大韓民国

大韓民国 (紀年法)

[2] 大韓民国 (y~260) は、 大日本帝国朝鮮中華民国朝鮮人の一部や、 大韓民国の政府の一部で使われた紀年法 (団体設立紀元) の1つです。

呼称

[23] 当時は漢字 (朝鮮語, 日本語, 中文) で 「大韓民國」 や 「大韓民國」 と表記されました。 >>24

[25] 韓国語ハングル表記は 대한민국 >>1, >>36カタカナ表記は「テーハンミングク」 >>1 です。

[164] 元号名民國と省略された例もあります。

[165] 中華民国のいわゆる民国紀元と同名になり、文脈で区別する必要があります。

[166] 日本では元号名朝鮮民國, 朝鮮共和國と表記された例もありました。

[26] 日本語読みは「だいかんみんこく」です。 >>1

[29] 日本語ウィキペディアはこの紀年法大韓民国暦と呼んでいます。 >>1

[31] 中文维基百科はこの紀年法大韓民國紀年 (簡体字: 大韩民国纪年) と呼んでいます。 >>30, >>35

紀年法

[22] 元年は、です。 >>1

[163] 大日本帝国朝鮮中華民国では、 から20年代くらいまでが使われました。

[162] 大韓民国では、が使われました。

[34] Wikipedia は元年 () から30年 () まで年表を掲載しています。 >>1, >>30, >>36

大韓民国臨時政府による利用

[142] 大韓民国臨時政府は、 中華民国上海市在住朝鮮人によって構成される、 中国国民党に参加していた団体でした。 >>143

[144] 大韓民国臨時憲章 制定により成立したとされます。 大韓民国の名称は開催の会議臨時議政院で制定されたとされます。 >>143

[148] 大韓民国臨時政府の設立は、 三一独立運動からの流れによるものです。 大韓民国臨時政府の幹部は三一独立運動にも参加していました。 ただし両者の参加者は同じではなく、 単純に三一独立運動によって大韓民国臨時政府が設立されたということでもないようです。

[145] 亡命政府の体を取っていますが、 旧政府等既存の統治組織を継承したものではなく、 また、 朝鮮人の民主的な選挙等で選出された代表によるものでもありません。 中華民国を含む諸国政府から国家承認されることもありませんでした >>143

[161] 中国国民党傘下なのに国民政府からも対手とされていないのは不思議ですが、 中国国民党の下部組織ということは独立国政府とも言えないですね。 日本からの独立を目指しながら旧来の中華秩序から脱しきれていないのが、 朝鮮の複雑な位置を表しているとも考えられます。

[146] 大韓民国臨時政府国家承認実効支配も民主的手続きも伴わないまま、 米国軍政庁により解体されました >>143。 現在の大韓民国でも大韓民国臨時政府との連続性が主張される場面がある >>143 ものの、法的、実質的な組織としての連続性はありません。 しかし大韓民国臨時政府の構成員が建国当初の大韓民国の幹部となりました。

[17] 大韓民国臨時政府に発表した 大韓民国臨時憲章 は、 「大韓民国元年4月11日」 と書いていました。 >>1, >>36

[141] その前日 () に 「朝鮮民國元年四月十日」 のように書いた例が知られますが、 元号名朝鮮民國が原文ママか翻訳かは不明です。 同日の元号名朝鮮共和國の例もありますが、 これは翻訳によるものです。

[33] 三一独立運動により元年を定めた >>30, >>35 とも、 大韓民国臨時政府の設立年を元年とした >>36 とも説明されます。 (どちらも同じです。) 「民國元年三月一日」 と書いた例 (>>52) がありますが、 この例は過去の日付に言及したものです。 当時はこの紀年法が未成立だったと考えられます。 「三一独立運動とその流れで設立された大韓民国臨時政府を記念して、 その元年とした」 とするのが正確かもしれません。

[149] これに先立つ三一独立運動やその前後の関係する活動で、 大韓民国臨時政府関係者やそれ以外の活動家らは、 檀君紀元を使うケース (>>111) が多かったようです。 檀君紀元

[18] 大韓民国臨時政府紀年法として大韓民国を採用し >>14 /11, >>1, >>36、 発給文書で利用しました。 また、 韓人愛国団韓国光復軍など関連団体でも利用しました。 >>1, >>36

