得德

得德

[9] 19世紀後半の越南仏国清国の関係する戦争 (清仏戦争等) で大混乱でした。 その中でも特に (日本明治16年) は、 嗣徳帝が死去、 育徳帝が即位するも3日で廃位、 協和帝が即位するも数ヶ月で廃位、 建福帝が即位したのにその翌年には死去、 と合計4人の皇帝が次々に交替するほどでした。

[19] 阮朝は原則、即位の翌年始の改元をしています。 ところがは即位の同年に2人も廃帝が出ているため、 元号についての情報は混乱しています。 本項の主な対象は、この時期にあったとされる次の6つの元号です。

[138] ネタバレ: 本項の検討による現時点での結論は、


[12] 日本で出版された元号専門の学術書に収録された、 越南の元号の研究者である越南人の協力により作成されたという年表では、

となっています。 >>11

[32] 育徳帝について、 日本語, 中文Wikipedia は、 在位わずか3日で元号も定められず、 居所に由来してこう呼ばれるのだと説明しています。 >>1, >>8, >>33

[17] 協和について、 日本語, 中文, 韓国語Wikipedia に記事があって、 いずれもから適用の予定が未施行のままに終わったと説明しています。 >>5, >>6, >>16

[20] ここまでをまとめると、

ということになります。一応これを現行説、最新の学説とみておきます。

[35] 阮朝の公式な史書である國朝史撮要の目録に、

翼尊英皇帝 年十九嗣位,戊申,嗣德元年,當清道光二十八年、降生一千八百四十八年。在位三十六年,壽五十五歲。

恭惠皇帝 年三十二,奉遺詔入諒陰,纔三日被廢。成泰年間追尊。

廢帝 朗國公,年三十七,以嗣君廢,得立,擬以來年爲協和元年。嗣位纔四月十日被弑,尚在嗣德三十六年紀內。

簡尊毅皇帝 年十五嗣位,甲申,建福元年,當清光緒十年、降生一千八百八十四年。在位一年,壽十六歲。

とあります。 >>34 國朝史撮要成立とされますが、 この部分には同慶帝まで書いて、

起自壬戌元年世祖即皇帝位,至戊子同慶三年,共八十七年。若計自戊戌世祖攝政,至同慶戊子三年,共三百三十一年。

経過年数表示がありますから、 に既に書かれていたものでしょうか。

[36] つまり現行説は事件から5年後の越南国の公式見解とほぼ同じ (違いは育徳帝という通称くらい) ということになります。

[1] 育徳帝 - Wikipedia (, ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%B2%E5%BE%B3%E5%B8%9D

阮朝の皇帝は元号で呼ばれるが、元号も定められなかったため、生前起居していた宮中の育徳堂にちなんで育徳帝と称されている。

[8] 阮朝 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AE%E6%9C%9D#cite_note-3

「育徳」は元号ではなく、居所「育徳堂」に由来する。在位3日で廃されたため元号を定められず、改名もできなかった。


[37] 明治時代日本陸軍が出版した 仏安関係始末 は、 清仏戦争前後の出来事を詳細に記述したものです。 の出版で、 引田利章 (-) の序文にはとあります。 編纂の中心となった引田利章日本陸軍所属の越南研究者で、 これ以前にも越南史等の著作があります。

[38] 本書によると、 安南 (越南) では嗣德王の死後、 瑞國公󠄃が即位、 元を改めて得德といいました。 しかし廃されて、在位はわずかに2日でした。 続いて朗國公󠄃が即位して協和王と称し、 協和は紀元の号ともなりました。 >>7 /106

[40] 瑞國公󠄃 = 育徳帝の在位は現行説によれば3日です。 2日とされているのは、数え方の違いでしょうか。

[41] 育徳帝協和帝もどちらも改元したと書かれていますが、 協和帝はそれが王の称号でもあるとされているのに対し、 育徳帝には王の称号が書かれていません。 この違いはどういうことでしょうか。 入手できた情報の違いが反映されているのでしょうか。 それともただの文章表現上の偶然の違いに過ぎないのでしょうか。

