[5] 法興 (y~1223) は、古代日本で使われた元号の1つでした。
[6] 日本初の公年号、大化 (西暦645年建元) より古く、日本で定められた最古の元号の可能性があります。
[59] 豊日史学 : 復刊宇佐文化 55(1)(197), 豊日史学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/7958858/1/20 (要登録)
法興
[52] 法興とは - コトバンク, 精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典内言及, https://kotobank.jp/word/%E6%B3%95%E8%88%88-1413920
ほうこう ホフコウ【法興】 (「ほっこう」とも) 私年号の一つ。崇峻天皇四年(五九一)から五年(一説に六年)継続したといわれる。 ※金銅釈迦三尊造像記(法隆寺所蔵)‐癸未年(623か)三月「法興元卅一年歳次辛巳十二月、鬼前太后崩」
出典 精選版 日本国語大辞典
[38] 当時またはそれに近い時代とみられる古い用例が2例知られています。 うち1例は金石文として現物が残ります。 もう1例は碑文が引用されて伝わるのみです。
[296] 法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘 (日本国奈良県斑鳩町) に、 「法興元丗一年歳次辛巳十二月」 とありました。 その次の「鬼」まで日付部分とする説もあります。 >>297
[301]
その釈迦三尊像の宣字形台座の下座下框に、
「辛巳年八月九月」
の墨書がありました。
[1897]
伴信友 (>>4)
は、
法隆寺釋迦佛光後銘文に
「法興元世一年歳次辛巳十二月」
などとあり、
上宮聖徳法王帝説
にも掲載されていることを指摘し、
湯岡碑文の法興 (>>1896)
の第31年
[20] 東野の研究や辛巳年墨書の発見以前の昭和時代の研究者には後刻説もありました >>297。
[24] 福山敏男は、 天武天皇の時代以後、 推古天皇の時代に擬して作られたものと主張していました >>502 (法隆寺の金石文に関する二、三の問題, 夢殿第十三冊)。 像と銘が作られた時期が異なり、 銘文は法興31年 (推古天皇29年) を降るとしました >>50 (法隆寺の金石文に関する二、三の問題, 夢殿第十三冊)。 銘文に「上宮法皇」とあることから、 「天皇」が普通に用いられるようになった後に聖徳太子信仰が盛んになってから書かれたものである、 としました >>50。
[300] 東野治之らの調査で、 銘文は造像当時のものであって、 後刻ではないとされました。 >>297, >>246 普及版 p.338 (法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘文再読, 北康宏, 博物館学年報 27, 1995、法隆寺金堂釈迦三尊像の光背銘, 東野治之, 日本古代金石文の研究, 2004)
[298] 現在では「法興」を私年号と解し、 「法興元丗一年歳次辛巳」と「辛巳年」を 621年、 「癸未年」を623年と解するのが定説となっています。 >>297
[306] 伊予湯岡碑碑文に 「法興六年十月歳在丙辰」 とあり、596年と解されています。 ただし原碑は行方不明となっています。 >>305
[1896]
伴信友 (>>4) は、
釋日本紀
所引
伊豫風土記
の大分速見湯の碑文に
「法興六年十月歳在丙辰」
とあることを引いて、
碑文の文意より法王は聖徳皇子であるとし、
推古天皇4年を指すとしました。
従って元年は崇峻天皇4年
[25] 福山敏男 (>>24) は、 奈良時代初期頃、 推古天皇の時代に擬して作られたものとしました >>502。 懐風藻 序文と比べて銘文が流麗なので、 天智天皇の頃に至って雕章麗筆盛んになった頃作られたとしました >>50。 また 伊予国風土記 には 日本書紀 成立後の用語が使われているため、 日本書紀 以前に成立していたなら 日本書紀 編纂者が温泉碑にも言及したはずだ、 と指摘しました >>50。
[49]
久保常晴は、
歳在と歳次の分布から、
架空又は後世に書かれたものなら歳在ではなく歳次とあってしかるべきではないか、
伊予国風土記
が書かれた時代の造作とは考えにくい、
としました。
>>48 p.
