[7] 新日本 (y~1770) は、 尾崎行雄らが用いた日本の私年号です。
本項は歴史的事項を説明しています。本項の内容の一部または全部は、現在の状況とは異なるかもしれません。
(なお本項の内容の一部または全部は、互換性または歴史的連続性のために現在も有効な場合もあります。しかし新たに利用することは避けるべきです。)
[21] 元号名の新日本は、 戦災復興を目指したこの時代の流行語でした。 官民とも多数の用例が知られています。 には、 新日本建設ニ関スル詔書 が発せられました。
[22] ただし新日本はこの時代の新語ではありません。 尾崎行雄は明治19(1886)年に既に 新日本 なる書籍を刊行していました >>23。 その他大正時代や昭和時代に同名の雑誌が他社から発行されていました。
[8] 昭和20(1945)年を元年とする説 >>57, >>10 (y~1770)、 昭和21(1946)年を元年とする説 >>35, >>62, >>68 (y~1757) があります。 Wikipedia が後者説 y~1757 を採用しているためか、 Webサイトの多くは後者説 y~1757 に従っています。 このウィキもまで Wikipedia を根拠に後者説 y~1757 を採っていました。
[36] 後者説 y~1757 の中には、更に踏み込んで、 昭和を20(1945)年で廃止し、 翌(1946)年から新元号にする構想といっているものがありました。 問題は同時にそれが昭和21(1946)年に提出されたと説明されるところです。 >>35, >>68 21年に入ってから提案されているのに、 20年までで廃止するのは物理的に不可能です。
[37] 現在知られている当時の用例は、すべて前者説 y~1770 と整合します。
[30] 尾崎行雄の没年の昭和29(1954)年の用例は見当たりませんが、 本人は使い続けた可能性が高いでしょうか。
[33] 旧元号の昭和から新元号に改元し、 以後これを恒久化することを想定しました。 >>17, >>35, >>62, >>68
[26] 尾崎行雄が、 提案後数年間利用しました。 >>16, >>5
[86] 尾崎行雄門下の五明忠一郎の用例も知られています。 >>57
[85] 他にも周囲で利用された可能性が高いでしょう。 それ以外の用例は知られていません。
[70] や、 、 昭和23(1948)年の尾崎行雄の著書には序文はなく、 奥付には昭和が使われました。 >>69, >>71, >>81, >>74
[73]
昭和21(1946)年の尾崎行雄の著書には
「
〔尾崎行雄君演説參照〕
憲法案贊成演説の要點
之と同時に、國名年號の如きも、之を改め、且つ假名文字で書いても、わかるような、文章にしたいのだが、予自身にも、未だその良案を得ない故、此のままに贊成して置く。然し予一身の私書には、新日本二年制定とかくつもり。諸君に於ては、更に一そう、よい方法を、お考へあらんことを希望する。
[10] 「人民」概念の獲得と喪失, 20世紀日本における「人民」概念の獲得と喪失, 加藤哲郎, http://netizen.html.xdomain.jp/jinmin.html
立命館大学政策科学会発行『政策科学』8巻3号(田口富久治教授退職記念号)掲載予定
(本稿は2000年10月に脱稿し、2001年2月刊行の上記学術誌に、第6章までが収録されて刊行予定のものであるが、同誌編集委員会のご厚意と承認を得て、本HP新世紀突入記念更新にあたり、事前に完全版の方をインターネット上で公表することとした)
