[168] 様式から南北朝時代頃 (>>26) ないし鎌倉末・足利頃 (>>62) の写本といわれています。
[24] 江戸時代に「或ル人」が日本大和国で入手しました。 >>21
[167] 現在の所在は不明です。
[37] 元号名干支年表示については、疑問も呈されます (>>80)。 この形式は鎌倉時代後期以後によく見られるようになりますので、 一応時代感は合っています。
[169] 本来の文字配置が >>23 のような横書きなのか、 >>61 のような縦書きなのか、 あるいはどちらとも微妙に異なる配置の可能性もありますが、不明です。
[35] 現在の日本国東京都西多摩郡日の出町平井字中野に不動堂があり、 子安白不動を祀っています >>34。記述が一致するので、 同じ不動堂と思われます。棟札が現存するかは不明です。
[36] 棟札は、永福元年に創建され、文安2年に鳥居が建立されたと述べています。 >>1
[49] 成立の昌平坂学問所地理局による地誌 新編武蔵風土記稿 によると、 清光寺には永福5年等の年号を彫った板碑がいくつかありました。 >>44
[50] の自治体史は、 江戸時代の「趣味家」が永福5年等の板碑の存在を記している >>17 /865 と書いています。 >>49 は「趣味家」の訪問記とは違うように思われますが、 何を指しているのか不明です。 本書の史料一覧表では出典が新編武蔵風土記稿となっています >>17 /91。
[51] の自治体史は板碑の存在を過去形で書いていて >>17 /865、既に失われているようです。
[159] 新編武蔵風土記稿 は永福5年の他に3つの年号の板碑があった旨を記述しています。 ただし、そのうち1つの元号名には疑問が持たれています (>>89 >>113)。 いずれも現存しないため、現在となっては確認のしようがありません。
貞が文のように誤読し得ること、
から推測しています。一案ではあるものの、なおも検討を要するように思われます。
もし年号順に並べるのが新編武蔵風土記稿の編纂方針なら、
貞が文に入れ替わったのは編纂の終盤ということになります。
板碑銘文を読み取る時点で入れ替わったなら、文として読んで整列させたはずです。
確かに貞を大きく崩すと文の字形に近づくことはあるようなのですが、
編纂中途の覚書などでそこまで崩れた段階を経由し得るのかは疑問もあります。
(仮にそのような段階を経由しているとすれば、他の記述の信憑性にも関わってきます。)[171] 現在までに3例報告がありますが、いずれも現況が不明または消失しています。 従って用例報告がどれだけ正確なのかが不明です。
[172] 3例中の2例をはじめて統合して検討した日本私年号の研究は、 両者が同じ元号であることを暗黙の前提としているようです。 しかし、慎重を期して3つが同じ元号ではない可能性や、 元号名からして永福では無く何らかの誤りである可能性も検討されるべきです。
[174] 比定年については、
があります。
[178] とは、 干支年が丁酉であることと媒体の時代から求められたものですが、 決め手に欠けます。元年が何年かを決定できません。
[179] 足利時代説は決定できないことから曖昧に広く取ったものと思われます。
[181] は板碑が作られている時代ではあるものの、 清光寺にあったとされる他の板碑の時代と比べれば、 むしろの方がしっくり来るようにも思われます。
[182] が優勢と判断されたのは、公年号で類似する元号名が多い時代だから、 という一点のみです。確かに重要な要素ではあるのですが、 決定力の強い根拠とは到底言い難く、それに比べれば >>181 の方が重視されるべきとも感じられます。
[183] 永仁の徳政令に喜んだ、あるいはそれに至る困窮から生じた、 とするのも推測に推測を重ねたに過ぎず、 武蔵国はともかく法隆寺の写経で使われた理由を説明できているようには思われません。 大和国と武蔵国を結ぶ伝播のメカニズムも、 仮説段階のものすら提起されていません。
[184] 要するに永福の研究は未だ初期段階のまま放置状態にあり、 たまたま現在提示されているだけの仮説を史実のように扱ったり、 それに基づき何か他の歴史的事実を解明したりできるような水準には達していないと判断されます。
[26] 江戸時代に >>24 の「或ル人」は、 >>22 は南北朝時代頃のものと思われると判断しました。 >>21
