[230] 満洲には、寛永の元号とそれにまつわる様々な伝承がありました。
[231] 外満洲のいくつかの地域に、寛永に関係するとされる遺物と伝説がありました。
[11] この地域は元来清国領でしたが、 の北京条約により、 清国からロシア帝国に割譲させられていました。
[10] 、 清国政府の指示により曹廷杰は外満州地域の秘密調査を行いました。 この報告書が、 >>9 についての現存最古の記録です。 >>7
[14] 曹廷杰の報告によると、当時既に >>9 はロシア人による破壊を受け、一部は階段敷石と化していました。 また、磨滅が激しく、 銘文は >>8 であるとの伝承がありましたが、 それを踏まえても読めたのは >>13 だけでした。 >>1
[16] 昭和時代初期の日本人研究者の情報によると、 >>9 残欠はその後ソビエト連邦占領下ハバロフスクに持ちされれたといいます。 >>6, >>2
[17] 昭和時代後期の日本人研究者の友人 (おそらく日本人) の研究者の情報によると、 ソビエト連邦占領下ハバロフスクで調査したところ、 ハバロフスク市の博物館に現存していましたが、 碑面に漆喰が塗られており、銘文は読めない状態だといいます。 >>2 この友人が実見して読めなかったのか、読めないという情報を得たのかはよくわかりません。
[18] 漆喰処理が博物館で行われたのか、其れ以前に既に行われていたのかは不明です。 博物館に所蔵されているとしたら、研究対象に不可逆的な加工を行うのは不審です。 あるいは博物館に存在するとしても、建材や庭園装飾として使われているのでしょうか。
[163] その他、沿海州からハバロフスクに持ちされられたとされる石造物等を昭和時代頃の日本人が目撃した記録がいくつかあるようで、 中には製粉所敷地から持ち込まれたとされるものもあるようです。 >>45 #page=64, #page=146
[244] 西暦1950年代にソビエト連邦の研究者は当地の石造物がハバロフスクの博物館にあるとし、 公元1990年代に中華人民共和国の研究者はそれを引いて寛永墓碑はハバロフスクの博物館に現存するものと同定しています。 >>233
[243] しかしながら、どの報告がどの遺物を指すのか一読しただけでは判じ兼ねる難しい状況です。 同じ製粉所敷地近辺の遺物も複数のものがある(あった)ようです。
[21] 曹廷杰の報告では、石碑 (寛永 = 日本の元号との認識) および周囲の遺構の様子から、これを日本人の墓と判断しています。 >>1
[19] 石碑、古墓とも、現地の現在の状態は情報がなく不明です。
[46] 、 日本人の瀬脇壽人は、 ロシア帝国占領下浦塩港に滞在していましたが、 源義経が大陸へ渡ったとする近世の学説に関係する現地情報を集めていました。 >>45 #page=20 その過程で、現地住民から寛永国伝説の情報が得られました。
[219] なお、これらの情報収集の過程で寛永がどのように伝えられたのかは不明です。 収集者の日本人の相手方は漢人、 満洲人、 朝鮮人がいます。 当地の東洋人の共通語は漢語だったように思われます。 満州人とは筆談したと記録されていますが、 漢語の単語は理解できても会話は出来なかったのでしょうか。 寛永やその他の固有名詞はどのように読まれていたのでしょう。 原住民の原伝承も漢語だったのでしょうか、 それとも漢人が媒介した時点で漢語化されているのでしょうか。
[139] 要するに、日本人が聞いて回ったところ、多くの人が日本人旧支配者の伝承を知っていた、 概ね証言は一致するが、細部はそれぞれ違う、 正確にいつ誰が何をしたかはよくわからない、 書物がありそうだという話はあるが実物は見当たらない、 証言者はそれぞれの思惑があって、大嘘つきではなさそうだがどこまで本当かもわからない、 といったところでしょうか。
[140] 日本人絡みの伝承が広く信じられているらしいこと、 寛永通宝 (の模造?) が一部で通行していること、 の2点はどうやら事実とみて良さそうです。
蘇城溝長七百餘里寬百數十里不等內有古城曰蘇城 相傳為寬永建都之所
などと書いております >>1。
[25] すなわち、蘇城溝地域に蘇城と呼ばれる古城があって、 寛永が都城を建設したとの伝承があったそうです。