P0972
、仮初に三間の堂を造覆給けり。武が作れる寺なれば、武作寺と云けるを、法興元世二十一年、〈 壬子 〉二月十八日、太子と妃と相共に、彼寺に御幸して、手自地を引柱を列ね、金堂法堂鐘楼僧堂を建闊、太子自彼以白檀后高橋妃の等身に千手の像を造て宝石の上に安置し、法華、維摩、勝鬘等の三部の大乗を籠られつゝ、武作寺を改て長光寺と定らる。
... とありました。 >>35
[7] 「法興元丗一年」の解釈は諸説ありました。
[9] 上宮聖徳法王帝説は、 法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘文を 「法興元世一年」 としていました >>502。
[40] このため古くから法興元世の4文字元号と解されてきました。 塵添壒囊抄巻十七や、 源平盛衰記巻三十九には、 法興元世何年の用例がみえました >>502 (上宮聖徳法王帝説の研究, 家永三郎, 増補再版昭和四十七年刊, p.349)。
[10] 「法興元世」は古代中国の造像銘で少なからず用いられた例がありました。 そのため薮田嘉一郎は、 碑文を偽造としました。 >>502 (法隆寺金堂薬師・釈迦光背の銘文について, 仏教芸術第七号)
[1898] 伴信友 (>>4) は、 「世」は「卅」の異体字であって、 古い本に用例があり、伴の時代にもそう書くことがあると指摘しました。 聖徳法王帝説 釋は 「世」 と読んで無理な解釈をしたものとしました。 >>1731
[41] 2つの用例のうち、 1つは「法興」 で、 もう1つは「法興元」 です。 この「元」の解釈が問題となります。
[1899] 伴信友 (>>4) は、 法興元の3文字元号だった説 >>1731, >>502 と、 2文字元号に「元」が挿入された説 >>1731 を示しました。 どの解釈が良いか結論は下しませんでした。
[8] 佐藤誠実 >>502 (白鳳朱雀并法興元考, 史学雑誌第十一編第十一号, )、 金子長吾 >>502 (上宮聖徳法王帝説新注, 明治三十四年刊) は、 3文字元号説を唱えました。
[11] 田中豊蔵は、 「法興元」を法興紀元の意味としました >>502 (宝馬盧雑筆(二), 画説第五三号, 昭和十六年五月)。
[299] 大矢透は「法興元」を仏法興る元年 (から31年) の意と解しました >>297。 大矢は、 朱鳥がアカミトリと訓まれることから、 「法興元年」はノリノオコリシハジメノトシと読みたがるが故、 それに文字を当てて3文字の元号のようになった、 と推測しました >>502 (仮名源流考, 明治四十四年, p.42)。
[13] 所功は、3文字や4文字では碑文と矛盾するので、 2文字の元号に紀元 (>>11) やハジメノトシより (>>299) の意味の「元」がついたものと解するべきと主張しました。 >>502
[14] この元号の意味、建元の理由については、 古くから法興寺の建立と関連付けられてきました。
[15] 伴信友 (>>4) は、 崇峻天皇4年に法興寺の造営を始めるのに合わせ、 法興と建元し、 やがて寺号も法興寺と名付けられたとしました。 >>502 次のように指摘しました >>1731。
[16] 藤原猶雪は、 崇峻天皇4年を法興寺の起工の年で、 これを「法興の元始と見たもの」だと推測しました。 >>502 (聖徳太子全集巻三 (藤原猶雪解題), p.82) 大矢透も同説でした >>502 (仮名源流考, 明治四十四年, p.42)。 会田範治も、日本最初の寺、 法興寺の建立という重大な年だったので法興元年とした、 と推測しました >>502 (法隆寺金堂坐薬師釈迦弥陀三尊、光背銘文考, 夢殿第十三冊九三頁)。
[17] 佐藤誠実は、 完工後に法興寺と命名し、 やがてその年を元年とするようになった、 と推測しました >>502 (白鳳朱雀并法興元考, 史学雑誌第十一編第十一号, )。
[34] 家永三郎は、 法興は法興寺造立関係者で行われた一種の私年号と推測しました >>502 (上宮聖徳法王帝説の研究, 家永三郎, 増補再版昭和四十七年刊, p.331)。
[44] 所功は、 日本書紀 には崇峻天皇4年に法興寺に関係する記事がなく、 日本書紀以外に法興寺とこの年を結びつける根拠が見られないため、 この説には無理があるとしました。 >>502
[18] 所功は、 蘇我馬子の私寺から元号名が採られるとは考えにくい (逆はあり得る)、 法興寺造営に関する日本書紀記事の史料価値を疑う福山敏男説がある、 飛鳥寺 (法興寺・元興寺) 縁起類に法興の元号が見えない、 といった理由から法興寺との関係を否定しました。 >>502
[19] 田村圓澄は、 唯一の用例たる銘文、碑文とも聖徳太子に焦点を当てたもので、 聖徳太子は (敏達天皇2年誕生説によれば) 19歳が崇峻天皇4年に当たることから、 これを記念したものだとの新説を提唱しました。 釈迦が仏道に進んだのが19歳とされ、 聖徳太子は日本の釈迦、法王と仰がれたことから、 仏法興隆にゆかりの深い19歳を法興の年とした、 というものでした。 >>502 (「法興」私年号考, 日本歴史第二四三号, 昭和四十三年八月) 所功は、 法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘を収録する 上宮聖徳法王帝説 が聖徳太子誕生を甲午年とし、 その場合元年が聖徳太子18歳となることから、 無理があると評しました。 >>502
[23] 岡田芳朗は、 新羅最初の元号を建元した法興王の治績と聖徳太子の事績の類似性を指摘しました >>502 (日本の暦, 昭和四十七年刊, 年号の始行 pp.98-99)。 所功は、 類似といっても干支年などの対応関係が成立しているとはいえず、 元年が崇峻天皇4年となる理由を説明できないと指摘しました >>502。