[39] 本書には協和日付文書が2つ収録されています。

[44] 1つは、 佛蘭西共和政府派遣東京理事官ハルマン (François-Jules Harmand (-) ) が安南政府に提示した要求書 (の和訳) の末尾の日付で、 西暦協和が併記されています。

日時事例

[45] もう1つは、 に締結された安南佛蘭西兩國條約 (の和訳) の署名日付で、 大安南國側が協和大佛蘭西共和政府側が西歷です。

日時事例

[49] 更には、 の記事本文中に、

實ニ千八󠄂百八󠄂十三年十一月二十八󠄂日安南協和二年 十月二十九日ナリ

西暦協和を併記した箇所があります。 >>50 /29

[51] その少し後には

明日實ニ安南十一月一日即チ 西曆十一月三十日

とあって、「安南」「西曆」を月日の接頭辞として使った例があります。 >>50 /30

[52] その直後に

十月二十九日 月二十八󠄂日ノ夜

割注の形で併記した例もあります。 >>50 /31

[53] そしてこの後10月30日 () に協和帝退位し次の建福帝即位するのですが、 建福帝を迎えて擁立して建󠄁福改元した、 と記載されています。 >>50 /33

[54] 以上本書の記述をまとめると、

となります。

[131] 事件からわずか5年後に出版された書籍であり、 阮朝自身による 国朝史撮要大南寔録 とは異なる独自の情報源(?)の第三者による編集で、 和訳とはいえ当時の外交文書・条約の全文を収録しているのですから、 有力説としたいところです。 しかし現行説と大きく異なりますし、 自己矛盾も起こしています。 果たしてこの説は信じていいものでしょうか。

[60]改元について、素直に解釈すれば即位と同時に同年 (= ) を新元号に改めたという意味になります。 強いて言えば、 元号を定めて次年 (= ) 始から適用することとしたという意味に解せないこともありません。 元年がいつなのかは明記されていないからで、 同様の例は他書にも無いでもありません。 それならば現行説と同等となります。 本書には2つも協和元年文書が収録されていて、 それがのものであることは動かせませんから、 やはり即位同時改元が本書著者の解釈だったとするのが妥当といえます。 すると阮朝の通例とは異なる方式の改元が行われたと主張していることになります。

[82] 改元の情報や協和の3例目は地の文なので、 その情報源を明らかにするのは困難です。 それでは2つの協和文書の情報源はどこなのでしょうか。 和文正文とは到底考えられませんが、 和文の翻訳元は仏文漢文、 あるいはその他のどの言語の版だったのでしょうか。 本書掲載の和訳文はどれだけ原文に忠実なのでしょうか。

[83] 2国間条約では両国の日付を併記することがよくあります。 外交文書の日時 しかし要求書はどうでしょうか。 これは2国の同意文書ではなく仏国から安南国への通告なので、 仏国日付が書かれるのが自然で、 併記されているのは違和感があります。 このまま信用するには不安が残りますが、 この文書を収録した他の資料が見当たらないので検証ができません。 (仏国や越南国のどこかに原文は残っているのでしょうか。) 条約については後ほど他の資料も見ていきましょう。


[132] 育徳帝元号とされる得徳について、 現在知られている初出は日本仏安関係始末です。 それ以前に越南清国仏国等の資料に出現する可能性はありますが、 未発見です。

[133] 仏安関係始末 に由来するのか他の情報源によるのか定かではありませんが、 その後しばらく日本の文献に皇帝の称号としての得徳帝と、 それによって暗示的に元号として示された得徳が出現します。

