承運

承運

[76] 近宝, 承運, 慶観, 養保, 弘治は、 日本江戸時代に存在した絵画に見られる元号です。 偽銘捏造元号の疑いが強いです。


[15] 江戸時代日本国山城国京都儒学者伊藤長胤 (-) (伊藤東涯) の 盍簪録 によると、 ある人の家の絵の題名で、

日時事例

とありました。 盃玉端という人名らしきものがありました。 安南国のものと推測されました。 >>12

[17] 推測の根拠は不明ですが、日本漢土元号人名らしくなかったためでしょうか。


[18] 江戸時代日本国の研究者藤貞幹 (-) 好古目録によると、 古画の落款に、

日時事例

とありました。承運元号は華夷に聞かないもので、葉月や陸朱云々もわからないとしていました。 >>6

[20] 後に、葉月は8月の異名だと指摘されています >>2葉月は項見出しにもなっていて >>6承運よりも注目されていたようですが、 藤貞幹は知らなかったのでしょうか? 現在は有名でも当時は知られていなかったのでしょうか?

[22] 仲□は中旬または中旬の何日かを書いていたものと思われます。 東洋の日時表示

[21] >>2 は□を口としていますが、誤植と思われます。

[23] 江戸時代画家田安家 (松平定信) に仕えた谷文晁 (-) 文晁画談 (成立) によると、 絵の落款

日時事例

とありました。 >>1

[25] 次のように書いていました。 >>1

[32] 落款が「後人」のものなら絵も疑わしいはずですが、それには何も言及がありません。

[31] 紀元通考松井甚五郎 (松井羅洲) の著書 (序) でしょう。

[33] 朱書されたという落款>>18 と同じで、同書またはそれと同内容を聞き及んでいたのでしょう。

[102] 勝山古記 b-3 本冒頭に、

一承運元癸酉年仲夏中日図之ト古画落款ニ有之、年号 詳ナラズ、我画ト相見ユ之由ナリ、好古目録ニ曰、 藤貞幹著述也、字子冬、江州人也、人呼云藤祝蔵、承運第六丙辰葉月仲□陸朱碩 姓隣写ト古画落款也、承運年号華夷ニ聞サル所也、 葉月以下不可解トアリ、

按ニ、葉月謂八月、下学抄等ニ見タリ、 癸酉丙辰ハ其間四十二年ナリ、何カ書損ナリヤ、 第六年ハ戊寅ニ当ヘシ、

とあります。 >>103

[106] この本はその後に法興の記事があります。 ここまでは他の写本にない b-3 固有の特徴です。 その後b系統写本共通して天平勝宝の注釈があります ( 勝山記 )。 その後にようやく勝山記写本部分に入ります。 >>104

[107] 承運法興は明らかに勝山記と無関係で、 まったく別個の覚書などが混入したものと考えられます。 天平勝宝もb系統写本には含まれない時代で、やはり無関係の可能性がありますが、 天平勝宝はb系統に共通するのに承運法興b-3 固有なのは不思議です。

[108] 承運の項は >>18>>23 と同情報ですが、よくみると細部に違いがあります。 微妙な違いは誤読・誤写かもしれませんが、 >>23 にある 紀元通考 への言及は皆無である (逆に >>23 には >>18 への言及がない) ことを見るに、 >>23 とこの承運の項は独立して書かれたものかもしれません。


[38] 江戸時代日本国武蔵国江戸旗本画家朝岡興禎 (-) 古画備考 の外国画の巻 (弘化2(1845)年3月3日起筆) に、 未知の元号の記述があります。 >>36, >>37

[39] 近宝>>12 を引用しています。 >>35 特にコメントはしていません。

[40] 承運>>19 と同じ銘文です。元号人名は聞かないもので、 外国人かと書いています。 >>35 出典は不明です。実見したのでしょうか、それとも伝聞でしょうか。

[41] これらは末尾の安南の章に収録されています。 前者は引用元で安南国かとしているのに従ったのでしょう。 後者はまったく不明ですが、わざわざ章立てすることなく巻末に収録したのでしょうか。

[42] 本書はから太田謹が増訂した版があり、 巻末に更に増補されています。 >>37

[43] 増訂版では承運について >>14 を引用しています。 >>9

[44] 増訂版によると、明治30年に寶物取調局で見た慶長、元和の画風の絵に、

日時事例

と書いてありました。 >>35 (模写あり)

