元龢

元和

元和 (日本)

元咊, 元龢

[9] 元号名異体字により元咊, 元龢と表記することがままあります。

亢和

[43] 元号名亢和のように読める板碑が1例あります。

日時事例

[11] >>10 の写真によると、磨滅によりやや不明瞭な箇所がありながらも、 確かに「亢和」と彫られているように見えます。 第1画は垂直に近い。

[48] 元和の異表記、癖字ないし誤字のようにも思われます。 ところが元和は10年で寛永改元されています。 10年もの延長年号は異常です。

[49] そこで私年号とする説があります >>10

[47] この板碑群はある時期に近隣から集めたそうで、いろいろな時代のものが混在しています。

[40] >>39 は元和10年の題目板碑。これの1文字目は明確にのような2画の書き方がと明らかに違う。 ただ1角目が垂直のに近いのはこちらも同じ。

[41] 久保常晴宮崎県の題目板碑という論文定善寺の板碑も紹介していますけど >>42慶長までが対象で、当板碑に相当すると思われるものは掲載されていません。 定善寺板碑群は実見していなかったみたいです。 残念なニアミスですね。
[10] 定善寺(じょうぜんじ)題目板碑(北壇), , https://kawai24.sakura.ne.jp/miyazaki-hyuga-jyuzenji-24.html

亢和(?)二十年という紀年銘がある題目板碑で、偈頌(げじゅ)は刻まれていない。

刻銘:「亢和(?)二十年六月二 、孝子」

年号は元和と思ったが、元和は十年で改元されている。本板碑群の造立された室町後期~江戸前期に

二十年まで続く年号は限られており、そのどれもにも該当しない。よって、私年号と思われる。


[50] のように書く事例があるのかどうかといえば、微妙なところです。

[12] くずし字解読辞典 普及版, p.45 の 3050 (元)、 3052 (充) は第1画が点の字形ながらも、写真の字形と似ています。 第2画と第3画はつながっている点は違いますが。

[51] ということはやはり写真の字形はと読み得るのではないか。

[17] 南方文化 = Tenri Bulletin of South Asian Studies (13), 天理南方文化研究会, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/7947642/1/76 (要登録)

行書「元和八年」。「元」は >>12 3050 に近い字形、 第2画と第3画の連なりは「フ」に近いという点は少し違う。 OCR は 「亢」と誤読。

[13] 日本刀研究便覧, 内田疎天, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1235416/1/289 (要登録)

刀銘の模写、「元和三年二月日」。「元」の第1画が点、OCR は「亢」と誤読。

[14] 張州雑志 第7巻, 内藤東甫, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9537303/1/267 (要登録)

手書き楷書「元和八 戌年」。「元」の第1画は点、第2画と第3画が「フ」と連なる点は件の字形とは違う。 OCR は 「亢」と誤読。

[15] 日本古典全集 古代數學集(上), 正宗敦夫, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1912628/1/22 (要登録)

手書きやや崩れた楷書「元和八年初春」。「元」は >>14 と似た字形、 OCR は 「亢」と誤読。

[16] 図説福島県史, 福島県図書教材, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/9536550/1/117 (要登録)

左ページ中央写真、手書き楷書「元和七年」。「元」は >>14 に近いがやや第1画が垂直に近い。 OCR は 「亢」と誤読。


[52] 元和20年の延長年号の用例は少しだけあります。

[18] 12_omote.pdf, , https://nagoyaengei.co.jp/osusume/201612/12_omote.pdf

「元和二十」と翻刻。原文写真を見るとたしかにそう書かれているように見える。

他の行は年月日を「元和九十卄四」 (元和9年10月24日) のように略記している。 なら「元和二十」は元和2年10月の可能性がある。

[19] 白桃 : 歌集, 斎藤茂吉, , , https://dl.ndl.go.jp/pid/1128037/1/62

[20] 時制の変調 - 天野 翔のうた日記, https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/2019/03/14/000901

元和二十年十月二日にみまかりし慈眼大師は長生(ながいき)をせり

[21] 斎藤茂吉の歌。 慈眼大師天海寛永20(1643)年10月2日没。 寛永に改元。

[22] 当時元和20年と書かれたとされるものは見当たらない。 近世改元後10年も続く延長年号があったとは考えにくい。

[53] このように前後の元号を取り違える事例は他にもままある (すごく多い訳では無い)。

元和13年

日時事例

[75] 元和は10年までで、3年の延長年号に当たります。

[70] この墓は、 昭和時代にはあったようで >>63平成時代にも言及があり >>62、 現在も元の場所に残っているのではないかと思われますが、 ほとんど情報がなく現況は不明です。

[71] 立場は立ったまま大石五郎右衛門が果てた地といわれています。 >>63 地元で通用する通称地名だけなのか、小字でもあるのかは不明です。 どこなのかよくわかりません。