[62] 日本で出版された書籍は、 越南の歴代皇帝の称号は諸書いずれも元号によるものを載せているとして、

などと列挙していました。 >>61

[64] 日本で出版された書籍は、 越南の歴代皇帝一世一元なので元号を称号とするとして、

などと列挙していました。 >>63

[66] 日本で出版された書籍は、 越南の歴代皇帝として、

などと列挙していました。 >>63

[68] 日本で出版された書籍は、 越南の歴代皇帝として、

などと列挙していました。 >>67

[70] 日本育徳帝を「育徳王」と呼ぶ書籍は以後 >>144, >>69, >>71、 「育徳帝」と呼ぶ書籍は以後 >>72, >>73, >>74, >>77 /33, >>146 続々と出版され、現在に続く模様です。

[75] ただしこれらの文献は育徳元号とは明記していません。 他の元号を称号する皇帝と同様に著者元号と認識していた可能性はありますが、 その見解を明記したものは昭和時代初期にはまだ見つけられません。

[76] 「育徳」と呼ぶ文献に「得德」への言及はなく、 得德から育徳への交替がどのような經緯で発生したものかは定かではありません。 何らかの誤りとの認識で改められたのかもしれませんし、 たまたま別系統の情報が入ってきて置き換わったにすぎないのかもしれません。

[145] 育徳は居所育徳堂によるとされ由来が明らかですが、 得德の由来は不明です。 育徳から派生したものでしょうか、それとも独立して発生したものでしょうか。 「育」と「得」は、 日本語音でも越南語音でも、 まったく異なるとまでは言えませんが、 容易に混同され得ると言えるほどには似ていません。 文字もそれほど似ていません。 強いて言えば「育」をかなり崩した字形と「得」の旁を崩した字形なら似た形になることもありそうですが、 くずし字の辞書やデータベースで探してみても、 一般的な字形ではあまり混同しなさそうです。

[78] 日本で発行された越南史の書籍には、 皇帝ごとの章に翌年の改元を定めたとの記述があって、 協和帝建福帝の章にも、 即位時に翌年のが協和元年や建󠄁福元年と定められたと書かれています。 >>77 /233, >>77 /234 y~1248 y~569

[134] 協和元年が実施されず建福元年となったことは丁寧に読んでいけばわかりますが、 その旨の注記が何もないのは少し不親切と思わないこともありません。

[79] ところが同じ書籍の別の章には、

協和元年七月二 十三日卽ち西曆一八󠄂八󠄂三年八󠄂月二十五日

仏国との仮条約が調印されたとあります。 >>77 /263 同じ本なのにこちらの「協和元年」は1年ずれているのです。 y~3821 これは協和元年の条約を掲載した、改元の説明とは別系統の資料から日付をそのまま引いたために不整合が発生したのかもしれません。

[80] 育徳帝は独立した章がなく、前の嗣德帝の章の末尾に記述があります。 元号の記述はありません。 >>77 /232 本書の系図等には「育徳」の称号も掲載されていますが >>77 /32, >>77 /185、 本文や帝王一覧表には記載がなく >>77 /232, >>77 /294、 一貫していません。

[81] なお帝王一覧表は

のように書いています。 >>77 /294 建福帝が重複しているのは即位年が前帝の元号のためなのですが、 このような書き方は表中、建福帝と次の咸宜帝と次の同慶帝だけで、 その前後の時代は新元号だけしか書いていません。 それはこの時代が特殊だからゆえかもしれませんが、 「協和元年」 の扱いはどうにもおかしいです。 嗣德が一旦中断したようにも見えますが、 西暦年が無いのは謎です。


[85] 条約は、 アルマン条約, ハルマン条約, フエ条約, ユエ条約, 第一次順化条約, 癸未和约, 仏安同盟媾和条約といったような名称で知られています。

[135] 仏安関係始末にはこの条約とされる和文が収録されていて、 協和元年と西暦年が併記されていました (>>46)。

[86] 日本で発行された条約集に収録された条約文 (の和訳) では、 両国の日付が併記されていました。

日時事例

[90] 仏安関係始末所収のものとは越南側のが違いますが、 西暦と合うのはこちらです。 仏安関係始末西暦につられて誤ったものと思われます。

[91] 本書の条約本文 (の和訳) の出典は引田利章佛安關係とされています。 >>84 /177, >>84 /180 そのような書物は国立国会図書館に見当たらないのですが、 引田利章が編集した仏安関係始末を指している可能性が高く、 そうでないとしても同じ出所ということになります。 しかし日付が訂正されているのは、 国立国会図書館所蔵の仏安関係始末とは異なるものから引いたのか、 誤りに気づいて独自に訂正したのか、どちらでしょうか。

