[7] 新日本 (y~1770) は、 尾崎行雄らが用いた日本の私年号です。
[21] 元号名の新日本は、 戦災復興を目指したこの時代の流行語でした。 官民とも多数の用例が知られています。 には、 新日本建設ニ関スル詔書 が発せられました。
[22] ただし新日本はこの時代の新語ではありません。 尾崎行雄は明治19(1886)年に既に 新日本 なる書籍を刊行していました >>23。 その他大正時代や昭和時代に同名の雑誌が他社から発行されていました。
[8] 昭和20(1945)年を元年とする説 >>57, >>10 (y~1770)、 昭和21(1946)年を元年とする説 >>35, >>62, >>68 (y~1757) があります。 Wikipedia が後者説 y~1757 を採用しているためか、 Webサイトの多くは後者説 y~1757 に従っています。 このウィキもまで Wikipedia を根拠に後者説 y~1757 を採っていました。
[36] 後者説 y~1757 の中には、更に踏み込んで、 昭和を20(1945)年で廃止し、 翌(1946)年から新元号にする構想といっているものがありました。 問題は同時にそれが昭和21(1946)年に提出されたと説明されるところです。 >>35, >>68 21年に入ってから提案されているのに、 20年までで廃止するのは物理的に不可能です。
[37] 現在知られている当時の用例は、すべて前者説 y~1770 と整合します。
[30] 尾崎行雄の没年の昭和29(1954)年の用例は見当たりませんが、 本人は使い続けた可能性が高いでしょうか。
[33] 旧元号の昭和から新元号に改元し、 以後これを恒久化することを想定しました。 >>17, >>35, >>62, >>68
[26] 尾崎行雄が、 提案後数年間利用しました。 >>16, >>5
[86] 尾崎行雄門下の五明忠一郎の用例も知られています。 >>57
[85] 他にも周囲で利用された可能性が高いでしょう。 それ以外の用例は知られていません。
[70] や、 、 昭和23(1948)年の尾崎行雄の著書には序文はなく、 奥付には昭和が使われました。 >>69, >>71, >>81, >>74
[73]
昭和21(1946)年の尾崎行雄の著書には
「
資料番号 枝番 タイトル 差出人 宛先 内容 年月日 点数 備考 5654 五明忠一郎書簡 五明忠一郎(渋谷区) 小山松寿(長野県) 謹賀新年(新日本五年元旦) 昭和24年1月1日 1通
[24] 尾崎行雄は、 憲政の神様とも讃えられる人物で、史上最も長期にわたって日本の衆議院議員を務めました。
[27] 尾崎行雄は、 時代の変化を国民に意識させ心機一転するために改元が有効だと考えました。 >>16, >>5, >>17
[9] 、 昭和天皇に招かれた折、 改元を提案しました >>5, >>15。 昭和改元は提案に共鳴した >>5 とする説もあれば、 返答しなかった >>15 とする説もあります。 新日本との元号名を奏上した >>5 との説明と、 元号名を奏上したか明らかではない説明があります。
[32] >>35, >>62、 衆議院議長 >>35 に意見書を提出しました。 新日本と改元し新元号を恒久化することを求めました。 >>17
[31] 尾崎行雄は、 西暦の採用を支持する考えまで持っていたようです >>16。 ただ流石に憚られて昭和天皇に改元を持ちかけたのに、 宮内省の役人には西暦にしてはどうかとまで言われて自分を恥じたといいます >>16。 (なのに西暦派に転じず、 新日本に拘ったのは不思議です。)
[92] 尾崎行雄は、 日本国憲法案を審議した帝国議会の演説で、 元号は仮名で書いてもわかるものがよいが、 良案は未だない、 私的には新日本を使うと発言しました。 >>59 尾崎行雄は既に新日本を私的に使い始めていましたが、 正式な改元をまだ諦めてはいなかったようで、 そちらの元号名は新日本では満足していなかったようです。
[20]
この頃、改元の提案は他にもありました。
宗教団体などの独自の建元も見られました。
その中で政治的に最も大きな動きだったのが新日本と思われます。
[29] 尾崎行雄は、 支那式の元号の改元は無意味だと考えていました >>16 (>>96)。 しかしこの時は改元のリセット効果を期待していました。 今回限りと考えていたのでしょうか。 それとも、 代始改元は頻繁過ぎても、 国家的転機に改元することは是としていたのでしょうか。
[28] 尾崎行雄は、 元号名の他の候補として 「民主主義元年」、「興国元年」、「降伏二年」 などがあるとしていました。 >>16, >>5
[91] 元年と2年の書き分けは、 昭和20(1945)年と昭和21(1946)年のどちらを元年とするかの違いでしょうか。
[93] 新日本も含め、 こうした案は尾崎行雄にとって十分に満足が行くものでなかったようです。 正式な改元には仮名表記に耐える良案を望んでいました。 (>>92)
[63] 尾崎行雄が 「戦後」 を提案したとする説があります >>62, >>68。 「降伏」 が候補になるくらいなら、 「戦後」 案もあってもおかしくありませんが、 真偽不明です。
[119] この説を書いているという、現在遡れる最古はの新人物往来社文庫の書籍 >>65 です。
