應治

應治

[262] 応治 (旧字体: 應治) は、 日本の私年号の1つです。

元号名

[263] 新字体は応治です。

[264] 旧字体は應治です。

[266] 読みは「おうじ」とされます。 >>117

用例

[265] 1例のみ知られています。

日時事例

[27] 願主本阿弥陀仏については不祥。 >>23

[26] 銘文より、 >>24 は本来日本国静岡県静岡市久能山本堂に置かれたことが知られます。 >>66, >>67, >>23

[87] 明治時代中頃、 久能山に務めた丹治竹治郎が、 >>24 を退職記念に譲り受けたとされています。 >>66, >>67 が、 >>168 によればこれは事実かどうか疑わしいです。

[89] 、 香取秀真は丹治竹治郎所蔵の >>24 を雑誌記事で紹介しました。 >>70 簡単な紹介のみで、銘文の元号への言及はありませんでした。 >>66, >>67

[88] 昭和13年頃、 大阪の細見良が人を介して丹治竹治郎から >>24 を譲り受けたとされます。 >>66, >>67

[161] の雑誌記事は、 醍醐寺の所蔵品として >>24 らしきものを紹介しています (>>18)。

[130] 昭和24年、 重要美術品に指定されました。 >>151

[129] 昭和35年6月9日、重要文化財に指定されました。 >>20

諸説

[234] 現在まで知られているのは >>42 の一例のみです。

[235] >>42 は明治時代に出現して異年号史料として認知され、 昭和時代に至ってその比定年説もいくつか提示されたものです。

[236] 銘文から久能寺の伝来と推定されていますが、久能寺から流出し昭和時代に収集家の手にわたるまでの経緯には、 曖昧な部分があり、究明が待たれます。流出が明治時代初期なのか近世なのかも不明瞭です。

[237] 断片的に知られる近代の経緯 (>>224) からすれば、或いは贋作の可能性をも考慮に入れるべきかと思われますが、 これまでそうした検討は無されていないようです。一応、明治時代以来数多の仏教美術品研究者の観察の対象となっており、 そのいずれも疑問視はしていないので、現時点では疑わしいところは無いと理解しておくのが良いでしょうか。


[238] >>42 の様式から年代の推定が行われていますが、 どこに着目するかによって評価が変わるようで、 平安時代から室町時代まで、 様々な見解があります。

[239] 総合的にみて鎌倉時代とする判断が有力なようです。

[240] 銘文に干支年が乙酉と明記されていることから、

... といった候補があるところです。

[246] 貞和元年説は、昭和33年に美術史研究者景山春樹が提唱し、 昭和42年に私年号研究者久保常晴が発展させ、 元号研究の分野では現在まで通説となっています。 ところが景山春樹は昭和49年までに撤回しています。 (>>73, >>3)

[248] 景山春樹は様式を根拠としていました。 久保常晴はそれに加えて銘文の用字の分析も根拠としています。

[247] 美術史研究の分野では、おそらく昭和35年の重要文化財指定の頃、 遅くても昭和48年には、嘉禄元年または弘安8年の併記説が出現しました。 (>>125) 文化財系ではこちらが現在まで通説となっています。 様式を根拠としています。

[249] 一部には嘉禄元年説を取るもの、弘安8年説を取るものもあります。 根拠が挙げられる場合は様式とされていて、二説のうち一方を選択した理由は明らかではないものが多いです。


[259] 久能寺は嘉禄年間の火災以来衰微したとされますが、 それに関係して 久能寺縁起 朱書は嘉禄乙酉年から享保18年までの経過年数表示を示しています。 >>258

[260] 乙酉がどこから出てきたのか明らかではありませんが、享保18年頃の朱書した時点で何らかの資料があったのでしょうか。 それとも単に嘉禄元年が乙酉だったというだけのことでしょうか。

[261] 火災が嘉禄元年乙酉の出来事だったとしても、あるいはそうでないとしても、 >>42 の年代を考えるうえでは、久能寺自体の環境もよく検討しておく必要がありましょう。


[250] 出現・利用の背景を論じたものは、それほど多くありません。

[251] 景山春樹は私年号の一般論に留まっていて、 應治特有の事情にはあまり踏み込んでいません。ただ、 同年に白鹿があることを指摘しています (>>98)。

[253] それも簡単な指摘に留まっていますが、要するに私年号が同時に複数出現するような社会情勢の可能性、 ということでしょう。

[252] 久保常晴は、 駿河国が南北朝の勢力の境界域であり、 白鹿の例もあるので、 應治は南朝系勢力の元号と推測しています (>>39)。

[254] 北朝は改元したから南朝 (>>51) という論理はよくわかりませんし、 南朝の治に応じるから應治というのも余りに安易な語呂合わせです。

[255] 南朝に従うのに南朝の元号ではなく独自の元号を使うというのも、 謎です。白鹿の例があるから同様に他にもあり得る、という論理なのでしょうが、 一応白鹿は南朝の親王を奉じているという学説がありますが、 應治にはそうしたものがありません。