日時事例

[129] >>14 にはこの他にも多数の用例が収録されています。

[62] 大日本帝国朝鮮での事件についてのの判決文では、 「朝鮮建國四千二百五十二年三月十二日付」文書や 「大韓民國元年八月二十八日付」文書が参照されています。 >>11 /79

[47] 大韓民国臨時政府らが大韓民国を使ったことは、 日本で発行された日本語書籍でも当時から知られていました。 >>6, >>7, >>10, >>11 /16

[63] 昭和時代初期に出版された禁書目録にいくつか大韓民国年が書かれたものがあります。

[169] >>168大韓民国政府の自国民向けプロパガンダ映像。 >>167 はその和訳

>>168 の初めの辺りに集合写真。人物の後ろに掲げられた文字列 (楷書)

大韓民國臨時政府國務院

大韓民國元年十月十一日

北路軍政署の内実を伝える最も重要な史料の一つとして、『司令部日誌』(幕賓李楨『司令部 日誌』第一号、大韓民国二年)がある


[150] 大韓民国臨時政府は独立派の朝鮮人の最大規模の団体でしたが、 同じように反日的なすべての朝鮮人がこの団体または傘下団体に所属したわけではありません。 朝鮮域内外には多数の団体があって、それぞれの主義主張を持っていたようです。

[151] 対立点は多数ありましたが、 紀年法もそのうちの (重要な) 1つでした。 大韓民国大韓民国臨時政府の独自制定でしたから、 諸団体、諸メンバーの大韓民国臨時政府への忠誠心を覗えるものでもあります。

[152] その大韓民国臨時政府内ですら檀君紀元派との抗争がありました。 (紀年法だけが争点ではない活動の主導権争いだったようですが、 紀年法がその象徴の1つでした。)

[153] 大韓民国臨時政府本体は大韓民国を主に使っていましたが、 他団体との共同事業などで檀君紀元との併記がみられたり、 傘下・関連の団体でも結びつきが弱い団体では檀君紀元干支年西紀を使う所もあったようです。 大韓民国臨時政府側資料でも団体の情報にわざわざ紀年法の欄があり、 当事者らにとっての重要性がわかります。

[154] 大日本帝国域内には大韓帝国の元号即位紀年延長年号の用例もみられますし ( 大韓帝国の元号, 朝鮮半島の紀年法 )、 王党派等、大韓民国臨時政府から遠い組織にはそうしたものを使ったところもあったかもしれません。 用例は未発見ですが、中華民国との結びつきがより強く中華民国を使ったグループもあったかもしれません。


[78] 日本国立国会図書館朝鮮民族運動年鑑 という書籍が所蔵されています。 奥付によると米国占領地南朝鮮ソウル市西紀󠄅一九四六年四月七日 () に発行されたとあります (手書き文字)。 表紙には在上海日本総領事館警察部第2課と書かれており (手書き文字)、 ㊙とあって、 西紀󠄅一九三二年四月三十日 () に上海仏国租界の大韓僑民團事務所で押収した大韓民國臨時政府および大韓僑民團保管文献による、 と書かれています (手書き文字) >>13 /1例言 には昭和七年四月二十九日 天長節當日 () に云々と同様のことがより詳しく書かれています (明朝体) >>13 /2

[79] 上海日本領事館の内部資料が大東亜戦争の終戦後に流出してソウルで印刷されたようで、 明朝体で印字された本文はそのまま複製し、 表紙奥付は印刷時に手が加えられたのではないかと推測されますが、 本文がまったく原文そのままなのかどうかは判断が付きかねます。

[84] 本文はほぼ明朝体活字ですが、たまに手書きページが混じっています。

[105] 後にこれと同じと思われるものが >>14 /100 に明朝体翻刻されて収録されています。

[80] この本文は、 年表形式で編集されており、各年の見出しは各種紀年が併記されていますが、 大韓民国が主となっています。

[82] 例えば初年にはこうあります。 >>13 /7

大韓民國元年 (大正八󠄂年) (朝鮮紀󠄄元四二五二年西 歷 一九一九年)

(明朝体)

[81] これが原文ママなのだとすると、 上海大韓民国臨時政府事務所で大韓民国年で整理されていた書類を、 そのまま大韓民国で紀年して編集されたのかもしれません。

[83] 本文や引かれた文書中には 「大韓民國年」 や 「民國年」 がたくさんあります。 「九年度>>13 /118、 「二、六、一四>>13 /66 のような表現もあります。