[46] 日本政府宮内省系組織臨時全国宝物取調局に発足し、 に事業終了しました。 全国各地の美術品を調査しました。 残務は帝国博物館に引き継がれ、 東京国立博物館に資料が残るとのことです。 >>47 ということはその終了間際に、日本の何処かから持ってこられた絵を見たのでしょうか。 現物は返却されたのでしょうか。それとも博物館に収蔵されたのでしょうか。

[49] 当時目録が作られ収録されたのかもしれませんが、現物も目録も、 ウェブ検索や東京国立博物館のウェブサイトのデータベース検索では見つけることができません。

[50] 増補版によると、に池内で見た絵に、

日時事例

と書いてありました。 >>35 (模写あり)

[52] 池内はどこ (誰?) でしょうか。

[54] 増補版によると、 福井樓の展観で見た絵に

日時事例

と書いてありました。 >>35

[56] 福井楼日本国東京府東京市日本橋近くの料亭でした。 大東亜戦争米軍空襲で焼かれて廃業したようです。 それ以前に関東大震災でこの地域はほぼ焼失したようです。 福井楼の所蔵だったとすると、現存しないのかもしれません。

[53] 養保慶観は諸書に見当たらず、 両者どちらも書風から同一人物によるもので、 しかも外国風味は無いとされます。 >>35

[57] 慶觀弘治人名の下のが同じでした。 >>35

[48] 弘治は和漢どちらにもあるものの、もとより明画でなく、 と見るべきでもなく、 何とも合点がいかないとされています。 >>35 ここで明画ではないと言っているのは和漢どちらかはっきりしないということでしょうか、 それとも「弘治」と読むべきかもはっきりしていないのでしょうか。 弘治2年でないというのは、画風や書風の判定でしょうか。

[58] 増訂版では、 養保慶觀弘治の3品を同一人物による日本画と判定しています。 他にももう1品同筆のものを見たとのことですが、 銘文は紹介していません。 近宝承運も同筆だろうと推測しています。 >>35

[59] 昭和時代中期の日本私年号の研究は、 中国日本の元号として紹介される幽霊元号の1つ貞運の説明で、 音通する不明な元号として紹介しています。 好古目錄承運の節を引用して、 承運はどの国にも無く、 年数干支が一致する元号もみあたらない、 筆者の国籍は不明だ、と書いています。 >>2 承運自体を私年号ないし私年号的なものとして立項していないのは、 日本のものかわからないためなのでしょう。

[109] これら6例は、以上示した近世から近代初期にかけての言及と >>59 を除けば異年号の研究の対象とならなかったようです。 多くの人が言及しているように興味の対象にはなっていたものの、 日本の私年号の研究が始まったばかりの近世日本では、 日本のものではなさそうと判明した時点でそれ以上は追求のしようがなかったのが大きな要因と考えられます。

[110] 昭和時代に至っても尚越南の元号の情報を得るのは困難でした ( 越南の元号 )。 日本私年号の研究>>59 の言及があるのを除けば、 越南の元号にはまったく触れていませんでした。 日本の私年号への導入として日本朝鮮漢土公年号と氾濫政権の元号の概略は検討対象としているのですが、 日本への文化伝播ルートにない越南の事情はまったく議論すらされていません。 日本の元号でもなく漢土朝鮮公年号でもない謎の元号まで調査の手を伸ばすのはさすがに難しかったようです。

[111] それ以後も令和時代に至るまでこうした 「公年号でも日本の私年号でもないその他の異年号」 というカテゴリーに着目した研究はほとんど皆無で、 存在自体が忘れられていたようです。 銘文が書かれていたはずの実物がいずれも行方不明なので、 文化財指定のための調査などもされていません。

[34] これら6例の紀年は偶然にしてはよく似ています。

という類似性があります。 当時の紀年の慣習や日本画落款の慣習も検討の必要がありますから直ちに特定人物の癖のようなものとも断定しかねますが、 同一人物説の傍証くらいにはなるかもしれません。

[61] 近世だとして干支年が該当するの一覧:

[62] 6例もありながらいずれも現所在が不明なのは遺憾です。

[63] 最初に安南国ではないかと判断された理由はよくわかりません。 近世初期には越南とも人の行き来がありましたが、 鎖国により途絶し、あまり情報が入ってこなくなっていたようです。 東洋風でありながら日本とも大陸とも違うとなると、 残りは越南辺りだろうという具合なのでしょうか。

[64] 南方で「承運」といえば、南支以南に多い天運紀年が連想されますが (「運」と入っているのも道教臭があります)、 あまり関係なさそうです。

[65] 断片的な情報と各時代の専門家の判断をつなぎ合わせると、 日本近世初期にとある同一の日本人が描いた絵と落款であって、 富裕層に売られて伝来してきたと推定するのが妥当そうです。

