壽隆

寿昌, 寿隆

[4] 寿昌 (旧字体: 壽昌, y~534) は、 遼の元号の1つです。

紀年法

[6] 元年は、 です。

用例

日時事例

壽昌元年乙亥十月十四日

[431] 史林 = The Journal of history 7(3)(27), 史学研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/11005195/1/56 (要登録)

3年、5年

年号銭

[33] 寿昌元宝 (>>74) などの年号銭が古くから知られています。

「壽昌貳年」紀年銭

[249] 珍品といわれる壽昌貳年紀年銭があり、 ウェブ上にはオークションサイトなどにいくつも出品されています。 (それらの真贋は不明。)

[254] 前近代の資料に出て来ない (検索しても何も引っかからない)、 現代の中華人民共和国で見つかっているものみたいです。 学術研究の場でどのように評価されているのかはよくわかりません。

寿隆年号銭

[258] 中華人民共和国などで寿隆年号銭がいくつも流通しているようです。 真贋は不明です。

[259] 前近代の資料にはあまりないようで、 遼史 をもとに貨幣名称を列挙したようなものしか出てきません。 清国の収集家らは寿昌年号銭はあっても寿隆はないと認識していたようです。

避諱

[332] 国滅亡後に国で避諱の対象となりました。

[329] 三朝北盟會編 (成立) 所引張棣 正隆事跡 >>326 によると、 皇帝世宗完顔烏禄の母親の欽慈皇后漢名壽昌でした。 >>327, >>41

[331] 大金集禮 (成立) によると、 閏2月11日にその避諱のことが定められました。 >>330, >>41

[333] 中華人民共和国の研究者邱靖嘉がこれらの記述および用例を発見する >>41 まで、 この避諱は忘れられ見過ごされていました。

[336] の最終画の欠画の事例があります。

日時事例

[340] 壽昌と略した事例があります。

[341] では元号名を1字に略する慣習がありました 元号略号 が、 通常は金の元号が対象で、遼の元号はあまり略されていません。 ここでは避諱目的で援用されたと推測されます。 >>41

日時事例

[342] 玉海 (>>245) や 三朝北盟会編所引攬轡錄所引金国小本 (>>274) に盛昌 (y~4099) があります。 壽昌避諱によるものと推測されています >>41

[343] 遼史 などに寿隆 (旧字体: 壽隆, y~4098) があります。 壽昌避諱によるものと推測されています >>41

[345] 従来いろいろな解釈が提出されてきました。研究史の項を参照。

[344] 東都事略 (>>104) に昌壽 (y~4100) があります。

[432] 従来ただの誤りと考えられてきました。 東都事略は他にも元号の記述に怪しい箇所が指摘されていて、 ただちに本書を信用していいかは不安もあります。 現在の知見に基づき改めて検討する価値はありそうです。 咸寧

[346] の時代に人名壽昌から昌壽に置き換えた事例があり、 元号名も同様に避諱で入れ替えられたものと推測されています >>41。 従来は単なる誤記・誤写と推測されていました。研究史の項を参照。

金の盛昌

[395] の最後の皇帝である末帝 (即位当日に死去)元号盛昌 (y~1127) とされることがあります。

[397] 通説ではその前の哀帝の最後の天興 (y~879) が国滅亡まで続いたとされます。 >>396

[398] 玉海 (>>245) は金の元号として盛昌を収録していました。 ただし皇帝が誰かは書いていません。

[399] 紀元編 (>>392) は末帝元号として盛昌を収録していました。 ただし利用期間は書いていません。 在位期間が短すぎて決定できないはずがない (し当時も調べればわかったはずな) のに確定されていません。 哀帝の最後の開興に時期不明とあり、 おそらく盛昌と共に何らかの情報源に皇帝名と元号名だけあるものの、 辻褄が合わず保留していたのではないでしょうか。

[415] 末帝の時代にこの元号が制定・利用されたとする確実な記録は見つかっていません。 壽昌避諱としての盛昌が使われたとする記録は伝わっています (が、で使われているとは伝わっていても、遼の元号だとは明確にされないまま伝わっている形跡があります)。

[416] だとすると遼の元号における避諱金の元号と誤認され、 不明という意味で一覧末尾にでも付け加えられていたのが、 いつの間にか最後の皇帝に属すると誤認された可能性があります。

[400] 中文维基百科には単独記事がなく、天興の記事に1行書かれているだけです。 玉海紀元編が引かれています。

[402] 元号一覧紀元編から引いて末帝欄に入れていますが、 期間不明になています。

[410] 韓国語위키백과には성창の単独記事があって、 1月10日からの元年元号だとされています。

[404] 他の記事では末帝正月の元号である盛昌 (성창) として紹介されています。

[405] 同じようにを盛昌元年とする歴史解説系の記事や百科事典記事などがウェブ上には散見されます。


[417] 臆造类之背阴刻文钱 ——鎏金宫钱堪作证(十二) - 知乎, 辽金宫藏 草撰, 辛丑年 子月望, 发布于 2022-01-04 12:18, https://zhuanlan.zhihu.com/p/453018310

[418] >>417 三、12.