[31] 曹廷杰は、 記録が無いことに注意しつつも、 >>9 の存在や済勒弥人 (原住民) が日本に入貢した伝承を踏まえ、 信用できるものだろうと判断しています。 >>1
[26] 蘇城溝は、 外満州に所在しロシア名 Сучанская долина と呼ばれる盆地/谷地形を指すのではないかと思われます。
[27] この地域がロシア領となってから、 に炭鉱が見つかり、 Сучан (スーチャン, 蘇城) という町が作られました。 その後、 町名は Гамарник (ガマールニク) → スーチャン → Партиза́нск (パルチザンスク) と変遷しました。 >>28
[29] Сучан と清国人に蘇城と呼ばれた古城の関係はわかりませんが、 おおよそ同じような地域と思われます。
蘇城マデモ行程50里余、奥地ハ2、3百里モアル由ナレバ容易ニ行コト能ハズ。
と記しています。これは蘇城のことを知る者達からの伝聞情報らしく、 本人は浦塩港にいて蘇城を訪れていません。 >>45 #page=20
ウラジウェストックの東北約五十邦里、蘇城河畔の蘇城に在住する中国人や原住民のあいだに日本武将築城の伝説があり
と説明されています。>>2
[253] >>195 によるとに中華人民共和国の研究者が中華人民共和国占領下内満洲吉林省琿春市で老人から寛永王の故事を聞き取りました。 >>208 /12
[220] それらの伝承がその後どうなったのかはわかりません。 当地の漢人コミュニティーは、その後の歴史の荒波の中で実質的に消滅したと思われます。 原住民もロシアとソ連の過酷な統治に翻弄された中で、 果たしてこの伝承がどこかでひっそりと生き残っているのかどうか。
[159] にロシア帝国の軍部隊がロシア帝国占領下外満州沿海州に派遣されました。 、 подполковник Альфтан (アルフタン中佐) が報告を Приамурским ведомостям (アムール地方新聞) 別冊として刊行しました。 ここにはオロチ族の伝承が収録されました。 >>142
[143] 20世紀初頭、 ロシア帝国の研究者 Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев は、 ロシア帝国占領下外満州の調査を行い伝承を収集しました。 >>142
[145] >>142 は 頃に書かれた論文が、 に出版されたものを底本に、 に再出版 (Web 公開?) された版です。
[144] Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев は、 およびその後、 この地域の異なる地の二人の満州人からそれぞれ、 Сучан 等を舞台とする、 Куань-Юн, Чин-я-тай-цзы, Хун-лэ-нюй らの物語を聞きました。 >>142
[160] Альфтан らのオロチ族伝承の前半は、この物語と同系統と判断されます。 >>142 この時点で同系統の伝承の合計3つの変種が収集されたことになります。
[182] Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев は Куань-Юн 王についての書物を探したものの、見つけられなかったようです。 >>142
[147] Куань-Юн を Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев は自身が発掘した寛永通宝と関連すると考えました。 ところが、寛永通宝は日本の貨幣と判明し、 Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев はこの解釈を断念したようです。 >>142
[148] 日本人が収集した寛永政権の伝承と、 ロシア人が収集した Куань-Юн 政権の伝承は、舞台が近く、寛永等の人名に発音が似た者があるため、 その関係性が注目されます。ただし、 両物語はそうした類似点があるもののの、地理関係、人物相関、 物語の展開の大部分が違っています。
[252] >>195 で中華人民共和国の研究者が遼東之珠から引用している伝承は、 Куань-Юн と同系統と思われますが、寛永王の寛永国となっています。 >>208 /12