[92] 両書は日付の他に署名も異なります。 仏安関係始末安南4人、仏蘭西6人の10人の名前があるのに対して、 本書では安南3人、仏蘭西2人の5人しかありません。 ちょうど頁末に当たるのですが、編集時に落としてしまったのでしょうか。 削られている部分には参判、参坐とあるので、 主たる署名調印者ではないということで意図的に削ったのかもしれません。 その他細部に違いがあるようですが、詳しくは未調査です。

[93] 両書に掲載された和訳文はどのような経緯で日本にもたらされ日本語に訳されたのでしょうか。 原文はどの言語だったのでしょうか。 安南国の署名者を見ると、 越南人らしき人名のうち、 2人は漢字表記、 2人 (うち1人は参判) は片假名表記です。 ということは翻訳前の原文は漢字表記でなく、 日本側で原漢字表記が判明した2人だけを漢字に訳した可能性があります。 もしこの推測が正しいなら、日付に「協和元年」とあるのも、 果たして原文に書かれていたものなのか、疑問を抱かずにはいられません。

[95] Wikipedia には Treaty of Huế の仏語原文とされるものと、 英訳が掲載されています。 仏語版は仏国パリ市で発行された書籍が出典とされています。 >>94 英語版の出典は明記されていませんが、 仏語版と英語版はよく似ているので、 仏語版を翻訳したものが英語版と考えてよさそうです。

[96] 引田利章版和訳には第28条まであるのに対し、 仏語版・英語版には第27条までしかありません。 末尾の附則的部分が仏語版では条に属さないのに、 和訳では条数が割り振られています。

[97] 仏語版の最後は

Fait à Hué, en la légation de France, le 25e jour du mois d'août 1883 (23e jour du 7e mois annamite).

となっていて、英語版の最後は

Done at Huế, in the French Legation, on 25 August 1883 (the 23rd day of the 7th Annamese month).

となっています。 >>94 西暦グレゴリオ暦日付に、安南月日が併記されています (が安南は書かれていません)。 (仏語版の原書と比較すると、 eWikipedia が e としている点を除き、同文です。)

[98] 仏語版・英語版には署名者がありません。 調印された条約に署名者がいないとは考えられませんから、 実際には署名があるのに掲載上は省かれてしまったと考えるのが妥当です。 (他の条約・媒体でもままあることです。) Wikipedia だけでなくその出典の原書の時点で署名者は入っていません >>100 p.415

[99] 仏語版・英語版は日付と署名の表記が欧米風で調印地が Huế (順化) 仏国公使館と明記されていますが、 和訳は東洋風で調印地の記載もありません。

[102] 日本で出版された書籍には、 この条約の仏語版と日本語版が収録されています。

[103] 仏語版は、 ほぼ Wikipedia 所収仏語版と同じように見えますが (要検証)、 こちらには第28条があります。 >>101 p.16

[104] 仏語版の末尾は

Fait à Hué, en la légation de France, le 25e jour du mois d'août 1883 (23e jour du 7e mois annamite).