崋山茅原廉太郎『日本人民の誕生』は、第二次世界大戦直後の書物であるが (岩波書店、1946年6月)、この系譜の到達点といえよう。かつて竹越與三郎『人民讀本』にも序を寄せた長老尾崎萼堂(行雄)が序を寄せ、1945年の敗戦を「新日本元年」ととらえ、「在来の日本には『人民』の観念殆ど無く、『国民』の意識のみ力説され過ぎ、無条件降伏の屈辱を受くるに至りたるも其の結果とも云ひ得る」とし、「民主主義新日本建設のため現下の要望を充す良書なりと信ず」と推薦している。
資料番号 枝番 タイトル 差出人 宛先 内容 年月日 点数 備考 5654 五明忠一郎書簡 五明忠一郎(渋谷区) 小山松寿(長野県) 謹賀新年(新日本五年元旦) 昭和24年1月1日 1通
[24] 尾崎行雄は、 憲政の神様とも讃えられる人物で、史上最も長期にわたって日本の衆議院議員を務めました。
[27] 尾崎行雄は、 時代の変化を国民に意識させ心機一転するために改元が有効だと考えました。 >>16, >>5, >>17
[9] 、 昭和天皇に招かれた折、 改元を提案しました >>5, >>15。 昭和改元は提案に共鳴した >>5 とする説もあれば、 返答しなかった >>15 とする説もあります。 新日本との元号名を奏上した >>5 との説明と、 元号名を奏上したか明らかではない説明があります。
[32] >>35, >>62、 衆議院議長 >>35 に意見書を提出しました。 新日本と改元し新元号を恒久化することを求めました。 >>17
[31] 尾崎行雄は、 西暦の採用を支持する考えまで持っていたようです >>16。 ただ流石に憚られて昭和天皇に改元を持ちかけたのに、 宮内省の役人には西暦にしてはどうかとまで言われて自分を恥じたといいます >>16。 (なのに西暦派に転じず、 新日本に拘ったのは不思議です。)
[92] 尾崎行雄は、 日本国憲法案を審議した帝国議会の演説で、 元号は仮名で書いてもわかるものがよいが、 良案は未だない、 私的には新日本を使うと発言しました。 >>59 尾崎行雄は既に新日本を私的に使い始めていましたが、 正式な改元をまだ諦めてはいなかったようで、 そちらの元号名は新日本では満足していなかったようです。
[20]
この頃、改元の提案は他にもありました。
宗教団体などの独自の建元も見られました。
その中で政治的に最も大きな動きだったのが新日本と思われます。
[29] 尾崎行雄は、 支那式の元号の改元は無意味だと考えていました >>16 (>>96)。 しかしこの時は改元のリセット効果を期待していました。 今回限りと考えていたのでしょうか。 それとも、 代始改元は頻繁過ぎても、 国家的転機に改元することは是としていたのでしょうか。
76 ページ
(新日本二年一月二日起草)
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改元といふことは、これも支那の真似であってほとんど無意味であるが、今日のやうな 場合には年競を改めると、わが国人をピンと緊張せしめ、時代が要ったといふことを はっきり認識させる数果はあらうと思ふ。明治維新後の日本は、年を天皇御一代限りとし 、 ...
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いまは敗戦の事賞を老幼男女区出の差別なく全国民にピンと響かせるために改元を やらせたいと思ふ。従ってその年焼は明治、大正、昭和などといふ文字のやうに完愛の 出典に機らず、現在にふさはしいものにしたい。どう改元するかの具鶴的、技術的なことは専門の構威 者にお願ひするか、あるひは一新生日本第一年」といふ意味のものでもよい。私は「新 日本三年」といふ やうに自分だけで新しい年焼を用ひてみる。その他「民主主義元年」、「興園元年」、「降伏二年」など色々考ヘられるが、要するにこれを行なって厳然...