[120] の書籍は、 昭和21年の衆議院議長への意見書で「戦後」を提出したと明記しています。 >>117
[121] ところが当時の石橋湛山によると意見書にあった元号名は「新日本」でした >>17。 意見書の全文が不明なので、他の元号名の案として「戦後」があった可能性もありますが、 それだけを取り上げるのは不自然です。
[122]
この平成29年の書籍は個別に出典を書いていないので、何を根拠にこう書いているのか不明です。
ただ、「
『日本の元号』(歴史と元号研究会著 新人物往来社)
があります。何年の出版物かすら書かれていませんが、 >>65 と思われます。
[123] また、参考文献には他にも
『歴史読本』(
2 0 0 8 年1 月号「特集 日本の年号」新人物往来社)
があります。もし日本の元号がこの雑誌記事の単行本化だとすると、 この雑誌記事にも動揺の記載があるかもしれません。
[124] この平成29年の書籍は、その後に新聞記事の出典として使われ、 拡散されました >>68。平成29年の書籍の編著者が東京大学教授で、 それが信憑性の担保に使われているように見えます。
[125] 新聞社と出版社と東京大学のネームバリューにやられたのか、 尾崎行雄には人一倍詳しいであろう一般財団法人尾崎行雄記念財団なる団体が、 「新日本」の他に「戦後」もあったのかと新発見を無邪気に喜んでいます >>95。
[126] 一般財団法人尾崎行雄記念財団の担当者が尾崎行雄の知識をどれだけ有しているのかはわかりませんが、 著作をそれなりに読み込んではいるのではないでしょうか。 それが初めて知ったということは、「戦後」を大々的に主張していた可能性はなくなったとみていいのではないでしょうか。
[64] このブログ記事で出典として示されているのは:
[66] このブログはまるで日本に元号の専門書が存在しないように書いていますが:
武将ジャパンさんから「元号についての記事を書いて」と言われまして
「歴史に携わるものなら誰でも知っている元号なのだから当然、色々な概説や研究の本があるだろう」
と安易に考えていましたが、これが意外と、というかほとんどないのです。
... 執筆目的でわざわざ「専門書」を探したのに 日本年号史大事典 すら気付かないとかあり得るでしょうか。 重要度に比して研究も書籍も少ないのは指摘の通りですが、 この本1冊しかないなんてあり得ないことは、 常識的に考えればわかるでしょう。
このブログには関係あるのかないのかよくわからない Amazon リンクがいくつも含まれているので、 アフィリエイト目的の煽り記事なのでしょうか。
文庫書き下ろし(Byなんとか研究会)を「よい本」とか言うのは、なんだかバカにされそうで怖いのですし、まだ冒頭の25ページしか読んでないのですが、
と自覚している通り、 ろくに調べもせずに煽ったら馬鹿にされても仕方ないのではないでしょうか。
[38] 南原繁は、 政治学者でした。 昭和21(1946)年には東京帝国大学総長を務めていました。
[40] 南原繁は、 の紀元節に当たり、 日本紀元 (皇紀) の2606年でなく、 新日本紀元の元年として祝うと演説しました。 >>1
[3] 昭和維新元年と述べたとする説明もあります >>2 が、真偽不明です。
[41] 南原繁の「新日本紀元」は、元号ではなく皇紀を改元したもので、 心機一転、新国家の建設を呼びかけるものでした >>18, >>19。 改元といってもスローガン的元号に近い性質のもののようで、 日付表示に実用した例は知られません。 「新たな紀元元年」 のような固有名詞性の低い言い方 >>18, >>19 もあって、 当時当人がどう発言していたのか要確認でしょう。
[39] 南原繁と尾崎行雄の「新日本」の関係はよくわかりません。 昭和21(1946)年頃、 南原繁は貴族院議員として院内会派の無所属倶楽部、 尾崎行雄は衆議院議員として院内会派の無所属倶楽部にと同じ名前を持つ団体に所属していたくらいで、 密接な連携の形跡は見当たりません。
[42] 当時の新聞記事で、 日本政府を糾弾し、 皇紀の歴史を捨てて新日本元年とすることを提案したものがありました >>11。
[43] 連合国の正義を受容するべきと主張していますが、 それで西暦採用でなく改元を主張したのは不思議です。 連合国に降るとは大義名分で政府批判の便法に過ぎず、 国ごとの紀年法という東洋の伝統的思考からは脱却できなかったのでしょうか。
[44]
この種の「新日本」への改元提案は他にもあったかもしれません。
新日本以外の改元案もありました。
[34] 元号を廃止して西暦を採用することを提案した石橋湛山は、 尾崎行雄の提案に一定の評価を与えつつ、 旧習に囚われたものと批判しました。 >>17
[46] 当時の世情からみれば「新日本」はまさに新国家建設の意気込みを体現した良い元号名と思われたのかもしれませんが、 「新日本」ブームは数年で過ぎ去ってしまいました。 いつまでも「新」でいられないのは、当然のことです。 (中華人民共和国のことも、今は新中国と言う人はいません。) 改元前提の元号としてなら、 選択肢として悪くはなかったかもしれません (伝統的元号名らしさはありませんが、 そこからの脱却という意味まで込めてなら、悪くなかったでしょう)。 しかしそれを千代に八千代に使い続けていくものとしたら、 いつまでも「新日本」でいられたでしょうか。 かえって、時代に合わせて元号名を変えていける改元システムの利点を表しているようにも思えます。