[256] 白鹿を南朝方とする説はかなり古くからありますが、 史料的根拠は乏しく、再検証を必要としています。 白鹿

[257] また、これらはいずれも興国6年説を大前提とした推測です。 当の景山春樹が興国6年説を撤回しています。 史料に乏しい分野ゆえにやむを得ないとはいえ、 史料的裏付けを欠いたままで想像から結論を導く危険性が現れている事案といえます。

研究史

丹治竹治郎

[224] 明治時代から昭和時代初期にかけて、 >>42 は丹治竹治郎 (丹治竹次郎, 丹治竹次) なる人物の所蔵でした。

[225] 丹治竹次郎は日本国大阪府堺市の生まれで、 明治時代中頃まで日本国大阪府大阪市に住み、 その後日本国東京府東京市に移住し骨董商などを営んでいたようです。

[226] 仏教美術品を扱う研究者や収集家と交友があったようで、 取引の一端が知られているほか、 この時期の史料集の所蔵者名としてもたまに登場します。

[231] その詳細は不明ですが、久能寺からの流出品を扱っていた他に、 醍醐寺とも縁があったようです。

[229] 丹治竹次郎は研究者ではなく、 >>42 について学術的な記録を残しているわけではありません。現在知られている >>42 の伝来過程には疑問もあります (>>87, >>88)。 丹治竹次郎に関する記述を集めると、その人物像を慎重に検討する必要がありそうです。

[219] の裁判記事によると、 収賄の被告人の一人で堺市の市会議員だった柴谷三次郎は、 賄賂として得た五百円を丹治竹次郎に渡したと申し立てたようです。 >>218

[221] の雑誌記事によると、 丹治竹次郎は帝室博物館に >>42 を出品しました。記事によると、 銘文から久能山にあったものとは知られるが、 應治という年号は見当たらず、 様式から鎌倉時代のものだろうとのことです。 >>220

[230] 現在知られている中では、應治という元号に着目した最初です。

[217] 、 丹治竹次郎の住所は下谷區上野西黒門町13で、 考古学会に入会しました。 >>216

[18] の雑誌記事は、 醍醐寺所蔵の久能寺の掛仏に異年號がある、 と述べています。 具体的に異年号とは何かは書かれていませんが、 某阿彌陀佛と彫られているとあります。 掛仏の特徴の説明は >>24 と似ています。 >>17

[162] この記事は、掛仏についてはそれ以上の説明をしていませんが、 次のように述べています。 >>17

[186] 昭和26年研究者田中親美の記事には、次のようにあります。 >>215, >>185 田中親美は丹治竹治郎 >>214 と面識があったようです。

[228] の書籍は、 五大明王図には醍醐寺本と丹治竹治郎本の二本があると紹介しています。 >>227 二本の関係性は不明ですが、ここでも丹治竹次郎と醍醐寺の繋がりが見えます。

景山春樹

[73] , の景山春樹の論文は、 >>24 を紹介して次のように述べています。 >>66, >>67

[103] 初稿時と単著収録時とで120年も結論が変わっていることに注意が必要です。 16年間の学界の進歩や著者の知見の増加が反映されているのでしょう。

  • [1] Museum (88), 東京国立博物館, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/4429480/1/6?keyword=%E5%BF%9C%E6%B2%BB (要登録)
  • [21] 仏教考古とその周辺, 景山春樹, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/12286472/1/143?keyword=%E6%87%89%E6%B2%BB (要登録)
    • [67] 中世私年号の一資料
    • [4] 仏教考古とその周辺 - 影山春樹 - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?id=NrIwAAAAMAAJ&q=%E5%BF%9C%E6%B2%BB

      4 ページ

      影山春樹. 281 275 I 前後、第 3 図に堂本印象氏 目次 4 あとがき中世私年号の一資料六角堂の「かけぼとけ」

      14 ページ

      年号が弥勒 10 図石山寺巡礼納札(拓 昔高祖大師流,觀河州葛城 ... 甲斐国妙法寺日記にもこれと同じ弥勒の年号があるというが、この巡礼者も甲州巨麻郡の人第として今までに知られているものは、弥勒、承安元年 00 わゆる私年号の一つとして珍しい。

      148 ページ

      ... の法会が行なわれ、そのための講料として田地を寄せたことは、極楽坊の有名な本堂刻銘に記されている。百日講は百日念仏講であって、このあたりから庶民的な信仰の色彩は濃厚となりはじめてくる。たくさん発見されている柿(こけら)経の紀年に嘉禄元年 ...

      274 ページ

      送ら 応治元季域十二月日願主本阿弥陀仏 III 攻古秒 274 へこの小考は昭和四四年六月に刊行された「史迹と美術」第三九七号に「攻古抄」第一一として掲載した。>れた塔の欠損部について文句を言った父に対する返信のようだが、この文中にあるごとく、私の ...

