[9] いずれも手書きです。満洲文字など複雑な内容のためにそうせざるを得なかったと説明されています。 日本の印刷会社に活字がなさそうな文字が相当数使われていますし、 組み方も相当に複雑です。
[10] 国立国会図書館デジタルコレクションの画像では解像度の関係で細部がはっきりしないところなどが散見されるのが残念なところです。
[11] 各書それぞれ一応凡例はありますが、説明が不十分な箇所も多く、他の書籍の説明を読むとすっきり理解できるようなところもあります。 面倒でも全書一通り軽く目を通しておくとよいでしょう。
[68] 信濃史源考 の巻一、巻二は、日本上古史考 として単独でも発行されたものです。 >>48 /4
[70] 「日本上古史」という通り、信濃に限定されない内容となっています。
[69]
信濃史源考
の原本は手書きでしたが、昭和時代後期になって明朝体翻刻出版されています。
しかしなぜか >>68 部分は「
[71] 本書は信濃の研究者には重宝されていたようですが、 「上古史」は上記に基づく史観などなかなかに刺激的な内容であり、 昭和時代後期になると需要もないというか、 時世柄出版が憚られるようになっていたのでしょう。
[72] 不完全な再版は著者の遺志に背くものでしょうし、遺憾なことでしょうが、 オリジナル版はおそらく再版当時に既に入手困難となっていたのでしょうから、 一部分だけでもアクセスが確保されたことは喜ぶべきかもしれません。
[74] ただ再版は省略部分を除いても、不満が多いものです。 原著の手書きの情報量が明朝体となって相当に削られてしまうことはやむを得ないとしても、 そのことに何の説明もないのは如何なものでしょう。
[75] 例えば原本ではほぼ全編にわたってほとんどの固有名詞に振り仮名ルビがありますが、 再版では大部分が削られ、選択基準が不明確な一部のもののみが本文中に括弧付きで挿入される形に改められています。 また、割書なども括弧付き本文に改められています。
[76] >>47 と >>48 は同じ部分ですが、原本に大量にある満洲文字は何の断りもなく再版でばっさりカットされています。
[77]
再版には原本の凡例そのままに亠
を使うとの旨があります >>48 /4 (>>13) が、
実際の本文では亠
は使わず通常の片仮名が使われています >>48。
[78]
再版凡例はリ゙
も原本に基づき記述していますが、肝心のリ゙
の字が誤ってリ
になっており、
意味が通りません >>48 /4。
(なお、本文中でリ゙
を使った箇所があるかどうかは不明。)
また、文中の満洲文字が不自然な形で省略されています。
[28] >>27 /165, >>33 /16 : 印度系文字各種
[18] >>6 /15 片仮名、満洲文字等による音表記の一覧表
[13]
ネ
= 子
は繁を避けて >>6 /11
上古字 >>6 /11, >>41 /8
ないし形仮名
>>350 /12
の亠
を使うと説明されています。
[39]
上古字, 形仮名とは何を指すのか明言されていませんが、
他書の記述やネ
が亠
と表されることから、
これが上記系統の形仮名と呼ばれる神代文字の一種を意味していることがわかります。
[14]
なぜそれを選んだのかどうにも要領を得ません。
見慣れたネ
や子
を使わない理由には不十分と思われますし、
かといって他の神代文字は使っていませんし。
単に使いたかったからという理由が一番しっくりきます。
[19] >>18 の表には他の神代文字も出てきますが、亠
以外はみな通常の片仮名との併記であり、
本文中には (おそらく) 併記の神代文字は使われていません。
[79] >>48 には明朝体の翻刻がありますが、亠
はT
を上下反転させたもののように見えます。
[12]
j 音の表記にリ゙
を使っています。
>>6 /11, >>350 /12, >>41 /8
[38]
>>350 /12 だと㣺
のような独特の新規文字のようにも見えてしまいますが、
リ
と見比べるとそれに゛
を付けただけであることがはっきりします。
[16] 上記系統の神代文字説を信じているようです。
>>6 /14, >>33 /5, >>29 /9
[17]
亠
(>>13)
やその他の文字 (>>19)
は上記に出現する神代文字です。
[35] >>34 /31 では神代数字ありし説として13字を示し、形仮名と行われた、 と述べつつも、証拠の遺物が未発見だと述べています。
[4]
基本的には一般的な右上縦書きが使われていますが、
満洲文字が多いためか日本語部分も含め全体が左上縦書きで書かれている本もあります
>>34。
[7] >>6 は東洋の固有名詞の読みを正訓として示したものです。
[8] 日本では東洋の人名や地名を漢字の日本語読みで各人それぞれ好き勝手に読んでいることが、 正しい理解ではないというのが問題意識でした。 >>6 /9
[40] >>27 /6 はこれについて日本の国号を japan でなく nippon と呼ばせるべきではないかという当時の政治問題と絡めて説明しています。
[664] どの著作でもそうですが、例えば >>350 は、 本文は日本語 (片仮名漢字交じり文) ですが、 漢文、 書き下し文、 日本語文、 その他の引用を多数含んでいます。
[1] 地の文も引用文も、和文の引用も含め、 大陸・半島の固有名詞には発音を片仮名表記したらしいルビが振られています (例えば >>350 /72 には和書中の渤海の固有名詞に振った事例)。
[2] 日本の固有名詞は和語や日本漢字音のルビが振られています。