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年就が木か何か神物の発生でも基にして出来てみると、私』喜んでそれを用みる気に なる s だが、それは私情で、便利な断からいって、意味のない従来の年戦を廃して西暦 を用みるのはょいであらう。最近改元の問題は政府や議書でも問題になったやうだが、
自分の名前の、しかも一つの名前に片かなと平がなの振りがなをつけて、三樣に書いたはり札を、立派な紙に――この紙不足で必要な文書すらも出版もできない場合において、同じ所に何十枚も何百枚もはり出すというのは、ほとんど發狂的人間であると見てよろしいのであります。このかなをつける名前を使うなどということが、日本の今日の非常な失態であつて、全體名前というものは、人に知らせるためにつけるのである。讀めないような名前は、つける必要はないくらいのことは、わかりそうなものである。それが日本全國古來の惡習慣のためにわからぬで、殊に上の方の名前、恐多いが、皇族あたりのお名前になりますと、私どもくらいの知識では讀めません。なぜ讀めない名前をつけるか。讀めない名前をつける必要はないではないか。みなこれは教育の弊害である。中華民國の二千年か三千年前の古典に使われた文字を引出してきて、お名前に用いる。讀めようはずがない。年號もその通りで、昭和とか大正とか明治などという、みな中華民國の古典から出してつける。これをつけるがために、大化といい、元龜、天正といつても、何年前のことか私どもにはわからない。わざわざあんな名前をつけて、わからぬようにするというほど愚なことはありませんけれどもこれがすべて日本の古來の教育の根本に間違つている原因となつているのでありますから、これは他の方法で私は改めることを主張します。漢字を廢するということになれば、こういうばかげたことは自然にやむだろうと思います。
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ただ私はりがけにシの考えていた改元について「昭和といっ年競をそのシけ“。れを やめて新たに年競を制定したらよいと思う。私は今後個人的には昭和という年競は使わ ないからこれをお許し願いたい。大権干犯などという問題にならぬようにお願いしたい」と述べると、陸下は何ともいはれ なかったが、側近者が「西暦を用いたらどうか」といったのでビックリした。元来私は大正 とか昭和とかいう年競などはない方がいいと思っていたが、頭の古い宮内省の役人などに向ってそんなことをいったところで仕方があるまいと思って、年競の改正 を持出したわけだ。それを彼等から「西暦にしたらどうか」といわれて自分を恥じた。 先生は爾来「新日本」という年競を用いている。先生の年競改正の提唱については少し説明する必要がある。 元来先生は年競などは古い中園の習積の模倣にシいのでその使用には反封であるが、四十 ...
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一五元号を廃止すべし#昭和二一年一月一二日号「顕正黢」尾崎行雄氏が先頃島田
衆議院議長に提出した意見書なる,ものを見るに、中に改元の一項がある。今回の降伏
は神武建国以来の最大凶事だから、全国民をして一人残らず之れを認識反省悔悟せしめる為め、此の際昭和の年号を廃し、本年を以て新日本の元年とし、将来 長く之れを継続せしめよと云うのである。蓋し翁の意見に依れば、例えば本年を新日本元年とするならば爾後は改元せず、永久 に右の元号を継続するのである。践祚の後元号を建て一世の間に再び改めずとする皇室典範の規定は勿論玆に改めざるを得ない。若し然うなら記者は旧くから其の 必要を痛感していた事だが、此の際更に一歩を進めて、元号廃止、西紀使用を主張 したい。元来我が国に於て初めて元号を建て ...