[66] 承運の元年と6年の干支が矛盾しますから、紀年はまったくのデタラメの可能性も高いです。 それでも干支年がある程度の情報を持っていると仮定するなら、 からの頃に作られたと考えるのがいいでしょうか。 その60年後もあり得ます。 伊藤長胤の時代に近接しすぎているように思われますが、 似た元号名が実在しているのは60年後の方です。

[70] 弘治は実在の日本の公年号 (-) ですが、それ以外の4つは実在が確認できません。 なぜ1つだけ実在元号としたのでしょうか。 弘治だけ年数がないことと関係するのでしょうか。 途中から元号創作し始めたのでしょうか。

[72] 近宝延宝 (-) からの連想でしょうか。 近宝5年丙辰とはよく似ています。

[74] 承運承応 (-) からの連想でしょうか。 強いて言えば、 承運6年丙辰は、 承運元年癸酉はと似ていないこともありません。

[73] 養保正保 (-) からの連想でしょうか。 強いて言えば、 養保元年丁巳はに近いでしょうか。

[71] 慶觀の慶は慶長 (-) や慶安 (-) からの連想でしょうか。 強いて言えば、 慶觀4年癸酉はに近いでしょうか。 慶安には近いものがありません。

[75] それならば弘治万治 (-) からの連想でしょうか。しかし干支が似た年はありません。


[85] 北宇智村誌, 吉田寅蔵, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3017356/1/97 (要登録) 左

丁寧な手書きの楷書、「近宝」8年。誤記なのか引用元ママなのか。

[79] 美保関町史料, 美保関町, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9574282/1/115 (要登録)

近寳五年二月六日」 (明朝体)

延宝五年。誤植でなく原文ママ?

[81] 吉備郡史 巻中, 永山卯三郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1218699/1/629

近寶二年」 (明朝体)

誤植なのか原文ママなのか。

[80] 鴎外 (61), 森鴎外記念会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4436819/1/193 (要登録) 左上

平成の「通信」 (私信?) の引用、明朝体「近宝四年以来の津 和野地震」。 誤植なのか原文ママなのか。

[83] 市町村別国土総攬 上巻, 日本国土協会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/3022546/1/351 (要登録) 左上

近宝二年の検地帳、明朝体。誤植か。

[82] 馬政学, 橘高林助, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1067244/1/33 (要登録) 右

近宝2年、3年と明朝体である。誤植か。

[84] 匝瑳郡誌, 千葉県匝瑳郡教育会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/965693/1/120

明朝体、1箇所正しく延、1箇所誤植で近。

[77] 櫨紅葉 第8巻 文集, 三田葆光, 三田佶, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/873961/1/33

草書「延寶元年」、OCRは「近寶元年」と誤読

[78] 他にも昭和時代までの楷書手書きで「延宝」を「近宝」と OCR 誤読した例が多々。 明朝体でも誤読した例が結構ある。

[86] 第87回国会 衆議院 予算委員会 第12号 昭和54年2月16日 | テキスト表示 | 国会会議録検索システム, , https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=108705261X01219790216&spkNum=330&current=5

ちょっと伺いますが、養和三年、それから延宝九年、大平元年、これを古い順に並べてください。

養和というのは私の調べた限りでは三年はなくて二年しかないのです。しかし、こう聞かれればわからないでしょう。延宝九年はそうですけれども、大平元年というのはこれは日本の年号の歴史にはありません。強いて言えば去年の十二月かもしれません。

[88] この不誠実な質問をした者は日本社会党の国会議員。このときのことが、

この日本社会党の機関誌に掲載されている回顧録の引用では「近宝九年」 (明朝体) になっている。 なぜか国会議事録ではなく朝日新聞が (正気なのか皮肉なのか) 「ユーモアたっぷり」と評した記事から引いている。 国会議事録が正しいだろうから、

のいずれか。

[92] ちなみにこの質問を真似たのかこの後3人の議員が国会で「大平元年」発言をしている。 この時期、元号法案審議当時の内閣総理大臣大平正芳

[93] すると発音は「おおひら」か。

[100] 国会クイズ大会をして国民の顰蹙を買うといえば民主党が有名。 昭和の頃からこんな調子だったのか...
[101] 内閣総理大臣の名前と元号名を絡めて遊ぶので連想するのは安久。 時代が変わっても人がやることは全然変わらんのね。

[94] 今日の歴史, 小林鶯里, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1225287/1/34

慶觀三年、と明朝体。慶応3年の誤植。