[3] 大陸の漢文であっても原則として返点や振り仮名、送り仮名があり、 漢字語でも一般名詞は和語の振り仮名があったりします。
[665] 元号名に読みを付けるかどうかは一定していないようです。 >>6 は正訓を示す目的の書物であるためか基本的に振り仮名が付けられていますが、 >>350 では元号名には振り仮名がないことの方が多いです。
[37] >>350 でも即位紀年を構成する君主名には基本的に振り仮名があります。
[21] 満洲文字も重視しているようで、 右ルビに片仮名を書き、 左ルビに満洲文字を書くのが基本スタイルになっています。
[25]
>>6 /77 右側 : 片仮名が親文字で右ルビの位置に圏点◦
、
左ルビの位置に満洲文字
[26] >>6 /154 : 元の皇帝の尊号 (漢字) の右ルビが音ではなく和語に訳した漢字片仮名漢字交じり文になっています。 >>6 /188, /214 なども同様です。漢民族以外の皇帝の漢語の称号はこうする方針なのでしょうか。
[22] 漢文には基本的に送り仮名も付されています。 振り仮名と送り仮名のどちらも片仮名ですが、 振り仮名が右ルビの位置にあるのに対し、 送り仮名は親文字の右下、ルビよりも左側 (内側) に寄せられており、 明確に区別できます。 なお、送り仮名のみが存在するときは右ルビに近い位置に配置されることもありますが (手書きのため曖昧)、 上下位置が親文字の下寄りになるため振り仮名と明確に区別できます。
[52] https://sit.repo.nii.ac.jp/record/465/files/Contexture06_1988_01_ueno.pdf
[53] >>52 昭和63年の研究者の評価。酷評。その評価自体は妥当と言わざるを得ないのだけれども、
従来この書について言及されたもののあるのを知らない故に,一応取り
上げてみたが, 要するに, 満州語研究史の一端を担うものとするには躊躇 される種類のものであると結論せざるを得ない。
と「研究史の一端」の地位すら奪おうとするのはこの時代の研究者の傲慢さの現れというべきか。 質の善し悪しも引っ括めて、後続研究の有無を問わずすべて含めた知的環境こそ「研究史」 ではないのか。成功した上澄みの研究だけを集めた「研究史」に価値はあるのか。
[54] ただ「従来」「言及されたもの」が無かったのは先行する昭和時代の研究者達もまたこうした価値観のもと無視してきたのかもしれないと考えると、 こうした留保がありつつも紹介したこの研究者のせめてもの良心が垣間見えるところであろうか。
[55]
>>52 も言及はしているのだけど、小山愛司がやりたかったのは「正訓」
を決めることなんだから、 >>52 が l と r の区別もできない片仮名表記を批判するのは失当なんだよな。
小山愛司はリ゙
を「新字」として追加しているけど「新字」が増えすぎるのはよくないので他は控えたとも書いているのだし、
音節文字の片仮名を採用したのが良くないと批判しても仕方がない。
「正訓」は満州語発音記号ではなく日本語における読みなのだから、
これでいいと考えたのだろう。 (その方針に対する当否の議論は当然あるだろうし、
現実に誰も「正訓」を採用しなかったのが「答え」ではあるのだけれども。)
[351] >>350 /12 は、紀年を示すものは皆神武天皇即位紀年を用いる、と述べ、実際にそうしています。 耶蘇教の紀年を用いず、とも述べており、キリスト紀元でないことを特に断っています。
[352] >>351 前段には、建国にあらず、と注釈があります。これだけでは意味がわかりにくいですが、 /54 に
などといった記述があります。つまり天皇機関説を否定し国体明徴を唱える立場の中でも過激な主張であって、 神武天皇は通過点に過ぎないという立場から過度に神聖化することに釘を差しているのです。 ただし、そうであっても皇紀を否定するものではなく、積極的に使っています。
[363] 黄帝と比較しているのも、 易姓革命の伝統を持つ中華世界との差別化であり、 神武天皇以前と以後との不連続性を否定することを目的とするのでしょうが、 だからといって天孫紀元のようなより古くに遡った紀年法を採用してはいないことには注意したいです。
[364] 国粋主義や皇国史観に属しうる思想の中でもかなり踏み込んだ主張でありますが、 「紀元と建国は異なる」と論じた点は優れています。 近代には思想家も学術研究者も「紀元 (元期)」「紀年法」「建国」 を混同して論じる傾向が見られます。この類の主張は現代にすら残っており、 「皇紀は史実ではないから使ってはいけない」というのもその残滓といえます。 それらに比べれば幾分理性的といえます。
[30] なお、 >>29 /9 は更に先鋭化しており、 日本書紀 の立太子記事は錯簡であると 上記 五瀬命記事を根拠に主張しています。 そして 日本書紀 によれば神武天皇は建国ではなく遷都の天皇だと述べています。
[31] 紀元と建国の混同に対しては、虚名時流に乗る輩は天照大神への不敬罪に当たるとまで述べています。 >>29 /10
[32] 当時はちょうど紀元2600年が全国的に祝われた時代ですが、 小山愛司は神武天皇の即位を秦始皇7年 >>44 /55 と修正して推定していました >>44 /28。 これによると昭和15年 (皇紀2600年) は神武天皇即位紀元2180年でした。 >>44 /55 その世情について、 平常は耶蘇紀年を慣用しながら思いつきのように2600年を唱えるのは虚栄の妄動だと厳しく非難しています。 >>29 /10