[422] 完顔承麟末帝名前

[423] >>417 は贋作と指摘していますが、 その根拠が天興から盛昌改元していたからこの記載はおかしいというもの。 この論法では盛昌元号の実在が否定されると、 ならこれは真作なのかと話がおかしな方向に行きかねないのでよろしくない。

[424] この記事に限らず古銭界隈では貨幣名 = 元号名 ≒ 皇帝名/在位と安易に結びつける危うさがあります。
[425] 大遼元年も参照。

[426] 哀帝は敵軍が迫る中、 最後の皇帝となることを嫌って無理矢理に末帝譲位しました。 末帝即位の儀式を挙げたものの、 半日も持たずに国は滅亡したと伝えられます。

[427] そのような状況下ですから即位の準備もどれだけ整えられたか怪しいもので、 即位式もどれだけの実態があったものでしょう。 そんななかで新元号が制定、公布されたかはたいへん疑わしいと言わざるを得ません。

[428] せめての体裁を整えようと元号を定め、 既存の避諱元号との衝突にも気づけなかったのだ、 と説明できないこともありませんが、 それを使って貨幣を鋳造できるかといえば、無理でしょう。

[451] 関連: 金哀

研究史

[380] 元号名は諸説あって真相がわからなくなっていました。 通説が確立した現在も一部では混乱が続いています。 大きくわけて次の各説がありました。


[73] 南宋の政治家洪遵 (-) 貨幣 (古銭) 研究書泉志は、

を示しました >>56

[32] >>56 掲載のイラストでは「夀昌」、 本文では「昌」 (明朝体) となっています。

[77] 東北諸蕃樞要北遼通書 は、ウェブ検索では引用しか出てきません。 佚書でしょうか。

[232] 天祐は、壽昌を制定した皇帝道宗のことで、 即位翌年に当たる 遼史 清寧2年11月条に

甲辰,文武百僚上尊號曰天佑皇帝,后曰懿德皇后。

とあります。 >>233 2字目が違いますが、よくある通用ないし誤記です。

[234] 天祚は、道宗の次の皇帝天祚帝のことです。

[78] これが壽昌説の最古でしょうか。 当時からは未だ100年も経過していません。

[79] >>70の時代の刊本ですが、 貨幣のイラストにも貨幣の名称としてもはっきり壽昌と書かれています。 誤写や避諱で原本から変化しているとは考えにくいでしょう。

[97] 南宋晁公邁歴代紀󠄄年 (12世紀後半頃?) は、 歴代中華王朝および周辺諸国の君主元号などをまとめたものですが、 遼の元号の1つとして壽昌を挙げています。 >>96

[98] 清国銭大昕によると、

遼道󠄃宗改元淸寧咸雍太康大安壽昌

という旨が書かれているそうです。 >>59

[101] ウェブ上で閲覧できる 歴代紀年 刊本の画像は、 よりによって肝心のこの部分が欠落しています。 >>99, >>100 (電子版の問題なのか元の書籍版にもないのか不明。)

[102] しかし元号一覧には壽昌が確かにあって、契丹の元号とされています。 >>100 #page=60

[104] 南宋孝宗の時代 (在位 -) の政治家王称東都事略 は、 北宋や周辺諸国の歴史をまとめたもので、 遼の元号も記述されています。

[107] 四庫全書本には

紹󠄂聖三 年攺元曰昌夀

(楷書) とあります。>>106

[105] 光緒9年5月刊本には

紹󠄂聖󠄃三年󠄂元曰昌夀

(楷書) とあります。>>103

[108] 和刻本には

紹聖 三年 () () 昌夀 ()

(明朝体) とあります。>>109

[112] 紅葉山文庫旧蔵本 (全体的には刊本ながらもこの部分だけ写本) には

紹󠄂聖三年元曰昌夀

(楷書やや崩れ) とあります。>>111 この本は訓点によると近世初期までには伝わっていたものとのこと。

[114] 清国銭大昕は本書を壽昌の根拠の1つとして提示し、 刊本が昌壽とするのは誤りだと指摘しています (>>91)。 ということは壽昌とする写本があるのでしょうか。

[113] 著述を基準にすれば昌壽の現在知られている最古の例ですが、 もし原本が壽昌と書いているのなら、そこまで古くは遡れないということになります。

[26] 南宋葉隆礼が編纂し時代中期に世に出たという史書 契丹国志 (成立説あるも実際はより後という) に、

道宗天福皇帝,乙未改元清寧,乙巳改元咸雍,丙午咸雍二年復改國號大遼,乙亥改元壽昌,至庚辰夀昌六年崩,在位四十六年。

とあり、 遼の元号の1つとして寿昌を示しました。本紀でも寿昌が使われています。 >>25

[80] 本書は勅撰紀伝体史書ですが、 中国正史の1つには数えられていません。

[245] 国の研究者王応麟 (-) によって編纂された類書 玉海 (初出版)元号一覧は、 近現代の元号研究ではよく参照されていますが、 遼の元号の1つとして壽昌を挙げています。 また、金の元号の1つ (皇帝記載なし) として盛昌を挙げています。 >>246, >>247