[181] の日本の研究者の論文では、
アルセーニエフが収集した「寛永王伝説」は、蘇城の君主寛永王と寧古塔の金牙太子との間で行われた戦
いの物語であり、蘇城河の河口付近に並ぶ兄弟山(大仍山・小仍山)や龍王廟などに関わるエピソードが含まれ る(アルセニエフ:金生 1943)。
[157] 寛永通宝は、日本の貨幣ですが、 (日本で鋳造されたか定かでないものを含め) 内満洲 >>45, >>185 #page=4、外満洲 >>149、 カムチャッカ >>185 #page=30 など北日本の周辺諸国で広範囲で検出されています。 交易などで流通拡散したものと推測されています。
[158] 明治9年・10年頃に日本人が浦塩近辺で収集した情報によると、 外満州の蘇城近辺にはその時点で寛永通宝が依然流通しており、 日本人が入手した報告もありました。 現地人の間には、これを鋳造した外満州所在の日本人政権があったとの伝承も広まってました。 (>>46)
[149] 、 Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев は Тахобе (タホベ) 川で寛永通宝を発掘しました。 >>142
[150] Тахобе 川は、 ロシア連邦占領下外満州沿海地方テルネイ地区にあり、 に改称されて Соболевка (ソボレフカ) 川となりました。
その城内や附近の村々で、明治十年前後ごろまでも、日本武将の鋳造と伝える寛永通宝(日本のものよりやや小形)が流通していたことも事実らしい。
と説明されています。 >>2
[289] この領域には各国各時代で非常に多くの言説があります。 言説史をまとめたタイプの論文もいくつかあるものの、 全体をカバーできているものはありません。
[290] 各国各時代の論者がそれぞれアクセスできた範囲の材料しか使えないのはやむを得ないことですが、 遺物や論考が諸国にばらばらに残された当事案では、 諸説が何を知って何を知らずにどんな結論を導いたのかを注意深く読み解く必要があります。
[291] 寛永通宝については、 日本説と当地政権説があります。
[292] 日本の寛永通宝は、 日本周辺の相当に広い範囲で流通したことが知られています。 また、当地の寛永通宝は日本の寛永通宝と非常によく似ているとされます。 当地の独自貨幣とする説は成立が難しそうです。
[293] ただし、模造私鋳銭説は成立の余地があり、肯定にせよ否定にせよ、 十分な検討が必要です。
[294] 寛永王伝承については、 史実説と非史実説があります。 史実説でもどの時代と見るか、 どんな勢力と見るか、にいくつかの説があります。 学説としてこれまでに検討されてきていない時代や勢力の可能性も提示し得るのではないかと思われます。
[295] 寛永王/寛永国とされる伝承は、 非常にバリエーションが多く、 「寛永」 というキーワードを除くとまったく違うストーリーがあり、 それぞれに末裔伝承など枝葉もあります。 その全貌を調査し整理した研究はまだ行われていないように見えます。
[298] 現在記録に残る寛永王/寛永国伝承は相互に矛盾すると考えられ、 全てが史実であることは有り得ないとみられます。仮にその一部に史実が含まれるとしても、 寛永王/寛永国という名称の一部または全部は後から付加されたものと思われます。
[296] あくまで全体の雰囲気からの想像ですが、 現地でもともと色々に語られていた様々な伝承に、 「寛永」 という音と文字の一方または両方が何かのタイミングで結びつき、 近代の各国の研究者が聞き回ったことで雪だるま式に膨張し、 現在記録に残されるような形にまで発展したのではないでしょうか。
[297] もしこの想像が正しいのなら、 「寛永」 という語形と結び付いていない同様の伝承群もどこかに記録・記憶されている可能性もあり、 それらも含めた全体像を探っていき、そこから逆算して解きほぐして原形を求める作業が必要となりそうです。
[299] 原伝承には「寛永」と音や文字が同一または類似のものが含まれていたこともあるかもしれませんし、 まったく異なっていた可能性もあります。