35 ページ
改元を主張する尾畸翁は未だ旧日本の因習に囚われたりと言わねばなら
尾崎行雄(尾崎咢堂)の生涯に学ぶ, Wada Setsuko, 平成23年10月14日 神田雑学大学定例講座NO571, http://web.archive.org/web/20130513095750/http://www.kanda-zatsugaku.com/111014/1014.html
尾崎は、第二次世界大戦での敗戦の事実を踏まえて、改元を熱心に提唱しています。改元について、元々明治という元号を永久に通していきたいと主張していた論者でしたが、敗戦後すっかり感受性を失ってしまった全国民に、新たなる覚悟と決意を促すために、そうした結論に達したのでした。昭和20年(1945)12月29日、(昭和)天皇の招きにより直接陛下にお会いが実現した折り、「新たに年号を制定したらどうか」と提案しています。
「この敗戦を機会に心機一転、縁起の悪い(昭和)を止めにして、大いに将来の日本が世界に発展するよう(新日本)と年号を改めたらどんなものでしょうか、と提案したところ、陛下も大変共鳴してくださいました。」と語られています。(石田正一著『人間おザキゆキオ』公論社、昭和34年10月)その尾崎が発案した新時代に相応しい元号「新日本」は、諸々の反省を込めて、再出発しなければならぬ新生日本を意味する姿が体現している年号となっています。
翁自身、戦後個人的には昭和という年号を使わなくなって、実際「新日本」を使用している形跡が垣間見られます。『敗戦の反省』(岩波書店、昭和21年2月)には、同書序文の末尾に「新日本元年十二月十日」と記し、『咢堂清談』(昭和22年6月)の序に代えての末尾に「新日本三年五月 卒翁 尾崎行雄」となっています。また、先の石田正一が著した世界連邦思想の解説書である『原爆に挑む』(完稿出版、昭和28年)の序文にも「新日本九年二月 九十六翁咢堂居士」と認めているのです。翁が考案した決意を込めた元号は、他に「民主主義元年」、「興国元年」や降参した日本国を象徴して「降伏二年」など色々と妙案を出しています。
(現: 元号 - Wikipedia, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7#%E6%98%8E%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%BE%8C)
第二次世界大戦終結の翌年に当たる1946年(昭和21年)1月には、尾崎行雄が衆議院議長に改元の意見書を提出した。この意見書において、尾崎は、第二次世界大戦で敗れた1945年(昭和20年)限りで「昭和」の元号を廃止して、1946年(昭和21年)をもって「新日本」の元年として、1946年(昭和21年)以後は無限の「新日本N年」の表記を用いるべきだと主張した。
[96] 尾崎行雄は、 明治の頃 >>97、 明治の元号を恒久化するべきと考えていたそうです >>5。
65 ページ
西暦を用いていれば、こんな苦労はない」と述べている(『朝日新聞』一九五〇・ 二・二二夕刊)。近代日本における憲法精神の権化ともいわれた尾崎行雄が明治 天皇崩御後、新しい元号を作るべからずと議会で論じたことなども鈴木文史朗氏(リーダースダイジェスト日本支社長)によって紹介されている、と。
[28] 尾崎行雄は、 元号名の他の候補として 「民主主義元年」、「興国元年」、「降伏二年」 などがあるとしていました。 >>16, >>5
[91] 元年と2年の書き分けは、 昭和20(1945)年と昭和21(1946)年のどちらを元年とするかの違いでしょうか。
[93] 新日本も含め、 こうした案は尾崎行雄にとって十分に満足が行くものでなかったようです。 正式な改元には仮名表記に耐える良案を望んでいました。 (>>92)
[63] 尾崎行雄が 「戦後」 を提案したとする説があります >>62, >>68。 「降伏」 が候補になるくらいなら、 「戦後」 案もあってもおかしくありませんが、 真偽不明です。
[119] この説を書いているという、現在遡れる最古はの新人物往来社文庫の書籍 >>65 です。
