大周

呉周の元号

[56] 呉三桂はもと臣でしたが、に寝返り、 清国内で軍閥勢力を築きました。 その後に反旗を翻し皇帝に即位したものの、鎮圧併合されました (三藩の乱)。 呉三桂およびその子孫の元号が知られている他に、 呉三桂関係の元号とされるものがいくつかあります。

明の元号

[53] 呉三桂は当初に仕えていました。 明の元号

義興

[54] の首都陥落直前、 呉三桂朱慈烺を擁立し、 義興改元したとする説があります。 義興

清の元号

[55] 呉三桂に服属しました。 半独立的な藩王国を築きながら、清の元号を奉じていました。

[12] y~1865

[21] >>20, >>32

[29] 昭武 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E6%AD%A6

呉三桂は1673年(康熙12年)旧11月に叛して周王を称し、その翌年旧正月よりこれを在位紀年として用いた。1678年(康熙17年)旧3月に皇帝の位に即き、改めて昭武と建元した。

[30] 1678年 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/1678%E5%B9%B4

呉三桂 : 周王5年、昭武元年3月 - 8月

[31] 1677年 - Wikipedia ( 版) https://ja.wikipedia.org/wiki/1677%E5%B9%B4

呉三桂 : 周王4年

[38] 張士誠も参照。

[50] lit0184.pdf, https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/1485055/lit0184.pdf#page=133

「署秦州城守営事李養賢稟報」(前掲『清三 藩史料』596 頁)、「破虜大将軍内標中鎮都督府王為飭修道路以資進勦事(中略)仰経過郷 約地方人等即率民夫速将道路厳加修理(中略)周三年十一月十三日自徽州由紅川泥羊川江 納壩麻沿河大門至秦州暫繳」を参照。

[52] 5053EXTgGRV.pdf, , https://www2.ihp.sinica.edu.tw/file/5053EXTgGRV.pdf

[57] 廣陽雜記/02 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%BB%A3%E9%99%BD%E9%9B%9C%E8%A8%98/02

甲寅康熙十三年(偽周元年),三桂之變,郴已歸周,三桂兵距江與清兵相持。乙卯春,康熙十四年(偽周二年),。至丁巳春,康熙十六年(偽周四年),。至戊午春,康熙十七年(偽周五年),。閏二月十八日取郴州(偽歷閏二月,清歷閏三月,是蓋三月十八日也),州牧劉漢翊與居民相率而逃。。時三桂已在衡州即位(三桂於丁巳四月初一日至湘潭,十一月至衡州,戊午三月初三日即位,七月十八日死),

[61] 即位3月3日は呉周暦の方? 清暦だと閏3月3日?

[62] 永歷帝1673年崩於貴州,並非1662年死於雲南zt - 萬維論壇, 送交者: sign, 2013年07月01日22:52:09, , https://bbs.creaders.net/history/bbsviewer.php?trd_id=872757&language=big5

[64] >>62

吳三桂對多爾袞的背盟有著刻骨銘心的悔恨。三十年後以自己名義發布的兩篇文章曾予揭露。乾隆二十二年從河南夏邑生員段昌緒臥室裏搜出的周王元年《反清檄文》

[65] >>62

在撒藩公開反清以前,吳三桂幕下人士已經研究當前形勢,提出起事規劃。壹位自稱“九天紫府劉真人”的(疑劉玄初⑧),曾建議:“無避勞苦,無惜家資,可星速奔馳數年,四處周流會師,聯絡天下群十,設濟困苦民心,陰謀圖就,訓練士卒,預備器械,各省埋伏兵馬,料理齊楚,方可初將書通吳君,次投冊籍,三次相會,確議人才定爵,然後給散印信憑劄以鼓舞人心,密約動期。]事實證明,這壹建議確曾實施,除“設濟困苦民心”、“訓練十卒,預箭器械”已見上文外,其“四處周流會師”,如康熙十二年十~月,“三桂反,(張)國柱首從逆,為定遠大將軍東平公,自後提督楊遇明、總兵楊富、柴碌、楊來嘉、王何進忠、楊坤、郭雲龍、吳國貴、高得捷等百二永清悉從賊。”其“聯絡天下群十”,如“遣使潛徽州法裕,聘謝四新”,“聘故明少卿李長徉,延以賓禮問方略。”(《平吳錄》)其給散印信憑劄,如乾隆十八年東莞莫信豐案中,就有“用花邊白布寫永保平安四字,中書壹周字”⑨的劄付,則是反清起事的劄付,道光八年,江西三點會黃百幅案,搜出“書明招集人才字樣,尾有周四年等字’的劄付。