[300] ただ、現段階では寛永国/寛永王が (たとえ史実だったとしても) 「寛永」なる独自の元号を使ったと考えるべき根拠はなく、 そのような史実は無かった可能性がかなり高いのではないかと思われます。
[301] 寛永13年碑および墓については、 まず何より現況が不明なことが問題です。 正確な原所在位置とその現状、 遺物の種類・原配置とその目撃および移動の履歴、現所在地を確定される基礎的な作業が、 これまで十分に行われないまま現在に至っているようにみえます。
[302] 次に、当該石碑の碑文の解読が必要です。 寛永13年云々、 「其台」、 神道碑、 「門」 など様々な解読が行われていますが、これらが同一の石造物なのかも定かではありませんし、 漆喰やコンクリートで固められて判読不能という説と、 神道碑などと読めたという説が時系列入り乱れて行われており、 石造物の同定と解読案の整理が急務です。
[303] 更に、当該石造物(群)とその原所在地にあったという墳墓の関係も検討を要します。
[304] 寛永13年云々の銘文は、実際に存在したとする説と、他の「寛永」に引きづられたとする説があります。 実物があれば科学的測定により再検証することもできるでしょうが、現状では困難です。
[305] 後者説は理屈の上では成り立ちますが、 どのように寛永13年云々の銘文伝承が生じたのかの説明を提示する必要があるでしょう。 何らかの類似文字を誤読したのか、 それとも文字でない凹凸が読めてしまったのか、 あるいは関係ない伝承が混線したのか。 寛永13年が寛永通宝の鋳造開始年であることと関連付ける論もありますが、 鋳造開始年の情報を知り得た者は限られていると思われ、 如何にして銘文と誤認され得たと考えるのか、説明が困難です。
[313] また、当初、寛永十三年云々の銘文が読めたのに、神道碑云々は読めなかった、 ということにも、両者同一石碑説を採るなら説明が必要となります。
[306] 前者説は寛永の正体を説明する必要があります。 日本の元号説と独自政権元号説があります。
[307] 日本の元号説の場合、なぜそれが外満州に所在するのかを説明する必要があります。 これまでの多くの論は寛永王と関連付け、日本人の渡来と説明しています。 寛永王とは別個に日本人の渡来に帰着させる説明もあります。 いずれにしても外満洲と日本の交易を根本要因とする説明であり、 寛永通宝の存在はその傍証となり得ます (が、寛永通宝の流入は寛永年間に限らないことには要注意)。
[308]
独自政権元号説は寛永国伝承や寛永通宝に結び付けるものが多いです。
貨幣名は元号名であることが多く (
[309] 独自政権諸説は満洲地域の政権を想定しています。 それは主に寛永国伝承の影響ではないかと思われますが、 理屈の上ではより広範囲ないし遠方の政権も想定可能です。 ただその場合、文献史料に記録が残っていないことの説明がより難しくなりそうです。
[310] もっとも、文献史料の不在をただちに否定の決定的材料とし辛いこともまた事実です。 渤海国の元号で逸年号が報告されていますし、 渤海国の末期の元号も中国史書には残っていません。
[311] 他に史料 (文献、金石文) が報告されていないことなど総合的に考えて、現段階では独自元号の存在の可能性は高くなく、 日本の元号説または誤読説が優位と考えられるところでしょう。
[314] 寛永十三年云々の銘文がどのような意味のものかも説明を要します。 どのような文字配置だったのか情報がありませんが、寛永十三年が全体の紀年のようには見えず、 文章の一部としての日付のように見えます。 これまでの諸説は湖の比定や旧唐書との関連の指摘はあっても、 石碑がどのような趣旨で、そのうちどのような記述が残存部分なのか、 といった本格的な推測に至っていません。
[315] 諸論の分析には、それぞれの時代と思想の背景を意識し、その影響の有無を点検する必要があります。具体的には、
といったものが含まれますが、その他にもあるでしょう。
[75] 、 ロシア帝国占領下外満州沿海州浦塩在住日本人の瀬脇壽人 (- ) は、 前年に現地人から収集した情報 (>>46) に基づき考察しました。 >>45 #page=22, #page=24, #page=25