[120] の書籍は、 昭和21年の衆議院議長への意見書で「戦後」を提出したと明記しています。 >>117
[121] ところが当時の石橋湛山によると意見書にあった元号名は「新日本」でした >>17。 意見書の全文が不明なので、他の元号名の案として「戦後」があった可能性もありますが、 それだけを取り上げるのは不自然です。
[122]
この平成29年の書籍は個別に出典を書いていないので、何を根拠にこう書いているのか不明です。
ただ、「
『日本の元号』(歴史と元号研究会著 新人物往来社)
があります。何年の出版物かすら書かれていませんが、 >>65 と思われます。
[123] また、参考文献には他にも
『歴史読本』(
2 0 0 8 年1 月号「特集 日本の年号」新人物往来社)
があります。もし日本の元号がこの雑誌記事の単行本化だとすると、 この雑誌記事にも動揺の記載があるかもしれません。
[124] この平成29年の書籍は、その後に新聞記事の出典として使われ、 拡散されました >>68。平成29年の書籍の編著者が東京大学教授で、 それが信憑性の担保に使われているように見えます。
[125] 新聞社と出版社と東京大学のネームバリューにやられたのか、 尾崎行雄には人一倍詳しいであろう一般財団法人尾崎行雄記念財団なる団体が、 「新日本」の他に「戦後」もあったのかと新発見を無邪気に喜んでいます >>95。
[126] 一般財団法人尾崎行雄記念財団の担当者が尾崎行雄の知識をどれだけ有しているのかはわかりませんが、 著作をそれなりに読み込んではいるのではないでしょうか。 それが初めて知ったということは、「戦後」を大々的に主張していた可能性はなくなったとみていいのではないでしょうか。
戦後になって、1946年(昭和21年)1月には、憲政の父とよばれる尾崎行雄が衆院議長に対して「もう元号やめましょう」と提案する意見書を出します。
それはありえるでしょう、戦後すぐですから。
では、それに変わる「元号的ななにか」へのアイデアがスゴい。
西暦一本とかでなく
「戦後」
ですよ。
よく新聞ででる戦後75年とかが、元号的に永久に使われることを求めたんだそうです。1946年が「戦後元年」だそうです。
[64] このブログ記事で出典として示されているのは:
[66] このブログはまるで日本に元号の専門書が存在しないように書いていますが:
武将ジャパンさんから「元号についての記事を書いて」と言われまして
「歴史に携わるものなら誰でも知っている元号なのだから当然、色々な概説や研究の本があるだろう」
と安易に考えていましたが、これが意外と、というかほとんどないのです。
... 執筆目的でわざわざ「専門書」を探したのに 日本年号史大事典 すら気付かないとかあり得るでしょうか。 重要度に比して研究も書籍も少ないのは指摘の通りですが、 この本1冊しかないなんてあり得ないことは、 常識的に考えればわかるでしょう。
このブログには関係あるのかないのかよくわからない Amazon リンクがいくつも含まれているので、 アフィリエイト目的の煽り記事なのでしょうか。
文庫書き下ろし(Byなんとか研究会)を「よい本」とか言うのは、なんだかバカにされそうで怖いのですし、まだ冒頭の25ページしか読んでないのですが、
と自覚している通り、 ろくに調べもせずに煽ったら馬鹿にされても仕方ないのではないでしょうか。
そんな中、改元してはどうかという意見も出された。たとえば、昭和二十一年 (
1 9 4 6 年) 一月には、尾崎行雄が衆議院議長に対して、元号を「戦後」にしてはどうかという意見書を提出してい る。第二次世界大戦で敗れた一九四五年限りで「昭和」の元号を廃止、一九四六年を戦後元年とし て、以後、無期限に「戦後○年」の表記を用いるべきだという主張だった。 あるいは、石橋湛山などは、同時期、「東洋経済新報」(一九四六年一月十二日号) のコラム「顕正義」
で、元号を廃止し、西暦にすればいいという意見を発表していた。 そういう意見を受けて、昭和二十五年 (
1 9 5 0 年) 二月下旬には、参議院で元号の廃止が議題に上げられた。しかし、同年六月に朝鮮戦争が勃発し、ドサクサの中、元号の議題はそのまま棚上げ されていた。