建議中值得重視的是“並省埋伏兵馬”壹段話。它就是在各省發動秘密組織的同義語,亦通過軍伍編制形式把誌願參加者組成隨時進反清起事的隊伍。“冊籍”就是入會名冊,“相會”就是會首的見面。自稱創立於康熙甲寅年的天地會。

其二,三太洪化。吳三桂《反清檄文》“適遇先皇之三太子”,“恭奉太子祭告天地,敬登大寶,建元周咨。”三桂死後,其孫世番即帝位,改元“洪化”,因此,“三太(子)洪化”具有吳三桂反清組織的鮮明特色。田林本《天地會文書》多處出現:在《盤問兄弟出世壹宗》裏有問答:“面花?曰:參太子洪花。”在《忠義榜文》裏有說明:“金氏洪公造定參泰洪花(四字原有雨頭三點水旁)”。在《開臺排式》裏有牌額:“參泰洪化”四字前二字雨頭水旁,後二字雨頭)”。在號布裏出現二次,在詩歌裏出現二次,壹次為詩句,壹次為減頭詩。倫敦不列顛博物院藏O.8207Bl天地會文件抄本有減頭的《參泰洪化》四字原有雨頭三點水旁),詩O.8207K本號禦有“參泰洪化(四字原有雨頭水旁)”橫額。查開臺牌額表明組織的歸屬,號布橫額表明動員的口號,藏頭詩屬於聯絡的暗號,這四字在天地會內具有如此承要的位置,也就可以證明天地會是由吳三桂黨羽所組織的反清團體。

道光年間,江兩天地會活動益發頻繁。二年九月初,信市縣黃百幅、黃沅瀧、鐘心瀧、張北鬥等拜上猶縣人毛元奇為師,入“添弟會三點會”,以後毛元奇犯案逃避,將其祖師所傳長方、三角木戳二顆及符書壹本交給黃百幅收存。長方木戳上刻“萬大哥行令”五字。三角木戳上刻“同心協力”四字。符書內載劄付式樣,劄尾有“周四年”等字寧,註明“順天、天運年號”。以後黃百幅刊刷劄付,自稱安遠公,黃沅發稱威勝將軍,設官分職,準備起事。道光八年二月,黃百幅等八十二人被捕,案破由於三點會首領保存吳三棣“周四年”劄付,並據以另行“刊刷劄付”設官分職,足以證明從毛元奇到黃百幅的三點會屬於吳三桂系統壹脈相傳的天地會。

天地会, 天運, 順天

周啓

[95] 呉周で用いられたとされる元号の1つに周啓 (y~2218) があります。

[96] 三藩の乱において大陸南方の呉三桂政権や台湾鄭氏政権などが清国の支配に抵抗していましたが、 日本へも呉三桂政権や鄭氏政権の檄文とされるものが届きました。 檄文のほか、 長崎琉球対馬などから江戸に集められた情報は 華夷変態 としてまとめられ、現在に伝わっています。

[97] それによると、 甲寅年 (周元年 y~1865, 清康煕13年, 明永暦28年, 日本延宝2年, )、 呉三桂は匿っていた崇禎帝の子を擁立し、 皇帝に即位させ、 明国を中興させようとするところであり、 協力を求めていました。

[98] 即位に伴い改元され、 新元号は周啓とされました >>85 >>86 >>88 >>89 >>93 >>94

[99] 即位は甲寅年正月元日寅の刻で、即位と同時に改元されたようです。

[103] 元号名は、 中文では周咨 (y~2220) と表記したもの >>77 >>79 >>83周啓 >>83 >>63 よりやや優勢です。

[104] 「咨」と「啓」 (簡体字: , 正體字: )字形も似ていますが、 意味や用法も遠からずといったところで、 「咨啓」という熟語もあります。 混同もやむなしでしょうか。