で、仏国の書籍のもの >>100と同文です。 >>101 p.16 やはり署名はありません。 (同書所収の他の条約にはある >>101 p.18 のですが。)

[105] 和訳は引田利章版と異なるところの多い独自版です。

[107] 和訳にも第28条があります。 >>101 p.二七

[106] 和訳の末尾には、

一八󠄂八󠄂三年八󠄂月二十五日順化󠄃府公󠄃使館ニ於テ調印ス

あるまん

鄭󠄁丁德

阮仲合

ひん、けん、とん

とあります。 >>101 p.二七 この翻訳では地名が明記されており、 日付西暦グレゴリオ暦のものだけになっています。 (本書所収の他の条約でも併記の日付は訳していません。)

[108] 不思議なことに本書の和訳には本書所収仏語版にない4人分の署名があります。 国名も肩書もない人名が4つ並んでいるのも謎です。 引田利章版と比較すると、 「あるまん」は仏国側筆頭の「ハルマン」で、 漢字の2人は安南国側の第2位、第3位です。 「ひん、けん、とん」は安南国の参判の 「ヒユ仮名ンヒユ□□汚損? 読めず」 と同一人物でしょうか。 人数が合わず、安南国の筆頭 (特命全件弁理大臣商船院大臣) が欠けているのはおかしいですね。 この署名リストはどこから出てきたものなのでしょうか。

[110] 维基文库には第一次顺化条约汉文原文とされるものがあります。 出典は

《清光绪朝中法交涉史料》第二〇五,廣西巡撫倪文蔚奏報法越已訂和約摺(光緒九年九月初九日到,光緒九年八月二十四日發)

とされています。 >>109

[111] この维基文库ページには

大南嗣德三十六年七月二十三日

1883年8月25日

と書かれています >>109。これは维基文库の編集者の理解を表したものと考えられますが、 独自に決定したものか、 清光绪朝中法交涉史料 ないし他の資料に基づいたものかはわかりません。

[112] この漢文版は第27条まであって、第28条はありません。 >>109

[113] この漢文版の末尾には

癸未(嗣德)三十六年七月二十三日

とあって、署名はありません。 >>109 この日付を信じていいなら、「漢文原文」には越南側の日付だけで、 仏国側の西暦グレゴリオ暦日付は無かったことになります。 (そんなことはあるのでしょうか?)

[114] この頁には更に

条约原文为《大南实录》所不载,仅在《清光绪朝中法交涉史料》,廣西巡撫倪文蔚奏報法越已訂和約摺中的附录中刊载了条约的汉文文本,因涉及中越宗藩关系,清朝方便在条约文本中已将不合规制的内容做了改动,如“大南皇帝”改为“大南国王”,未书越南嗣德年号,仅书“癸未”干支,第二十七款涉及货币单位的为喃字,无法输入,特此注明。

と書かれています。 >>109 これは原文・原書の記述ではなく、 维基文库 の編集者が書いたものです。

[115] それによると当条約は 大南实录 には掲載されていません。 清光绪朝中法交涉史料 には清国側に届けられた漢文版が収録されていますが、 越南の関係のための改変が加わっているのだといいます。 当時の越南は国内向けには皇帝を戴き元号を建てた独立国でしたが、 清国との関係では冊封され正朔を奉じる藩国の王でした。 そのため皇帝を称さず元号を書かなかったのだというのです。

[136] 大南寔録仏国との関係に作為性が見られるとのことなので、 意図的に省かれたのでしょうか。

[116] 维基文库 所収条約本文には

大南國王(皇帝)該治國中

のような箇所があります。ということはこの括弧は、原資料に 「大南國王」 とあるものの実は 「大南皇帝」 だということなのでしょう。この括弧の注釈は、 维基文库 編集者によるものなのでしょうか。それとも転載元の書籍にあるものなのでしょうか。 真の原本との違いをどのように確認したのでしょうか。 修正前後の差分も記録にあるのでしょうか。

[117] 括弧が真の原文との差異を表しているなら、日付

癸未(嗣德)三十六年七月二十三日

はどのような意味でしょうか。清国版が

癸未三十六年七月二十三日

越南原本が

嗣德三十六年七月二十三日

でしょうか。 「癸未三十六年」 のような表記はどうにも不自然感が拭い去れません。 「癸未」 ではなく 「癸未三十六年」 とした理由はあるのでしょうか。 「三十六年」 を残したのは、 独自の元号は許されなくても諸侯王等即位紀年は許されるということなのでしょうか。