「元号を『戦後』にしてはどうか」。終戦の翌年、憲政の神様と呼ばれた尾崎行雄が衆議院議長に意見書を提出した。GHQ(連合国軍総司令部)の支配下で皇室典範が制定されたとき、元号に関する規定が消えていたころのことである◆東京大学史料編纂所の山本博文教授編著『元号』によると、第2次大戦で敗れた1945年限りで「昭和」を廃止、1946年を「戦後元年」として以後、無期限に「戦後○年」の表記を用いるという。これでいけば今年は「戦後74年」となる。「戦後○年」のほか「新日本○年」との案もあったようだ
尾崎が唱えた新元号
“尾崎行雄”をキーワードに検索をかけると、意外な記事に出逢います。 本日は、新年早々に掲載された佐賀新聞社のコラム「有明抄」を引用いたします。
「新日本」を唱えていたのは覚えていますが、尾崎がもうひとつの論として「戦後」への改元を唱えていたとは知りませんでした。
[38] 南原繁は、 政治学者でした。 昭和21(1946)年には東京帝国大学総長を務めていました。
[40] 南原繁は、 の紀元節に当たり、 日本紀元 (皇紀) の2606年でなく、 新日本紀元の元年として祝うと演説しました。 >>1
[3] 昭和維新元年と述べたとする説明もあります >>2 が、真偽不明です。
[41] 南原繁の「新日本紀元」は、元号ではなく皇紀を改元したもので、 心機一転、新国家の建設を呼びかけるものでした >>18, >>19。 改元といってもスローガン的元号に近い性質のもののようで、 日付表示に実用した例は知られません。 「新たな紀元元年」 のような固有名詞性の低い言い方 >>18, >>19 もあって、 当時当人がどう発言していたのか要確認でしょう。
[39] 南原繁と尾崎行雄の「新日本」の関係はよくわかりません。 昭和21(1946)年頃、 南原繁は貴族院議員として院内会派の無所属倶楽部、 尾崎行雄は衆議院議員として院内会派の無所属倶楽部にと同じ名前を持つ団体に所属していたくらいで、 密接な連携の形跡は見当たりません。
27 ページ
されば、今日は紀元一一千幾百年であるよりは、今を以って新たな紀元元年として出発 すべきであると思う。国民全体がこのことを自覚し奮起するのでなければ、よく祖国再建 の事業を達成することはできないであろう。真の昭和維新の根本課題は、そうした日本 ...
310 ページ
私はその講演に「新日本文化の創造」という題を掲げまして、民族の自重、同時に自信 の回復を要望した。 ... 民族主義ではなく、世界的な普遍性の基盤にたつ新しい日本の 建設、国民は国民たると同時に世界市民として自らを形成する、その紀元元年として今日から出発すべきでは ないか。 ...
(南原繁「)
されば、今日は紀元二千幾百年であるよりは、今を以って新たな紀元元年として出発すべきであると思う」
西暦一九四六年の紀元節は、日本紀元二六〇六年目の紀元節として祝うのではなく、新日本紀元元年として祝うのだ、ということである。
8月15日と南原繁を語る会 - 鉄の檻の猿人, https://pton.hatenadiary.org/entry/20060815/p1
南原繁は東大法学部の政治思想史の教授で,終戦後間もなく東大総長となった人物です。敗戦の翌年1946年2月11日の紀元節の日には「新日本文化の創造」という講演を行い,この年を「昭和維新元年」と宣言しました。
今年は,南原繁が1946年の紀元節の演説に言う「新日本紀元」の60周年に当たります。
[42] 当時の新聞記事で、 日本政府を糾弾し、 皇紀の歴史を捨てて新日本元年とすることを提案したものがありました >>11。
[43] 連合国の正義を受容するべきと主張していますが、 それで西暦採用でなく改元を主張したのは不思議です。 連合国に降るとは大義名分で政府批判の便法に過ぎず、 国ごとの紀年法という東洋の伝統的思考からは脱却できなかったのでしょうか。
[44]
この種の「新日本」への改元提案は他にもあったかもしれません。
新日本以外の改元案もありました。
日本政府の精儀は僞
からくり日本の正体
日 本國民は神武年代より永續 した疑惡精儀を脱皮し眞の 精儀に立脚し專ら聯合國の 眞の精儀を受け過後二千八 百年を追放し新日本元年を 迎ひ可き事を讀者は一般國 民に御進めする