[105] 「咨」を元号名に使った例は他になく、 「啓」は明の元号にも例がありますから、 元号らしさが強いのは「啓」の方です。

[106] 現在知られている 「周」 の最古例は簡体字中文メールマガジン >>77 です。 原文は中華人民共和国の書籍、 その更に原著は中華民国の書籍ですが、 書籍版での字形は不明です。

[109] 中文資料の引用する檄文は日本にあったものとされています >>77, >>63。 大陸では清国統治時代に檄文が失われてしまっており、 清国末期に日本に留学した清国人学生が 華夷変態 を知り、大陸にも逆輸入される形になったようです。

[110] そうした経緯のためかこの元号はほとんど知られていません。 中国歴代年号考中文Wikipedia元号一覧にも掲載されていません。

[111] 華夷変態 によると、 この元号が書かれた檄文は、 少なくても2系統のものが日本にもたらされました。 >>85, >>93 そのうちの1系統は呉氏政権の檄文と鄭氏政権の檄文の2つが (日本側で?) 混同された形跡もあります。

[112] 檄文の語る、明の再興のため明帝の子を擁立というストーリーは、 清国側で伝わった呉三桂自身が皇帝に即位という情報と矛盾しています。 敵対する清国側が正しい歴史を書き残すとは限らない >>77 という指摘はもっともですが、 現地に「周年」紀年が残るのに周啓紀年の文書や金石文が未だ発見されていない以上、 檄文の真偽は慎重に判断しなければならないでしょう。

[113] 日本側の立ち位置や伝写の状況から考えて、 少なくても元号に関する限り、 華夷変態 所収の檄文が日本国内で捏造された可能性や、 日本国内で原型から大きく変化した可能性は低いと考えられます。

[114] 呉周で使われていた 「周年」 紀年がアジア大陸で伝播していく過程で、 何らかの誤りで国名の後に「啓」が混入し、 元号名と誤認され、 即位改元したというストーリーが付加されたと考えるのが穏当でしょうか。

[115] 呉三桂崇禎帝の子供を擁立したとするのは義興の件 (>>54) と同じです。一方が他方から派生した伝承かもしれません。

[91] 日本延宝2(1674)年6月6日呉周および鄭氏政権から届いた檄文、その和訳、 長崎奉行福州商人から聞き取った調書が江戸城で披露されました。 >>84 #page=31 華夷変態 にその関係文書が収録されています。

[85] >>84 #page=5

呉三桂檄文とされるもの 中文 楷書

甲寅年 月元旦寅𠜇、なし推奉 三太子郊天𫞴地恭登大寳建元周啟󠄀檄示佈聞告廟左||𠜇、なし

永暦貮拾G年肆月ネノ𠚣一日

[86] >>84 #page=11

呉三桂檄文の和訳とされるもの (朱書で原文と違いありと注記) (楷書)

則甲寅ノ年 月元日寅ノ𠜇、なしヲ擇ミテ三太子ヲ致推奉天地ヘノ L告𫞴有之則L即位奉成h年ヲ周啓︀ト奉建レト

[87] >>84 #page=17

鄭氏政権檄文の和訳とされるもの (朱書で原文と違いありと注記) (草書)

永暦卄八年四月朔日

[88] >>84 #page=18

福州から来航した唐人から長崎奉行が聴取した報告 (楷書)

唐通時ら, 延宝2年寅5月付, 延宝2年甲寅6月3日長崎から江戸に送付

右介抱󠄃 仕置レト王子ヲ當正月朔日寅ノ刻ニヲイテ 成シ申年𭈹󠄁ヲモ周啓元年ニ相G

[89] >>84 #page=25

呉三桂檄文の和訳の改訂版とされるもの (楷書)

年寅ノ正月元日ニ カクシヲキ奉ル先帝ソフオ三ノ皇子ヲ迎ヘテ天地ヲ 𫞴リ帝王ノ位ニツケ奉リ周啓󠄃元年G元シ檄文 作ツテ

[90] >>84 #page=31

鄭氏政権檄文の和訳とされるもの (行書)