      275 ページ

      国で定めた公称の年号に対して、民間で私に使用した年号を私年号と呼んでいる。また異年号とか、偽年号とか、逸年号などとも呼ばれ、いずれもある一定の期間、ある一定の地域や社会で、それぞれ特殊の事実によって生まれ、また使用せられたものであった。

      278 ページ

      応治元季域十二月日願主本阿弥陀仏(右側の縁部に一行、籠字体) はかねて眠の間でもあったので III 攻古秒 278 のがある。そこで問題はまずこの久能山本堂であるが、これは駿河国安倍郡久能山の久能寺本堂であると考えねばなるまい。 ... しかし嘉禄年間の罹災後は次第に衰運に向い、近世に及んで東照宮創立の敷地として没収せられてからは、仏利はことごとく取り払われてしまったが、のち山岡鉄舟の特志によって復興せられいまは鉄舟寺としてその法灯が継がれてきている。 康永元年に作られた ...

久保常晴

[3] 昭和42年の 日本私年号の研究は、 応治について >>24 を紹介して次のように述べています。 >>23

[39] また、次のように考察しています。 >>38

[57] 元号名については、次のように述べています。 >>56

[159] の所功の書籍は、 日本私年号の研究 を引いて、 その説を紹介してとしています。 >>158


[145] の書籍は、 >>24 を紹介し、 次のように述べています。 >>143

重要文化財

[125] の書籍は、 >>24 を紹介して、 次のように述べています。 >>16

[157] の書籍は、 >>24 を紹介し、 干支と様式から、 と近い点もあるが、 の製作として差し支えないようだ、 としています。 >>154

[131] の書籍は、 >>24 を紹介し、 「鎌倉時代(応治元年)」 と説明しています。 >>152 の書籍は、 >>24 を紹介し、 次のように述べています。 >>20

[106] の書籍は、 >>24 を紹介し、 >>20 を引いて、様式と干支からまたはとしています。 >>19

[140] 令和時代の文化財データベース (初出不明) は、 >>24 を紹介し、 次のように述べています。 >>138

[12] 静岡県史: Chūsei I-IV - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?id=A5c0AQAAIAAJ&q=%22%E5%BF%9C%E6%B2%BB%22

801 ページ

四亖懸仏銘細見閼氏所藏奉安置久能山本堂、金銅干体阿弥陀印仏一面、中尊阿弥陀、脇士干手地藏像各一体応治元年十二月日、願主本阿弥陀仏〇『解說版新指定重要文化財 4 』工芸品 IL 上为上、応治元年钛私年号飞、嘉禄元年(一二二五)加弘安八年(一二八五) ...

[110] の雑誌記事は、 >>24 を紹介して、 次のように述べています。 >>2

[13] 珠玉の日本美術: 細見コレクションの全貌と、 ボストン、クリ-ブランド、 サックラ- の話題作 : 開館 ... - Google ブックス, , https://books.google.co.jp/books?id=n6qgWqHuRp8C&q=%22%E5%BF%9C%E6%B2%BB%22

54 ページ

銘文により応治元年(干支は乙酉)に本阿弥陀仏が願主となって久能山本堂に奉納されたことがわかるが、応治という元号はなく私年号と考えられる。作風より鎌倉時代の前半の制作と推定される。 ERD SO 熊野十二尊本地懸仏一面.


[119] 日本私年号の研究以後の一覧表等は、 千々和到のものなど含め、 日本私年号の研究 説により興国6年説を採っているようです。 >>117

[120] 日本語版ウィキペディアの表も初期から興国6年説で掲載しています。 >>10

[233] その他、 日本私年号の研究説に基づく解説と思われるもの >>15、 応治元年は私年号でとするもの >>149、 応治元年は私年号でまたはとするもの >>9、 鎌倉時代とするもの >>153

[232] 大まかに言って元号研究の分野では日本私年号の研究以後、 研究が進展することがなければ他分野の見解が取り込まれることもなく旧説が現在まで残っており、 美術史分野では重要文化財指定時の鎌倉時代2説が主に併記、 たまにどちらかが選ばれるものの、その後進展があるでもない、 といった状況です。

関連

南朝の元号


[7] 大日本仏教全書 101, 仏書刊行会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/952805/1/266

應治元年4月8日没

(誤植? 近くに書かれているのは長治、長和でいずれも平安時代後期)

[5] 平治物語新釈, 吉村重徳, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1107025/1/158 (要登録)

應治元年

(誤植?)

[6] 大阪府史蹟名勝天然記念物 第4冊, 大阪府学務部, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1119859/1/57

白河天皇承暦3年に来た人によって應治元年に創建。

(白河天皇時代とすると應徳の誤植?)

[11] 大阪府神社史資料, 大阪府, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1688263/1/712 (要登録)

>>6 同


[8] 高麗以前風俗関係資料撮要, 今村鞆, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1062546/1/468

年表 應治元年 二年 1306 1307

(鎌倉時代 正しくは徳治、誤植?)

メモ