11]
従来の東アジアでは中央勢力の支配を好ましからざるものと思っていて、
しかし対抗勢力を樹立するまでには至らぬような場合、
元号のかわりに干支年を使う伝統がありました。
干支年のみの紀年は必ずしも政治色が付かないので
(反抗的な意志がなくても使われ得る)、
清の時代にも普通に使われていて、
清末にもやはり使われ続けていました。
干支年 (ないし太歳紀年法) の利用からその思想を読み解こうとする研究もあります。
[12]
古い時代に元年を置いた紀年法は、
欧米のキリスト紀元や日本の皇紀に触発されたものと考えられています。
といってもキリスト紀元はそれこそ明や清初の頃から接触はあったのですから、
やはり直接的には清末の日本留学生が皇紀を体感したことが大きかったのでしょう。
[17] 辛亥革命期に活動した章炳麟 (章太炎) はいろいろな紀年法を使っていました。
[20] 著書 訄書 は版、 版など、 その原稿含めいくつかの版が知られています。
[26] 訄書 初刻版目次後の跋文には、 辛丑後238年とあります (>>25)。 辛丑とは、 明の皇帝家の最後の政権が清によって滅ぼされた、 南明桂王を指します。 >>19, >>6
[27]
辛丑後の解釈により、
,
の2説があります。
[29]
章炳麟らの
支那亡国二百四十二年紀念会啓
は辛丑後242年と書いていました。
[28] また、同年12月とありますが、農暦によるものとされます。 >>19
[41] 訄書 重訂本に収録された文章の初稿に当たるものには、 辛丑後240年とありました (>>40)。 ないしに当たります。 しかしこの表現は刊行された重訂本にはありません。
[16]
この紀年を紹介したとある日本の平成時代の論文は
「
[45] 訄書 重訂本には序文部分に共和2741年と共和紀年の年表記があります (>>39, >>42)。 これはに当たります。 重訂本が出版されたまでに共和紀年を使うようになったことがわかります。 同書奥書も共和紀年で (>>43, >>44) 、 に当たります >>19。
[46] 不明瞭ですが、共和紀年も農暦と共に使っていたのでしょうか。
[50] なお 章太炎全󠄃集 は 「辛丑後」や「共和」の前に句点「。」を打って区切って、 「皇漢」を前文の終わりに入れています。 >>18 (>>31, >>42) この前文は4字1句を連ねた構成になっているので、 最後の1句だけ6字1句とするよりは、 「皇漢」も日付の一部と解する >>49 のが妥当でしょう。 そのもう1文字前の「于」まで日付の一部と解する >>51 ものもあり、それは于時のような表現を想定しているのでしょうが、 これは長く取りすぎでしょう。
[32] の 解弁髪 が共和2741年と共和紀年を使っていました。 >>32
[52] 祭沈藎文 は冒頭の紀年が収録のたびに変わっていました。 >>302 #page=9
[61] いずれも年は同じとすると、 2つの黃帝紀元はそれぞれ y~1724, y~1723 となります。
[62] この紀年の変更について、辛亥革命の前後の変化であることから、 章炳麟の革命に対する立ち位置の変化を反映しているとする説があります。 >>302 #page=7
[63] そのような可能性を特に否定したいわけではありませんが、 十分な論証はなされていないように思われます。 同年中に2つの異なる黃帝紀元を使っていること、 翌年にそれを省略して収録されていること (祭文の日付を省略していいものか?)、 章炳麟の同時期 (前後の時期) の他の文章では共和を使っていることが、 どのような事情によるものかがまず考察されるべきでしょう。 もちろん、公表済みの祭文が再録に当たって紀年がまったく別形式に改められるのはただならぬことでしょうから、 その意図を考察すること自体は妥当でありましょう。
[80]
ただの干支年でなく太歳紀年法を使ったことについて、清初に
2朝に仕えた銭謙益の境遇に自身を重ねその先例
[33] >>21 によると章炳麟は 客帝匡謬, 分鎮匡謬 で 「共和年号 (黄帝紀元)」 を使用しました。 この括弧はどういう意味なのでしょうか? >>32 のように共和紀元を使ったことと、 >>52 のように黃帝紀元を使うこともあったということでしょうか。
[83] 当論文は亡国紀年についても /70 に、 康有為らの孔子紀年に 「対立させる名称「共和紀年」あるいは「支那亡国紀年」を採用した」 のだとよくわからない記述があります。 名称 (紀年法の名称?) の話をしているのか紀年法の話をしているのかわかりません。 「支那亡国紀年」が紀年法なのかどうかも、説明がないのでわかりません。
[84] 文意と出典が不明瞭な記述が散見されるので、 行間を読んで都合よく解釈することもできなくはないものの、 あまり真面目にとらえても仕方がないものかもしれません。 (京都大学の博士論文なのですが...)