[394] 玉海所収の不明元号について、 攬轡錄 (>>273) 所収元号のリストとの関係性が指摘されています。 >>41

[71] 国の研究者馬端臨 (-) による法制史の研究書文獻通考 (成立) は、 壽昌と書いています >>14。 本書自体は元号について考察したものではありませんが、 以後の研究でよく参照されています。

[286] なお四庫全書文獻通考遼史に基づきこれを壽隆に校訂しています。 >>285, >>41

[24] 国で編纂された正史遼史 (成立) には、 清国四庫全書 (成立)遼史によると、

十二月乙酉詔改明年元

壽隆元年春正月己亥

二年春正月甲午

とあります。 本紀の日付に遼の元号の1つ寿隆が使われています。 >>45, >>46

[81] 当時からは約250年が経過しています。

[134] また、遼史には、

道宗之世,錢有四等:曰咸雍,曰大康,曰大安,曰壽隆,皆因改元易名。

とあり、改元のたびに名前を改められた貨幣 (年号銭) が作られたとして、その1つに壽隆が挙げられています。 >>133

[137] 四庫全書遼史 のうち、 閏考 に1箇所 「壽昌三年」 と書かれているところがあります。 >>136, >>41 それ以外、例えば 朔考壽隆になっています。 >>138

[141] しかし早稲田大学所蔵本のように 「壽隆三年」 (明朝体) になっている本もあります。 >>140

[145] ちなみに、 天顯5年春3月乙亥条に

冊皇弟李胡為壽昌皇太弟

とあって >>142, >>143, >>144元号名でない壽昌が1例あります。

[348] 国の類書 永楽大典 (成立) に、

紹聖三年。改元曰昌壽。

と書かれた部分があります。 >>347

[349] 永楽大典 所引 歷代帝王纂要譜括 に、

道宗。名洪基。興宗畏子。母 曰仁懿皇后蕭氏。在位四十七年。壽七十。謚曰仁聖大孝史皇帝。 清寧十。 咸雍十。 太廪十。大安十。壽隆七。

とあります。 >>347

[350] 歷代帝王纂要譜括南宋孫應符 (-?) による佚書です。 晩年の作といわれます。 >>41 壽隆の用例としては遼史を遡る現存最古のものです。 いつの成立か正確にはわかりませんが、当時から数十年後に当たります。

[23] 高麗史 (成立) の獻宗元年に

秋七月戊戌行遼壽昌年號。

とあって、 7月戊戌から壽昌が使われたとしています。 >>22, >>83

[51] しかし同じ 高麗史年表では壽隆となっています。 >>50, >>82

[85] そのまま解釈すると、では壽隆が使われていたが、 高麗では壽昌を施行した、という説なのでしょうか。 説明不足ですっきりしません。

[86] 高麗史は他の元号には避諱による改称の説明がありますが、 ここでは何も説明がありません。

[84] 原本の編纂時点からこの通りの表記なのかはわかりませんが、 仮にそうだとすれば、 編纂時点で李氏朝鮮で入手できた資料に壽昌壽隆の両方があったということになります。 壽隆と書かれていたのは遼史かもしれませんし、それ以外かもしれません。

[87] 当時からは約350年が経過しています。

[264] 清国初期の研究者らは、 壽昌壽隆 (など) の問題に気づいていましたが、 その原因の特定には至っていませんでした >>266, >>267, >>287, >>41。 あるいは遼史を根拠に (それ以上の考察なく) 壽隆を正しいと判断していました >>285, >>288, >>41壽隆だけを採ったものはその後も出版されています >>323

[284] 清国の研究者鍾淵映 (-) 歴代建元考 は、 古い部類の元号一覧として元号研究者によく参照されますが、 遼の元号の1つとして壽隆を挙げていました。 加えて、 東都事略壽昌范成大攬轡錄に「盛昌六年」 があるものの不明だとし、 伝写の誤りかもしれず、 遼史 が正しいとしました。 >>283

[433] 東都事略から引くのに昌壽でないのは、 そのような本があったのでしょうか? なお東都事略咸寧は拾っていません。 孫引きだったりするのでしょうか?

[268] 清国の研究者厲鶚 (-) 遼史拾遺に、 范成大攬轡錄に 「盛昌六年」 があるものの、出典不明だとあります。 >>267

[273] ところがその南宋の政治家范成大 (-) を訪問した際の記録である 攬轡錄 は、 ウェブ上で閲覧できる3本のいずれにも、 「盛昌六年」 の記載は確認できません。 >>272, >>269, >>270

[274] 南宋の公務員徐夢莘 (-) が編纂した外交記録集 三朝北盟会編 (成立) に、

以前金無年號乃選造以足之重熈四年清寧咸雍太康太安各十年盛昌六年乾通十年大慶四年收國二年以接于天輔

という箇所があります >>275。また、 それに先立って 「范成大攬轡錄曰」 云々とあって、 攬轡錄 の一部と一致する部分があります。 どこまでが 攬轡錄 からの引用なのか明確ではないのですが、 三朝北盟会編 または同様の史料から 攬轡錄 にあると誤引用したのでしょうか。 それともこの部分まで含んだ 攬轡錄 の異本でもあるのでしょうか。