[118] この漢文原文とされるものでは、 越南は 「大南國」 と称しています。 それに対し、 和訳版は 「大安南國」 「安南國」 と書いていました。 もし越南版の真の原本でも「大南國」表記なのだとすると、 和訳版は越南を 「Annam」 と呼ぶ仏語版の影響下ということになります。

[125] なお和訳版は「安南國王」と書いています。 仏語版も「Roi d'Annam」 (安南國王) と書いています。 どちらも皇帝ではありません。
[137] 本条約に限らず当時の日本では越南安南と呼んでいました。 阮朝越南大南と自称していましたが、 歴史的には長く安南とも称し、支那日本では安南と知られていたようです。 仏国安南と呼ぶのもそうした経緯によるものでしょうか。 原語がどうであれ和訳がこの国を安南と書いておかしいことはありませんが、 漢文からの和訳なら、もし原語が「大南」「越南」ならそのまま書きそうなものです。

[119] 以上まとめると次のようになります。

[126] 従って本条約の和訳を根拠に「協和元年」が越南で実用されたと主張することは躊躇されます。


[150] 張璜が編集した 欧亜紀元合表 には、

とあります。 >>149

[151] 本書は建福帝は即位翌年の改元としながら、 育徳帝協和帝は即位当年の改元とするのが特徴です。 そして育徳帝協和帝はそれぞれ2種類の表記を示していて、 それぞれ第1のものが現在知られている皇帝の称号と一致します。

[152] それぞれの2つの表記は、越南語日本語では異なる漢字音ですが、 北京語広東語では比較的近い音になっているようで、 漢人による伝達過程で発生した異表記かもしれません。

[153] 元号としての育徳は本書が現在知られている最古の用例です。

[155] 日本で出版された書籍には、

とあります。 >>154

[161] 本書では育徳帝が即位と同時に改元したように書かれていて、 建福帝もそのように読めますが、 協和帝には改元の記述がなぜかありません。 育徳帝元号と王号を欲徳、 協和帝の王号を合和とだけ書いていて、 欧亜紀元合表 のいう「一作」の異説が単独で日本にも流通していたことがわかります。

[175] 中華人民共和国で出版されたある書籍は、 初版が、 その執筆がとされますが、 7月に朗国公が即位して、 年号合和と名付けたとしています。 >>174 出典は書かれていませんが、 当時中華民国または中華人民共和国で流通していた情報に基づくと思われます。

[170] 日本で出版された書籍の漢文による越南の略史には、 、一説欲德帝が即位し、 同年に協 (或作合) 和帝が即位したとあります。 >>169 この文書は阮朝初代まで元号が記述されていますが、 その後は一世一元のためか記述していません。 著者がこれらの皇帝名を元号とみなしていたかはわかりません。

[171] なおこの文章は清の元号西暦を併記する形を取っていて、 例外的に明治を併記した箇所もあるものなので、 清国で流通した資料に基づくのかもしれません。

[173] この他近代日本の文献には欲德王、欲德帝、合和王、合和帝がたまに出現します。 の書籍には、 協和帝の没後に弟の合和帝が即位したと書かれています >>172


[143] 協和帝の即位年を元年とする協和 (y~3821) は、その後も20世紀、21世紀の歴史系の書籍等に出現しています。

[148] 日本京都大学が編集した歴史辞典では、 協和とあります。 >>147 y~3821 系図に育徳帝という称号はありますが、育徳帝時代の元号はありません。

[18] 越南語Wikipedia越南の元号一覧表には、

Tự Đức嗣德1848–1883Nguyễn Dực Tông
(同上)(同上)(同上)Nguyễn Cung Tông
Hiệp Hòa協和1883–1883Nguyễn Phúc Hồng Dật
Kiến Phúc建福1883–1884Nguyễn Giản Tông
Hàm Nghi咸宜1885–1888Nguyễn Phúc Ưng Lịch