[92] 団体情報には「使用年號」の欄があるものもあります。 (ないところは大韓民国なのでしょうか。)

[96] 団体の「組織年月日」の書き方にも違いがあります。

[156] 大韓帝国の元号隆熙 (y~1274) が使われていて、 に当たります。

[155] 民國紀元前とあるのは紀元前方式でしょうか。 だとすると民國紀元前6年はに当たります。

[157] 民國紀元前がどれだけ使われていたのか、他に用例はなくよくわかりません。 大韓帝国の時代やそれ以前にも適用されていたのかどうかもわかりません。 ここではたまたま大韓帝国の時代は元号ですが、 別団体なので団体ごとの方針の違いとも考えられ、判断が付きません。

[85] 大韓民国元年4月23日の京城での会議の項には 「同會ニテハ西歷年號ヲ使用ス」と注記されています。 >>13 /13

[104] 大韓民国元年10月24日条に、 南満州の独立党員が入鮮して臨時政府の支障になる云々とあります。 独立党は弱小団体で団規なく、一時の妄動にして朝鮮独立を目的とし、 「年號ハ紀元ヲ用ヒ」、 臨時政府に反対して皇室を復位させようとしていたのだそうです。 >>13 /23 つまり同じ朝鮮独立派でも王党派もいて臨時政府とは抗争していたということです。 ここでの紀元とは檀君紀元でしょうか。

[102] 大韓民国4年8月22日条所収の南満統一会の宣言の日付は 「大韓民國六月二日」 でした。 >>13 /91

[103] 大韓民国5年には内紛があったようです。 大韓民国5年6月6日条所収 「大韓民國五年六月一日」付の 内務部令第一號 には、 「国民代表会」が6月2日に年号、国号を定めたるは民国に対する謀反であり云々、 即時の解散を命ず、 とあります。 >>13 /97

[86] 大韓民国9年11月14日の上海での会議 「韓國獨立黨各促成會代表聯合會」 の参加団体リストでは、 団体ごとに創立年の書き方が違っています。 >>13 /116 各団体の使っていた紀年法と関係しているのでしょう。

[91] 大韓民国13年にも「西歷一九二二年」に興士團遠東臨時委員部が組織されたとあります。 >>13 /139

[101] その他「一九一」で検索するといくつか西暦年が見つかります。

[100] 大韓民国13年4月18日の上海の会合で5団体: 上海韓人女子靑年同盟、 丙寅義勇隊、 上海愛國婦人會、 上海韓人少年同盟、 韓國勞兵會の宣言書 六部會議二千円紀念宣言日付は、 「四千二百六十四年四月十八󠄂日」 でした。 本文は新羅1000年の記念日が云々と書いていました。 >>13 /140

[130] 大韓民国元年11月15日付で「獨立大同團」の支団長任命状が発行されています。 ところがその同じ團の大同團規則は 「建國四千二百五十二年九月十七日」 と書いています。 >>14 /48, >>14 /50 この2ヶ月の間になにかあったのか、それともたまたまなのか。

[135] 大正8年11月17日報告押収書類、 大韓獨立團輯安總支團、 「紀元四千二百五十二年巳未八月 日」 >>14 /454

[132] 大正9年5月22日付通知所収、大韓民国臨時政府の施政方針: 一般人民に日本の年号と旗章の使用を廃止せしむ >>14 /67 左ページ右上, >>14 /231

[134] 大正10年8月5日付、国民代表会の動向: 9月15日開催予定、7月16日以降準備會開かれつつあり。 従来使用しつつある民国年号を廃して紀元年号を使うことの可否などが議題に上がっている。 >>14 /90


[136] 大韓民国臨時政府は解散しました。

[137] 大韓民国はその時まで使われたと推測されます。 大韓民国政府でも当初利用されたということは、 残党はその後も利用し続けたと考えるべきでしょうか。 それとも一旦断絶があるのでしょうか。