[308] の研究者岳珂 (-) による愧郯錄に、

金年號

范參預成大攬轡錄曰金本無年號自阿骨

打始有天輔之稱今四十八年矣小本曆通

具百二十歳相屬某年生而四十八歳以前

金無號乃撰造以足之重熙四年清寧咸雍

太康太安各十年壽昌六年乾統十年大慶

四年收國二年以接天輔珂按此年號皆遼

故名女眞世奉遼正朔又滅遼而代之以其

紀年爲曆固其所也豈范未之見耶

とあります。 >>309, >>311

[277] 四庫全書欽定重訂大金國志 にも、 注釈で

按原書書太祖即帝位于戊 戍嵗不載收國年號又范成 大攬轡錄云金自太祖始有天輔之稱今四十八年矣 四十八年以前乃選造以足之重熈四年清寧咸雍大 康大安各十年盛昌六年乾通十年大慶四年收國二 年以接于天輔似可與此書相證但敵國之言務相誣 毁不可為據今依金史為正

とあります。 >>276

[310] 中間部分は 三朝北盟会編 と同じような文ですが、 やはり 攬轡錄 が出典だと述べています。 こちらもどこまでが 攬轡錄 からの引用なのか不明瞭です。

[278] 攬轡錄 にあることが確認できるのは

金本無號自阿骨打始有「天輔」之稱。

だけです。 >>270

[279] このように出典は不明瞭であるものの、

というのがこれらの文献の主張する説ということになります。

[325] 遼史拾遺正閏考 から引用しています >>267 が、 その 正閏考 が何か不明です。 の学者沈德符 (-) 歴代正閏考 がそう呼ばれることが多いのですが、該当する記述を発見できません。 引用文からみて 歴代建元考 の誤記のようにも思われます。
[267] 遼史拾遺 (四庫全書本)/卷15 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%81%BC%E5%8F%B2%E6%8B%BE%E9%81%BA_(%E5%9B%9B%E5%BA%AB%E5%85%A8%E6%9B%B8%E6%9C%AC)/%E5%8D%B715

李季興東北諸蕃樞要曰契丹主天祐年號夀昌按此錢徑九分重二銖四㕘文曰夀昌元寳 鶚案道宗年號夀隆泉志云夀昌正閏考亦云遼道宗年號夀昌見東都事畧范成大攬轡錄又有盛昌六年未詳何㩀 北遼通書曰天祚即位夀昌七年改為乾統

[229] 清国の政治制度研究書 欽定續文獻通考 (成立) には、

遼史刑法志曰

又食貨志曰道宗之世錢冇四等曰咸雍曰太康曰大安曰壽隆皆因改元易名其肉好銖數無所考

泉志曰道宗清寧錢徑九分重三銖文曰清寧通寶又太康錢有二品並徑九分重二銖四参以太康通寶太康元寶為文又大安錢徑八分重二銖八参文曰大安元寶又壽昌錢徑九分重二銖四参文曰壽昌元寶

等謹按遼史道宗錢四等一曰咸雍而不及清寧葢偶遺之洪志之壽昌乃夀隆之譌至遼史謂肉好銖數無考而泉志乃詳言之則史家踈也

西遼壽昌元寶錢

等謹按李季興東北諸蕃樞要曰契丹天祐年號壽昌據遼史天祚帝紀百官册立耶律逹實為帝上尊號曰天祐皇帝改元延慶無壽昌紀元之語或正史遺之而樞要别有所據

とあります。 >>230

[235] 年号銭について、壽隆のある 遼史壽昌のある 泉志 (>>73) から引用して、 記述の詳細な 泉志 を信用できると判断しています。

[236] さらに 東北諸蕃樞要 (>>75) に 「天祐年號壽昌」 とあることについて、 遼史 から引いて、 耶律逹實が即位して天祐皇帝と呼ばれ、延慶改元したとあるのに壽昌はなく、 東北諸蕃樞要 は何か他に根拠があるのだろうかと疑問を残しつつ、 これを 「西遼壽昌元寶錢」 として紹介しています。

[237] 東北諸蕃樞要 を引用していますが、 同じく 東北諸蕃樞要 を引用している 泉志 がどちらも同じ道宗の貨幣と判断していることにはなぜか言及がないのは不思議です。 本書の著者は 東北諸蕃樞要 を直接見たのでしょうか。それとも 泉志 の孫引きなのでしょうか。孫引きならますます不思議です。

[239] 遼史 には

又西至起兒漫,文武百官冊立大石為帝,以甲辰歲二月五日即位,年三十八,號葛兒罕。復上漢尊號曰天祐皇帝,改元延慶。

とあります。 >>238 耶律大石 = 耶律逹實が天祐皇帝と呼ばれ、 延慶元号を使ったことが書かれています。

[231] またこの他に日付表示夀隆を使ったものが数箇所あり、 契丹国志からの引用と思しき元号名夀昌も1箇所あります。

[13] 清国四庫全書総目提要 (成立)遼史 について、

を挙げて、 改元について遺漏が多いと指摘しています。 >>12 壽隆に疑いの目を向けてはいるものの、誤りとまでは断じておらず、 何らかの事情の存在を推察するにとどまっています。