永暦廿八年四󠄂月初一日

永暦ハ錦舎カ祖父一官カ大明ノ帝ノ一𫞀唐王ヲ モリタテヽ位セシムルノ年号󠄂ナリコトシヨリ廿八年 以前ナルヘシ正ホ亅年ニ當ル

[93] 9月17日に江戸に届いた文書中、 呉三桂の檄文とされるもの (楷書) >>92 #page=14

甲寅年正月ネノ𠚣一日寅時 同輔天朝恭奉大寳郊天𫞴地年号𮓜巾→ル周啓︀中左||大明

周啓元年

[94] 和訳 (行書) >>92 #page=17

甲寅ノ歳正月元日寅ノ時ヲ以テ崇禎天子第三ノ王子ヲ迎テ天地ヲ祭リ即位セシメ周啓ト改元シ大明ヲ中興シ


[77] >>76

(摘自《细说清朝》( 7208025002 ),黎东方著,上海人民出版社。

本书是黎东方教授“细说中国历史丛书”的第三部。在本书中,黎东方教授 以其深厚的学养和探索精神,用干净利落、明白晓畅的文字,将清朝的重要事件、 主要人物以及职官、制度、地理、文化、学术等等,分列为若干题目,缕而述之, 如治棼理丝,又如串置散钱,将清朝从后金到1911年之间近三百年历史叙述得清 楚明白,使得具有初中以上文化程度的读者均能读懂,是部较好的、深入浅出的 通俗历史读物。

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随即,吴三桂杀掉朱国治,拘禁折尔肯与傅达礼,发布“兴明讨虏”檄文。 这一篇檄文在中国已经无法找到,日本人替我们保存了一份。

在檄文里面,他自称“原镇守山海关总兵官,今奉旨总理天下水陆大元帅, 兴明讨虏大将军”。他奉的是谁的旨?是崇祯皇帝的三太子的旨。他说,深悔在 李自成占据北京之时,借了“夷兵十万”,没想到“狡虏逆天背盟,乘我内虚, 雄据燕都,窃我先朝神器,变我中国冠裳。”他深悔“拒虎进狼之非”,说当他 正在准备“反戈北指”之时,遇到了“先皇之三太子,太子年甫三岁”。于是只 好“避居僻壤,养晦待时,选将练兵,密图恢复”。现在,时机已经成熟,定于 甲寅年(康熙十三年,1674年)正月元旦,恭奉太子祭告天地,敬登大宝,建元 周咨。

他奉了“三太子”(朱慈炯?)为皇帝,建元“周咨”,国号仍是大明。清 朝的官方历史家糟踏他,说他国号“大周”,称甲寅年为“周元年”。他们故意 把“周咨”的“咨”字删了。

关于崇祯的第三个儿子(朱三太子)的传说极多。依照明史,他是周皇后的 儿子,名叫朱慈炯,在崇祯十四年的时候年纪十岁,两年以后受封为定王。那末, 崇祯十七年北京陷清之时,他的年纪是十三岁,不是“三岁”,如吴三桂的檄文 所说。可能是檄文或檄文的抄本汛了一个“十字”,或吴三桂所奉的为另一人。

吴三桂在康熙十七年(1678年)八月去世。清朝的官方文书,说他在这年三 月初一称帝于衡州,国号大周,年号昭武。我见到过“昭武通宝”铜钱,但国号 是否不再称大明而改称大周,待考。

[78] 黎東方 (-) 中国史研究者。 清国生まれ、仏国史学を学んだ。 中華民国重慶国民政府支配地域を経て台湾政府支配地域に移住。 20世紀の中華民国の代表的な史学研究者の1人とされる。 明朝清朝中華民国の歴史の専門書を出版しており、 引用部の原著はそのうち清朝についての書籍。 Web検索日本語の情報はほとんどなく、 日本ではあまり注目されていない研究者らしい。

[100] 件の细说清朝中華人民共和国出版。 原著細説清朝中華民国出版。

[81] 紅樓夢清国の小説。 紅樓夢真相大發現はその紅樓夢を題材にした書籍だが、 序文からして紅樓夢日付には作者の秘密の暗号メッセージが込められている云々と言っている。