[72] この墓は死後に地元民が建てたものとされます。 >>337 出典は不明です。そのような伝承があるのでしょうか。 いつ建てられたのかも不明です。

[60] 実際の殺害は天正13年のことでした。 >>337 出典は不明です。

[61] >>337偽年号の1つで、支配権力 (柿島の豪族朝倉氏) を憚って偽って記したものとしています。 偽年号, 縫武

[66] 朝倉氏が柿島に移ったのは元亀年間から天正元年と考えられます。 また、大石五郎右衛門の命日は8月7日と伝承されています。 >>63

[69] 柿島に移ってきた朝倉景高は天正6年に >>63 /27朝倉在重は元和元年に死去しました >>63 /27, >>67

[73] 天正元和に容易に間違えそうな字面や音には見えません。 同じ頃の元号が取り違えられる事例はままありますので、 「天正13年」が何らかの誤りで「元和13年」に変わってしまうことは、 元和時代以後ならいつでもありそうとはいえますが、 引っ掛かりはあります。

[74] 「天正」を「元和」に意図的に変更することがあるか、はそれ以上に疑問です。 隠蔽工作というにも不自然です。

[62] 七騎のつぶやき:講演会(vol.235), 2012年03月18日, https://abeshichiki.eshizuoka.jp/e858733.html

去る3月11日、静岡市議会の静友クラブ(代表:白鳥実先生)のお招きで講演(タイトル「郷土の歴史と地域の振興」)を行いました。200名ほどの方がおみえになり、安倍奥や奥藁科の地域振興活動の報告などを中心に、お話をすすめました。

〇 伝説にみる安倍七騎

・ 代々アワビを祀る朝倉家(柿島村 / 葵区柿島)

・ 謎めいた刻石「元和十三天」~ 大石五郎右衛門のお墓 ~(柿島村支村上落合 / 葵区上落合)

メモ

[8] 改元詔書, https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i04/i04_02478_0051/index.html

[1] 元和 (日本) - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%92%8C_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

賢和

日時事例

  • [27] 日本国神奈川県川崎市鹿島田浄蓮寺 慈天清清霊位 墓碑賢和八正月十六日>>26 p.一七二 32
    • [29] 白黒写真と拓本が >>26 p.一八󠄃二 挿図21 にあります。写真は文字判読困難。 拓本は文字がほぼ読み取れますが、 「賢」の字形の細部までは不明瞭です。

[28] 日本私年号の研究 はこれを元和同音異字年号とし、 に比定しています。 出典は 「実見、典籍なし」 とされており、 久保常晴が再発見したもののようです。

[30] この銘文のある墓碑は、 光背型墓碑で、 南関東では江戸時代初期の形態です。 また、 夫婦の名があって、 一方の紀年慶長です。 そこで元和の異表記と判断されました。 >>26 p.一八󠄃三

[35] 穏当な推測とは思われつつも、干支のような年次を確定させ得る情報に欠ける点には注意が必要です。

[31] 日本私年号の研究 ではこれは一字異音年号とも考えられるとしつつも 「一応同音異字年号に分類されています。 >>26 p.一八󠄃三 元和と同じく「げんわ」と発音すると推測しつつも、 「けんわ」と発音する可能性も、ということでしょうか。

[36] 日本私年号の研究 はこのような異表記の発生を、 武家諸法度 を強行し除封、減封で諸大名に威圧を加えたためだと説明しています。 改元物語 に見える江戸時代当時の元号の揶揄諸例を紹介して、 大名や切支丹への弾圧や庶民生活の実情から生じた消極的反抗ではないかと推測し、 それを 「賢和」 発生の土壌だとしています。 >>34

[37] ただ、現在まで賢和の用例は他に発見されておらず、 これがどの程度広範囲に用いられたかは不明です。 政治的、風刺的な異表記だとすると、それを敢えて墓碑に彫るものかは疑問があります。 被葬者がどのような立場の人物かもわかりませんし、 現状この1例からこれだけ推測を飛躍させるのも慎重にしておいたほうが良いとも思われます。

[38] 日本私年号の研究 は社会の歪みへの密かな抵抗が中世私年号をうみ、 近世にまでその風潮が残ったものと位置づけたために、 このように解釈したわけです。 私年号, 中世私年号, 大道

[56] その後の研究でこれを扱ったものは見当たらず、 文化財などの指定もない模様で、 現状は不明です。

[57] 私年号の表などにも掲載されていません。


[54] しかし8年にもなってに書き間違えるというのは無理があろうかとも思われますので、 何らかの意図を推察したくなるのはそうです。

[55] 略字𫯝があります。 すると原稿に上元のように書かれているように見える何かがあって、 略字くずし字だと誤認してになおしてしまったとか、あり得ますかね?

[58] 干支年がないのは悩ましいところで、 他の過去帳などの資料で確認できるといいのですが、 この寺は戦争米軍に焼かれたそうで、 古い資料は残っていないのかもしれません。

メモ