[47] 、 国士舘 (現在の国士舘大学の運営母体となる団体) の 「再興会議」 が開催され、 国士舘再建趣意書 が発表されました。 >>4 国士舘は戦時中に米軍の空襲の被害を受けた上に、 戦後は連合国軍に弾圧されていました。 の 日本国との平和条約 発効で連合国軍は日本から撤退し、 国士舘は再建を模索していたようです。
[48]
Web
上で流布されている趣意書の1本によれば、
この趣意書には
「新日本紀元元年五月一日」
とありました。
>>4
しかし他本には紀年がありません
(漢字の字体や句読点などにも細かい違いが見られます)。
原本らしい写真を公開している
Webサイトもありますが、
残念ながら肝心の部分は写っていません。
[49] さて、その本文によれば当時は 「國士舘は創業三十五年」 でした。 国士舘設立の大正6(1917)年が第0年と数えると、 昭和27(1952)年はちょうど35周年に当たります。 従って新日本紀元 (y~1771) の元年は昭和27(1952)年とみられます。
[50] 尾崎行雄の新日本とは6年の差があります。 昭和27(1952)年を元年とするのは、 日本国との平和条約 の発効によって連合国の軍事的・政治的な圧力から解放されたことを記念したものでしょう。
[100] 他にこれと一致する用例は見つかりません。 国士舘関係者が発案したものでしょうか。 その後は使われることなく消えたのでしょうか。
[45] 「新日本元年」 はその後もしばしば新元号案として言及されているようです。 Wikipedia に掲載されて知名度が高いせいか尾崎行雄の新日本への言及も多いですが (令和改元でしばしば紹介され、中華人民共和国や台湾の中文記事にも言及がいくつかみられました)、 それとは独立していると思われる案も散見されます。 スローガン的元号のような性格も強そうに見えます。 どれだけ真剣な提案かは疑問ですが、 日本人が思いつきがちな元号名なのは間違いないようです。
[60] Microsoft は、 令和改元に伴う Windows のシステム更新を、 中文で 「新日本紀元」 と呼んでいました >>61。 これを引用した中文の Webサイトでもこの呼称が使われることがありました。 英語 「New Japanese Era」 の直訳 (機械翻訳?) とみられます。
[105] パーキスターン = پاکستان : periodical of the Japan-Pakistan Association (82), 日本・パキスタン協会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4422098/1/2 (要登録)
[106] https://dl.ndl.go.jp/pid/2725024 (非公開)
住民と自治 = Jumin to jichi monthly (6)(218)
雑誌
自治体問題研究所 編 (自治体研究社, 1981-06)
20: は「一九八一年」を「新日本元年」としたいと思います。即ち、「新しい心の国づくり、町づくりをする」
[107] 日本人民の誕生, 茅原廉太郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1267269/1/4
[108] https://dl.ndl.go.jp/pid/3363084 (非公開)
日本古書通信 58(9)(770)
雑誌
(日本古書通信社, 1993-09)
13: 論雑誌。敗戦の年を「新日本元年」として、昭和二十一年発行の表紙に「新日本二年」と印刷されている
[109] 明星 復刊1(2), 明星発行所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1853398/1/13 (要登録)
[110] 「ポツダム」宣言と日本の將來, 堤倉次, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/11177107/1/8 (要登録)
[111] https://dl.ndl.go.jp/pid/1272892 (非公開)
日本国憲法 : 解説と資料 3版
図書
時事通信社, 1947
90: し予一身の私書には、新日本二年制定とかくつもり.諸君に於ては、更に一そう、よい方法を、お考へあらん
[112] 尾崎咢堂全集 第10巻, 尾崎行雄, 尾崎咢堂全集編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2982341/1/386 (要登録)
[113] https://dl.ndl.go.jp/pid/3378571/1/33 (非公開)
週刊新潮 34(11)(1701);1989・3・16
雑誌
新潮社 [編] (新潮社, 1989-03)
33: 日本のスタートとして新日本紀元と呼ぶとか、新憲法発布の昭和二十一年を平和紀元口→回→とするなど
[114] https://dl.ndl.go.jp/pid/2976087/1/184 (非公開)
岩波茂雄伝
図書
安倍能成 著 岩波書店, 1957
184: は、「尾崎先生ノ所謂新日本紀元二年也、晴天ニ日出ノ美ヲ見ル。共ニシ、櫟盧〔惜櫟莊の別