とあります。 >>16 育徳帝嗣德になっていますが、 協和帝嗣德でなく協和になっています。 協和になっています (元年だとすれば y~3821)。 その次の建福もなぜか開始がになっています (元年だとすると y~3833)。 元号の期間と在位期間を混同したものでしょうか。

[28] 中華民国台湾の事典サイト記事には、年号

とあります。 >>27 育德が括弧付きになっていますが、その意味は説明されていません。 国語表記も欠けています。 協和になっています (元年だとすれば y~3821)。 建福鹹宜はそれぞれ1年ずつ早くなっています。 元号の期間と在位期間を混同したものでしょうか。

[29] なお簡体字で、 鹹宜は過剰に繁体字変換したものです。

[31] 同サイト別記事に

次年(1883年,嗣德三十六年、協和元年、建福元年)占領順安港,迫使阮朝簽訂《順化條約》,承認越南為法國保護國。

とあります。 >>30 この協和建福>>28 の表と同じ数え方です。 y~3821

[26] 中華人民共和国香港特別行政区で運営されていると思われるウェブサイトの記事には、

嗣德三十五年(清光緒八年,1882年),法國再次出兵,攻打河內。

阮協和元年(清光緒九年,1883年),法軍佔領順安港,迫使阮朝簽訂《順化條約》,承認越南為法國保護國。

又於阮協和二年(清光緒十年,1884年)控制整個越南,歸入法國在中南半島的殖民地之內,為此法國與越南的宗主國清朝爆發了清法戰爭(1883年至1885年);

とあります。 >>25 協和に始まるだけでなく、 その翌年まで協和2年としています。 y~3821


[177] 出版以来越南の研究者がよく参照している Niên biểu Việt Nam (年表越南) は、 Dục Đức (育徳) と Hiệp Hòa (協和) を元号としています。 >>176 2.

[3] 中華民国台湾論文にまとめられた一覧表は、 日本の書籍 角川世界史辞典 を元に作成されたと書かれていますが、

としています。 >>402 平成時代後期の日本の書籍 日本年号史大事典 の一覧表もこれを踏襲しています。 >>185

[2] 日本ブログ記事は、 越南の元号一覧には必ず育徳協和があると述べています。 >>507 具体的にどこに掲載された表を指しているのか明らかにされていませんが、 そのような一覧が日本ではいくつも流通していたということなのでしょう。 ブログ著者はこれらの元号が実用されていないと推測しています。

[507] 使われなかった?年号: 年号迷路, 2005年5月19日 (木), http://gaowei.cocolog-nifty.com/nengo/2005/05/post_6f2d.html

嗣徳36年(1883)7月嗣徳帝が死ぬと、養子(実は甥)の育徳帝が即位しますが、

わずか三日で廃位。その後、嗣徳帝の弟の協和帝が即位するもの、11月末には毒

を盛られ死亡。そして、やはり嗣徳帝の養子(甥)であった建福帝が即位します。と

いうことで、この年は実に四人の皇帝が存在したわけです。

翌1884年が建福元年であったことは間違いないのですが、育徳元年・協和元年は

本当に存在したのか(育徳帝など、在位わずか三日間)。ここがよくわかりません。

ベトナムの年号一覧には、かならず「育徳」「協和」年号があるのですが、実際には

使用されてはいないと考えるのが妥当ではないでしょうか。


[166] 無から元号が湧いてきて増殖していく怪現象、怖いですね。

[167] 古代年号なんかもそうですが、あるべきものがないせいで、 何かあったのだろうという意識が虚像を見せてしまうのでしょうね。 でもそれは実態のない虚構なので見る人によって違って見えてしまって、 正しいものに修正しようという力も働かないのでどんどん増殖しちゃう。

[168] 「ない」ことが情報として伝わりにくく検証しにくいというのはまさに幽霊的性質。