[34]
なお、伝聞情報ながら、
辛亥革命時の中華民国軍政府が公用した黃帝紀元
y~510
についても、
章炳麟の名が挙がっています。
[33] 新方言/序 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%96%B0%E6%96%B9%E8%A8%80/%E5%BA%8F
維周召共和二千七百四十九年,歲在箸雝涒灘,月在畢陬,丁亥朔,章炳麟曰:
[85] 章炳麟の新方言にはこうありますが、これは。 >>54 の黄帝紀元より後なのは、どう考えるべきなのでしょうか。
[86] 革命軍序 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%9D%A9%E5%91%BD%E8%BB%8D%E5%BA%8F
共和二千七百四十四年四月餘杭 章炳麟 序。
[15] 太平天国の前例を孫文が意識したものとする説があります。 >>302 #page=8
[64] 魯迅は中華民国教育部に勤務していました。 >>302 #page=2
[69] 魯迅が太歳紀年法を使った例が知られています (>>65)。
[70] 旧説では陶淵明や顧炎武が「同様の年代表記」 で2朝に仕えないことを示したのと同様に、 魯迅の袁世凱の治世への反発を表したものと解されていました。 >>302 #page=3
[76] それに対し、 魯迅はその2人と違って中華民国に仕えていること、 革命派的立場から袁世凱に反発するならむしろ辛亥革命で生み出された民国紀元を奉じるはずであること、 中華民国3年の当該太歳紀年法用例以前にも民国紀元を使わず干支年を使っていること (>>71, >>72, >>73) などの理由から、 否定して別の理由を求める説があります。 >>302 #page=4
[81] 一説によると、 魯迅は親交があった章炳麟の立場を継承していたのだといいます。 そして章炳麟が太歳紀年法を使っていた (>>63, >>80) のと同じように魯迅もまた使ったことにそれが表れているのだとされます。 >>302 #page=8
[82] しかしそれでも干支年を使っていることに十分な説明が与えられているようには思われませんし、 紀年法にだけ着目し日付が農暦であることにも注意していません。 特段の事情が無い限り、通常の干支年と太歳紀年法の使い分けに政治的・思想的な背景は読み込むべきではなく、 文飾的なものと見ておくのが穏当でしょう。 干支年を使うことについても、 グレゴリオ暦と結びついた民国紀元に対して干支年が農暦に結びつくようになっていく過程にあることや、 その後長らく一般市民が農暦を使い続けることを念頭に置けば、 その解釈は慎重にならざるを得ません。 役人でも公務以外では干支年と農暦を使った実例と思えば、 類例は他にも多々あるのではないでしょうか。
[1] 清末の雜誌の日付は基本的に農暦で、 辛亥革命後はグレゴリオ暦に変わっていきますが、 農暦のままのものもあります。 >>13
[2] この時代を扱う文学研究者は、暦法の違いにあまりこだわっていないそうです >>13, >>3。 小説目録だと換算して新旧併記したりもします。 編纂方針によって清の元号や西暦に統一するものもあれば、 原表記に近い日時表示を採用するものもあります。 >>13
[6] >>5 奥付に中華民国 (グレゴリオ暦) と干支年 (農暦) を併記した書籍の例
[35] 民国元年要过“两个”元旦_团结网, , https://web.archive.org/web/20150402095448/http://www.tuanjiebao.com/lishi/2015-01/08/content_5245.htm
[88] 민족의 역사를 시간화하는 방식의 의미 ― 孔子紀年과 黃帝紀年을 중심으로, https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART001558678 (PDF 全文あり)