[62] 紙質・字体などから見て鎌倉末・足利頃のものとも見える、と判断したとのことです。 >>60
[27] 、 山崎美成は偽年号考附言に永福を立項して >>22 を紹介し、 >>26 を踏まえて丁酉年は延文2年に当たると判断しました。 >>21
[63] 山崎美成の海録にも同様の記事がありますが、 こちらには山崎美成の見解がありません。 >>60
[64] >>26 >>62 の差を見るとわずかに >>62 の方が詳しく、 海録の方がやや「或ル人」の見解を正確に記録しているのでしょうか。
[134] 明治時代の古事類苑は海録を引いています。 >>133
[136]
明治時代の日本百科大辞典は海録を引いて、
「
[137] しかしそれ以外の日本私年号の研究以前の主要な私年号の表は、 永福を掲載していません。 >>138
[139] 海録は「ある人」 が新撰字鏡の古写本に「法隆寺一切経」の印記等があると「いへり」という話と、 「また同じ人」が古写経零本を得て云々の「由なり」の話 (>>64) の2本立てと読めます。
[140] 著者本人の附言が後半のみ記載していること (>>27) からも、 この読み方が適切と考えられます。
[141] ところが古事類苑は、中略しつつも、前半部分の一部を引用に含めています。 >>133 日本私年号の研究も同じような引き方になっています。 >>57
[142]
日本百科大辞典は「
[143] 永福の奥書も法隆寺での書写とあり、あるいは一切経を構成していたかもしれませんが、 >>139 はそうは書かず、古写経零本としか書いていませんし、 「法隆寺一切経」がこちらの本には無いのですから、このような引き方は不適切で、 誤解によるものでしょう。
[144] 日本私年号の研究は古写経零本を山崎美成が実見して鑑定したと解釈しています。 >>57 しかし海録, 附言 とも「ある人」からの伝聞の形で書いています。誤解によるものでしょう。
[78] 昭和42年の日本私年号の研究は、 次のように述べています。 >>57
[130]
そして、永福の相当年代は「
[123] に出版された板碑研究の概説書である板碑の総合研究は、 >>78 の概略を紹介しています。 >>251
[124] 其の上で、永福5年はに当たるとして 「おそらくこれにさしたる誤りはないものとみなされる」 と述べています。 >>251
[128] 永福5年を永仁5年丁酉とするのは日本私年号の研究の見解であるかのように >>251 は注釈しているのですが、慎重に読むと日本私年号の研究はそうは言っていません。 「永福丁酉」と「永福五年」の2つの史料しかないので、 元年がどこか決め手に欠けるのです。
[132] >>251 は永福元年と永仁元年が同年であるとし、おそらく誤りないとまでお墨付きを与えていますが、 独自の根拠はなにも示されていないことには注意が必要です。
[191] 本書は財政上の行き詰まり、御家人の窮乏、徳政を望み発布を喜んで発生したものか、 と解説しています。 >>251
[193]
第二巻では、肥留間博が日本私年号の研究から
「
133 ページ
公年号に反感をもち云っという立場ではなく、単なるプライベトなもの、即ち著者も「永伝」においてみせているそれに、見たてる ... 前にも触れたように、考古学上の遺品を縦横に駆使して私年号を研究する点は、本書の圧巻である。碑文・銘文などの書式や表記の方法によって時代時代の特色をとらえ、その私年号に照明をあてて行く。また私年号の伝播に、順礼札にみられる私年号を検討した結果、順礼をひとつの重要な伝播要素と考えている点も見逃がすことができない部分であろるのだが)とする裏付けになる。結論を急きすぎて前段階の検討に欠ける恨みがあるように思われる。こういう恨みは「永福」を永仁年間と推定し、永仁の徳政発布前後の社会状態と私年号発生の理由とを関係させる場面にもあらわれているようにも思われる。
7 ページ
日本私年号の研究久保常晴著大化以前の架空年号|古代年号、中世以降創作使用された私年号に関する始めての集成的研究で、非公年号研究の唯一無二の労作。金石文・考古学的資料を縦横に駆使相当年次を決定し、発生の史的背景と本質を解明する。
7 ページ
戦乱と人物高柳光寿博士類寿記念会編日本私年号の研究久保常晴著日本社会経済史研究全三冊賀月圭吾先生還暦記念会編全冊寶月編 1 振替口座東京 244 番第第第第. 日本史学界の長老たる高柳光寿博士の南山の寿をことほいで、博士の知友および門下生から献呈 ...