[22] 所功は、 唯一の用例たる銘文、碑文とも聖徳太子に焦点を当てたもので、 しかも銘文の聖徳太子死後が 「癸未年」 と干支年のみの表記たることに着目し、 聖徳太子没年までにしか適用されなかったと推測しました。 所功は「聖徳太子のために作られ使われた年号とみて大過ないであろう」 と結論付けました。 >>502 ただ所功は元年が崇峻天皇4年となる理由は 「依然不明というにとどめておかざるをえない」 としました。 建元理由を説明できない以上、 聖徳太子に因んだとする説も十分な説得力を持つとはいえません。
[355] 日本書紀に記録されておらず聖徳太子に関係する記録にのみ残されています。
[26] 用例が2つしかないことから、 広く使われたとは考えられない >>502 とされています。
[302] 法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘にあることから、 「法興」元号は当時ある程度使われていたものとみられます。 法隆寺周辺など仏教信仰との関係の中で利用されていたと推測されます >>246 普及版 p.338 (田村圓澄, 1968)。
[28] 伴信友 (>>4) は、 「一時の嘉号の如く」で重視されなかった元号で、 しかも蘇我馬子らが使ったものだったため、 史書にも載せられなかったとしました。 >>1731, >>502
[1905] 伴信友 (>>4) は、 31年の聖徳太子没まで使われ、 その後自然に廃止されたものと推測しました。 >>1731
[29] 久保常晴は、 帰化人が本国の知識により使ったものだと推測しました。 >>502 (日本私年号の研究)
[30] 田村圓澄は、 聖徳太子が法王として仰がれた時期に、 法隆寺の僧が使った私年号としました。 >>502 (「法興」私年号考, 日本歴史第二四三号, 昭和四十三年八月)
[31] 岡田芳朗は、 天武天皇の時代 (新羅との国交回復) より後に、 聖徳太子と法興王が意図的に結び付けられ、 聖徳太子が日本の最初の元号の建元者に比定され、 法興の元号が創作された、 と推測しました >>502 (日本の暦, 昭和四十七年刊, 年号の始行 pp.98-99)。
[32] 所功は、 聖徳太子生前から顕彰する元号があったとは考えにくいとし、 死後法興王に比すべき英主であると「追慕する一部の人々(法隆寺僧などか)」 が作った私年号と推測しました。 >>502
[1] 法興は、 法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘と伊予湯岡碑碑文に残されていますが、 六国史や年代記類にはまったく記録されていませんでした >>502。
[2]
古代年号の一覧にも、古いものにはまったく法興は触れられていませんでした。
そのため法興と古代年号はまったく別個に成立し発展したとみられています。
九州王朝説支持者はこれを説明するため、
九州王朝勢力が分裂していたなど強引な理論を展開しているようです。
[33] 上宮聖徳法王帝説釈文は、 「建二-立三宝一始興二大寺一故曰二法興元世一也。」 と法興寺と関連付けて解釈していました。 しかし元号とは考えていませんでした。 >>502
[4]
江戸時代の研究者伴信友は、
法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘 (>>296)
と
伊予湯岡碑 (>>306)
から、
崇峻天皇4年
[21] 明治時代から昭和時代にかけて、 この元号の性質について様々な学説が提示されました。
[51] 福山敏男は、 古代の2つの遺物をいずれも時代が降ってから作られたものとしました (>>24, >>25)。 法興は元号が使われるようになった後に生まれたものとしました。 >>50
[27] 2つも用例があるというのは、 考えようによっては大化や白雉よりも実在性がはっきりしているともみられますよね。
[82] 日本随筆大成 別巻上, 日本随筆大成編輯部, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1914157/1/491?keyword=%E5%B9%B4%E5%8F%B7 (要登録)
[45] 東京国立博物館デジタルライブラリー / 上宮太子拾遺記;1~7・裏書 : 第五, https://webarchives.tnm.jp/dlib/detail/1727 1547/00220, 224, 225
[46] 【上宮太子拾遺記】, http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=KSRM-109802&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E4%B8%8A%E5%AE%AE%E5%A4%AA%E5%AD%90%E6%8B%BE%E9%81%BA%E8%A8%98%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=326
[47] 大日本仏教全書. 112 - 国立国会図書館デジタルコレクション, https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952816/200
[53] 「法興」を私年号と称するのは適切か?:細井浩志「日本の古代における年号制の成立について」 - 聖徳太子研究の最前線, https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/a8c513d9406065e125ea5695b1e7f271
[55] 古蹟 3(4), 帝国古蹟取調会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1539700/1/15 (要登録)
[56] 仏教芸術の研究, 平子鐸嶺, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/951375/1/1 (要登録)
[57] >>55 が参照している平子くんの論考は >>56 に収録されたものか?