[63] >>62

吳三桂討清檄文

本鎮仰觀俯察,正當伐暴救民,順天應人之日也。爰率文武臣工,共勷義舉,蔔取甲寅年正月元旦寅刻,推奉三太子,郊天祭地,恭登大寶,建元周啟,檄示布聞,告廟興師,刻期進發。

以上據稱是日本人保存的壹份原始文獻資料,於民國初年送到中國

[101] Web検索するとこれらと同系統の文章 (書籍やWebページ) がいくつか出てくる。

昭武

[13] y~998

[15] しょうぶ >>29

[17] 中文维基百科は12月までとしました。 >>3

[18] 中国歴代年号考 >>20日本語ウィキペディアは8月までとしました。 >>29, >>30 呉三桂の死去に基づいたのでしょうか。

[3] 昭武 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E6%AD%A6

[14] lit0184.pdf, https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/1485055/lit0184.pdf#page=125

たとえば延宝 7(1679)年 2 月 23 日付け「一番普陀山船」風説書で は、呉三桂の孫が即位したという風聞を、次のように伝えている。

呉三桂事、(中略)孫を帝位に登せ、則ち年号昭武と申候、今年は昭武二年にて御座候、 右之様子呉三桂より諸国へ廻文廻り告知せ申候、今度之儀は偽無御座候(巻 7、283 頁)。

呉三桂は孫を皇帝の座に据え、改元して年号を「昭武」とし、また即位・改元の実施を「廻 文」で各地に周知させたという。

[51] = 昭武2年の数え方は現在の通説の通りだが、 既に洪化 (y~1866) に改元されていたと考えられている。

昭武元年甲寅年説

[43] >>42

  • [44] 甲寅年に呉三桂が即位改元して昭武
  • [45] 呉世璠が改元して洪化
  • [46] ... といわれるが、四川鹽神廟神腹にあった僞周吳逆󠄃昭武二年已未大統厯の末尾に、 周元年甲寅、戊午は周五年すなわち昭武五年とある
  • [47] よって昭武元年は甲寅年ではなく戊午年とするのが正しい

[48] 訂正後は現在の通説と同じ。訂正前は周元年の自立と昭武元年の皇帝即位を混同していたということ。

[49] 周国が独自の暦書を出版していて、たまたまそれが保存されていた。 元来の書名は大周昭武二年己未大統曆あたり?

利用

[16] 利用 (y~88) が元号とされることがありましたが、 貨幣名の一部で元号名ではないとされます。 >>20, >>3, >>29

[36] 中国歴代年号考呉三桂の項に掲載していましたが、 年不詳としていました。 中文维基百科は一覧に掲載しながら、 単独記事はなく昭武記事に記載していました >>3日本語ウィキペディア昭武記事で言及していました >>29

[72] 哈密東トルキスタンクムル (現中華人民共和国新疆ウイグル自治区) か。 呉周との関係は不明。

[69] 第十九回 建帝號吳三桂封官 受軍符蔡毓榮調將 - 吳三桂演義- 全本小說網, http://big5.quanben-xiaoshuo.com/n/wusanguiyanyi/20.html

由夏國相、馬寶、胡國柱三人會議,建國大周,改元利用。即以康熙十二年為大周利用元年。

時に康煕帝の十二年。呉三桂は既に七十を過ぎていたが精力は未だ衰えず、その豪気は少年のようだった。今、向かうところ敵なく、既に中国全土を掌握した気持ちになった。人心は彼に帰順している。天下は一挙にして平定できよう。その想いが念頭にあり、今、諸将から推戴された。呉三桂の心は歓喜の想いで満たされた。彼は自分の在所を「行宮」と改称し、湖南を仮の首都とした。また、衡州府の衡山に壇を築き、即位することを天へ告げた。府衙の一つを宮殿と定め、その瓦を黄色に葺き替えた。皇帝の衣冠は明の模倣である。夏相国、馬宝、胡国柱の三人は国号を「大周」と定め、「利用」と改元した。つまり、清の康煕十二年は大周の利用元年である。

[68] 清国軍記物語。作者不詳。

[73] 清康煕12年は

[102] >>82 は康煕13年改元説

[74] 紀元編など他の文献には利用の元年がいつかは書かれていない。 呉三桂演義執筆当時に清国に流布していた噂?