[34] 元号を廃止して西暦を採用することを提案した石橋湛山は、 尾崎行雄の提案に一定の評価を与えつつ、 旧習に囚われたものと批判しました。 >>17
[46] 当時の世情からみれば「新日本」はまさに新国家建設の意気込みを体現した良い元号名と思われたのかもしれませんが、 「新日本」ブームは数年で過ぎ去ってしまいました。 いつまでも「新」でいられないのは、当然のことです。 (中華人民共和国のことも、今は新中国と言う人はいません。) 改元前提の元号としてなら、 選択肢として悪くはなかったかもしれません (伝統的元号名らしさはありませんが、 そこからの脱却という意味まで込めてなら、悪くなかったでしょう)。 しかしそれを千代に八千代に使い続けていくものとしたら、 いつまでも「新日本」でいられたでしょうか。 かえって、時代に合わせて元号名を変えていける改元システムの利点を表しているようにも思えます。
[47] 、 国士舘 (現在の国士舘大学の運営母体となる団体) の 「再興会議」 が開催され、 国士舘再建趣意書 が発表されました。 >>4 国士舘は戦時中に米軍の空襲の被害を受けた上に、 戦後は連合国軍に弾圧されていました。 の 日本国との平和条約 発効で連合国軍は日本から撤退し、 国士舘は再建を模索していたようです。
[48]
Web
上で流布されている趣意書の1本によれば、
この趣意書には
「新日本紀元元年五月一日」
とありました。
>>4
しかし他本には紀年がありません
(漢字の字体や句読点などにも細かい違いが見られます)。
原本らしい写真を公開している
Webサイトもありますが、
残念ながら肝心の部分は写っていません。
[49] さて、その本文によれば当時は 「國士舘は創業三十五年」 でした。 国士舘設立の大正6(1917)年が第0年と数えると、 昭和27(1952)年はちょうど35周年に当たります。 従って新日本紀元 (y~1771) の元年は昭和27(1952)年とみられます。
[50] 尾崎行雄の新日本とは6年の差があります。 昭和27(1952)年を元年とするのは、 日本国との平和条約 の発効によって連合国の軍事的・政治的な圧力から解放されたことを記念したものでしょう。
[100] 他にこれと一致する用例は見つかりません。 国士舘関係者が発案したものでしょうか。 その後は使われることなく消えたのでしょうか。
【伝説】 國士舘 VS朝鮮高 Part 22 【昭和史】, https://human5.5ch.net/test/read.cgi/4649/1122532797/255-264
国士舘は創業三十五年、大方諸賢の庇護と叱正とによって自ら特異の傳統を培ひ来つた 武道教育はその一であり、国士舘の名は武道界において一の存在になって居る。 この武道教育は国士舘の再出発と共に、その特長を生かして行きたい。 けだし文武は鳥の両翼、車の両輪、文なき武は想像され得ざる如く、武なき文をもっては特性の完成を期し得ないからである。
若し、それ学風の揚がると否とは、学校の当事者の発憤精進と共に、同憂諸賢の垂教に俟つところが甚だ多い。切に大方の御支援を仰ぐ。
新日本紀元元年五月一日
とあり、
[45] 「新日本元年」 はその後もしばしば新元号案として言及されているようです。 Wikipedia に掲載されて知名度が高いせいか尾崎行雄の新日本への言及も多いですが (令和改元でしばしば紹介され、中華人民共和国や台湾の中文記事にも言及がいくつかみられました)、 それとは独立していると思われる案も散見されます。 スローガン的元号のような性格も強そうに見えます。 どれだけ真剣な提案かは疑問ですが、 日本人が思いつきがちな元号名なのは間違いないようです。
2008年08月19日(火)~ 2008年08月31日(日)
12:00~19:00 (最終日17:00まで)
ここ数年、広く目を向けたことによって広がった見聞、 いろんな知識を得られた反面、薄まった部分がありました。
自身の貫く指針、これでなければならない理由。日本人として・・。だから、再スタートの気持ちで、あらためて元旦です。
ちょうど、8月は私の誕生月でもあります。 己を信じて、再生します。
第625号(2011年01月07日号)
今年は新日本元年!