大韓民国における公用

[158] 大韓民国に旧米国占領地南朝鮮に建国されました。

[16] 大韓民国から大韓民国公用の紀年法の1つとして使われました。 >>1

[19] 当時の大韓民国は、 すべての公文書に 「大韓民国30年」 と書いた >>1, >>36 とされます。

[159] に新たに建国されたにも関わらず、 年数は従来の大韓民国臨時政府大韓民国を引き継いでいるので、 30年から始まりました。

[20] 大韓民国の採用には、 大韓民国臨時政府との連続性を内外に表明するための李承晩政権の強い意志が働いたとされています。 >>1, >>36

[138] 付の 官報 >>147 には、以後の様々な文書が収録されていましたが、 檀紀のものと大韓民國のものが混在していました。

[160] 官報 自体の日付大韓民國で、 「大韓民國三〇年九月一日水曜」 「大韓民國三〇年九月一日」 とありました。 >>24

[27] 大韓民国国会発布した 大韓民国憲法 前文で 「檀紀四千二百八󠄂十一年七月十二日」 と書いていました。 この日の 官報 にはこれもそのまま収録されていました。 >>24

[140] 李承晩大韓民国臨時政府出身の政治家は、 大韓民国を使うよう主張しました。 一方で国会議員らは檀君紀元を使うよう主張しました。 >>139 大韓民国国会紀年法の議論があり、 檀君紀元が採用されることになりました。 >>1, >>36

[32] 大韓民国にかえて檀君紀元が採用されました。 >>30, >>35 檀君紀元

[37] 日本語ウィキペディアが、 制定の大韓民国法律第4号 年号に関する法律大韓民国公式な紀年法と定めたとする >>1 のは誤りです。

[1] 大韓民国 (年号) - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9F%93%E6%B0%91%E5%9B%BD_(%E5%B9%B4%E5%8F%B7)

大韓民国(だいかんみんこく)は、大韓民国臨時政府および建国直後の大韓民国(1948年8月15日 - 9月24日)においてに使用された紀年法。

1948年に大韓民国政府が成立すると、同年9月25日、「年号に関する法律」(法律第4号)を制定、「大韓民国」を公式な紀年法に採用、すべての公文書に「大韓民国30年」と記載した。しかし国会は法律施行に先立つ7月12日に大韓民国憲法を発布しており、その前文に制定年として檀君4281年と記載しており、大韓民国暦の採用は李承晩政権が上海で成立した大韓民国臨時政府の継承政権であることを内外に表明するための強い意志が働いた結果とされる。

その後韓国国会は大韓民国暦と檀君紀元の統合について議論、大韓民国暦は僅か1ヶ月余で使用が停止され、朝鮮の建国始祖とされる檀君の即位を元年とする檀君紀元が採用された。

その後の大韓民国

[45] 大韓民暦には西紀檀紀の他に大韓民国が記載されています。 >>4

[46] しかし檀君紀元ほどの影響力はないといわれます。 >>4

[4] 第149回 檀紀と主体年号―朝鮮半島の紀年法 | こよみの学校, https://543life.com/campus/backnumber149/

『大韓民暦』には西紀と檀紀に加え大韓民国何年という建国を紀元とする紀年法が記載されています。ただし、名目的なものにとどまり、檀紀ほどの影響力はありません。

[21] Xユーザーの다노さん: 「大韓民国106年3月19日 速報値 https://t.co/6SSZNmKtFG」 / X, , https://twitter.com/Dhanow/status/1784223887531876619

[28] >>21 この Twitter アカウントの投稿は訪問地によって紀年法を書き分けており、 大韓民国訪問記録の投稿では大韓民国が使われている。

関連

[15] 他の紀年法朝鮮半島の紀年法を参照。


[41] 朝鮮語위키백과は前の年号隆熙、 次の年号檀君紀元としています。 >>36 ただし隆熙とはが連続していません。 また、隆熙の方の記事では次の年号が無しになっていますし、 檀君紀元の方の記事では前後の年号が掲載されていません。 他の言語Wikipediaには前後の年号が掲載されていません。


[38] 大韓民国ではに大韓民国50年、 に大韓民国60周年を祝いました。 >>36

[39] 60年のときには、李承晩の意志を無視したものと批判があったそうです。 >>36

[40] この50年、60年は周年式の数え方で、 どのみち単位で元年から数える紀年法とは1年ずれています。

[42] 大韓民国には他にも建国に関係する記念日とされている日がいくつかあって、 どれを祝うべきか政治論争があるようです。

メモ