[290] 清国の研究者周廣業 (-) 經史避名彙考 (成立) は、

と指摘しました。 >>218 壽昌が正しいと考えていたようですが、 断言まではしていません。

[164] 清国の研究者銭大昕 (-) は、 壽昌が正しく壽隆遼史 の誤りとする説を発表しました。 複数の著作に少しずつ違った説明がありますが、 大筋は同じで、 壽昌を支持する根拠はたくさんあるのに対し、 壽隆とするべき根拠は 遼史 に限られるというのです。

[170] 銭大昕二十二史考異 () は、

を指摘して、壽昌が正しいと判断しました。 >>163

[95] 銭大昕潜研堂金石文跋尾 (序)安德州剏建靈巖寺碑 は、

を指摘して、壽昌が正しいと判断しました。 >>156, >>158

[88] 銭大昕十駕斎養新録 (成立) は、 遼史壽隆について、

を指摘し、遼史の誤りで訂正するべきだとしました。 >>59

[117] 錢大昕らによる長暦 宋遼金元四史朔閏攷 (跋) は、 元号名を 「壽昌」 (明朝体) としています。 >>115 これ自体は元号の研究書ではないのでその理由は説明されていませんが、 当然、錢大昕の学説が反映されたものでしょう。

[243] 清国の研究者李兆洛 (-) 紀元編は、 元号一覧として有名ですが、 遼の元号の1つとして

壽隆一作壽昌 一作盛昌一作昌壽○乙亥六

(明朝体) が挙げられています。 >>244 各説、何らかの出典があってのことなのでしょうが、 本書は出典を明記していないので不明です。

[351] 時代の避諱の実態がようやくわかってきた現在から見るとこの 紀元編 は (欠画を除いて) 現在知られているバリエーションを網羅しており、 この本の調査力の高さが思い知らされます。 すべてを網羅したのは本書が最古でしょうか。 出典がないことだけが惜しまれます。
[434] 東都事略にある咸寧は掲載されていないので、 出典はそれ以外でしょうか。

[392] 紀元編の末帝の元号としても盛昌を掲載しています。 しかし開始年や年数を書かない、不明な元号扱いです。 >>391

[393] 1代前の哀宗の最後に玉海から開興を引きつつ、 いつか不明と注釈しています。その1つ前が天興で、 現在では天興の滅亡まで続いたとされています。 盛昌の出典は不明ですが、同じく玉海かもしれません。

[289] 清国黄本驥避諱録 (序) は、 壽昌5年の金石文について、 壽隆5年であるとして、 避諱ではないため、 民間の避諱だろうかと推測しています。 >>72

[28] 契丹国志 の注釈に、

如道宗壽隆紀年、此書實作壽昌、與遼世所遺碑刻之文並合、可以證遼史之誤。

とあります。 >>27, >>20 つまりの時代の碑文と合致するのは壽昌なので、 遼史壽隆とするのは誤りだとします。

[29] 明治時代の論文でこれを国の研究者席世臣によるとするものがありますが >>20维基文库本の構成上は席世臣の注釈部分の外にあり >>27、 実際はいつの誰の注釈なのかはよくわかりません。

[301] 錢大昕の学説は清国中華民国中華人民共和国で通説化し、 多くの研究者がこれに従いました。 >>300, >>302, >>304, >>306, >>307, >>313, >>315, >>322, >>41

[314] 中華人民共和国の研究者馮家昇 (-) は、 錢大昕の説に加え、 諸家の泉錄, 泉志, 泉滙などにも壽昌があって壽隆はないと書いています。 >>313 泉錄, 泉志, 泉滙 は書名のように書かれていますが、 泉志>>73 だとして、他の2つが誰のどれを指すのかよくわかりません。 泉滙>>322>>321 のあたり?
[324] 古泉匯 >>322 は他に 彙考 から 正閏考孫引きしています。 正閏考 の引用は 遼史拾遺 >>267 と同じものです。 彙考 は他の巻に翁氏とあるので、 >>321 と思われます。

[317] 清国の詩人秦恩復 (秦敦夫) (-) が遼壽昌5年の陀羅尼幢を見て作ったという漢詩に、

隷楷猶追北宋前

壽隆誰辨壽昌年

訪碑喜得同心友

間其児曹説古泉

というものがあります。 >>121

[318] その意味するところは、

文字は古く北宋の前で

壽隆が壽昌の年だと誰がわかろうか

碑を訪れて同好の士に出会えた喜び

間でその子供が古銭を説いているよ

といったところでしょうか。

[319] 同心友とは研究者の翁方綱 (-) 、 その子供は公務員で貨幣収集家の翁樹培 (-) を指すようです。

[320] この詩に付けられた注釈には、 壽隆が史書で壽昌と誤られており、 翁樹培洪遵泉志 (>>73) の壽昌元寶でこれを証明したのだと書かれています。 >>121

[321] 翁樹培著書古泉彙考 ないし 古泉匯考 があり、 そこで何か言及されているかもしれません。
[12] 全國漢籍データベース 四庫提要, , https://web.archive.org/web/20151208142751/http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/db-machine/ShikoTeiyo/0101001.html