経済だけではなく、今後アメリカを中心とした先進国と中国をはじめとする新興国との間のConflicts(利害対立)が世界政治を不安定化し、また混迷化して行く中で世界の平和を願う人々が天皇の国日本に注目し始めます。
世界中の人々に推されて日本が世界の盟主になる時はそう遠くないのです。
本年を新日本元年として自信と責任を心に秘めて希望に満ちた人生を歩もうではありませんか。
いっそのこと、今年一年はすべて休止とし、全員が復興作業に携わる案が出てもいいのでは... いずれにせよ、太平洋戦争の敗戦に近い【国難】です。 繰り返し書きますが、2011年が世界に誇れる【新日本元年】になるチャンスだと思います。
しかし、翻って、東京オリンピックにおける交々の問題を見ると、新国立競技場を持って、2020年を新日本元年とする白昼夢は虚しく潰えそうだ。
「社長!新年号発表されたで!」と近隣のオッチャンに声をかけられました。
「令和・・・」
「なんなん 令和って・・・」
「やるぜ日本!」とかやったらおもろいのに。。。「新日本元年!」 とか。。。
どうでしょう? ないな・・・
497 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん@\(^o^)/:2017/05/06(土) 10:30:15.04 ID:xkHIDsq4.net[2/2]
2020が新日本元年になるよう日本人みんなで力を合わせる時
[60] Microsoft は、 令和改元に伴う Windows のシステム更新を、 中文で 「新日本紀元」 と呼んでいました >>61。 これを引用した中文の Webサイトでもこの呼称が使われることがありました。 英語 「New Japanese Era」 の直訳 (機械翻訳?) とみられます。
[105] パーキスターン = پاکستان : periodical of the Japan-Pakistan Association (82), 日本・パキスタン協会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4422098/1/2 (要登録)
[106] https://dl.ndl.go.jp/pid/2725024 (非公開)
住民と自治 = Jumin to jichi monthly (6)(218)
雑誌
自治体問題研究所 編 (自治体研究社, 1981-06)
20: は「一九八一年」を「新日本元年」としたいと思います。即ち、「新しい心の国づくり、町づくりをする」
[107] 日本人民の誕生, 茅原廉太郎, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1267269/1/4
[108] https://dl.ndl.go.jp/pid/3363084 (非公開)
日本古書通信 58(9)(770)
雑誌
(日本古書通信社, 1993-09)
13: 論雑誌。敗戦の年を「新日本元年」として、昭和二十一年発行の表紙に「新日本二年」と印刷されている
[109] 明星 復刊1(2), 明星発行所, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1853398/1/13 (要登録)
[110] 「ポツダム」宣言と日本の將來, 堤倉次, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/11177107/1/8 (要登録)
[111] https://dl.ndl.go.jp/pid/1272892 (非公開)
日本国憲法 : 解説と資料 3版
図書
時事通信社, 1947
90: し予一身の私書には、新日本二年制定とかくつもり.諸君に於ては、更に一そう、よい方法を、お考へあらん
[112] 尾崎咢堂全集 第10巻, 尾崎行雄, 尾崎咢堂全集編纂委員会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/2982341/1/386 (要登録)
[113] https://dl.ndl.go.jp/pid/3378571/1/33 (非公開)
週刊新潮 34(11)(1701);1989・3・16
雑誌
新潮社 [編] (新潮社, 1989-03)
33: 日本のスタートとして新日本紀元と呼ぶとか、新憲法発布の昭和二十一年を平和紀元口→回→とするなど
[114] https://dl.ndl.go.jp/pid/2976087/1/184 (非公開)
岩波茂雄伝
図書
安倍能成 著 岩波書店, 1957
184: は、「尾崎先生ノ所謂新日本紀元二年也、晴天ニ日出ノ美ヲ見ル。共ニシ、櫟盧〔惜櫟莊の別