[89] 奴兒干は、 黒竜江の下流域、ロシア連邦占領下ハバロフスク地方ティル (Тыр) に当たると考えられます。元の時代には東征元帥府が、 明初には奴児干都司が設置され、この地を統治しようとしました。 >>87, >>88 蘇城とはかなり離れています。
としています。 >>45 #page=108
[179] 瀬脇壽人の明治10年初時点の情報に近く、 瀬脇壽人から日本本国に送られた情報に由来するのでしょうが、 少し違いもあります。記者が誇張したのか、他の噂と統合したのか、どうなのでしょう。
[22] 、 清国政府の曹廷杰は外満州の現地調査を行い (>>10)、 考察しました。
[23] 曹廷杰は、 >>9 および墓について、 寛永は日本の元号であり、 日本がかつてこの地域を掌握していた (竊據) のではなかろうか、 と推測しました。 >>1
[161] 明治21年、 日本人研究者の深堀順蔵は蘇城郡を調査しました。 >>45 #page=58
[162] 明治25年に日本で発行された 西伯利地誌 は、 蘇城地域について解説しています。 蘇城の遺跡は金の時代のものとしています。 >>45 #page=61
[164] 明治40年8月4日に行われた日本の研究者内藤虎次郎の講演 (明治40年11月10日出版) では、 次のように述べられました。 >>45 #page=66
[151] 20世紀初頭、 ロシア帝国の研究者 Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев (ウラジーミル・クラヴジエヴィチ・アルセーニエフ, - ) は、 ロシア帝国占領下外満州の調査を行い伝承を収集しました。 >>142
[152] Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев は、満州人の伝承 (>>144) から Куань-Юн 政権が過去に存在したと考えました。 >>142
[153] Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев が外満州で発掘していたところ、 寛永通宝が出土しました (>>149)。 ところが Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев は漢字を読めなかったので、帰宅してから支那人や東洋学研究者に尋ねました。 それは 「Куань-Юн тун бао」 と読むことを知りました。 >>142
[154] Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев はこれを 「драгоценность Куань-Юна」 (クアンユンの宝) とし、 クアンユン王の宝物を意味していると理解しました。従って、 クアンユン王が伝承のみでなく史実の存在である物証になると考えました。 >>142
[155] ところが、その後 Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев は寛永通宝が日本の貨幣であることを知りました。 >>142
[267] に日本人の東洋学者として有名な白鳥庫吉は、 ロシア帝国占領下外満州沿海州浦塩の東洋学校博物館を訪問しました。 >>266
[268] 白鳥庫吉は >>9 であるとされる石碑を目撃しました。 博物館のミハイロフスキーによると、 それは20年前にニコリスクより持ち出したもので、 当時は「湖北進馬三千」の6字を読めたとのことです。 >>266
[269] しかし「完顔公神道碑」などとあって、金の碑であることが明らかで、 曹廷杰の日本人説云々は成立し難いと白鳥庫吉は評しています。 その時点で既に磨滅して碑面の文字は読み難くなっていたものの、 20年前にはまだ字形が残っており、ミハイロフスキーが撮影した写真ではかすかに読み取れた、 と白鳥庫吉は書き記しています。 >>266
[237] 、 中華民国人 (おそらく漢民族) 魏聲龢は地誌 雞林舊聞錄 で、 >>9 を紹介しました。 >>236
[238] その状況説明は >>22 と変わらないので、 新情報はなく >>22 の他の新情報は含まれないと思われます。