文獻通考稱遼道宗改元壽昌。洪遵泉志引李季興東北諸蕃樞要云。契丹主天祚。年號壽昌。又引北遼通書云。天祚卽位。壽昌七年。改爲乾統。而此書作壽隆。殊不思聖宗諱隆緒。道宗爲聖宗之孫。何至紀元而犯祖諱。考今興中故城。(卽古爾板蘇巴爾。漢譯言三塔也。故土人亦稱三座塔云。)東南七十里柏山。有安德州靈巖寺碑。稱壽昌初元。歲次乙亥。又有玉石觀音像倡和詩碑。稱壽昌五年九月。又易州有興國寺太子誕聖邑碑。稱壽昌四年七月。均與洪遵所引合。又老學菴筆記載聖宗改號重熙。後避天祚嫌名。追稱重熙曰重和。考興中故城鐵塔旁記有天慶二年釋迦定光二佛舍利塔記。稱重和十五年鑄鐵塔。與陸游所記亦合。而此書均不載。是其於改元之典章多舛漏也。

[59] 十驾斋养新录五 第33页 (图书馆) - 中国哲学书电子化计划, Donald Sturgeon, , https://ctext.org/library.pl?if=gb&remap=gb&file=34766&page=33&

  壽隆年號󠄂誤󠄄 道󠄃宗亠→二元淸寧次咸雍次太康次大安各十年次壽隆至 七年止此見於遼史󠄃者也按洪2点泉志引李季典東北諸蕃 樞要云契主󠄃天祐年號壽昌又󠄂引北遼通󠄃書云天祚卽󠄂位 壽昌七年元乾統異字形公󠄃邁歴代紀󠄄年遼道󠄃宗元淸寧咸 雍太康大安壽昌東都事略附錄紹聖三年元壽昌今刋本作 昌壽誤󠄄文獻通󠄃攷𠔏?基抂位四十七年其紀󠄄元自咸煕太康 又󠄂大安皆盡十年然後爲壽昌至七年終󠄁予󠄂家󠄂所󠄃藏遼石 刻󠄂作壽昌者多矣文󠄃字完好灼󠄀然可信且遼人謹于避󠄃諱道󠄃 宗爲聖宗之孫斷無取聖宗諱紀󠄄元之理此遼史󠄃之誤󠄄不可

(明朝体)

[5] 日本では中国正史にない寿昌は忘れられていましたが (実は書籍や金石文近世までに日本国内にも入ってきてはいました。)明治時代に再発見されました。

[220] 遼大憫忠寺碑というのがどれを指すのかわかりませんが、 >>219 で誤りとされているものでしょうか?

[430] >>429 今西竜による寺の縁起の紹介 (李氏朝鮮時代?)。 壽昌二年丙子と壽隆元年が混在。

[147] 日本大正時代の東洋史研究者松󠄃井等 (-) は、 の論文で、

といった事柄から錢大昕の説が正しいと判断しました。 >>146

[127] 中華民国の貨幣 (古銭) 研究者として有名な鄭家相 (郑家相) (-) は、 年号銭である 「寿隆钱」 を最も早く見た研究者とされていますが、 钱大昕の説により壽隆壽昌の誤りとし、 偽造貨幣と判断しました。 >>53

[128] 出典不明。鄭家相には 遼錢考 (辽钱考) という著書があるようなので、 その辺りに書かれているのかもしれません。

[228] 日本の昭和時代初期に朝鮮史の専門家らが執筆した朝鮮史事典 (出版) は、 壽隆, 壽昌, 昌壽, 盛昌を挙げていました。 >>227 明記はされていませんが、書き方よりこれらのうち壽隆を正規の元号名とみなしていたようです。 出典は不明ですが、 紀元編 (>>243) が元ネタでしょうか。

[221] 日本昭和時代弁護士で貨幣 (古銭) 研究者として当時有名だった奥平昌洪 (?-) は、 著書 (序) で、

として、 >>222, >>224, >>225 はみな誤りで、 壽昌だけが正しいとしました。 >>126

[440] 日本昭和時代中期の朝鮮史研究者藤田亮策は、 朝鮮半島の紀年法の全容を説明した論文で、 今西竜論文 (>>118) を引いて、 寿隆が本来寿昌であることに注意を促しています >>7862

[441] 日本昭和時代中期の元号研究者久保常晴は、 高麗史 や銘文等を紹介して、 寿隆寿昌高麗における避諱元号であるとしました。 >>1543 当該書籍は藤田亮策論文に多くを拠っているにも関わらず、 この元号についてはそれにまったく触れていないのは不審ですが、 見落としたものでしょうか。

[43] 中华书局点校本 遼史 は、 「寿隆元年」 に校勘の注釈として

寿隆。钱大昕《养新 录》八称:‘《东北诸蕃纪要》、《北辽通书》、《历代纪年》、 《东都事略》《通考》以及各种石刻均作‘寿昌’,辽人谨于避 讳,道宗断无取圣宗名纪元之理。’钱说是,‘隆’当作‘昌’。 ‘寿昌’,全史只《闰考》一见、今一律未改。

と書いています。 >>53 寿隆は本来寿昌だとする銭大昕の説 (>>88) を紹介しつつも、 本書中寿昌とあるのはただ1箇所、 閏考 だけである (>>137) ために、校訂しないで寿隆のままにするというのです。