洪化

[24] 中文维基百科百度百科からとしました。 >>4, >>25 (y~1866)

[27] 紀年銘「洪化元年己未季冬吉旦」が根拠とされました。 >>4

[37] Wikipedia の年号・暦年代: suchowan's blog, https://suchowan.at.webry.info/201501/article_23.html

立年と踰年の解釈の問題。 When.exe Ruby版は[中]に合わせて踰年改元とした。

[26] 百度百科日本語ウィキペディア10月までとしました。 >>25, >>23

[4] 洪化 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%AA%E5%8C%96

[23] 洪化 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%AA%E5%8C%96

[25] 洪化_百度百科, https://baike.baidu.com/item/%E6%B4%AA%E5%8C%96

[32] 吴周 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%90%B4%E5%91%A8

[33] 清洪化元年款镇安府土知府铜印, http://www.amgx.org/exhibition_show.php?ID=2550

[19] 日本の公年号案にもありました。

呉周暦

[58] 呉周では清国と違う独自のがありました。

[59] 大統暦があったとされ (>>49)、 この年 (の前年) に暦法を引き継いだ暦書呉周で発行されたことが知られます。

[60] その前年の清暦閏月が違っていたとされ >>57、 この年にも既に暦書が発行されていた可能性が高いです。

メモ

[39] 燕巖集/卷15 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E7%87%95%E5%B7%96%E9%9B%86/%E5%8D%B715

雍正壬子。譯官崔壽城過高喬堡。見吳光霦。光霦甞受吳三桂僞牒。以此被謫。仍居於此。年方八十七。耳聾神昏。不能酬酌。出視當時文籍。一。天下都招討兵馬大元帥周王。爲陞授官員事。予以宇宙昏蒙。如居長夜。仰承天意。倡義救民。必資智勇之才。共濟昇平之烈。査得吳光霦。今授以金吾侍衛遊擊。用示優異。合行給箚。爲此箚付本官。遵照任事。爾受玆委任。宜益加奮勵。戮力行閒。茂建勳勞。以膺顯用。儻有奇功足錄。自有不次爵賞。汝其勉哉。須至箚付者。右箚付遊擊吳光霦準此。周四年五月廿七日箚付。二。兵部爲陞授官員事。洪化元年七月十六日。兵科抄出李少保。金吾衛左將軍胡題。爲補用官員。請給箚付事。今査得侍衛遊擊吳光霦。老成練達。應加以參將職啣。管理內府事等因。具題旨。吳光霦等依議用。兵部知道。欽此欽遵。擬合就行。爲此合箚。本官遵照本部。欽奉旨內事理。欽遵任事施行。須至箚付者。右箚付參將吳光霦準此。洪化元年七月廿一日。經承箚付。一。戶部請添官員事。乃是差授光霦戶部員外郞者也。稱洪化二年七月廿六日。俱有印押。葢吳三桂起兵四年而改元也。自作九錫禪文。李克用之所不爲誓死。他日復唐社稷。 大明遺黎。日望義旗。天下有誰知周家洪化。吳光霦尙以此牒。爲家藏舊蹟。其意可知。而亦可見當時寬大之政。

[2] 周 (1678年-1681年) - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8_(1678%E5%B9%B4-1681%E5%B9%B4)

[1] 呉三桂 - Wikipedia () https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E4%B8%89%E6%A1%82

[7] 吴三桂 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%90%B4%E4%B8%89%E6%A1%82

[5] 呉世璠 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E4%B8%96%E7%92%A0

[6] 吳世璠 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%90%B3%E4%B8%96%E7%92%A0

[9] 三藩の乱 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%97%A9%E3%81%AE%E4%B9%B1

[8] 三藩之乱 - 维基百科,自由的百科全书, , https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%97%A9%E4%B9%8B%E4%B9%B1

[10] 吳三桂考 - 维基文库,自由的图书馆, , https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%90%B3%E4%B8%89%E6%A1%82%E8%80%83

[11] asiabunka31_1-09.pdf, , https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=10409&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1