[239] >>22 は寛永を日本の国号と書いていましたが、 こちらでは日本の後水尾天皇の元号とより正確に認識しています。 >>236
[240] また、蘇城溝の古城は寬永帝の将軍の本営 (寬永帝時大將建牙之所) と解しています。 >>236 >>22 の首都説とは少し違う解釈になっています。
[241] 信憑性の評価は疑問がある (存疑) となっており >>236、 >>22 より少し後退しているように取れます。
[259] の日本の書籍は、 外満州雙城子の古跡を紹介する中で、次のように書いています。 >>258
[288] 独自情報はなく、先行文献からの孫引きと思われます。
[33] >>9 について、寛永が日本の元号であるかは非常疑わしいとし、
... しかしいずれも立証されていない、と述べています。 >>4
[284] の日本の岩崎克己の書籍は、 源義経関連の言説を収集したものです。 >>272
... と主張しました。 >>2
[184] 西暦20世紀末頃、 中華人民共和国の研究者らは、 満洲の寛永通宝と寛永国の実態について論争しました。 >>185 #page=3
[217] 、 日本人の榎森進は、 中華人民共和国占領下内満洲哈爾浜市で、 満洲の寛永通宝についての研究成果を発表しました。 に日本の大学から公表されました。 >>185
[218] この研究は、 その時点までの寛永国に関する中華人民共和国での研究を踏まえ、 寛永国伝説は完全に否定されたと理解した上で、 榎森進がに内満洲所在の寛永通宝を実見して調査し、 清国と満洲や樺太の諸部族との交易網の中で位置付けたものです。 >>185
[221] 、 中華人民共和国の王崇实と李红光は 宽永王传说的再思考 で、
としました。 >>225
[226] に中華人民共和国の Webサイトに掲載された記事は、 中華人民共和国を中心に寛永国の研究史を >>221 まで説明し、 最後に学界の議論として、 宽永碑に宽永とは書かれていなかったのではないかとの説を紹介しています。 >>227
(要約のみ)
我在《枫窗脞语》(1984年,中华书局版)里写过一篇“宽永通宝”钱短文.我于1958年去农安普查文物时见到不少宽永钱,初以为是日本钱,日本宽永钱流行到中国很多,这次见到的,有人认为和日本钱不同,当是中国自造,但中国史上不见有用宽永两字作年号的.后来在曹廷杰《西伯利亚东偏纪要》里见所记珲春双城子东南里许德商火磨房内有古碑,字迹剥蚀,相传原文有“宽永十三年,湖北进马二千匹”语,今惟“宽永十三年,湖北进马”九字可识,“二千匹”字已乌有.我认为曹氏的说法有得有失,得的是解释“湖北”是兴凯湖北,而不是今天的湖北省;失的是日本宽永年,当
(要約のみ)
一、引言清光绪十一年(1885年),著名学者曹廷杰实地考察了黑龙江下游及乌苏里江以东的滨海区域之后,写出了东北历史地理方面的权威性著作——《西伯利东偏纪要》一书。该书第62条记有“宽永残碑”,第61条记有“宽永建都”的苏城。按曹廷杰在俄界计129天,往返道路1.6万余华里,撰成《西伯利东偏纪要》共计118条,其中竟有两条记述的是相传与“宽
[183] 、 日本の池田勝宣は、 ジンギスカン = 源義経説を調査しました。 その中には寛永に関する伝承がいかに源義経と結び付けられていったかの過程も含まれます。 >>45
[324] には、 日本の SNS 利用者に >>185 が紹介され、それなりの反響があったようです。
[326] その中には、 >>185 に記載された日本のアイヌ人が寛永通宝を装飾具として使った事例と外満州の寛永国伝承が雑に溶接され、 原住民の心情まで付加されたハルシネーション >>321 や、 >>185 と異なる主張をする研究者を嘲笑う陰湿な投稿 >>325 も見られました。 (最初と思われる >>320 の時点で事実関係の認識が少々怪しい。)
[229] ここに、 SNS で承認欲求を満たすためのおもしろネタ素材に成り下がった、 と言えるわけですが、よく考えると明治の時点で (瀬脇壽人が慎重に判断している & その後の研究者が否定的に判定しているにも関わらず) 低俗なタイプの源義経 = ジンギスカン説のおもちゃと化していたわけで...