[57] 確かに単純な誤記、誤植で済ませられない問題ですので、 遼史 原本編纂時点での原形を明らかにする研究が十分でない以上、 本文校訂は保守的にするのは妥当な判断でしょう。

[119] 中華人民共和国中華書局の点校本と呼ばれているものは、 に発行されました。 中華書局はそれ以前に遼史を出版していました。 21世紀の遼史は、全面的に改訂を加えて、 校勘记にも大幅に手を加えているそうです。 >>120

[316] 中華人民共和国の歴史研究者陈述 (陳述) (-) 遼史の点校本に銭大昕説を注釈したとされており >>41、 それが中華書局本を指すと思われます。 中華書局本は版の編者にも陳述の名がありますが、 版時点からこの注釈はあったということなのでしょう。

[353] 中華人民共和国元号研究者李崇智中国歴代年号考 (出版) は、 現代の元号研究の基礎となる元号一覧として使われていますが、 その修訂本では、

とされています。 >>352 p.176

[216] 中華民国台湾教育部異體字字典 のうち、 Internet Archive に残る最古の民國九十年四月試用五版の 避諱字參考表 (時点) に、

道宗嘗改年壽隆,當時本未避聖宗諱,但以廟諱為年號恐無是理,故又改年壽昌。

とあります。 >>213 本段落執筆時点でこの記述は現行 教育部異體字字典 でも変わっていません。 >>2

[217] 本表は一覧に簡単な注釈を加えただけのもので、 出典も根拠も記載されていません。 避諱系統の先行研究から採ったものでしょうか。

[129] 中華人民共和国では壽隆年号銭とされるものがいくつか発見されています。

[195] これらが真作だとする判断や銭だとする判断がどの程度の妥当性がある (と認識されている) のか、よくわかりません。 一応郭泉学裴元博は古銭業界で名前が知られた人物ではあるようです。

[171] 中華人民共和国の貨幣 (古銭) 収集家として有名な裴元博は、 からの間のある時点で考察を発表しました。 >>53

[196] この説の大きな特徴は、 寿隆寿昌の両方が遼の元号として実在したと主張する点です。 これ以前も寿隆避諱寿昌とした、 とする説はありましたが、 どちらも政府が制定し公的に用いられたと明言するのは、 先行研究と異なる新しい主張です。 本論文は何も引用していませんが、独立に生じたものなのでしょうか (本論文はこれ以外でもほぼ先行研究の引用がないのですが、 それらはすべて独自研究なのか、引用を書いていないのかわかりません)。

[197] 避諱については文中にいくつか事例が示されていますが、 それ以外には先行研究の記載などもなく、 そのような主張が成立するのかはよくわかりません。

[199] 避諱されない根拠として示された人物については、 遼史に,

耶律隆運,本姓韓,名德讓,西南面招討使匡嗣之子也。統和十九年,賜名德昌;二十二年,賜姓耶律;二十八年,復賜名隆運。

とあります。 >>198 つまり

と名前が変遷しています。面白いことに「昌」がここにも登場しています。

[205] 高麗史については、

除《辽史》外,目前已知还有 《高丽史》记有“寿隆”年的史实:“寿隆元年十一月,王昱病, 命其子颙权知国事。”

と書かれていて >>53遼史 以外の寿隆の用例が拾われています。そして寿隆元年が少なくても11月まで続いた根拠に使われています。

[207] ところが 高麗史 にはこのような文はありません。 高麗史高麗国王の即位紀年が基本なので、このような書き方はあまりありません 朝鮮半島の紀年法

[204] 探してみたところ、 遼史高麗伝に

壽隆元年,來貢。十一月,王昱病,命其子顒權知國事。

とありました。 >>206

[208] Google検索でも百度検索でも、 「寿隆元年十一月,王昱病,命其子颙权知国事。」 が含まれるのはこの論文とそこから派生したと思われるページだけです。 遼史の誤引用と考えて間違いなさそうです。

[209] しかしそうだとすると、 遼史 で 「壽隆元年」 が直接掛かっているのは 「來貢」 だけです。 記録から漏れた改元があったにちがいないとする当論文の立場からすると、 元年11月が 「壽隆元年」 に属するとはいえないはずです。

[210] 高麗史 の引用はさておくにしても、 壽隆元年11月と壽昌2年紀年銭からどのように壽昌2年1月改元が断定できるのか、 何度読んでもよくわかりませんでした。 紀年銭が正月の仏事に使われたに違いないから、 その時に改元されたということなのでしょうか。

[34] 寿隆.寿昌《辽道宗的第五个年号》铸币概况_松漠遗珍_新浪博客, 2013-05-29 11:56:26, , https://blog.sina.com.cn/s/blog_c3418ded0101bk0i.html

辽道宗在大安年号用了十年后改年号为寿隆。【寿隆元年1095年】他还是秉承了十年一改元,改元即铸钱,且通宝、元宝双铸的贯制。

寿隆年号在用了一年多以后,因寿隆的隆字,重上了先朝辽圣宗耶律隆绪的隆字,为了避违冲先祖名惠,随改年号为寿昌【1096—1101年】,他还是秉承改元即铸钱,且通宝、元宝双铸的贯制,铸寿昌通宝、元宝。