(日本私年号の研究の書評)
[52]
の自治体史は、
>>47
について「
[53]
の書籍は、
>>47
について「
[112] の書籍は、 >>47 について、 永福5年は列挙するだけに留まっていますが、 それらの板碑は所在地から豊嶋氏に関わるとしています。 >>111
[113] 本書は、文治2年が板碑なら日本最古であるが、 正安の次なので読み違いと考えた方が妥当、としています。 >>111 正しくは何であるかは述べていません。
[146] 日本国東京都北区教育委員会による掲示は、 新編武蔵風土記稿 を引きつつ、 永福5年は西暦年不明で私年号としています。 >>145
[153] の日付のある現地看板の写真でこの記述を確認できます。 >>148, >>150, >>151, >>158 (おそらく >>155 もこれによるか。)
[154] それ以前の付けでも看板で同様の案内があった可能性があります。 >>152
「新編武蔵風土記稿」は、境内に正安3年(1301)、文治2年(1186)、文明元年(1469)、永福5年(不明・私年号)の四基の古碑があることを伝えています。
(北区教育委員会掲示より)
[115] の元号事典は、 私年号の部が日本私年号の研究をなぞりつつも、 独自の見解を示したものとなっているようです。 永福については、次のように述べています。
[149] 千々和到以来の表では永福が掲載されていますが、 元年を永仁5年「か」「?」「頃」、といった形にしています。 また、永福五年や永福丁酉がである、 といったような表記になっています。 >>138 日本語版ウィキペディアの表も、 直接の出典は不明ですが、この系譜と思われます。 >>10
[160] 「?」のような留保付きながら、元年の相当年としてが定着してゆき、 元来の 日本私年号の研究 のニュアンスが正確に伝わっていないことには注意が必要です。
[156] 千々和到は公年号の1字を置き換えた私年号が多いとし、 永仁 → 永福もその実例の1つに挙げています。 >>138 この理論は他の私年号の説明でも使われることがあります。 >>157
[186] その他、私年号の紹介の1つで挙げられることがあります。>>185
私年号 異説 元年相当公年号(西暦) 継続年数 典拠・備考 永福 - 永仁5年(1297年)? 不明 法隆寺東院書写『同学抄』奥書、武蔵国豊島郡清光寺板碑(『新編武蔵風土記稿』[2])
新編武蔵風土記稿 豊島村.
「福安」の年号については該当する年号がないが、私年号の中には永仁を永福、延徳を福徳と吉祥文字に置きかえる例もあったことや、甲子の干支、壺の形式の特徴からして、文安元年(一四四四)のことと考えられる。
[28] 時系列 :
[2] 東洋之拿破翁豊太閤 巻之1, 新智社編輯局 漢訳・編, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/781795/1/35?keyword=%E6%B0%B8%E7%A6%8F%EF%B8%80
永福元年春二月
[12] 马杭敦本堂《贺氏宗谱》入藏武进区档案馆 - 每日头条, https://kknews.cc/culture/4qq8ezx.html
东汉永福元年(107年)后,庆氏改名后才有贺氏。
[13] 正しくは永福でなく永初。
[4] 華夏文化: 南北朝佛教的持續發展, , http://huaxiaace.blogspot.com/2017/10/blog-post_72.html
在中國佛經翻譯史上,南北朝是產生譯人和譯籍最多的時期。根據《開元錄》記載,從南朝宋永福元年(公元420年)到陳後主禎明三年(公元589年),經南北八個朝代169年,共有譯者67人,譯籍750部,1750卷。佛教典籍品類的翻譯範圍,比任何時期都要廣泛。這個時期著名的譯經僧人有佛陀跋陀羅、菩提流支、真諦等。
[5] GZSF200103014.pdf, , https://www.globethics.net/pdfs/CNKI/CJFD/GZSF200103014.pdf#page=3
据«开元录»记载, 仅从南朝宋永福元年 ( 公元 420 年) 到陈后主祯明三年 ( 公元 589 年) , 经南北 8 个朝代 169 年, 就有译者共 67 人、译籍 750 部 1750 卷。
[6] 南北朝佛教编年 (豆瓣), https://book.douban.com/subject/26923291/
据《开元录》记载,从南朝宋永福元年到陈后主祯明三年,经南北8个朝代169年,共有译者67人,译籍750部,1750 卷。
[8] 正しくは永福でなく永初。
[9] どれもほぼ同文なので、発信源は同じらしい。
[7] 開元釋教錄 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%96%8B%E5%85%83%E9%87%8B%E6%95%99%E9%8C%84