[58] 国史の研究 総説, 黒板勝美, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1075909/1/86
[62] 虚心文集 第3, 黒板勝美, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1266384/1/49
/304
[60] 綜合日本仏教史, 橋川正, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1181351/1/29 (要登録)
[61] 史迹と美術 49(7)(497), 史迹美術同攷会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/6067384/1/10 (要登録)
[63] 飛鳥時代の美術, 内藤藤一郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1174103/1/72
[64] 考古学雑誌 = Journal of the Archaeological Society of Nippon 6(6), 日本考古学会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3548212/1/34 (要登録)
[65] タレントの竹田恒泰氏「聖徳太子は中国皇帝とのやりとりに日本の元号を使った、外務省こそ元号を重んじろ」→聖徳太子の時代に元号はありません | BUZZAP!(バザップ!), 深海, 2019年4月4日18:00, , https://web.archive.org/web/20190404101511/https://buzzap.jp/news/20190404-takeda-tsuneyasu-shotoku-taishi/
なお、聖徳太子の時代には「法興」という私年号が使われたという説もありますが、真偽不明で元号と呼ぶことはできませんし、遣隋使がこれを用いた証拠も発見されていません。
ほんの少しでも調べれば分かるような義務教育レベルの知識を調べずに発言するような人物が、多くの検証などを積み重ねて研究を続けてきた歴史学者を左翼集団と言い放ち、皇太子さまにまで後ろから蹴りを入れるといった発言をしている事は平成が終わってもしっかりと記憶しておいたほうがよさそうです。
[66] >>65 デマを非難する記事でさらっと怪情報。法興が「使われた」事実の存在は定説化していて、 「真偽不明」というのは無理がある (「どう」「誰が」使ったかは未だ定説なし, 遣隋使が使った証拠がないというのは正しい)。 「元号と呼ぶことはできません」というのも意味不明。どうみても元号。 昔あった非元号説を今も支持している人はもういないのでは。
[67] 「ほんの少しでも調べれば分かるような義務教育レベルの知識」 ではちょっと難しい分野なので、 「ほんの少しでも調べ」た程度の知識で記事を書かずに、 専門家にコメントを求めるべきだったのでは。
[69] 岡山県立栄養短期大学研究紀要 (1), 岡山県立栄養短期大学, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1815703/1/22 (要登録) 左
[70] 日本家庭大百科事彙 第3巻, 富山房百科辞典編纂部, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1225461/1/1297 (要登録)
[71] 国民百科大辞典 10, 富山房百科辞典編纂部, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1813764/1/283 (要登録) 左上
法興のことを元興といっている
[72] 九州王朝説から転じた理系の古代史研究家による強引な聖徳太子論:半沢英一「聖徳太子法皇倭王論」 - 聖徳太子研究の最前線 () https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/89f7ae5dbe6b1959259cdb4ee1f2d6c6
[73] 文芸類纂 巻4 文志 下, 榊原芳野, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/991274/1/5
[75] Xユーザーのkobayutaさん: 「@nemurikappa @hyena_no @7s9L2lKs @starview1231 @alsnova @lRUViNhfYNURDmg @gishigaku @T_Kusumi057 @duke_saigo_13 @csagev @TweetCat16 @Kobayas95466981 @hoshisora_c @yu_okagami 「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」にある語「紹隆三寶」は元々維摩経にあるようですが、隋文帝開皇十一年の詔にあります(『歴代三宝紀』巻十二)。で、この詔が推古天皇の「三宝興隆の詔」のネタ元になったとの考えがあり、開皇十一年は「法興元年」に当たります。 何か関連はあるだろうと思います。」 / X, , https://x.com/kobayuta2/status/1819343691154411746
[76] 「法隆寺金堂・釈迦三尊像光背銘」を語る 筑紫年号「法興」が何故? (新説日本書紀 飛鳥時代① 令和4年12月2日)抜粋版 - YouTube, https://www.youtube.com/watch?v=ZdQcNHK-cNY
[77] https://rissho.repo.nii.ac.jp/record/1018/files/KJ00000189213.pdf #page=3
[80] 甲子論集 : 林巨樹先生華甲記念国語国文論集, 甲子論集林巨樹先生華甲記念国語国文論集刊行会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12447540/1/120 (要登録)
[81] 続史籍集覧 第4冊, 近藤瓶城, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1259202/1/282