[39] 辽代续兴元宝图片及价格- 芝麻开门收藏网, 琦敏锋, 2015-12-17 22:36:41, https://www.zmkm8.com/jingpin-1138.html

俄国朋友在文中大段落引用魏特夫和冯家升在《中国社会史-辽》举辽代年号避讳之例:“寿隆”,“寿昌”之变。认为“续”和“绍”均有 “继续”之意,因为避讳,而有意更改年号似更为可能。首先,笔者在前面已经说了“寿隆”,“寿昌”均是契丹语“大寿”的汉译,是同义词,“寿隆”改“寿昌”不是改元。所以,辽史未纪改元。认为“寿隆”改“寿昌”是避讳,是首记其事的汉人钱大昕犯了一个以汉俗判辽俗,以想当然代替调查研究,结果造成判断失误的,历史性过失。关于此事,笔者有博文《辽道宗“寿隆”年号考》详尽论述,再此不在赘叙。总之,“绍兴”与“续兴”并不一样,更不是为避讳而改“绍兴”为“续兴”的。而是十年期限到,必须按祖制改而已。

[35] おそらく裴元博の見解発表以後、 中華人民共和国を中心とする古銭収集界隈ではその 「寿隆2年1月寿昌改称説」 が広く通用しているようです。

[211] 中には寿隆元年12月に改称の詔があったとする説もありますが >>36、 根拠は不明です。

[36] 微博, 泉海一翁, 2021-4-19, https://m.weibo.cn/status/4627622498142002

寿昌贰年——辽朝第八位皇帝道宗耶律洪基寿昌(1096年)铸币。

公元1095年正月,辽道宗改元寿隆,12月,辽道宗“诏明年用‘寿昌’代‘寿隆’为年号”。‘昌’和‘隆’是同义字,二者都有兴盛义;‘昌’是越来越兴盛,‘隆’是不断的兴盛;以‘昌’替‘隆’,年号还是“寿隆”之意,所以不算建元。而“寿昌二年”钱则是“寿隆元年”十二月后年号改为“寿昌”的不容置疑的实证。

[37] 臆造类之背阴刻文钱 ——鎏金宫钱堪作证(十二) - 知乎, 辽金宫藏 草撰, 楞严魔造, 辛丑年 子月望, 发布于 2022-01-04 12:18, https://zhuanlan.zhihu.com/p/453018310

【隆】绪嫌讳,汉字年号寿隆,使用一年后改称寿昌,故而,寿隆唯元年,寿昌二年继,寿昌七年终。

6.寿隆元宝背天祚、六年正月

[38] 寿隆は元年で終わったことを根拠に、寿隆6年付け寿隆元宝を贋作認定。

[48] 维基文库遼史壽隆2年の部分には、

二年二年起「壽隆」改「壽昌」,爲「壽昌二年」,下同。特此說明。春正月甲午,

とあります。 >>47 第2年から元号名(だけ)が寿昌に改められたと注釈されています。

[49] 维基文库のこのページはから存在していますが、 この注釈はに書き加えられたものです >>124。 しかし編集理由の説明はなく、 何らかの出典があったのか、まったくの独自研究なのか、不明です。

[135] 同内容の注釈は、他の巻にも挿入されています。

[42] 中華人民共和国の歴史研究者邱靖嘉 (-) は、 先行研究を整理した上で、 従来未解決のままとなっていた壽昌から壽隆への変化の理由を考察しました。 >>41

[439] 壽昌から壽隆への変化の理由は、これまで未解決課題として指摘されることはあっても >>7862, >>313、 十分な考察がなされてきませんでした。
[376] の時代の避諱の事例が今まで埋もれていたのは驚きですが、 明確な物証を提示して避諱の存在を鮮やかに実証しています。 それに比べると遼史編纂過程の推測は、 裏付けとなる現存史料がほとんどなく、 致し方ないこととはいえやや不安が残ります。 閏考壽昌が残ったのに朔考壽隆になっていることには触れられていません。
[377] 近年ウェブ上で流布されている第2年改元説は、 知ってか知らずか完全にスルーされています。 (改元実施の根拠がすべて推測なのと、 物証とされるのが真贋のよくわからない貨幣の文字だけ (紀年ですらない) というので、知っていても取り扱いが難しそうな説です。)

[378] 中文维基百科寿昌を立項し、 邱靖嘉の論文を引いて各種避諱を説明しています。 >>1 (が避諱の説明は少しわかりにくい。)

[379] 中文の他に日本語, 한국어, Bân-lâm-gú, 粵語Wikipedia壽昌に相当するものを立項しています。 いずれも避諱遼史の説明はありません。

[443] 大韓民国の研究者の元号紀年銘についての論文は、 注釈で寿昌に触れています。 ただの避諱では説明できず誤りと考えられていると述べていますが、 特に先行研究を引くわけでもなく後味のすっきりしない書きぶりです。 高麗時代の金石銘をいくつか挙げて、寿昌ばかりであることを示しています。 >>442

メモ